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厄災のユーラシア  作者: もとふ みき
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第二章 一二一九年、秋 サフリム(其の二)

第二章 一二一九年、秋 サフリム(其の二)


 ある日、モンゴルへ戻る伝令兵がサフリムに立ち寄った。伝令兵は、西方へ進み続ける騎馬軍勢の状況を本国へ報告する命令を受けていた。

「ブハラではホラズム帝国の守備兵と四日間戦いました。大ハーンは圧倒的な勝利でブハラを陥落させました。今はサマルカンドへ向け進軍を開始している頃です」

 キタイとカウナはこの知らせを宿営地の騎馬兵に伝えた。皆がこの知らせに大いに湧いた。だが、シャオロはまったく喜んでいなかった。むしろ、大ハーンの勝利の知らせを聞きたくないかのように皆に背を向け、黙々と馬の世話をしていた。その様子にキタイは気付いていた。

 サフリムに来るまで、キタイはシャオロと会話した記憶はない。それが、今では良く話し合っていた。キタイは草原生まれの草原育ちだが、シャオロは金王朝の都市で生まれ育った。生い立ちが違うように二人の価値観も違っていた。キタイとシャオロはその違いを楽しんで話し合っていた。それぐらい、お互いに心を開けられる間柄になっていた。

 数日後の夕方、キタイはシャオロと一緒に草原を見回っていた。キタイは会話の中で危うく始祖の玉の話を口に出しそうになった。

 発端は、遊牧民と都市で暮らす民とでは寿命に差があるだろうかという雑談だ。

「シャオロ殿、もしも永遠の命があればあなたは得たいと思いますか?」

 そう言ってから、キタイはしまったと思った。しかし、もう遅い。変に取り繕うよりもこのまま雑談として済ませようとキタイは考えた。

 返ってきたシャオロの答は意外なものだった。

「永遠の命ですか。そう、私はすでに永遠の時間の中に生きております」シャオロは力無くぽつりと小さく言った。

「それはまた、どういう意味ですか?」

 キタイの問いの後に沈黙が続いた。怪訝に思うキタイにシャオロは静かに話し始めた。

「今日は私の妻の誕生日です。本当に良い妻でした。妻と子どもが殺されてから私は拠り所もなく生きているだけです。その苦しみは永遠に等しい」

 夕暮れの美しい草原が悲しくさせたのか、シャオロは涙ぐんでいた。

 キタイは思い出した。シャオロの家族は中都に住んでいた。その中都の攻略にキタイも参加していた。それはシャオロも知っているはずだ。

「そうでしたか」キタイはどう話を続けようか戸惑った。

「いや、私は中都を陥落させたキタイ殿をどうこうとは思っていません。私も兵士だ。命令には従わねばならない。ただ、」そう言って、シャオロは言葉を止めてしまった。

「ただ?どうされた、シャオロ殿」キタイはシャオロの様子を伺った。

 言葉を選ぶようにシャオロはゆっくりと話した。「私の家族は中都が陥落した後に殺されました。遺体は道端に討ち捨てられていました。見ていた者の話では、二人のモンゴル兵が突然に斬り殺し、笑いながら去っていったそうです」

 キタイは返す言葉がない。キタイは俯いた。

「私は妻と子どもたちを殺したモンゴル兵を許せません。この手でそいつらの首の骨を砕き、頭を叩き潰したい。それが叶うまで私は死ねません」

 キタイはシャオロの横顔をそっと見た。シャオロの瞳は夕日をじっと見つめていた。

キタイは気付いた。シャオロの瞳の奥にあるのは悲しみではない。そこには永遠に消せない憎しみの炎が燃えている。


 数日後の朝、騎馬兵の宿営地にハシムが一人で訪れてきた。歩哨はキタイの天幕までハシムを案内した。多くの騎馬兵は怪訝な表情でハシムを見ていた。

 ハシムの突然の来訪にキタイは驚いた。キタイはハシムを天幕の中に招き入れた。カウナもすぐに天幕に来させるよう、キタイは歩哨に命令した。

 ハシムのただならぬ雰囲気に、キタイは何の用件だろうかと身構えた。占領地を任される隊長に苦労は多い。素行の悪い騎馬兵がいると盗みや暴行を繰り返す。その苦情を民衆から受けるのも隊長の仕事だ。だから、常に部隊の規律を保ち、不祥事を犯した騎馬兵は厳格に処罰する必要がある。

 キタイもそうした問題が起きないように努めていた。二百人の騎馬兵に規律を守るように注意してきた。許された者以外は村に入らないように厳しく管理してきた。それなのに、とうとう問題が起こってしまったのだろうか。

 キタイはハシムを見つめた。椅子に座ったハシムは平静を装っているが、その目は明らかに動揺している。その目は怒りの目ではない、何かに怯えている。文句を言いに来たようには見えない。

 カウナが天幕に入ってきた。カウナも椅子に座った。

「ハシム殿、急な来訪だがどうかされたか?」キタイはゆっくりと声を掛けた。

「キタイ殿、教えていただきたい。近い内にモンゴル軍の騎馬兵がサフリムに立ち寄るそうだが、何を運んでいるのか?」

 キタイには何の話か分からない。「すまない、何の話だか分からない」

「そんなはずはない。重要な物を運ぶ時は道中の安全を確認する斥候が先に出るはずだ」

「それはそうだ」キタイはゆっくりと答えた。ハシムは何かを知っている、それならば話に乗ろうとキタイは考えた。キタイはカウナをちらりと見た。お前は何も言うな、と目配せをした。

 キタイはハシムに顔を近付けて小声で話し始めた。「ハシム殿、この件は内密に願いたい。確かに重要な物ではあるが、村に迷惑は掛けないようにする」

「やはりそうか。悪い胸騒ぎがする。その重要な物は村に近付けてはならない。そのようにキタイ殿が取り計らっていただきたい」

 キタイは目をしばらく閉じた。ここからどうするか。

「そうは言っても、これは大ハーンの命令だ。私ではどうにもならん」キタイは憮然とした口調で言い返した。

「いかん、村が危ない。キタイ殿たちにも災いが及ぶかもしれぬ」よほど不安なのか、ハシムは何の警戒心もなく話し続けている。

「どのような災いが及ぶのか?」キタイはさりげなく聞いた。

「それは分からない。だが、災いが迫っている」

 キタイは困った。これでは何も分からない。「分かった。カウナと相談したい。しばらくここでお待ちいただきたい」キタイは椅子から立った。カウナも椅子を立ち、キタイと天幕を出た。

 一人残されたハシムは考えていた。今朝早く、ハシムはパールと湖の近くの祠に出向いた。対話の後、パールは青ざめた顔で像について話してくれた。

 同じ話を、ハシムは先代の長から言い伝えられていた。そのような出来事が本当に起こるのかとハシムは先代の長に尋ねた。先代の長は首を横に振った。「わしも言い伝えで聞いているだけだ。おそらくは、永遠の命を司るシャーマンに対する戒めの作り話か何かじゃろう」

 もちろん、その話をハシムも信じていない。それでも、像としてパールが見たのであれば、その話は本当だ。本当ならば村だけでは対処出来ない。古の一族の秘密、永遠の命を司るシャーマンの存在を知られるが、モンゴル軍の騎馬兵に助けを求めるしかない。

 ハシムははっと気付いた。重要な物が運ばれて来ると言った時、キタイは表情一つ変えなかった。どうしてそのような情報を知っているのかと尋ねようともしなかった。

 そこへキタイとカウナが天幕の中に戻ってきた。なぜだか、剣を手に持った二人の屈強な騎馬兵を従えている。何かおかしいとハシムが感じたのと同時に、二人の騎馬兵は座っているハシムを挟みこむように両側に立った。

「キタイ殿、カウナ殿、どういうつもりか?」ハシムは戸惑いの声を上げた。

 キタイはハシムが座る椅子へ数歩近付いた。「ここに斥候など来ていない。私は何が運ばれて来るかも知らない。ハシム殿はそのような情報を誰から聞いたのか?」

 嵌められたと分かり、ハシムはがっくりとうなだれた。「してやられたな、もう何も話さんぞ」

 当然の反応だな、キタイは驚かなかった。「してやられたとはどういう意味か?いや、災いが及ぶとはどういう意味か?どうか、教えてくれ?」

 ハシムは何も答えない。キタイは自分の椅子に座り直した。カウナも椅子に座った。キタイはあらためてハシムと向き合った。

「ハシム殿、勘違いされるな。私はあなたと敵対するつもりはない、危険があれば村は守る。以前にもそう言ったはずだ。だから、これ以上の隠し事は止めていただきたい」

 キタイはそう言ってハシムを囲む二人の騎馬兵に目配せした。二人は剣を鞘に納め、ハシムからそれぞれ左右へ三歩離れた。

 その様子にハシムは驚いた。「尋問するのではないか?」

「いや、尋問などしてもハシム殿は一言も話さないと分かっている」

「では、どうしようというのか?」

「村の長として、私たちに協力していただきたい」

「何を協力しろというのだ?」珍しくハシムは声を荒げた。ハシムは見るからに焦っている。何がハシムをここまで焦らせるのか。

 キタイとハシムのやり取りをカウナは固唾を飲んで見ている。カウナにも、何が何だか分からない。それもそのはずで、キタイはカウナにまだ何も教えていない。

「勘違いしないでくれと言ったはずだ。村に危険が迫っているのであれば私たちが危険を排除する。その替り、古の一族の秘密を教えてほしい」聞くなら今しかない、キタイはこの状況を利用しようと賭けに出ていた。

「秘密とは何の話か?」

 ハシムの問いに答える前に、キタイは二人の騎馬兵に天幕を出るように命じた。二人ともアラビア語はまったく分からない。そうであっても、やはり聞かれたくない話には違いない。

 二人の騎馬兵は、礼儀正しくハシムに一礼してから天幕を出ていった。

 キタイは自分の椅子をハシムへ近付けた。「始祖の玉の在りかだ。シャーマンのお嬢さんにも教えていないのだろう。教えてしまえば、お嬢さんが狙われるからな」

「始祖の玉?いったい何の話だ、そんな物は知らぬ」ハシムは訳が分からないというように顔を大きくしかめた。

 やはり一筋縄ではいかないか、キタイは気を引き締めた。「あなた方は古の一族だ。永遠の命を守る一族だ。永遠の命はシャーマンのお嬢さんが司る。それぐらいは私も知っている」

 カウナは耳を疑った。そうか、そういう秘密があったのか。カウナも、大ハーンが単なる補給拠点とするためだけにこの地にキタイを残したとは思っていなかった。

 やはり知っておった、ハシムは口の中が苦くなるのを感じた。「教えなければわしを殺すか?」

「ハシム殿を殺せば、シャーマンのお嬢さんは協力してくれなくなる」

「パールにも危害は加えないか?」ハシムは念を押すように尋ねた。

「シャーマンがいなければ始祖の玉から永遠の命は施せない。お嬢さんを傷つけたりはしない」

「くっ、そこまで知っておったか」ハシムは観念したように俯いた。

 無言で俯いたままのハシムをキタイはそっとしておいた。始祖の玉を手に入れても、シャーマンの協力がなければ永遠の命は得られない。あのお嬢さんの協力を得るためにはハシムとの対立は避けなければならない。ただ、キタイもすべてを信じている訳ではない。そもそも、キタイは永遠の命が存在するとは信じていない。

 どれくらい時間が経っただろうか、やがてハシムは顔を上げた。「分かった・・・が、始祖の玉は村には無い。だから永遠の命も得られない。村を助けてくれれば話そう、それで良いか?」

「では、永遠の命は本当にあるのか?」キタイは驚いた。まさか、本当に存在するのか。

「ある。だが、永遠の命が現実にあると知れば、それこそ世界中で奪いあう戦いが始まるぞ」

「それこそが今の世界ではないか。西方ヨーロッパの十字軍遠征は、始祖の玉を捜すためだ」

「それは本当か?では、モンゴル軍の遠征の目的も始祖の玉なのか?」

「それもあるが、それだけではない」

 ハシムは力なく首を振り嘆いた。「愚かしい世界の王たちよ」

 キタイは安堵した。危機に乗じた賭けだったが、どうやら上手くいった。

 ふと、キタイは自分を見つめ続けるカウナの視線に気付いた。何がどうなっているのか後で説明してください、と視線が懇願している。

 キタイはハシムに意識を戻した。「ハシム殿、話していただきたい。何が起きる?」

 ハシムは諦めたように顔を上げた。「今朝、わしはパールと二人で祠に向かった」

ハシムはキタイとカウナに話し始めた。

 

 数刻前の今朝早く、まだ辺りが薄暗い中をハシムとパールは湖へ向かっていた。モンゴル軍の騎馬兵が草原に宿営地を設置してから、対話の儀式は半月に一度くらい、しかも人目につかない早朝しか出来なかった。

 岸辺の祠に着くと、ハシムは周囲に騎馬兵の足跡や馬の蹄の跡がないか確かめた。騎馬兵が訪れたような跡はなかった。騎馬兵はまだ祠には気付いてないようだ。

 ハシムの背後でパールは大きな欠伸をしていた。ハシムは祠に付いている枯草を取り去った。皮袋から禁忌の玉を取り出してパールへ手渡した。

「準備は出来たぞ」そう言ってハシムは祠から離れた。

 パールは祠の前に立った。パールは夜明けの薄暗い空を仰ぎ見た。遥か高みを流れる灰色の雲が朝の光を乱反射している。パールは深呼吸した。禁忌の玉を持った右手を真っ直ぐに伸ばした。禁忌の玉は祠の頂きの真上に重なった。

「ラトに住まわれたる古の父よ、我ら一族に進むべき道をお示しください」パールはそう言い、目を閉じ、心を開いた。

 パールの右手にある禁忌の玉が輝きだした。同時に、パールが身に付けている首飾りの小さな翡翠の一つ一つが鈍く輝き始めた。パールは像が頭の中に流れ込んで来るのを感じた。

 それは今までに観たこともない鮮明な像だ。モンゴル軍の騎馬兵が戦利品を運んでいる、紅く輝く始祖の玉が見えている、闇の中で村の家々は焼かれ、大勢の村人が倒れている。黒い影とモンゴル軍の騎馬兵が戦っている、騎馬兵は次々に倒れていく。やがて、像は突然に消えた。

 禁忌の玉は輝きを止めた。パールは目を開けた。どうして始祖の玉が?いったい何が起ころうとしているの?

 パールは頭に流れ込んできた像を何度も思い返した。村に危機が迫っているのは分かる。像が鮮明なのは、それがすぐにでも起きるという証しに違いない。

「ハシム、始祖の玉が村に運ばれてくる、村人が殺される」パールは像で観た有様を話した。

話を聞いたハシムは考えた。そもそも、どうして始祖の玉が村に運ばれて来る、どうして村人が殺される。黒い影とは、言い伝えにあるとおりなのか。ええい、どうすれば良い。

「ハシム、早く村へ帰ろう、帰って皆に知らせよう」

 パールはハシムを急がせた。空は明るくなってきている。すぐに朝日が昇って来る。ここにいると騎馬兵に見つかってしまう。

「分かった、まずは村へ戻ろう」

 村へ急ぎながらハシムはパールへ話し掛けた。「キタイ殿には話せることを話す。始祖の玉は村に入れさせん」

「村の皆には話すの?」

「いや、話せば不安がる。始祖の玉を知る者も今はもういない。大丈夫だ、モンゴル軍の戦利品を村に入れさせなければ良い」

「うん、そうだね、それでいいね」パールは頷いた。

 そう言ったものの、ハシム本人の不安は募るばかりだった。



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