第二章 一二一九年、秋 サフリム(其の一)
第二章 一二一九年、秋 サフリム(其の一)
モンゴル軍の騎馬軍勢がサフリムを出発してから三カ月が過ぎていた。高原に位置するサフリムは早い秋を迎えていた。
最初の一カ月、サフリムに残った騎馬兵二百人は草原周辺を広範囲に調査した。天山山脈の麓まで出向き、盗賊の隠し砦がないか調べた。岩肌が露出する峡谷に向かい、ホラズム軍の駐屯地がないか調べた。いずれも敵対勢力だから、発見すれば殲滅しておかなければならない。
調査の結果、盗賊の隠し砦もホラズム軍の駐屯地も見つからなかった。分かったのは、それ程までにサフリムは辺境の地だという事実だった。
その後、キタイとカウナは二百人の騎馬兵を各班に分けた。宿営地と村周辺を巡回する哨戒班、馬や羊の繁殖や病気に対応する飼養管理班、騎馬兵や職人家族の食料となる羊を処理する食肉班、日用的な雑務をする生活班だ。もし敵襲があれば班編成など関係ない、その時は全員で応戦する。
それからというもの、各班はそれぞれの任務をこなして毎日を規則的に過ごしていた。とても平和で退屈な毎日が続いていた。
三カ月が過ぎたが、村へ入れるのはキタイとカウナ、連絡役の一人の騎馬兵だけだった。他の騎馬兵は村へ入るのをまだ許されていない。
多くの遠征に従軍したキタイには苦い記憶がある。占領地で、騎馬兵の些細な誤解から多くの住民が殺された。キタイは、自分が責任者であるサフリムでそうした惨事を起こしたくなかった。
連絡役にはゲンツェイが選ばれていた。アラビア語を話せる騎馬兵はゲンツェイの他にも数多くいる。それでもゲンツェイが選ばれた。
当然ながら選ばれた理由はある。ゲンツェイは良く言えばあどけなさが残る童顔だ。裏を返せば、ゲンツェイは勇猛で残忍なモンゴル軍の騎馬兵には見えなかった。もちろん、村を訪ねるゲンツェイには騎馬兵の武具を外させ、剣の帯同もキタイは認めなかった。
いつも笑顔で村を訪れるゲンツェイを村人はしだいに怖れなくなった。しばらくすると、ゲンツェイと村人は挨拶を交わすようになった。
選ばれた理由はともかく、ゲンツェイは連絡役として適任だった。村で見聞きした情報を自分なりに理解し、重要と思えばキタイとカウナへ逐一報告した。おかげで、キタイとカウナは村の催事や村人の動きを手に取るように把握していた。
ゲンツェイにとっても、いつも笑顔で村を訪れる理由があった。連絡役となったため、ゲンツェイはどの班にも属していない。つまり、年上の騎馬兵からこき使われなくなった。それに連絡役の仕事は楽だった。毎朝と毎夕に村を訪ねるが、懸案事項など皆無だった。
騎馬兵が怪我をしたり体調を崩した時、ゲンツェイはハシムに相談した。ハシムはゲンツェイを連れて草原に行き、効き目がありそうな薬草を見つけてはゲンツェイに手渡した。
村人と間近で挨拶を交わすようになり、誰もが痩せ過ぎているのにゲンツェイ気付いた。
「誰もが痩せています、食べ物が不足しているのですか?」ゲンツェイはハシムに尋ねてみた。
「干ばつで春に撒いた麦が全滅した。次の冬は備蓄の麦だけで越さねばならん。だから、今から食べる量を減らして節約しておる」
ゲンツェイに麦の栽培など分からない。ゲンツェイは村人の食事の内容をハシムに聞いた。
日々の食事は荒く挽いた小麦粉を焼いたパンと薬草を入れたスープ。時には野ウサギや野鳥の肉を混ぜる。話を聞いたゲンツェイは貧相な食事に驚いた。ゲンツェイは村の食料事情をキタイとカウナに相談した。
キタイとカウナも村人がひどく痩せていると気付いていた。栄養失調ではないかと思えるような痩せ方だ。キタイは懸念していた。被占領地の民衆がモンゴルに対して反発や怒りを持ち始める発端の一つが食料不足だった。それをキタイは身に染みて知っている。
村人の栄養状態を改善するため、キタイとカウナは騎馬兵や職人家族の食料である羊肉を村人にも分け与えようと決めた。
ところが、村人は羊肉を食べた経験がなく、生肉を見せても怖がって受け取らなかった。
キタイとカウナは村人の目の前で羊肉を焼き、岩塩を振りかけて分け与えた。食べ慣れないせいか、羊肉特有の匂いのせいなのか、口に入れようともしない者もいた。それでも、一人が食べ始めると他の村人も食べ始めた。
やがて、村人は羊肉にすっかり慣れた。ゲンツェイが毎日運んでくる羊肉を心待ちするようになった。村人の栄養状態は大いに改善され、妊婦はお腹の赤ん坊が日々大きくなるのを実感した。床に臥せていた年寄りは歩きだした。子どもたちは外で元気に遊ぶようになった。
元気になった村人は秋播き麦を播くために畑を耕す準備を始めた。キタイとカウナはその様子を見て驚いた。村には土を耕す鋤が二本あったが、錆だらけでぼろぼろに傷んでいる。勢いのある馬で鋤けばたちまち刃先が崩れ落ちるのは間違いない。もっともその馬だが、村で飼っている農耕馬はどうしようもなく衰え、目は見えていないようだ。
ハシムに聞くと、村の鍛冶職人は二年前に死んでしまったという。カウナは鍛冶職人のオルリに新しい鋤を造って欲しいと依頼した。
どういった刃先の形に造ればサフリムの土に合うのか、オルリは村人に聞いてみた。村人はオルリが同じ言葉を話し、しかもカリフ朝の出身だと知って驚いた。鋤のことなど忘れてオルリにあれこれと尋ね始めた。
オルリは村人に包み隠さず話した。幼かった自分は鍛冶職人の父と一緒に金王朝に向かった。その後、モンゴルと金王朝の戦いの中、自分と家族はモンゴルに連れて行かれた。自分と家族は殺されると覚悟した。ところが、チンギス・ハーンは自分と家族を客人としてもてなしてくれた。モンゴルに忠誠を誓えば大ハーンは人々を守り、町や村の交易の発展にも力を貸してくれる。
村人の中にはオルリの話を疑う者もいた。それでも、多くの村人はオルリの話に安心した。村人は村にある鍛冶場をオルリに明け渡し、オルリは新しい鋤を五台造り上げた。
鋤の作成に併せて、キタイは気性のおとなしい若い雌馬十頭を村へ寄贈した。一度に十頭も与えるのにはそれなりの意図があった。それは、多くの村人が馬に触れ、慣れ親しむ環境を整えたいという意図だった。キタイはハシムの了承を得て、馬の調教に長けたシャオロと騎馬兵三人を村へ入らせた。村人へ馬の世話の仕方を教えるためだ。
シャオロはキタイよりも七歳年上だ。シャオロは金王朝の騎馬隊長だったが、馬の調教能力に優れているためモンゴル軍に取り立てられた。身分は騎馬兵だが、騎馬調教という役割のために戦場で戦う義務は免除されていた。
キタイとカウナ、ゲンツェイ以外の騎馬兵が村へ入ったのは初めてだ。言葉が通じないせいか、最初はシャオロも村人もよそよそしい。和やかな雰囲気とはとても言えなかった。
四頭の馬の後ろに鋤を取り付け、シャオロの手綱で一頭の馬が鋤を引き始めた。すると、村人のよそよそしかった態度は一変した。乾いて固くなった畑の土が勢いよく掘り起こされると、村人は歓声を上げ始めた。
残る三人の騎馬兵も三頭の馬に鋤を引かせた。畑は見事に耕起された。村の大人も子どもも大喜びだった。その日の夕方、言葉は通じないものの、シャオロと三人の騎馬兵は村人と笑顔で別れた。
その後、シャオロはハシムの許可を得て、村外れにある馬小屋を拡張した。これで十頭の雌馬の世話が十分に出来るようになった。
シャオロはゲンツェイを通訳にして、村人に馬の世話の仕方を教え始めた。村人も熱心にシャオロの教えを学んだ。その様子を見てキタイとカウナは安堵した。
それから間もなく、ゲンツェイはハシムから相談を受けた。「オルリに村へ来て欲しい、村人のそれぞれの家には錆びた鍬や刃先が鈍らになった包丁がある。どうか、村の鍛冶場を使って鍬や包丁を修理してもらいたい」
ゲンツェイはキタイとカウナにすぐに報告した。二人は即座に了承した。オルリは騎馬兵ではないし、村人からモンゴルを頼ってもらえるのは相互の信頼関係の発展に欠かせない。
オルリは村の鍛冶場で働き始めた。温厚で勤勉なオルリは瞬く間に村人と仲良くなった。ハクレアもオルリを手伝うために村へ入った。それはゲンツェイにとってもうれしい限りだった。
キタイとカウナは、村人の多くが武具を隠し持っているだろうと考えていた。二人はハシムを訪ね、村人が所有する剣や槍の修理もオルリに受けさせようと伝えた。
ハシムは村に武具などいっさい無いと答えた。
「そんなはずはない。盗賊が来たらどう戦うつもりだった」カウナの問いにハシムは黙り込んだ。
罰の悪そうなハシムにキタイは驚くべき提案をした。「もし、本当に武具がないのなら、私たち騎馬兵の剣を譲ろう。予備で良ければたくさんある。それで盗賊と戦える」
ハシムは仰天した。占領者は、反乱が起きないように被占領者の武具を取り上げるはずだ。まさか、村人の持っている武具をオルリの鍛冶場に集めて一挙に没収するつもりなのか。ハシムはその懸念を正直に二人へ伝えた。
キタイは笑って受け流した。「ここの村人が反乱を起こすとは私は思っていない。私はあなたたちを信用している」
一方、キタイの隣にいたカウナはこう言った。「もし、反乱を起こそうと思うなら、あなたたちの敵は俺たち二百人ではない。モンゴル軍の騎馬軍勢十万人がお相手をする」
翌日、オルリの鍛冶場には多くの剣や槍が持ち込まれた。その数の多さにキタイとカウナは苦笑せざるを得なかった。
羊肉が支給されるようになり村人の栄養状態は大きく改善した。これでもう妊婦が流産したり、幼い子どもが栄養失調で死んだりしない。少しずつでも村の人口が増加に転じてくれればとハシムは心から願っていた。
その一方で、村の長としてハシムは悩んでいた。村には自給自足の農業しかない。他の町や村と交易する産物は無い。交易が出来なければ貨幣を得られない。だから、子どもたちの薬や生活に必要な物資を買えない。これでは、人口が増えてもいよいよ貧しくなるだけだ。
古の一族として外部との接触を拒み続けてきた経緯はある。村人の多くは古の一族であるがために迫害され続け、サフリムのような辺境の地に流れ着いたと嘆いている。古の一族の誇りもなく、古の一族の定めを守ろうという決意もない。
今や、村人の関心は自分たちが豊かに暮らせるかどうかだけだ。これも時代の流れなのか、そう考えたハシムはやがて決断した。
古の一族の定めを守るのは村の長である自分とシャーマンであるパールの務めだ。それは何としても守る。その上で、村人が豊かに暮らせるように、村が豊かになれるように、交易が可能な産業を根付かせたい。
ハシムは職人の宿営地を何度も訪ね、その仕事振りを見ていた。陶芸、染物、織物、それぞれの職人の技術の高さに驚いた。村人にも職人の技術を覚えさせたいと考えた。
職人全員の仕事場を村の中に造ってはどうだろうか、ハシムはキタイに相談した。キタイに異論はまったくない。キタイもこの村に何かしら産業を築きたいとずっと考えていたからだ。
キタイは職人たちに聞いてみた。職人たちも、オルリのように村で仕事場を造ってもらえるのであればと喜んで承諾した。宿営地の仕事場は一時的なものでしかない。どの職人も、きちんとした仕事場がそろそろ欲しかった。
話はあっという間に進んだ。村のあちこちに職人の仕事場が造られた。陶器や染物の職人は空き家が仕事場になった。織物の職人は二階建ての物見やぐらの一階に織物機を入れさせてもらった。
二階建ての物見やぐらだが、その用途についてキタイはハシムから以前に聞いていた。村人が祈りを捧げる場所であり、村全体で何かを決める場所だとハシムは説明してくれた。何を祈るのか、何を決めるのか、キタイは尋ねた。村の伝統に係わるので話せないとハシムは断り続けていた。
仕事場が出来上がると、職人たちは昼間に村で働き、夕方なると職人の宿営地へ帰った。やがて、職人の家族であれば村を出入りしても良いとハシムは承諾した。それでも、職人と職人の家族が村に住むのは拒み続けた。
そうした動きとは別に、サフリムに適している基盤産業は何だろうかとキタイとカウナは議論を進めていた。二人の意見はやがて一致した。それは、サフリムの広大な草原を活かす羊毛の生産だ。羊毛の生産を基盤産業とするのであれば、ここを第二のモンゴルにせよという大ハーンの命令から外れる恐れもない。
いずれ、来年の春になれば騎馬兵は羊の毛刈りに取り掛かる。刈り取った羊毛は湯通しして油分を落とす。そうして処理した羊毛は服や絨毯の原料になる。
来年の春にはこうした作業を村人にも手伝ってもらおう。出来上がった羊毛を町へ持ち込み売り込んでみよう。キタイとカウナはそう話し合っていた。
オルリの鍛冶場にはパールがよく遊びに来ていた。ハクレアがいるからだ。生まれ育った環境は異なるが、パールにとってハクレアは何でも話せる同性、同年代の友だちだった。ハクレアは、村人のようにパールを避けたり嫌ったりしない。二人は急速に仲良くなっていった。
パールがハクレアと会うのをハシムは止めなかった。それでも、古の一族のシャーマンだと分かるような言動は控えさせ、村の内情を調べるような質問があればすぐに報告するように言っていた。また、ハクレアを決して家に招いてはいけないと命じていた。家に隠しているシャーマンの服や装飾品を見つけられては困るからだ。パールもハシムの言い付けは守っていた。
パールは、村の外の世界の話を教えて欲しいといつもハクレアに言った。対話で村の外の世界の像を何度も観た。その像が本当なのか、パールはずっと知りたかった。
ハクレアは、モンゴルや遠征の途中で見た町や村の様子をパールに話した。行く先々で人々の服装は異なり、家の形も少しずつ異なり、食べ物は大きく異なっていた。植物も動物も異なり、空気の質感や匂いも異なった。
ハクレアの話をパールは目を輝かして聞いていた。パールはハクレアからコハクを借り、手の上で遊ばせながら話を聞いたりもした。コハクもパールに良くなついていた。
ハクレアの話を聞いた後、パールはハクレアを質問攻めにした。ハクレアが答えに困った時は近くにいるオルリが助けた。
ある日、パールはハクレアが驚くべきことを言った。「私、ハクレアと出会う前から、ハクレアに呼び掛けられていたような気がしているの」
「えっ、どういうことなの?」ハクレアは思わず聞き返した。
しまった、パールはハシムの言葉を思い出した。シャーマンだと気付かれる言動は控えなさい、そう言われていた。どう取り繕うかとパールは迷った。
その心配は不要だった。なぜだか、ハクレアが動揺していた。
「どうかしたの、ハクレア?」パールは気遣うように声を掛けた。
「ううん、何でもないの。ちょっとびっくりしただけ」ハクレアは胸の高まりを感じながら、何もなかったように答えた。
その夜、ハクレアはずっと考えた。大ハーンの西方遠征に参加したのは父親が生まれ育ったイスラム諸国を見たかったからだ。それが、天山山脈を越えようとした頃から声が聞こえ始めた。一緒に行こう、声はそう呼び掛けていた。それからパールと出会い、あの声はパールではないかと思い始めていた。でも、パールには話さなかった。話しても笑われるだけだと思っていた。
そのパールが、私から呼び掛けられていたと教えてくれた。
ハクレアは不思議だった。私はパールと何かの結び付きがある。一緒に行こう?何処へ?私はパールと一緒に何処へ行き、何をするのかな。
それでも、自分にもパールの声が聞こえていたとハクレアは話さなかった。話せばパールが怖がり、もう会ってくれないような気がしていた。
それからも、パールは相変わらず外の世界の様子を聞き、あれこれとハクレアに質問した。その内に質問の内容は徐々に変わっていった。人々の暮らしや食べ物から、どうやって町や村が成り立っているのか、どんな人が人々を導いているのかといった質問に変わっていった。その次は、いろいろな国の仕組みについて質問した。質問の中にはハクレアが聞かれたくない内容もあった。
「モンゴルが他の国と戦争するのはどうしてなの?」
「どうしてそういうことを聞くの?」
「だって、戦えば人が死ぬでしょ。そんなの良くない。他の国とも仲良くすればいいじゃない」パールは当たり前のように言った。
自分にも良く分からないけど、そう言ってハクレアは話し始めた。「以前、モンゴルの人々は金王朝という隣の国に虐げられていたの。何も悪くないのにだよ。だから大ハーンは金王朝を滅ぼした。当然の報いだと思う」
「じゃあ、モンゴルがホラズム帝国と戦う理由は何なの?ホラズム帝国はモンゴルに何か悪いことをしていたの?」パールは不思議そうに言った。
「ホラズム帝国はモンゴルへ攻め込もうと考えていた。だから、大ハーンは先手を打ったのかもしれない。私だってモンゴルを守るためなら戦うよ」
「それなら、ホラズムの人々もホラズムを守るために戦うよ」
ハクレアは何も答えられなかった。ハクレアも考えた、大ハーンが西方へ遠征する理由は何だろうか。モンゴルを豊かにするだけのために他国へ侵攻するのだろうか。
こうして、占領者であるモンゴルのハクレアが、被占領者であるサフリムのパールと戦争や平和について話し合っていた。それは不思議な光景だった。そんな二人のやり取りを聞いても、オルリはあえて何も言わなかった。
ハシムへの伝令と羊肉の運搬が終わった後、ゲンツェイもオルリの鍛冶場によく立ち寄った。ゲンツェイもパールと様々な話をするようになった。
パールにはモンゴル軍の騎馬兵への恐怖感はないように見えた。度胸のある娘だなとゲンツェイは感心していた。後日、ハクレアがそっと教えてくれた。「ゲンツェイは騎馬兵には見えないから怖くないって」ゲンツェイは閉口するしかなかった。
やがて、ゲンツェイもパールの質問攻めに巻き込まれた。どうして戦争が起きるのとパールから質問されてゲンツェイは答に窮した。
「モンゴルも戦争はするけど、他の国とは違うところがある」ゲンツェイは言った。「イスラムとヨーロッパが戦っているのは宗教が違うからだ。信じる神が違うというだけで戦争をしている。でも、モンゴルは違う。信じる神が違うからといって戦争なんかしない。モンゴルが勝っても負けた人たちの信じる神を否定したりしない」
「じゃあ、どうしてモンゴルは他の国と戦争するの?」
「アフマド隊長が前に教えてくれた。大ハーンは国と国の見えない壁を取り払って、世界をモンゴル一つにする。そのために戦っている」
ゲンツェイの答にハクレアも大きく頷いた。
「世界をモンゴル一つにするって、何のために?」
「世界がモンゴル一つになれば、もう国と国の戦争は起きないからさ」
ハクレアは納得したようにさらに頷いた。パールは何かを考え込んでいた。いつものように、オルリは何も言わなかった。
パールは哲学的な難しい質問もしてきた。ある時は人の心の善悪についてハクレアに議論を持ち掛けてきた。
人の心の中には善もあるし、悪もある。その人の善が他の人の幸せに繋がるとは限らない。立場が違えば善は悪になり、悪は善になる。
ハクレアは考えてみた。モンゴルの繁栄を願う大ハーンの心はモンゴルの人々にとっては善だ。でも、そのために侵略される人々にとって大ハーンの心は悪でしかない。
では、パールの村はどうだろう。モンゴルとの和睦を望んだ村人の心は、村を無傷で守ったから善だ。でも、サフリムがモンゴルの拠点となった今、これから侵略される西方の町や村の人々にとって村人の心は悪となるのではないか。
善はすべてにおいて正しい、悪はすべてにおいて正しくない、そうとは決して言えない、決め付けられない。人の心にも世界にも善と悪は混在している。パールとハクレアは、それが結論ではないかと考えた。
パールはゲンツェイにも尋ねた。「ゲンツェイは正しいと思っていつも戦っているの?」
自分は命令されれば戦う。命令が正しいかどうかなど考える必要はない。ゲンツェイはモンゴル軍の騎馬兵として五年間戦ってきた。命令があれば何処ででも、どんな相手とでも戦った。
「正しいから戦う訳じゃない、勝ったから正しいのさ」
そう答えるゲンツェイをパールは不思議そうに見つめていた。