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厄災のユーラシア  作者: もとふ みき
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第一章 一二一九年、晩春 サフリム(其の五)

第一章 一二一九年、晩春 サフリム(其の五)


 半月後、ブハラへ向かっていた偵察隊が戻ってきた。

 サフリムからブハラまでは、職人や商人を含めた騎馬軍勢の速さだと十日程度で辿り着けると分かった。その日の夕方、大ハーンは騎馬軍勢の出発を二日後の朝と発令した。各部隊は出発の準備にさっそく取り掛かった。

 サフリムに残る二百人の騎馬兵は、それぞれが所属する部隊からすでに除籍されていた。二百人は騎馬兵の野営地から離れた場所に天幕を張り、そこで暮らし始めていた。

 サフリムに残る騎馬兵の中に知っている者がいないか、ゲンツェイは探してみた。名前は知らないが、顔に見覚えがある騎馬兵は何人かいた。どうやらゲンツェイが一番年下のようだった。

 知らない騎馬兵たちと一緒になり、しかも一番年下とは最悪の事態だ。一番年下は雑用でも何でも容赦なくこき使われる。それを知っているゲンツェイは憂鬱になっていた。

 サフリムには鍛冶や陶器、染物、織物の職人も一家族ずつ残った。占領した都市や町であればいざ知らず、こうした辺境の地に職人を置くのは極めて異例だ。この地を第二のモンゴルとして発展させたいという、大ハーンの強い意志の表れだとゲンツェイたちは受け止めた。

 ゲンツェイは、サフリムに残る鍛冶職人が気になっていた。誰が残るのだろうか。オルリとハクレアに残って欲しいが、オルリは西方の生まれ故郷をもう一度見たいと遠征に参加している。だから、見込みは薄かった。オリルに会って確かめたかったが、年上の騎馬兵に次から次へと仕事を任されて職人の宿営地へずっと行けなかった。

 翌日の午後、ゲンツェイは年上の騎馬兵から任された仕事を早々に終わらせ、逃げるように職人の宿営地へ向かった。多くの職人は、明日の出発のために家財道具を整理していた。

 ゲンツェイはオルリの天幕に行った。オルリは座って騎馬兵の剣を丹念に研いでいる。近くにはまだ研いでいない剣が八本ほど置いてある。

 ゲンツェイは辺りを見回したがハクレアの姿はない。天幕の奥を見ると、家財道具を片付けている様子もない。

「オルリさん、こんにちは」

 オルリは剣を研ぐ手を止めて顔を上げた。「やあ、ゲンツェイか。ハクレアなら遊びに行っているよ。お前さんは居残り組だそうだな」

「はい、命令です。馬や羊を増やすのだそうです」そう言いながらゲンツェイは妙な気持ちになった。馬や羊を増やせとは、やはりどう考えても騎馬兵に対する命令とは思えない。

「ところで、あの、オルリさんは遠征に出発されるのですか?」

 うーん、オルリは気の無い返事を返した。オルリは目の高さまで研いでいた剣を持ち上げ、刃先を睨んで確かめている。

「ここに残るよ。キタイ隊長も、アラビア語が話せるわしやハクレアが残るのを喜んでいた」

 えっ、本当に?ゲンツェイはうれしくなった。

「また、体調が悪くなったのですか?」ゲンツェイは喜んでいるのを悟られないよう、無理に険しそうな表情でオルリに尋ねた。

「いや、身体は何ともない。残ると決めたのはハクレアのためだ」

 ゲンツェイは眉をしかめた。「どういう意味ですか?」

「ハクレアがどうしてもここに留まりたいと言っている。理由を聞くと、ここにいなければならないからとしか言わない。まあ、言い出したら何を言ってもあの子は聞かないからな」

 オルリが肩を大きくすくめた。ゲンツェイは険しそうにした表情をもっと険しくした。

「何があったのか、ゲンツェイには分かるかね?」

「分かりません」二人はしばらく黙ったままだった。

 宿営地に戻ると新たな仕事でこき使われそうなゲンツェイは、オルリを手伝ってしばらく剣を研いでいた。研ぎながら、ホラズム帝国の騎馬兵の噂話をオルリとしていた。

 そのうち、ハクレアが帰ってきた。ハクレアは両手を包むように合わせ、ゆっくりと慎重に歩いて来る。どうやら手の中に何かを持っている。

「あら、ゲンツェイ。居残り命令で子羊の世話をするらしいわね」

 あからさまな言葉にゲンツェイむっとした。「大ハーンの勅命だから仕方ないよ」

 ふうん、と頷きながら、ハクレアはオルリに包んだ両手を拡げて見せた。「ねえ、父さん。見て、かわいいでしょ」

 オルリの脇からゲンツェイもハクレアの両手の中を覗いてみた。全身が白い毛で覆われた小さな丸い動物がこそこそと動いている。生まれたての赤ん坊の拳くらいの大きさで、見た目はしっぽの無いネズミだ。頭の天辺にだけ黒茶色のまだらの毛が少し生えている。

「何だい、この小さいのは?」ゲンツェイはハクレアに尋ねた。

「しっぽは無いけどネズミの仲間みたい。おとなしくてかわいいの」ハクレアはかわいくて仕方がないというような口振りだ。

 よく見ると大きな黒い目が愛らしい。ハクレアの手の中ですっかり寛いでいる。短い前足を伸ばして顔を拭ったり毛繕いをしている。

「どこで捕まえた?」オルリが聞いた。

「湖の近くの草むら。草の中をちょこちょこ走っていてね、かわいかった。この前出会った村の女の子と一緒に捕まえたの」

 ハクレアはそう言ってオルリに顔を寄せた。「ねぇ父さん、この子を飼ってもいいでしょ?」ハクレアが甘えた声を出した。

「そりゃ、構わないが。一応、ユウグ先生に診てもらっておきなさい。伝染する病気や毒を持っていたら大変だ」

「分かった。ありがとう、父さん」ハクレアは大喜びだ。

ハクレアは一度言い出したら何を言っても聞かない。ゲンツェイはハクレアに気付かれないように溜息を付いた。

「ところで、ゲンツェイは何しに来たの?」ハクレアにあらためて聞かれてゲンツェイは慌てた。

「何でもないよ、ハクレアも残るんだってね」ゲンツェイは急いで答えた。

「そうよ、父さんにお願いしたの。それがどうかしたの?」

 ゲンツェイは返す言葉に詰まった。また一緒だね、仲良くしようね、どうしてそれくらい言ってくれないのかよ。

「何でもないよ、じゃ、オルリさん帰ります」

「ああ、お互いに頑張ろうな」

 立ち去ろうとしたゲンツェイにハクレアが近寄り、両手を差し出した。「ねえ、コハクにも挨拶していって」

「えっ?コハク?」ゲンツェイには何も分からない。

「この子の名前よ。ハクレアの大切な子、だからコハクよ」ハクレアの両手の中から愛らしい大きな黒い目がゲンツェイを見上げている。

「早く、挨拶してよ」ハクレアが急かした。

「分かったよ、またなコハク」

「ありがとう、ゲンツェイも頑張ってね」ハクレアが笑顔で答えた。

 ゲンツェイは少しだけうれしくなった。ゲンツェイは宿営地へ駆け足で戻った。

 その日の夜、コハクを手の上で遊ばせながらハクレアは考えていた。パールと初めて出会った時にすぐに分かった。私の心に呼び掛けていた声はあの子に間違いない。だから、私はサフリムに残ろうと決めた。

 一緒に行こう、声はそう言っていた。私はパールと何処に行くのだろうか、そこでいったい何をするのだろうか。

 その時のハクレアは不安よりも期待が大きかった。やがて起きる惨状など、今のハクレアに予想出来るはずもなかった。


 翌日の朝、騎馬軍勢はブハラへ向かって出発した。サフリムの広大な草原には二百人の騎馬兵と四人の職人とその家族、五百頭の馬と二千頭の羊が残された。

 ブハラへ向けて各部隊が次々と出発していく中、キタイとカウナは馬に跨り村へ向かっていた。村の長であるハシムと話し合うためだ。

 キタイもカウナもアラビア語は話せる。キタイはもともと複数の言語に堪能であり、カウナはかつて同じ諜報部隊にいたネストリウス派の騎馬兵からアラビア語を教えてもらっていた。

「副隊長に格上げは嬉しいですが、こんな辺境の地に留まるのは面白くないですよ」カウナが遠慮なく愚痴を言った。

「そう言うな、私にはお前が必要だ」キタイはカウナの愚痴などまったく気にもしていない。

 あの夜、フランソワの信じられない話が終わった後、グラトフはキタイに向かって望む物があれば自分の権限で揃えようと言ってくれた。キタイは少し考えてから、かつて一緒に戦ったカウナを残して欲しいと願い出た。今後を考えると信頼できる部下が必要だった。

 どうして自分を副隊長に選んだのか、その理由をカウナはキタイに尋ねなかった。キタイは自分を信頼してくれており、必要としている。カウナにはそれで十分だ。いずれキタイから理由を教えてくれるかもしれないし、それはその時までの楽しみに取っておけばいい。何にせよ、カウナはキタイの命令であれば何でもする覚悟は出来ている。西夏王朝の戦いで、死ぬはずだった自分の命をキタイは助けてくれた。だから、自分の命はもう自分の物ではない。カウナはそう思っていた。

 村を貫く通り道の両側に小さくて粗末な家が並んでいるのが見えてきた。モンゴル軍の騎馬兵に怯える村人に配慮して、キタイとカウナは剣を置いてきた。

「今日は私が話す。お前は黙っていろ」キタイの言葉にカウナは頷いた。

 馬に跨ったキタイとカウナが村に入っていくと、通りを歩いていた村人は足早に家に戻って扉を固く閉じた。子どもたちは家の窓や物陰から馬上のキタイとカウナを珍しそうに見ていた。

 通り道を進んでいくと、井戸のある広場に二階建ての大きな建物があった。一階の大きな扉にはモンゴルにも金王朝にも、西夏王朝にも見られなかった不思議な紋様の彫刻が施してある。

 大きな建物はこの二階建てだけだ。宗教に係わる建物か、それとも何かある時に村人はここに集まるのか。キタイはそう思って二階を見上げた。二階の屋根は細長い塔のように造られている。その塔の頂上には小窓が付いている。この建物は物見やぐらみたいだな、とカウナは思った。

 ハシムの家は物見やぐらからまだ離れていた。ほとんど村の外れに近いと言えた。長の家とは言っても、他の家と同様に貧しい造りで何の飾りもない。

 ハシムはキタイとカウナをもてなした。もてなすと言っても盛大なご馳走が出る訳ではない。盛大なご馳走などこの貧しい村ではとても望めない。ハシムのもてなしとは誠意だった。

 ハシムはキタイとカウナを家に招き入れた。泥煉瓦の壁際に囲炉裏がある居間に、簡素な机と椅子が置かれている。その奥の部屋には簡単な家具や寝床が見えている。

 ハシムの年齢は六十歳前後だろうとキタイは見た。小柄で痩せているが、背骨は曲がっていないし、足腰はしっかりしている。何よりも思考は聡明だ。この辺境の地に暮らしていても他国の情報を良く知っていた。

 聞けば、この村にも年に数回は交易商人が訪れるらしい。村に交易出来る産物はないが、交易商人はこの村で天山山脈越えの準備や天候の回復を待つのだそうだ。その交易商人に食事と寝場所を提供する替りに、ハシムは他国の情報を教えてもらっているという。

 ハシムはモンゴル軍の騎馬軍勢を知っていた。勇猛果敢な騎馬兵は強大な金王朝を打ち破り、いずれホラズム帝国へ攻めるだろう。ハシムは、交易商人からそう聞かされていたと話した。

 勇猛果敢か、物は言いようだな。キタイはそう思った。村人にしてみれば、モンゴル軍は侵略者でしかない。とは言え、ハシムにはモンゴル軍と戦う意志はない。

 フランソワが言ったように、古の一族はこの辺境の地まで逃れてきた。サフリムへ辿り着く何千年もの間、古の一族は安住の地を求め続けてきた。どれ程の迫害や屈辱を受けても古の一族は決して戦わなかった。それは、戦いによって古の一族が根絶やしになるのを防ぐためだ。

 迫害や屈辱を何千年と経てきた古の一族の長だ。誠実に振る舞っていても容易には本心を見せないだろう。キタイはそう思い直し、目の前に座る小柄な老人をじっと見つめた。

「大ハーンの勅命により我らはここに留まる。この地で馬と羊を養うためだ。モンゴルに忠誠を誓ったこの村に大ハーンは慈悲を与えられた。私たちは村人と争う気はない。村の自治も催事もモンゴルに謀反する内容でなければ一切の口出しはしない」

 ハシムはキタイを見つめ、キタイの話を黙って聞いている。

「私たちは草原に宿営地を構えた。私たちはそこで暮らす。ハシム殿から認められるまで、私たち以外の騎馬兵が村に出入りすることはない」

 ハシムも争う意志の無い考えをあらためて告げた。「モンゴルに謀反する気は微塵も無い。この村は貧しい。わしは村人の生活を良くしたい。そのためにモンゴル軍が力を貸してくれるのであれば、わしらは喜んで協力する」

 さっそく交渉か、勇気のある老人だ。キタイは内心うれしく思った。キタイは隣に座るカウナを見た。カウナは無表情を装っているが、その目からは自分と同じように考えているのが分かった。

「もちろんだ。サフリムには広大な草原がある。私たちはこの地で馬や羊を増やしていく。いずれは村人にも手伝ってもらいたい。そうすれば村の暮らしも豊かになり発展する。盗賊の襲撃といった危険があれば私たちが村を守る」

「承知した。どうか、村の発展に力を貸して欲しい」

 ハシムの言葉にキタイは満足した。過去に、キタイは制圧した町や村で指導者と名乗る者と交渉を幾度も行っていた。彼らは何よりも先に命乞いをしてきた。金でも何でも望む物を用意する、だから自分の命だけは助けてくれと懇願してきた。

 そうした姿をキタイは非難しなかったが、自らの保身しか考えていない卑屈な為政者に騙され従ってきた兵士や市民が哀れで仕方なかった。

 ハシムはそのような弱音や泣き言はまったく言わなかった。さらに、キタイも含めた騎馬兵に対して、村や村人への不要な介入を止めるようにあらためて要請してきた。

「モンゴルに忠誠は尽くす。だが、わしらはモンゴルの奴隷にはならない。村には守るべき伝統もある。そこにはモンゴルも立ち入れない。それは承知していただきたい」これが、その日の別れ際にハシムが言った言葉だ。

 キタイも古の一族という特異な立場は理解しているつもりだった。それでも、これ程まで頑なに村や村人への介入をハシムが拒むのは意外だった。

 守るべき伝統とは始祖の玉だろうか、キタイはそう考えもした。サフリムに残った騎馬兵で始祖の玉の説明を聞いているのはキタイだけだ。キタイはカウナにもまだ話していない。いや、まだ話せる時期ではない。

 あの夜、フランソワは説明してくれた。「始祖の玉が最後に使われた時、それがいつなのか分かりません。ですが、古の一族の代々のシャーマンにその奇跡の御業は必ず伝承されているはずです」

 そう話した後、ローマ教皇のために始祖の玉を見つけ出すのが私の使命ですし、本当にあるのなら私自身も見てみたい、とフランソワは言っていた。

 今や、キタイの使命も同じだ。サフリムに始祖の玉があるかどうかを確かめなければならない。もしあるのなら、何としても確保しなければならない。大ハーンは六十五歳になろうとしている。その年齢と現在の体調を考えれば、今すぐにでも始祖の玉は必要だ。

 偉大なる大ハーンは一つの事を除いて望む物をすべて手に入れてきた。おそらく、それはローマ教皇も同じだろう。絶大な権力を持つローマ教皇も、一つの事を除いて望む物はすべて手に入れてきているはずだ。

 大ハーンもローマ教皇もまだ手に入れていない一つの事、望んで止まない一つの事。それこそが始祖の玉、永遠の命だ。

 

 キタイとカウナが帰った後、ハシムは居間にある粗末な椅子に座りあれこれと考えていた。モンゴル軍がホラズム帝国に侵攻するならば、その進路上にあるサフリムを通るのは仕方ない。それなのに、モンゴル軍は二百人の騎馬兵を残した。

 サフリムに広がる草原で馬や羊を増やし、騎馬軍勢の補給拠点にしたいという説明はハシムにも理解出来る。それならば村に協力を求める必要はない。モンゴル軍の騎馬兵が草原で馬や羊の世話を勝手にすればいいだけの話だ。

 ところが、あの隊長は村の伝統や催事についてあれこれと質問して探りを入れてきた。あの隊長はわしらが古の一族だと知っている。そう思って間違いはないだろう。

 そうなると、次には永遠の命を司るシャーマンを捜そうとする。シャーマンがいなければ始祖の玉を見つけても永遠の命は施せない。

 あの隊長は、いずれ村人にもあれこれと聞き出そうとするだろう。村人にはモンゴル軍の騎馬兵に何を尋ねられても知らない、分からない、と答えるように言い聞かせておかねばならない。

 ハシムは湖の岸辺にある祠での儀式をどうするか考えた。ハシムは、パールが以前見たという像が気になっていた。数えきれない馬と羊の群れ、騎馬兵、異国の若い男女、村人の笑顔、燃える家々、殺された村人たち。村人とモンゴル軍の騎馬兵が今後どう係わっていくのか、本音を言えば、今こそ儀式を行い、今は存在しない者たちに教えを乞いたかった。

 けれども、今は駄目だ。騎馬兵の宿営地は祠のある場所から離れている。それでも今は儀式を行わないのがいい。万が一でも、儀式の様子を騎馬兵の誰かが見るかもしれない。

「騎馬兵はどうだった?」家の裏の扉が開いて孫娘の声が聞こえた。

 キタイとカウナが村から離れたのを確かめてパールが帰ってきた。パールの服装は村の娘たちと変わらない軽易な服装だ。シャーマンだと気付かれないよう、パールにはシャーマンの純白の服を着させていない。

 ハシムは、キタイやカウナにパールを会わせるつもりはない。それは、孫娘がシャーマンだからという理由だけではない。モンゴル軍が来てから、どの家の娘も身を守るために隠れていた。

扉を閉めたパールにハシムは答えた。「隊長と副隊長が来たよ。賢そうな隊長だ。副隊長はずっと黙っておった。二人とも揉め事を起こすような感じではなかったよ」

「そう、良かった」パールは安堵した。

 パールはモンゴルの娘の話をしようかどうしようか迷っていた。ハクレアと出会ってからもう何日も経っている。今日も会った。ハシムにはまだ言っていない。言えば怒られるかもしれない。でも、ずっと黙っている訳にはいかない。あの子の声は草原で聞こえた異国の者の声に似ている。

「ハシム、私ね、モンゴルの女の子と知り合いになったんだよ」

 ハシムは驚いて顔を上げた。「それはいつからだ、相手は一人だけなのか?」

「うん、何日も前から、その女の子だけ」

「最初は何処で出会った?」

「湖の近くの草原で」

「その子は何をしていた?まさか祠で?」ハシムは心配そうに聞いた。

「違う、祠のある場所じゃない」

「女の子に何か聞かれていないか?」

「ううん、その子はハクレアって名前なの。モンゴルの子なのに私たちと同じ言葉を話すの。顔立ちも同じだよ。今日は一緒に尾なしネズミを捕まえて楽しかった」パールはうれしそう話した。

 パールは嘘を言わない。モンゴルの女の子とも、どうやら偶然に出会っただけのようだ。ハシムは少し安心した。同時に、こうして明るく無邪気な孫娘に、ハシムはいつものように戸惑った。

 パールは、対話で過去の災害や疫病、戦争の像を観る時もある。それらの像を見た後のパールの様子や話から、ハシムでさえたじろぐような悲惨な像を観たのだと分かる。それなのに、パールはこうして無邪気な時がある。人々の不幸など何も知らないように無邪気なままでいる時がある。

 いや、この無邪気さこそがパールの心を支えているのかもしれない。そうでなくては、とっくにパールの心は対話で観る像に怯え、立ち竦み、押し潰されていただろう。

「そうか、その子とは仲良くなれそうか?」ハシムは優しく聞いた。

 てっきり怒られると思っていたパールは、祖父の穏やかな表情に安心した。やはり、話して良かったと思った。「うん。あのね、ハクレアは前から知っていたような気がするの」

 ハシムはまた驚いた。「まさか、対話で知っていたのか?」ハシムはパールを心配させないようにゆっくりと尋ねた。

「ちょっと違う。草原を歩いていると異国の声が時々呼び掛けてくるって話したでしょ。その声にハクレアの声がとても似ているの」

 ハシムは考えた。古の一族以外でも不思議な能力を持つ子どもは生まれると聞いている。しかし、草原で呼び掛けてきた声と似ているというだけでは、ハクレアという娘が不思議な能力を持つのかどうかは判断出来ない。

「そうか、その子に会えて良かったな」ハシムの言葉にパールは嬉しそうに頷いた。

 心配する程ではない、ハシムはそう思った。それでも、パールを甘やかしては駄目だ。パールが古の一族のシャーマンとしての自覚と責任を忘れないように諭すのが長である自分の務めだ。

「だがな、そのモンゴルの女の子に心を許しては駄目だ。わしらは古の父に選ばれた誇り高い古の一族だ。お前は古の一族のシャーマンだ。それをいつも忘れてはいけない」穏やかに話していたハシムは、一転してパールに厳しく言った。

 パールは俯いて小さく頷いた。さっきまでの無邪気な笑顔は消えてしまった。

 パールの姿にハシムの心は痛んだ。長の務めと言っても、パールはたった一人のかわいい孫娘だ。村では自分以外に身寄りはなく、村人からは忌み嫌われている。パールを守れるのは祖父の自分だけだ。それなのにこうしてパールに辛く当たらなければならない。

 

 村を離れた後、キタイはカウナと別れた。カウナは先に宿営地へ戻っていった。キタイは馬から降り、手綱を持ってのんびりと草原を歩いていた。

 始祖の玉が村にあるかどうか、今すぐには分からない。大ハーンが村に慈悲を与えた以上、強制的に村の家々を捜索したり、村人を拷問したりは出来ない。大ハーンの年齢を考えれば急がねばならないが、始祖の玉を見つけるにはまだ時間が掛からざるを得ない。

 それからしばらく、キタイは馬や羊の飼育や繁殖について考えながら草原を歩いていた。数年を超えるだろう西方への侵攻に当たり、モンゴルとの間に補給拠点を設けるのは良い考えだ。東方と西方を隔てる天山山脈の麓にあるサフリムは、その補給拠点としては申し分のない位置にある。

 この半月、キタイはカウナと共にサフリム周辺を馬で走り周っていた。広大な草原が何処までも拡がっているのを確かめた。モンゴルとは植生が違うものの、馬や羊が好んで食べそうな草種がずっと続いていた。

 大ハーンの命令書には、この地を補給拠点として整備し、やがて村人にも馬や羊の世話を覚えさせて第二のモンゴルにせよと記されてあった。

 草原を走り周っている間、キタイには少し違う考えが芽生えていた。それは大ハーンの命令に背くものではないが、命令を確実に守るものでもない。

 キタイの考えは、西方のイスラム諸国との距離が近いサフリムに産業基盤を築き、モンゴル以上に交易で発展させようというものだ。こうした考えは、多くの遠征により様々な異国の都市の産業を見てきたからこそ思い付いた。

 それは野心と言う程のものではないかもしれない。それでも、キタイはそうした自分自身の考えに不思議な思いを抱いた。

 キタイは、大ハーンと共に殺戮と破壊の日々に明け暮れてきた。ナイマン族やタイチュート族といった強大な部族と戦い、草原の諸部族を統一した。その後は草原の諸部族の積年の仇敵だった金王朝を滅亡させた。西方との交易の障害だった西夏王朝とも戦った。キタイは多くの敵兵を殺し、多くの戦友を失い、勝利してきた。

 キタイの大ハーンヘの忠誠心は今でも変わらない。それでも、いつの頃からかキタイの心は疲れていた。殺戮と破壊の日々にはもう飽きていた。

 だからかもしれない、とキタイは思った。もはや先陣を切って戦いに身を捧げる年齢ではない。妻を得て、子どもを育て、落ち着いた暮らしを築きたい。血みどろの戦いはもう忘れたい。

「私の戦いは終わったのだろうか」

 夕暮れの中、南風にそよぐ草原で馬や羊がのんびりと草を食んでいる。

 草を食む母馬のお乳を飲もうとして、仔馬が母馬の乳房がある下腹部に顔を寄せて何度も突いている。母馬は仔馬が乳首を吸い易いように後ろ脚を少し開いた。

 その馬の親子の姿に、キタイはいつしか微笑んでいた。これまで経験してきた凄惨な戦いとは無縁な、それは心の底から安らげる光景だった。


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