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厄災のユーラシア  作者: もとふ みき
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第十五章 一二二〇年、晩夏 トリポリ(其の三)

第十五章 一二二〇年、晩夏 トリポリ(其の三)


 南東の夜空に赤い星が見える。メルは自分の部屋からずっと赤い星を見ている。悲しいはずだが、流れ落ちる涙はもうない。疲れているはずだが、まったく眠くならない。市内に目を移すと遠くに炎がいくつか見える。十字軍の仕業なのか、それともただの火事なのか。それは分からない。

 ジョンとブリジット、子どもたちの無念をメルは思った。十字軍兵士をメルは憎んだ。この手で十字軍兵士を八つ裂きにして殺したいと思った。イアンもきっとそう思っているに違いない。

 イアンを思い出したメルは、妙な胸騒ぎを覚えた。もしやと思い、メルは部屋を出て二等騎士の宿舎へ急いで向かった。

 宿舎は夜だというのに騒がしい。何か議論しているような声が聞こえてくる。十字軍への対応で皆が話し合っているのだろうか。

「メルか、こんな夜中にどうした?」門番は、騎士見習いで同期だったマッシリアーノだ。

「イアンと話したい、呼んでくれないか」

 マッシリアーノはまじまじとメルの顔を見つめた。「知らないのか、イアンはいない。イアンは勝手に出ていったよ」

 メルは息を飲んで驚いた。「イアンの行く先は分かっているのか?」

「いいや、誰にも何も言わずに出て行った。ミシェル隊長が激怒している」

「イアンは一人で十字軍の連中に仕返しする気だ。イアンが危ない、僕と一緒にイアンを捜してくれないか?」

「駄目だ、捜しには行けない。夜間は市内へ行くなとミシェル隊長から厳命されている」

 メルは唖然とした。なぜだ?メルは尋ねた。

「今夜は全員で城を守らなければならない。それに市内の各所でまだ混乱は続いている。怒り狂った市民が十字軍の兵士を捜しまわっている。そんな中、暗闇で我々が剣を持って歩けば、十字軍兵士に間違われて市民に襲われる」

 マッシリアーノの言い分はもっともだ。メルは二等騎士の宿舎を後にした。

 メルは重い足どりで自分の部屋に戻った。イアンは何処へ向かったのか。メルは思い出した。モカたちは歓楽街に泊る、シャルル大司祭はそう言っていた。確かに、あそこなら誰でも金を払えば泊れる。そう、素性の分からない者は歓楽街に集まる。

 メルは急いで部屋を出た。城内の馬屋に行き自分の馬を連れ出した。驚く守衛兵や二等騎士を尻目に正門を一気に駆け抜けていった。

 メルは夜のトリポリ市内を馬に跨り駆け抜けた。目指すは歓楽通りだ。


 イアンの予想したとおり、十字軍兵士は歓楽通りにいた。四軒目の酒場で、二人の十字軍兵士が飲んだくれているのを見つけた。

 酔った男たちの大声と女たちの艶やかな笑い声で酒場の中は大騒ぎだ。酒場の奥の薄暗い席でその二人も騒いでいた。俺たちは十字軍だ、トリポリの町を滅茶苦茶にしに来てやったぜ、お偉い将軍から頼まれたんだ、そう叫んでいた。

 二人を気に留める者はいない。俺は十字軍の兵士だなどと叫ぶ客ならいつでも何人かいる。奥の席へ向かって歩いていくイアンを気に留める者もいなかった。

 イアンは二人が座る席の前に立ち止まった。左側に座る男はでっぷりと腹が出ており、頭はすっかり禿げている。右側に座る男は痩せており、額に大きな傷跡がある。薄暗い明かりの中、イアンは二人の剣を見つめた。まだ新しく、柄には十字軍の刻印も鮮明にある。

「お前らが市民を殺戮したのか?」イアンが二人に尋ねた。イアンは剣の柄に右手を掛けている。

「ああ?誰だ、お前は?」太った男が怒鳴り返した。

「俺たちは忙しいんだ。昼間は何人もの男を斬ったし、今夜は何人もの女を抱かなきゃならねえ。とっとと消え失せな!」痩せた男が叫ぶと、二人は下品に笑い出した。

 イアンは素早く剣を抜いた。痩せた男の喉元に向けて剣先をすっと伸ばした。痩せた男は驚きもしない。酔っているからではない、明らかにこうした状況に慣れている。

「お前たちがこの近くの孤児院を襲ったのか?」イアンは感情の消えた声で尋ねた。

 痩せた男はげらげらと笑った。「孤児院?俺たちが襲ったのは教会だ。たくさん殺したぜ、それを聞いたお前はどうする?」

 痩せた男は机を突然にひっくり返した。床に落ちた葡萄酒の瓶が割れて飛び散った。その隙に二人の男は剣を抜いている。

 イアンは冷静だった。目の前で机をひっくり返されるなど、モカにさんざんやられてきた。これくらいで今さら驚かない。

 イアンは転がってくる机を避けながら、痩せた男の右腕に剣を思い切り振り下ろした。肉と骨を砕く打撃音が響いた。痩せた男は悲鳴を上げて剣を床に落した。

 仲間をやられ、逆上した太った男は雄叫びを上げてイアンに向かってきた。イアンは男の剣を上段から素早く振り払い、そのまま返すように剣を突き上げて男の腹部を刺した。上着もろとも腹部の皮膚が裂けて血が流れ落ちた。太った男は倒れて呻いている。

 酒場にいた女たちが悲鳴を上げた。男たちは驚きもしない。椅子や床に置いていた剣をそっと手元に寄せるだけだ。ここは歓楽通り、殺傷沙汰は毎日のように起きている。

「この近くの孤児院を襲った奴は誰だ?」イアンは痩せた男に尋ねた。

「ちくしょう、骨が折れちまった。」痩せた男は痛みと憎しみに顔を歪め、イアンに向かって唾を飛ばした。汚れた唾がイアンのズボンに掛かった。

 イアンは無言のままもう一度剣を思い切り振り降ろした。今度は左腕が砕けた。男は二度目の悲鳴を上げた。イアンは無言のまま剣を上段に構え直した。

「言う、言うよ。孤児院をやったのはフラビオとジェラールだ」痩せた男は早口で答えた。

「どんな奴らだ?」

「どちらも痩せていて背が高い。まだ若くて優男風だ。フラビオは黒髪に青い目、ジェラールは金髪に緑の目だ」

「何処にいる?」

「知らねえよ、あいつらもどっかで飲んでいるはずだ。ちくしょう、両腕ともやりやがって」痩せた男は吐き捨てるように泣き叫んだ。

 イアンは数歩退き、剣を一振りして刃先に付いた血を飛ばした。泣き叫ぶ男と呻く男を後にして、イアンは酒場を出ていった。


 モカは鞘から取り出した剣の刃先を指先でなぞって確かめた。二カ所欠けている。騎士の館の前でオーギュストの部下とやり合った時のものだが、今夜の戦いに支障があるものではない。

 モカは剣を鞘にゆっくりと戻して腰に付けた。モカは屈み込み、両足首の踝の上に結び付けている短剣を確かめた。紐に緩みはない、しっかり固定されている。

 モカは立ち上がった。今夜は凄まじく殺気立っている、自分でもよく分かる。さっきから背筋がぞくぞくとしている。今夜は勝つとか負けるとかではない、殺すか殺されるかだ。

 モカは薄暗い部屋を見回した。モカを気にしている者はいない。ハクレアは静かに寝息を立てて寝ている。カウナたちは床に座ったまま目を閉じている。モカは窓際に立っているルルクウを見た。ルルクウは心配そうにモカを見返している。ルルクウは今にも泣きそうな表情だ。

 モカはルルクウにゆっくりと近寄った。「朝までには戻る、心配はいらない」

 その時、部屋の扉を叩く音がした。モカは剣を再び抜いて扉の近くへ寄った。カウナたちも起き上がり剣を手に取った。

「僕だよ、メルだ。モカ、開けてくれ」扉の外でメルの声がした。

 いったいどうした、そう思いながらモカは扉を少し開けた。廊下にはメル一人だけだ。モカは扉をさらに開けてメルを部屋へ素早く入れた。「どうしてここが分かった?」

「ヨーロッパやイスラムの人々と違う顔立ちの男女が泊まっていないか、あちこちの宿で聞いた。すぐに教えてくれたよ」

 俺たちが追われる身だったら今頃は生きていないな。「それで、何しに来た?」モカは突き放すように言った。今は気持ちを乱したくない、メルの相手などしていられない。

「イアンが一人で復讐に向かった。一緒に捜して止めてほしい」

 モカは驚きもしない。あの馬鹿野郎が、やはり単独で動いているのか。だが、イアンなど俺の知ったことではない。「なぜ止める、好きにさせればいいだろう」

「駄目だ。夜間外出禁止の命令を破ってイアンは市内へ出た。それに、私的な復讐は王室騎士隊では禁じられている。イアンは王室騎士隊を追放される」メルはすがるように訴えた。

「俺には関係ない」モカは冷たく言い返した。

 メルは顔をしかめた。やはりモカは当てにならない。少しでも期待した自分が馬鹿だった。こうなったら自分一人でイアンを捜さないといけない。でも、どうやって捜せばいいのか。

 思い悩んでいたメルは、モカが帯剣しているのに気付いた。「モカ、外に出るのか?」

 モカは答えない。答えようともしない。

「十字軍兵士を討ちに行くのか?」もう一度メルは尋ねた。

 モカは苛立った表情で振り向いた。視線が鋭くなっている。恐ろしいくらいに殺気を感じる。メルはルルクウに振り返った。窓際に立っているルルクウは怯えている。

 メルは理解した。モカも十字軍兵士を捜しに行く。「頼む、僕も連れて行ってくれ。イアンを捜したいし、おじさんたちの仇討ちも果たしたい」

 モカはまったく相手にしない。モカにすれば、メルが一緒だと邪魔なだけだ。

 そこへ、窓際にいたルルクウがモカに近付いた。「メルも連れて行ってほしい、モカ一人だけでは心配なの」

「俺は一人で大丈夫だ」モカはルルクウの目を見ないで答えた。

「いやよ、モカまでいなくなったら、私は本当に一人ぼっちになる」ルルクウは思わず叫んだ。

 はっとしたようにモカはルルクウの目を見つめた。ルルクウは目に涙を浮かべている。モカは返す言葉を失った。エルサレムに戻る家はもうない、ティムたちも殺された。ブリジットや子どもたちも無残に殺されてしまった。俺がいなくなれば、ルルクウは本当に一人ぼっちになる。

 モカはルルクウの気持ちを受け入れた。「分かった、お前の言うとおりにしよう」

 ルルクウはまだ心配そうだったが、こくりと頷いた。

 モカはメルへ向き直った。「誰かに剣を借りろ、行くぞ」それだけ言うと、モカは廊下へさっさと出て行ってしまった。

 誰か剣を貸してくれ、メルがカウナたちに呼び掛けた。ゲンツェイが立ち上がり、メルにモンゴル軍の騎馬兵の剣を手渡した。


 フラビオとジェラールは別の酒場にいた。酒場の奥にある小部屋で葡萄酒を飲んでいた。小部屋の入口に扉はないが、厚手の布で外からは室内が見えないように目隠しされている。

 まともな食べ物はなかったが、フランスの葡萄酒があった。値段は高いが金を払う気はない。酒場の主人を脅かし、店で働く若い娘二人を横に座らせていた。二人とも柔らかそうな白い肌で顔立ちも整っている。それでいて、男を十分に知っている身体付きだ。

 フラビオとジェラールは仕事を終えて満足していた。メッシナでは問題を起こし過ぎて、とうとう拘束された。そのまま十字軍の偉い将軍の前に出された時には、二人ともさすがに観念した。ところが、将軍は意外な言葉を口にした。「トリポリ市内に上陸し、市民を殺し、放火しろ。そうすれば今までの罪は見逃す」

 将軍はフラビオとジェラールに小袋に詰めた金貨をそれぞれ手渡した。釈放後、二人は顔を見合わせて喜んだ。人を殺せば金を貰える、十字軍っていうのは本当にいいところだと神に感謝した。

 昨日、フラビオとジェラールは他の三十数人と一緒にトリポリ市内に上陸した。どいつもこいつも悪そうな連中ばかりだ。上陸してからは市民を殺し、施設に火を放った。女や子どもを殺すなど何の造作もない。息をするよりも簡単だ。

 隣に座っている金髪の娘が、フラビオの肩を軽く叩いた。フラビオが目を上げると、机越しに一人の若い男が立っている。男は右手に剣を握っている。握り具合から、男は剣の扱いによく慣れているのが分かる。

「おい、お前にお客が来ているぞ」フラビオが言った。

 ジェラールは嫌がる黒髪の娘の服に手を入れて胸をまさぐっていた。フラビオの声にジェラールは顔を上げた。目の前の若い男の顔は初めて見る。

「俺の客じゃねえ」ジェラールは若い男の足元に唾を吐いた。

「だとさ。どっかへ消えな、坊や」フラビオもそう言い葡萄酒をあおった。

 それでもイアンは動かない。「フラビオとジェラールってお前たちか?」

「そんな奴は知らねえな」フラビオは苛立たしそうに答えた。

「昨夜、この近くの孤児院を襲った二人だ。二人とも臆病者で、抵抗も出来ない女や子どもしか殺せないとみんなが馬鹿にしていた」イアンは淡々と言った。

 フラビオの顔付きがみるみる変わった。フラビオは椅子の後ろに置いてある剣を、それと分からないようにゆっくりと手繰り寄せた。ジェラールはイアンの足元にもう一度唾を吐き、再び娘の胸をまさぐり始めた。乳首を思い切りつねられた痛みで娘は小さな悲鳴を上げた。

「言い忘れた、一人は嫌がる女に手を出す屑野郎だ」

 ジェラールは顔を上げてイアンの持つ剣を見た。薄明りの中、剣の柄の端にトリポリ伯国の刻印を見つけた。

「おっと、王室騎士様かよ。今日、同じ剣を持つ奴を一人殺したぜ」そう言いながら、ジェラールは背中に隠している短剣を手にした。

「お前もすぐに殺してやるから剣を捨てな。捨てなきゃこの女がお前よりも先に死ぬぜ」胸をまさぐっていた娘の喉元にジェラールは短剣を突きつけた。

 短剣を突きつけられた娘は喘ぐように怯えている。娘の怯える表情にジェラールの息が大きくなった。はあはあと息遣いが荒くなっている。その間、フラビオは自分の隣に座っている娘が逃げないようにしっかりと腕を掴んだ。

 ジェラールの行動にイアンは驚いたが、剣は捨てない。こいつらがフラビオとジェラールだ。間違いない、ようやく見つけた。ここでおじさんとおばさん、子どもたちの仇を取ってやる。

「女は関係ない。女を離して店の外に出ろ、俺の相手をしろ」

 ジェラールが思わず吹き出した。「王室騎士様って奴はどうしようもない馬鹿だな。なんでお前の命令を俺が聞かなきゃいけないんだ」ジェラールは楽しそうに言い返した。

 イアンは、金髪の娘の腕を掴んでいるもう一人が机の下で剣を手にしているのに気付いた。このまま時間を長引かせては駄目だ。どうすればいい。

 机の下で剣を握り締めたフラビオがイアンを挑発した。「お前こそ剣を捨てろ。王室騎士様は女を守るんだろ。それとも、やらせてくれそうな女しか助けないのか?」

 息遣いの荒くなったジェラールは耐え切れないように娘の喉元を短剣の切っ先で撫で始めた。娘の喉元にすっと赤い筋が刻まれ血が滲み出た。

「いやぁー、殺さないでっ」娘が叫んだ。娘の声にさらに興奮したのか、ジェラールは大きく目を開けた。泣き叫ぶ娘の耳たぶを舐め回し始めた。

「ジェラールは若い女を殺すのが大好きなんだ。それで、お前は剣を捨てるのか捨てないのか、いったいどうする?」フラビオがくっくっと笑いながら言った。

 くそっ、こいつら俺を馬鹿にしている。「お前ら屑野郎なんぞ、ここでぶった斬ってやる」イアンが怒りに任せて叫んだ。

 ジェラールの表情がみるみる変わった。端正な顔立ちが醜く歪んだ途端、ジェラールは娘の喉元へ短剣を一気に突き刺した。娘の喉元から勢いよく血が吹き出した。返り血を浴びたジェラールは恍惚の表情で微笑んでいる。

 金髪の娘が大きな悲鳴を上げた。娘は逃げようともがくが、フラビオに腕をしっかりと掴まれている。フラビオは暴れる娘に剣を突きつけた。

 悲鳴を聞きつけて酒場の主人が小部屋に駆けつけた。ジェラールが立ち上がり短剣を振りかざすと主人は逃げて行った。その姿を見てジェラールはへらへらと笑っている。ジェラールは死んだ娘を放り出し、イアンと距離を置きながら壁際に沿ってゆっくりと歩き出した。

「お前のせいで女が一人死んだぞ。もう一人も死なせるのか?」フラビオはイアンを非難するように言った。

 イアンは焦っていた。まさか、本当に殺すとは思わなかった。どうする、剣を捨てれば自分も殺される。それに、短剣を持った男は部屋の入口へにじり寄っている。このままでは前と後ろから挟み撃ちにされる。

「お願い、助けてよ!」金髪の娘は泣き叫んでいる。恐怖の余り足をばたばたと動かしている。娘の足が机に勢いよくぶつかり、机の上の葡萄酒やランプが周囲に落ちていった。落ちたランプの灯りが消えて、小部屋の中は暗くなった。

 今しかない、イアンは後ろを向いて一目散に小部屋から駆け出した。仇を目の前にして逃げなければならないのが悔しくて仕方ない。それでも、二人の顔は覚えた。明日にでも王室騎士隊の仲間と共に追い詰めて殺してやる。 

 その時、逃げるイアンの背中にジェラールの投げた短剣が刺さった。イアンは周囲の客や椅子にぶつかりながらその場に倒れた。倒れたが、すぐに起き上がり酒場の外へよろよろと出ていった。

 くそっ、やられた。イアンは右手を背中に回して短剣を抜こうとした。炎で焼いた刃を背中に刺し込まれたような、それでいて冷たく凍るような激痛だ。やっと右手が短剣に届いた。イアンは短剣を背中から抜いた。さらに大きな激痛が背中を走った。

「ぐあっ!」イアンは痛さの余り叫んだ。

 イアンは酒場の前の通りを見回した。暗がりの中、数人の酔っぱらいがふらふらと歩いている。イアンは目眩がしてきた。背中から出血しているのが分かる。こんな状態では逃げ切れない、どこか隠れる場所はないのか、イアンは霞む目で暗い通りを見回した。

 一方、フラビオとジェラールはイアンをすぐに追おうとしていた。ところが、半狂乱になった娘が小部屋から出ようとして二人の行く手を邪魔した。フラビオは娘を背後から剣で斬った。娘の右肩から背中へ大きく服が裂けた。娘は小部屋の入口の木枠にもたれかかるように倒れた。

 奥の小部屋から何度も女の悲鳴が聞こえ、背中に短剣が刺さった若い男が走り去り、小部屋の入口には背中から血を流している娘が倒れている。こうなると、殺傷沙汰に慣れている男も女も恐慌状態となった。誰もが酒場から逃げようとして入口に殺到した。

 早く追わないとあの若造は逃げてしまう。フラビオとジェラールは、目の前の男や女を次々に斬り捨てていった。誰だろうが邪魔する奴は斬るだけだ。

 フラビオとジェラールは酒場の外にやっと出た。だが、さっきの若造の姿は暗闇の通りの何処にも見当たらない。

「くそっ、逃がしちまった」ジェラールが唾を吐いた。

 フラビオは黙ったまま暗闇に包まれた通りを見つめている。

「どうした、フラビオ。別の店で飲み直そうぜ、裸の女を目の前でくねくねと踊らせてよ」返り血を浴びたジェラールが楽しそうに呼び掛けた。

 フラビオは何も答えない。今度は通りの反対側をじっと見て何かを考えている。

「どうしたんだ、フラビオ」ジェラールは苛立っていた。

 フラビオはジェラールへ振り向いた。「明日の朝にはクラク・ド・シュバリエへ出発する」

 ジェラールは思わず吹き出した。「お前、とうとう怖気付いたのかよ。まだまだここで女や子どもを殺そうぜ」ジェラールがへらへらと笑いながら言った。

 フラビオは首を横に振った。「駄目だ、あんな若造が俺たちの名前を知っていた。きっと、他の奴らが俺たちのことを話したに違いない。それに、若造に顔も知られちまった」

 ジェラールは口をへの字に曲げた。ジェラールは不満だったが、フラビオの言うとおりにした。こうしたことにフラビオは良く気が付く。

「分かったよ。でもよ、あと一人ぐらいはここで殺してもいいだろ。今よ、むしゃぶりつきたくなるようないい女を殺してえんだよ」ジェラールは自分の想像に息を弾ませている。はあはあと大きく息をして興奮している。

 フラビオはにやりと笑い返した。「いいさ、たっぷりと味わってから殺せよ」

 ジェラールは思わず奇声を上げた。「たまんねえな、じゃあ、早く行こうぜ」ジェラールは頭をぐるぐると回しながら歩き始めた。

 

 メルとモカは真夜中の歓楽通りを歩いていた。いくつかの酒場で、若い男が二人組を捜して歩いていたと教えてくれた。別の酒場で、若い男が二人の男を斬っていったと教えてくれた。背の高さや身体の特徴を聞くとイアンだと分かった。斬られた二人は店の裏に放り出した、と主人は言った。

 メルとモカは店の裏に行ってみた。イアンが斬った二人の男が地面に捨てられている。太った男はすでに死んでいた。両腕を斬られた痩せた男は泥まみれのまま横たわり泣いていた。

 モカが尋ねると、男は十字軍の兵士だと白状した。聞いてもいないのに、俺は孤児院の襲撃には関与していない、と必死に訴えた。

「孤児院を襲撃した奴の名前を教えろ!」モカはしゃがみ込んで男に尋ねた。

「あんたたちも奴らを捜しているのか、教えたら俺を助けてくれるか?」男は泣いている。

「ああ、助けてやる」

 モカの言葉にメルは驚いた。助けるって、どうするつもりだ?

 男は安堵したように鼻をすすっている。「すまない、恩に着るぜ。孤児院をやったのはフラビオとジェラールだよ」

「どんな容姿だ?」

「どちらもまだ若い優男風だ、二人とも痩せて背が高い。フラビオは黒髪に青い目、ジェラールは金髪に緑の目だ」

 男の答を聞いたモカは立ち上がり、さっさと歩きだした。メルはその場で戸惑っている。

「何をしている、行くぞ」モカが静かに言った。

「でも、この人は?」メルは泣いている男をちらっと見た。

「放っておけ、もうじき死ぬ」モカはさっさと歩き始めた。

 男は泣き叫び始めた。「頼む、頼むから置いて行かないでくれっ」

 モカはどんどん歩き続けている。メルも逃げるようにモカの後を追った。


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