第十三章 一二二〇年、晩夏 クアルタフ峡谷(其の三)
第十三章 一二二〇年、晩夏 クアルタフ峡谷(其の三)
エルサレムから三つ目の公共井戸に辿り着いた。モカは、カウナに休憩を呼び掛けた。ホイヘンスの傷口が開いて再び出血しているに違いない。暗くなる前に傷口を抑える布を替え、しっかりと傷口を包み直さないといけない。
カウナも了承した。カナウにしても、そろそろ馬を休ませたいと思っていた。どの馬も全身から汗を流し、止まった途端に大きく首を垂らしている。ここで水をたっぷりと飲ませて休ませないといずれ倒れてしまう。
ホイヘンスの介抱はルルクウとパールがした。ムーレイが横に立ち、傷口の拭き方や布の当て方を教えた。ホイヘンスは、手当を受けながらもパールとまだ話し続けている。
日本人たちも休んでいた。実篤は水で湿らせた布で茶々の顔や手に付いた砂を拭い取った。小栗、菊千代、わらびは顔を見合わせるように座り込み武具の手入れをしている。日本刀の刃先に付いた細かい砂を拭い取り、弓の弦の張り具合を調整した。本当に追手が掛かっているのであれば、いつでも戦えるようにしておきたかった。
その様子を見ていたモカがカウナに話し掛けた。「ここまでは逃げてばかりだが、もう少し行けば待ち伏せにいい場所がある」
自分たちの武具も確かめていたカウナとゲンツェイが顔を上げた。「待ち伏せ?相手は何人いるのか分からない。周囲から多数で攻められたら勝ち目はないぞ」カウナは不満そうに答えた。
「それが、そうも出来ない場所が一カ所だけある」モカは説明し始めた。「もうすぐクアルタフの峡谷に着く。クアルタフの峡谷の周辺は広大な台地でその縁は高い崖が続いている。人や馬では降りられないような高さだ」
カウナは人の気配を感じて振り返った。いつの間にか実篤が両腕を組んで立っている。実篤もモカの話を興味深そうに聞いている。
「広大な台地を最短で抜けるには、クアルタフの峡谷の一本道を通るしかない。この一本道はほぼ下り坂で道幅が狭い。追手の数が分からないという不安要素はあるが、オーギュストをここで待ち伏せすることが出来る」
「先にオーギュストが待ち伏せしているかも?」ゲンツェイが言った。
モカは首を横に振った。「エルサレムを出てから、クアルタフの峡谷へは最短の道を走っている。オーギュストが遠回りしてまで俺たちを追い越したとは思えない。それに、俺たちを追い越せるくらいなら、わざわざ待ち伏せなどしない。すぐに追いつき襲ってくる」
その後、エルサレムで調達したパンを全員で食べた。車座のように座り黙々とパンを食べた。菊千代だけは離れた所に座り一人で食べていた。実篤と小栗はその姿に胸が痛んだ。茶々が菊千代を呼んで来ようと立ち上がったが、わらびが止めた。
パンを食べ終えたゲンツェイと小栗が立ち上がり、それぞれ馬に乗って見張りに向かった。離れた場所にいた菊千代も一緒に見張りに向かおうと立ち上がった。
すかさずカウナが立ち上がり止めた。「お前は駄目だ、行ってはいけない。夕暮れに紛れて逃げるつもりかもしれないからな」
菊千代は唖然とし、怒りが込み上げた。「そんなつもりはありません」
実篤も立ち上がりカウナへ詰め寄った。「菊千代はそんな卑怯者じゃない」実篤はカウナを睨みつけている。カウナも実篤を睨み返している。
その場は敵意に満ちた緊張感に包まれた。ルルクウや茶々は不安そうな表情だ。
「そいつが逃げれば日本人はトリポリ伯国へ入れさせない。それでいいだろう。この状況でごたごたは勘弁して欲しいな」モカが座ったまま声を上げた。
「私はそれで構わない。もとより菊千代が逃げるはずがない」実篤が言った。
カウナは実篤を再び睨んだが、これ以上は言い争っても仕方ないと理解した。「いいだろう、一緒に見張りに行け」
実篤は菊千代に振り向き頷いた。菊千代はすぐさま馬に乗りゲンツェイと小栗を追った。実篤は座っていた場所に戻り、カウナも再び座った。モカはつまらなそうに欠伸をしている。
ホイヘンスはルルクウに手伝ってもらいながらパンを食べた。食欲はなかったが、食べなければ死ぬと分かっていた。留置所でイスラムの警備兵から貰った砂糖を舐めながらパンを食べた。
食べ終えると冷え切った身体が少し暖かくなったように感じた。意識も少し持ち直した。そうなるとホイヘンスは話したくなってきた。
「少し話してもいいかね?」ホイヘンスが皆に呼び掛けた。
誰もが驚いたようにホイヘンスを見返した。ホイヘンスの身体を考え、メルはホイヘンスを止めようと一瞬思った。それでもすぐに思い留まった。こういう時の先生は何を言っても止められない。
「ノアは神から認められ、神の啓示を受けた。それについてモンゴル人と日本人はどう思う?」
カウナは首を横に振った。「大ハーンは神の啓示を受けてモンゴルの王となった。偉大な人間には神の啓示があるものだ」カウナは当然のように答えた。
「日本の帝様も神に選ばれた人間だ」実篤も当然のように答えた。
ホイヘンスは不思議に思いつつも納得した。どの民族にあっても神は存在している。神を敬う心も普遍だ。それは世界の神秘に対する人々の畏敬の証しであり、より良い世界を造ろうとする人々の善の心の証しなのだろう。
しかし、今の世界ではその善の心が利用され戦乱が続いている。神の名の下に、異なる神、異なる宗教への弾圧や殺戮が行われている。
ホイヘンスは言った。「時として人間は神の啓示を利用する。自らの利益のために神の教えを都合よく解釈し、人々へ広め、従わせようとする」
カウナと実篤は首を傾げている。抽象的過ぎる言いようだったとホイヘンスは気付き、言葉を変えてみた。「ふむ、モンゴルや日本では宗教の違いによる争いはないのかね?」
カウナも実篤も首を横に振った。「大ハーンは、異教徒だからといって弾圧などしない。大ハーンは制圧した地であっても、その地で敬われる神や宗教を尊重する」
「日本にも多くの宗教はあるが、他の宗教を排除するような言動はない」
カウナや実篤の言葉は、モカやメル、ルルクウには意外だ。モカがカウナに質した。「なぜだ、どうして大ハーンは敵の神を尊重する?」
カウナはモカを見返した。呆れた表情が夕暮れの中でも分かる。「大ハーンが遠征する目的はモンゴルの領土を拡げ、その領土すべてを豊かにすることだ。そもそも、人々の心の中にある信仰心をどうやって征服するというのか。それに、宗教が違うからといって戦って何になる。お前たちがやっているイスラム教とキリスト教の争いこそ俺には理解出来ない」
カウナの説明にモンゴル人と日本人は大きく頷いている。
「宗教は人々の心の拠り所であり、慣習だ。それを否定し排除すれば、人々の反発や反乱を招くのは当然だ。それなのに、お前らは異なる宗教を否定し排除しようとしている。まったく愚かな戦いとしか言えないな」カウナはモカやメルに向かって手厳しく言った。
実篤も口を挟んだ。「エルサレムがイスラム教徒、キリスト教、ユダヤ教の聖地なら、そのとおり皆で受け入れれば良いだけの話だ。戦いの血で聖地を汚すなど信じられない」
カウナや実篤の言葉はモカやメルにとっては辛辣だ。けれども、新鮮でもある。
十字軍のエルサレム侵攻は、ローマ教皇が永遠の命を手に入れようと欲した事から始まった。それは、モカもメルもルルクウもすでに知っている。
しかし、十字軍侵攻の表向きの大義名分は、聖地エルサレムの奪還と聖地を汚すイスラム教徒の追放だ。大義名分はヨーロッパ中の教会を通じて人々へ拡がった。大義名分は何の疑問もなく人々に受け入れられた。ヨーロッパ中の貴族や領主、商人や農民が十字軍へこぞって参加した。百二十年前に始まった欺瞞に満ちた十字軍の侵攻。その欺瞞のために多くの人々が殺された。
「そうかもしれないな。百二十年も戦い続け、お互いの憎しみは増すばかりだ。誰もが憎しみに捕らわれて戦っている。この戦いは、もはや終わりがない」モカは皮肉っぽく嘆いた。メルとルルクウはお互いを見つめた。
「憎しみに身を委ねよ、か」ムーレイがぽつりと言った。
「何だ、それは?」モカが聞き返した。
「悪魔の口癖だよ。俺たちも日本人も悪魔と戦った時に聞いている」
憎しみに身を委ねよ、か。それこそ、十字軍とイスラム連合軍の戦いだ。終わらせようもない二つの宗教の戦い、そこに巻き込まれた人々の悲しみも終わりがない。
カウナやモカの会話をパールはじっと聞いている。イスラム教とキリスト教のそれぞれの神は、聖地を巡る戦い、異教徒を殺し合う戦いを見て何を思うのかしら。
そう考えたパールは自分を戒めた。いいえ、この戦いは聖地を巡る戦いではない、この戦いは永遠の命を求める人間の欲望から始まった。では、永遠の命を司る私はどうしたらいいの、私に出来る事は何かあるの?
パールは思い詰めた表情で考え込んでいる。パールをホイヘンスが静かに見つめていた。
オーギュストたちはエルサレムから一つめの公共井戸に着いた。ルルクウの姿はない。少し離れた木の下に部族の老人がいる。もしかしたら、老人はずっとここにいたかも知れない。そうであれば何か知っているかもしれない。
オーギュストの部下が尋ねてみた。「爺さん、ここでずっと待っていた連中を知らないか?俺たちはそいつらに大事な話がある。そいつらにとっていい話なんだ」
座っていた老人は顔を上げた。帯剣したヨーロッパ系の男だが、人懐っこそうに微笑んでいる。
「そいつらが借金のために手放した家を俺たちは買い戻した。そいつらがエルサレムを出ていく必要はなくなった。エルサレムに戻って、また仲良く暮らせるんだ」
そうか、そういう事情なのか。年を取るとこうした人助けの話を聞くとうれしくなる。殺し合いの続く世の中でも、まだまだ人は捨てたものではない。老人はすっかり信用した。
老人は話し出した。昼過ぎから見慣れない顔立ちの者も含めてここに集っていた。全部で十人くらいだ。やがて、怪我をしたヨーロッパ系の年寄りが二輪馬車に乗せられてやって来た。ずいぶんと大怪我なように見えた、しばらくして、全員揃ったのか出発していった。
老人の話に部下はおやっと思った。モカたちは留置所へ入れられたはずではないか。いつ、どうやって出てきたのだ。それとも、他にも怪我をした奴がいたのだろうか。
「そいつらがここを離れてどれくらい経つ?」
「陽が西へ傾き初めてだ、そんなに時間は経ってはおらん」
「どっちに向かった?」
老人はクアルタフ峡谷の方角を指差した。
部下は聞いたとおりをオーギュストに報告した。やはり、トリポリ伯国へ最短の交易路で向かっている。オーギュストは唇を噛み、全員にすぐに出発すると告げた。
誰もが驚いた。馬には水を飲ませ始めたばかりだ。三十頭近くの馬がすべて水を飲み終えるのにはまだ時間が掛かる。それに、水を飲んだばかりで勢いよく走らせるのは良くない。
一人の部下がオーギュストに近付いた。馬にしっかりと水を飲ませ休ませたい、とオーギュストに申し出た。エルサレムを出てから馬は走り続けている。この暑さの中をずっと走ってきた。どの馬も相当に疲れ切っている。このまま走らせては馬が倒れてしまう、そう進言した。
オーギュストは、馬が水を飲むのは許したが、馬を休ませるのは許さなかった。休む暇などまったくない、水を飲んだらすぐに出発する、オーギュストは怒鳴った。
部下は食い下がった。「駄目だ、しっかり休ませないと馬は動けなくなる、動けなくなれば倒れて死んでしまう、そうなればルルクウをもう追えなくなるぞ」
早く追跡を再開したいオーギュストは、自分の命令に反論する部下に驚き、怒りを覚えた。オーギュストは進言してきた部下を殴り飛ばした。顎の骨が砕けた音が周囲に響いた。地面に倒れた部下の腹や胸をオーギュストは何度も蹴り飛ばした。はあはあと大きく息を継ぎ、時折奇声を発しながら蹴り続けた。ルルクウを早く追わなければと思いつつ、自分に興奮していた。
蹴られ続けていた部下は動かなくなってしまった。オーギュストは、今度は木の下に座っている老人にずかずかと近付いた。老人は慌てて逃げようと走り出した。しかし、オーギュストにすぐ追いつかれた。
「怪我をしたヨーロッパ系の年寄りとは何だ?その場所にはモカも一緒にいたのか?」
オーギュストが怒鳴った。老人はモカの名前など知りもしない。そんなことも分からない程にオーギュストは興奮している。
「し、知らん。放せ、放してくれ」老人は叫んだ。老人は上着を掴むオーギュストの右手を何度も両手で叩いた。
満足できる言葉が聞けず、オーギュストの顔がみるみる強張った。オーギュストは老人の顔を右手の甲で張り飛ばした。老人は地面に投げ出され低く呻いている。
オーギュストは振り向いて、早く馬に水を飲ませろと怒鳴った。もう、誰もオーギュストに逆らえない。馬を休ませないといけないのは分かっている。分かっているが、オーギュストが怖くてもう何も言えない。全員が出発の準備を始めた。
興奮したオーギュストの横顔を夕陽が赤く照らしている。この時期、陽が沈んでもしばらくは空が明るい。まだ間に合う、とオーギュストは思った。怪我人がいればゆっくりとしか進めない。上手くすれば、クアルタフの峡谷の手前で捕まえられる。緑色に輝く玉を手に入れ、マダムの婆さんにルルクウを高く売りつければいい。そこに、もしもモカが一緒なら最高だ。
オーギュストは昨夜のモカとの対決を思い出した。怒りと併せて強い憎しみを覚えた。同時に悦びを感じた。憎むべきモカを存分に殺せる悦びだ。モカ、お前は俺が殺してやる
ひゃひゃ、オーギュストが卑屈な笑い声を上げた。オーギュストの顔は歪んでいた。拠点も資金も地位も失った喪失感とモカに対する怒りと憎しみが混ざり合い、抑えきれない感情にオーギュストの顔は醜く歪んでいた。
ホイヘンスが仕掛けた議論は続いていた。その傍らで、モカはオーギュストが気になっていた。まだ、エルサレムで俺たちを捜しているのであればいいのだが、そう願いつつも悪い胸騒ぎが一向に収まらない。
メルはホイヘンスの容態が気になっていた。さっきまでパールやカウナと議論していたホイヘンスは、今は黙り込んでしまっている。傷口がまた痛み始めたのだろうか、出血が多過ぎて目眩がしているのだろうか、そう心配してメルはホイヘンスの横顔を覗き見た。
そうではなかった。ホイヘンスは興味津々な目で見ている。パールやカウナ、実篤たちの議論を聞いている。
メルにはホイヘンスの考えがすぐ分かった。先生は皆に議論させている。もちろん、相互理解を深めさせ、皆を仲良くさせようなどと間違っても意図していない。先生が意図しているのは、異なる宗教、異なる文化、異なる価値観がぶつかり合う議論だ。その議論を先生は楽しんでいる。
今は戦争について議論している。当然かもしれない。西方ではイスラム連合軍と十字軍が戦い、東方ではモンゴル軍とイスラム諸国が戦っている。この二つの戦争がなければ、ここに集まっている者たちは決して出会うはずもなかった。
モンゴル軍とイスラム諸国の戦いの話になると、カウナやムーレイは当事者であり言葉を控えていた。それは、発言を躊躇っている訳ではない。二人はモンゴル軍の騎馬兵であることに誇りを持っており、大ハーンの西方遠征に何の疑問も持っていない。それでも、二人はエルサレムに来るまでに多くの民族と出会い、様々な経験をしてきた。カウナとムーレイは第三者の意見を聞きたくて、興味深く黙っていた。
イスラム連合軍と十字軍の戦いの話になると、今度はモカとメルが言葉を控えていた。第三次十字軍では父親が騎士として従軍したメル、第四次十字軍では自身が少年兵として従軍したモカ。二人が黙っていたのは、話したくないから話さないだけだ。
ましてや、十字軍の本当の目的は聖地エルサレムの奪還ではない。ローマ教皇が永遠の命を欲したことからこの戦争は始まった。本当の目的を味方にも隠したまま、イスラム連合軍との戦いは百二十年も続いている。モカもメルも、偽りの戦争で殺された大勢の人々の無念を思えば、皆に語れるような言葉など何もない。
それはルルクウも同じだ。十字軍がエルサレム侵攻を始めた本当の理由のせいで、父親は十字軍に関係する者に殺された。父親も、人に言えるようなことはしていなかった。
当事者となると話が出来ない、言葉を控えてしまう。ホイヘンスもそれは理解している。議論が停滞し始めたので、ホイヘンスは再び口を開いた。
「実篤、日本では戦争は起きていないのかね?」
「領地争いは常にある。だが、島国である日本では他国へ攻めたり、攻められたりはない」
「では、日本では大きな戦いは起きていないのかね」
「日本は帝を頂点とし公家と武士が帝に仕えている。しかし、強大な軍勢を背景に謀反を企む武士が現れている。謀反が起きれば内乱となる。きっと、大きな戦いになるだろう」
「それは日本にとって良い事かね、悪い事かね?」すかさず、ホイヘンスが尋ねた。
日本にとって武士の謀反が良い事か、悪い事か。そのような観点に立って北条義時の謀反を考えたことはない。そもそも謀反という行為は許されるものではない。
そう言い返す実篤にホイヘンスは言った。「私は日本の事情を知らない。だから何が良くて何が悪いのか分からない。私が日本へ行く機会があれば、町や村で暮らす庶民を見る。人々が幸せに暮らしていれば帝の治世は正しい。人々が貧しく飢えていれば帝の治世は間違っている。間違っていれば、謀反を起こされても仕方ない」
実篤はむっとした。まるで帝様が悪者のような言い方にしか聞こえない。それでも、よくよく考えればホイヘンスの言い分はもっともだと思った。日本を離れたからこそ、そのように思えるようになったと実篤は理解した。日本を離れて一年近くが経過しようとしている。その間に多くの国々と様々な人々の暮らしを見てきた。今では、日本が最も良い国とは考えていないし、どうすれば日本がもっと良い国になれるのかと考えるようになっていた。
「ハクレア、君はモンゴル人だが騎馬兵ではない。その君から見て、大ハーンが推し進める西方遠征をどう思う?」ホイヘンスは、今度はハクレアに尋ねた。
「大ハーンは世界を一つにしようとしています。それは素晴らしい事だと思っています」
「大ハーンはどうして世界を一つにしたいのかね?」
「世界が一つになれば、もはや国と国の戦争は起きません。人々の間にあった壁は消えます。各地を結ぶ交易はいっそう盛んになり、誰もが豊かになります。それは、今のモンゴルの人々の豊かな暮らしが証明しています」ハクレアは自慢そうに言った。
それは侵攻によって他国の富を奪った結果の豊かさではないのか。ホイヘンスはそう考えたが、ハクレアに言わないようにした。その代わり、トリポリ伯国のことを教えようと考えた。
「近隣諸国に侵攻せず、交易で近隣諸国と共に発展している国もある。これから君たちが訪れるトリポリ伯国だよ」
ホイヘンスはトリポリ伯国の実情を話した。異なる民族、異なる宗教が平和的に共存している。トリポリ伯国の王はキリスト教徒だが、周辺のイスラム教国家と交易で強く結びついている。それぞれの国は交易で発展し、その発展は人々の暮らしを豊かにしている。
「世界が一つの国になれば、確かに国と国の戦争は起きない。それでも、国という枠を取り払っただけでは戦いは終わらない。国の中でも異なる民族や宗教の間で戦いは常に起きる」
ハクレアはむっとした。カウナやムーレイも同じようにむっとしているだろうとハクレアは二人を見た。カウナとムーレイは少しもむっとしていない。時折、ホイヘンスの話に頷いている。
「戦争は国と国が起こすのではない。人間と人間が起こすのだ。戦争を起こす人間とは王や指導者だよ。そう考えれば、戦争も治世の在り方の一つと言えなくもない」
ハクレアはホイヘンスに失望を感じていた。偉大なる大ハーンへの尊敬の念を傷付けたからだ。それでも、ホイヘンスの言葉も事実だろうとハクレアは認めた。そう認められる自分に気付いた。ハクレアも多くの国々を通り、様々な人々の暮らしを見てきた。ハクレア自身も様々な考え方が出来るようになっている。
一方、ホイヘンスの言葉にパールは強い違和感を覚えていた。ホイヘンスの言い方だと、治世によっては戦争も必然だと言っているように聞こえる。戦争を必然とする治世について、ホイヘンスは否定していない。
「今も戦争によって多くの人々が死んでいます。こうした悲劇をなくせないのでしょうか?」ずっと黙っていたパールが急に話し始めた。
皆がパールへ振り向くと、パールはすっくと立っている。沈みゆく陽射しを受けたパールの瞳は、ホイヘンスをじっと見つめている。
やっと議論に加わってくれたか、ホイヘンスは安堵した。古の一族のシャーマンと言葉を交わす時間はもう残り少ない。だから、伝えるべきことは今の内に伝えておかなければならない。
「これまで戦いの無かった時代はない。戦いは人間の本質だよ」ホイヘンスはゆっくりと言った。夕陽を受けて輝くパールの瞳にホイヘンスは妙に胸が高まった。
「父親が隣の家の父親と争えば喧嘩で済むが、王が隣の王と争えば国と国の戦争になる。もちろん、王も戦争の愚かさや悲しみには気付いている。それでも戦争を起こす。多くの人々は、自分の意志に係わらず戦争に巻き込まれてしまう」
「今は西方と東方で大きな戦争が続いています。このような世界は異常ではないですか?」
「歴史を見れば人間は常に戦争を起こしてきた。そうした観点から見れば、平和な世界こそ異常かもしれないよ」
「でも、それは間違っています」
ようやくそう言ってくれた、これでもう少し踏み込んだ話が出来る。ホイヘンスの身体は傷に痛み喘いでいたが、心はわくわくしている。
「それは当事者としての意見かな?」ホイヘンスがわざと冷たくパールに聞き返した。
パールがはっと息を飲むのがカウナたちにも聞こえた。ホイヘンスの言う当事者とは、永遠の命を司るシャーマンという意味だ。
ローマ教皇は永遠の命を求めて十字軍をエルサレムへ派遣した。ローマ教皇は、大ハーンへ西方への遠征を促した。西方と東方で起きている大きな戦争にパール本人はまったく関与していない。それでも、当事者であるのに間違いはない。ここにいる誰もがそれを知っている。
「私は君を責めるつもりはない。自らが望んでシャーマンになったのではないだろうからね。そうはいっても、古の一族のシャーマンである以上は責任を持たねばならない」
ホイヘンスの言葉は、いつの間にかパール個人に向けられている。
「永遠の命はそれにふさわしい者に与えなければならない、そう考えれば考える程に、きっと君は悩むだろう。しかし、君が悩むことではない。優れた王も道を間違える。止むにやまれず戦いの道を選ばねばならない時もある。人々が王に戦争を求める場合さえある。人々の声に応えなければ、どんなに優秀な王であっても腰向け呼ばわりされ、玉座から瞬く間に引きずり降ろされる」
パールは首を傾げた。人々から戦争を求めるなんて本当にあるのだろうか。
ホイヘンスはなおも続けた。「君が気を付けなければならないのは、永遠の命を与えなければいけないのだと自分を追い詰めることだ。いいかね、人間の歴史は戦争の歴史だ。永遠の命があってもなくても人は戦い続ける。戦争を止める、戦争を起こさせない、そんな目的で永遠の命を施してはいけない。それで人々の平和が守られると思うのは筋違いだ。それは思い上がりというものだよ」
パールはひどく驚いた。ホイヘンスは古の一族の使命を知っている?どうしてだろう、いや、知っているはずがない。それとも、私と話している間に知り得たのだろうか、推測したのだろうか。古の一族は永遠の命を守ってきた。古の一族のシャーマンが永遠の命を司ってきた。それは、世界を平和へ導く者、人々に幸せを与える者、そうした選ばれた者に永遠の命を与えるためだ。
パールはそれとなく周りを見た。今のホイヘンスの言葉の裏にある、古の一族が存在する理由はまだ誰にも分からないだろう。いや、そう簡単に分かってもらっては困る。それにしてもすごい、パールはホイヘンスの洞察力に反感しつつも感心していた。パールはホイヘンスの話をもっと聞きたくなった。同時に、自分を苦しめている古の一族の秘密や、自分の心の中に芽生えた疑問をホイヘンスに聞いてもらいたいと思った。
話し過ぎて疲れたのか、ホイヘンスは再び横たわって目を閉じた。大丈夫だろうか、メルはそう思ってホイヘンスに近付いた。メルの気配に気付いたホイヘンスが目を開けた。
「私は、ここにいる君たちがどう変わるのか見届けたくなったよ」
カウナや実篤は眉をひそめた。「何が変わると言うのか?」カウナが聞き返した。
ホイヘンスは何かを懐かしむようにふっと笑った。
「人間の本質は闘争だけではない、闘争とはまったく異なる本質もある。他人への思いやり、慈しみ、助け合う心、目的を成し遂げようと一緒に困難に立ち向かう勇気だ。そうした本質は、生まれや宗教、価値観や慣習が異なっても発揮される。いずれ、君たち自身がそうした本質に気付いて変わるのか、それともそうでないのか。まあ、私としては気付いて欲しいと願っている。そうなる時を是非とも見てみたい」
カウナも実篤も困惑していた。二人ともホイヘンスの言葉を素直に受け入れられない。モンゴル人も日本人も成り行きで出会い、パールの無理強いで今は一緒に行動しているだけに過ぎない。ましてや、昨夜は菊千代がジョシェを誤って殺した。ホイヘンスの言うような思いやりや助け合う心など芽生えるはずがない。
モンゴル人と日本人の間が妙に気まずい雰囲気となったのにホイヘンスも気付いた。それを当然と思いつつ、残念に思った。やはりお互いにわだかまりはある。昨晩の同士討ちの件もある。所詮は理解し合えるものではないのかもしれない。
ふと、わらびと茶々が顔を見合わせた。二人には何かが聞こえている。他の者もその音に気付き始めた。複数の蹄が勢いよく大地を叩きながら近付いてくる音だ。
カウナ、実篤がすぐさま立ち上がった。ムーレイも立ち上がり、少し高くなった丘へ走った。ムーレイは蹄の音がする方角に目と耳を凝らした。その様子をハクレアたちが心配そうに見ている。
ムーレイは叫んだ。「ゲンツェイたちの馬に間違いありません」
見張りに出ていたゲンツェイと小栗、菊千代の馬が戻ってきた。水をしっかりと飲み、十分に休んでいた馬たちが驚き騒めいた
「たくさんの馬が駆けてくる土煙が南の方角に見えました、追手だと思います」ゲンツェイがカウナへ報告した。
「どのくらいの数だ?」
ゲンツェイは首を振った。「分かりません、しかし、多いです」
カウナはモカへ振り向いた。「峡谷まではどれくらいだ?」
「遠くはない、すぐに辿り着ける」ホイヘンスを抱き上げようと屈み込んでいたモカが答えた。やはり追ってきたか、モカは唇を噛んだ。
「本当に待ち伏せ出来るのだな?」
「かつて、その峡谷で多数の十字軍部隊が少数のイスラム兵の待ち伏せを受けて全滅した」
怪我をしたホイヘンスがいるので逃げ切れない。カウナは峡谷で待ち伏せると決めた。モカとメルはホイヘンスを二輪馬車の台座へ乗せた。ホイヘンスがずり落ちないよう、ホイヘンスの身体は縄で台座の装飾部分の突起へ括り付けた。括り付けると、メルはホイヘンスの横に立って二頭の馬の手綱を両手にしっかりと握った。
モカは自分の馬に跨り、メルが乗っていた馬の手綱を取った。全員が馬に跨った。
「先頭を走ってくれ、峡谷までの道案内は任せる」カウナがモカに叫んだ。
やあっ、はあっ、皆がいっせいに馬の横腹を両足で叩き、馬を駆け出させた。水を飲み、十分に休んだ馬は勢いよく走り出した。




