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厄災のユーラシア  作者: もとふ みき
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第十二章 一二二〇年、晩夏 エルサレム(其の四)

第十二章 一二二〇年、晩夏 エルサレム(其の四)


 暮れてゆくエルサレム市内を歩きながら、パールは止めようのない胸騒ぎを感じている。ハクレアや茶々に出会った時以上の強さだ。先程まで感じていたエルサレムに渦巻く感情、エルサレムを覆う聖と邪の混濁を突き抜けていた。

 いったいどんな人なのだろう、パールには信じられない思いだ。同じ胸騒ぎを、ハクレアと茶々も徐々に感じ始めていた。

「わらび、胸騒ぎがする。パールに出会った時みたいな感じなの」茶々は不思議そうな表情でわらびに伝えた。けれども、わらびは何も感じていない。パールと初めて出会った時も、わらびは何も感じなかった。

「何も感じないよ」わらびの言葉に茶々は俯いた。

 太宰府では、私が感じたものをわらびも感じていた。でも、パールと出会ってから何かが変わった。私が感じるものをわらびは感じなくなった。どうしてだろう、今まで一緒だったのに、今は何かが違ってきているのかな。

 一方、先頭を歩くカウナは決断を迫られていた。いくら歩いても尾行する男を振り切れない。それに、男には仲間がいるかもしれない。下手に歩き回って、仲間のいる場所へ知らずに乗り込んでは元も子もない。そうであれば、仲間が現れる前にこちらから仕掛けるしかない。

 しかし、ここでは人が多すぎる。どうすればいいのか。カウナは尾行する男に気付かれないように再び振り返った。カウナは驚きのあまり足を止めてしまった。パールの首飾りが輝き始めている。パールも立ち止り、懐にある禁忌の玉を確かめた。玉は点滅するように緑色に輝いている。

「こんな場所で輝かせるな、どういうつもりだ?」

 カウナはパールを叱ったが、その叱責はゲンツェイや小栗の声でかき消された。カウナがさらに後ろを振り向くと、実篤の上衣の右胸辺りを透かして緑色の輝きが見えている。実篤が懐にしまっている禁忌の玉だ。パールの玉と同じように輝きは点滅している。

 周囲を歩いていた何人かが輝きに気付いて足を止めている。カウナはとっさに後方を見た。尾行している男も驚いたのか足を止めている。カウナは男と目が合ったように感じた。なぜだか、男から敵意を感じなかった。

「私について来てください、早く!」パールが言った。

「何処へ行く?」カウナが尋ねた。また振り回されるのか、カウナは不満気に尋ねた。

「玉が導いてくれます」パールはカウナを真っ直ぐ見つめて言った。その目に迷いはない。

「パールの言うとおりにして、カウナ!」ハクレアも言った。

 ハクレアも何かを感じた?カウナは後方をもう一度見た。尾行していた男は消えている。緑色の輝きに気付いた人々がカウナたちを遠巻きにして眺めている。

「分かった、シャーマンに従う。皆も聞いたな」カウナが言った。モンゴル人も日本人も頷いた。いずれにせよ、ここに留まっていては面倒なことになる。

 さあ、行こう。カウナがパールを促した。パールは頷き、狭い路地へ向かって走り出した。何がどうなっているのか、カウナにはまったく分からない。それでも、再び何かが起き始めている。シャーマンの娘の言いなりになるのは嫌だが、今は従うしかない。いや、今はシャーマンの娘が導いてくれる、ということなのか。

 カウナたちは走り続けた。何処をどう走っているのかさえ分からない。


 シルビアがいる部屋も薄暗くなってきた。窓辺から風が入ってくるが心地良い風ではない。昼間の熱気をまだ含んでいる。

 シルビアは下の通りを行き交う人々をじっと見ていた。不意にシルビアはモカを見つけた。薄暗いが、あの背格好、歩き方はモカに間違いない。シルビアは息を飲み、目を大きく開けた。駄目だよモカ、どうしてあんたは来るのさ。

 シルビアは足が震えているのに気付いた。どうしよう、このままだとモカは捕まってしまう。そうなればルルクウの身も危ない。シルビアは窓辺から思わず身を乗り出した。「モカ、あんたは待ち伏せされている。ルルクウが危ないんだよ」

 モカは驚いて三階を見上げている。

「この女、余計な真似をしやがって」見張りの男が近寄りシルビアの腕を掴んで振り向かせた。シルビアは男の顔を思い切り引っ叩き、股間を右膝で蹴り上げた。男は痛さに腰を屈めたが、すぐに立ち上がって剣を抜いた。

「早く逃げなっ、オーギュストはルルクウを狙ってるよ」シルビアは再び叫んだ。男の剣がシルビアの背中に斬り込まれた。シルビアは悲鳴を上げて室内に崩れ落ちた。

「シルビア!」とっさに叫んだモカだったが、素早く周囲を見渡した。しまった、これでは自分から名乗ったようなものだ。

 何事かと驚いている人々が騎士の館の三階を見上げている。同時に、モカをじっと見ている男たちがいる。男たちは剣を抜いてモカにゆっくりと近付いた。周囲にいた人々は剣に気付いて慌てて逃げ出した。

 相手は八人か、モカは剣を抜いてすっと上段に構えた。離れた場所にいるメルが気付いてくれるまで時間を稼がないといけない。こいつらはさっきまで俺の顔を知らなかった、それならメルの顔も知らないはずだ。

「オーギュストがいれば話がしたい」モカは大声で言った。モカを取り囲んだ男たちは互いの顔を見合わせている。

「私がオーギュストだ。お前は私と何を話したいのか?」掠れたような低い声が聞こえる。

 よし、引っ掛かった。身体の向きを変えず、モカは低い声が聞こえてきた右横をさっと見た。背の高い痩せた男がいる。薄暗くて顔は良く分からないが、その男だけは剣を抜いていない。

「緑色に輝く玉が欲しいそうだな、なぜだ?」モカはいきなり核心の話を始めた。なぜ俺を襲う?いったい何が目的だ?こいつらはそんな世間話に付き合う連中じゃない。

 背の高い男は何も返事をしない。返事をしないのは図星だからなのか。他の連中は背の高い男に遠慮しているのか、じっとしたままだ。

 モカはもう一つ引っ掛けようと考えた。「お前の欲しがっていた玉はイスラムの寺院に返した。もともと彼らの物だからな。まさか、セザールから聞いていないのか?」

 オーギュストが反応した。「返しただと?馬鹿な、それは本当か?」掠れた低い声が驚いている。

 これで決まりだな。こいつらがティムたちを殺した、俺とルルクウの店を燃やした。とは言え、メルが来てくれないと一人だけでは動きが取れない。

 メルの馬鹿野郎、さっさと早く気付けよ。


 人通りの邪魔にならないように道端に佇んでいたメルも異変に気付いた。騎士の館の方角から女の悲鳴が聞こえた。その直後から人々が慌てたように走って逃げてくる。騎士の館からは窓が割れる音などしないし、火の手も上がっていない。それでもモカは暴れ始めたのだろうか、いくらなんでも早過ぎる。

 ともかく様子を見に行こう、メルは走り出した。逃げてくる人々を押し除けながら、メルは騎士の館へ急いだ。人々の波がふっと消え、目の前には剣を上段に構えるモカがいる。剣を手にした男にモカは取り囲まれている。その真っただ中に勢い余ってメルは入り込んでしまった。思わずメルは悪態を付いた。くそっ、まったくモカも含めて血の気の多い奴らばかりだ。

 騎士の館からも新たに九人の男が出てきた。六人もすでに剣を手に持っている。がっしりとした体格の奴ばかりだ。剣の構えを見ても腕が立つ連中だと分かる。

 メルは相手の数を数え、すぐに後悔した。相手は十七人、十七対二では勝てる訳がない。この場からモカと自分が逃げられるよう、男たちを混乱させるように何か仕向けなければいけない。

「遅れてすまない、他の仲間もすぐにやって来る」メルは剣を抜きながら大声で叫んだ。

 メルの登場とメルの言葉に、男たちは慌てて周囲を見回している。メルが言った仲間が来るのを警戒しているのは間違いない。

 そこへ、さっきまで逃げていた人々の波が戻り始めていた。争いの話を聞きつけて見物しようと集まってきた野次馬だ。早く始めろ、警備兵はまだ来やしない、俺たちが見届けてやるぜ、野次馬の連中は騒ぎ始めている。

 野次馬が集まるのはメルにとって好都合だ。野次馬の中から、メルの言う仲間がいつ飛び出して来るかも分からない。そうなると十四人は野次馬にも注意し続けなければならない。

 少しは頭を使える奴だな、モカはメルの機転に感心した。さて、これからどうするか、誰も斬り掛かってこないのは俺を生け捕りにしたいからだろう。それならば、こちらから暴れてやるか。せめてシルビアの分は暴れてやる。

 突然、モカはオーギュストの右にいる男に斬りかかった。上段の構えから一気に間合いを詰めて剣を振り下ろした。右、左と素早く剣を振り降ろし、モカは男を攻め続けた。剣と剣が激しくぶつかり、擦れ合った。男はモカの剣を受け止めるだけだ。オーギュストの方をちらちらと見ている。やはり、俺を殺すなと言われている。

 斬り込むモカを見てメルは呆れていた。ああもう始めちゃったよ、メルは背中が無防備になっているモカの後ろへ素早く移動し、他の連中を牽制した。

「ここで始めるなんて、気でも狂ったのか?」メルが怒鳴った。

「とっくに知っていると思っていたがな」モカは冷たく答えた。


 エッケホモ教会からホイヘンスはルルクウを連れ出していた。教会の中はまだ騒がしい。奇跡だ、神の御心だ、などと騒ぐ声が聞こえてくる。

 ホイヘンスたちは通りの人込みに紛れている。ルルクウは禁忌の玉を布でしっかり覆っている。これなら輝きを気付かれない。ひとまず安堵したホイヘンスはルルクウを見た。薄暗い中、ルルクウはまだ両手を組み合わせて祈りを続けている。

 禁忌の玉がどうして輝いたのか、ホイヘンスは考えた。幼かったルルクウが玉を輝かせたのは父親の死を知らされた時だとモカは話していた。つまり、ルルクウの親しい者の身に何かあった時が玉の輝く時だと仮定される。では、モカの身にも何か起きたのだろうか。ホイヘンスは騎士の館のある方角を見た。なぜだか、多くの人々が逃げるようにこちらへ走って来る。

 ホイヘンスは走って来る一人の男に尋ねた。「何かあったのですか?」

「ヨーロッパ系の連中が剣を持って睨み合っている。まったく、何を考えているんだかな」男はそう言って足早に去っていった。

 どうやら、ルルクウが心配しているとおりの展開になっている。ホイヘンスは躊躇していた。剣の扱いも知らない老人が加勢に行っても何の助けにもならない。モカとメルの足を引っ張るだけだ。それに、玉を持つルルクウを一人にする訳にはいかない。

 ここは、モカが言っていたとおり、先に宿泊所へ戻るしかない。宿泊所へ戻ろう、ホイヘンスはルルクウにそう言おうとした。けれども、心配そうなルルクウの横顔を見ると言えなかった。

 ルルクウは祈り続けていた。どうかモカを守ってください、祈りが届くように布で包んだ玉に触れた。輝きが漏れないようにそっと触れた。すると、心の中に若い女の声が響いた。そっちに向かっているから、あと少し待っていて。

 ルルクウは驚いた。何、今の声は何なの?ルルクウは辺りをきょろきょろと見回した。ホイヘンスもルルクウの様子に気付いた。「どうしたのかね?」

「分からない、分からないけど誰かが来る」ルルクウが小さく答えた。

 誰かが来る、ホイヘンスは緊張した。「まさか、悪魔かね?」

 ルルクウは首を横に振った。「違う、でも誰だか分からない」

 

 あと少し、あと少しで会える。パールは走り続けていた。すでに息が苦しくなっている。スカートの裾が脚にまとわりついて走り辛い。でも、あと少しだと禁忌の玉が教えてくれている。次の角を曲がった先に彼女がいる。

 パールが感じている想いはハクレアと茶々にも伝わっていた。ハクレアはカウナに、茶々は実篤に教えた。あと少しで会えるから。

「会える?誰に会う?」カウナがハクレアに尋ねた。

 ハクレアは首を横に振った。「私には分からない」

 

 モカとメルは背中合わせになり十五人と対峙していた。道端にはすでに二人倒れている。その内の一人はまだ苦しそうに呻いている。先程までは近寄っていた野次馬も今は遠巻きに見ている。モカが派手に剣を振り回して二人倒したから、巻き添えにならないように下がっている。

「イスラム寺院に返したなど嘘だ」オーギュストがモカに呼び掛けた。

 モカは呼び掛けを無視した。この背の高い奴は二人も斬られたのに冷静なままだ。剣を抜こうともしない。きっとこいつは手強い、他の連中はメルに任せて俺はこいつに集中するしかないかもな。ただし、メルがどれだけ持ちこたえられるかは分からない。

「どうして玉が欲しい?」

「お前が知る必要はない」

「俺は知っているぜ、ローマ教皇のお望みだろ?」モカは大声で言った。

 この一言は効いた。オーギュストが息を大きく吸った。モカにはオーギュストが動揺しているのが分かった。では、もう少し畳み掛けるか。

「図星だな。言い忘れたが、俺はローマ教皇が大嫌いだ」そう言ってモカは唾をぺっと吐いた。

 取り囲む男たちの動きに注意しながらメルは呆れていた。時間稼ぎはいいけど、そんなに挑発してどうする。これでは状況がどんどんと悪くなるばかりじゃないか。

 モカの考えは違っていた。オーギュストは冷静で隙がないが、奴も人間だ。逆上させればきっと隙が生まれる。

「俺はお前たち騎士も大嫌いだ。お前らは女と子どもをいじめることしか出来ない臆病者だ」そう言いながらモカはオーギュストに突然斬り込んだ。不意を突いたつもりだったが、オーギュストはモカの動きを予想していた。オーギュストは大きな身体に似合わずさっと剣を躱した。

「お前が伯爵などと笑わせるな。金で買われた傭兵崩れに違いない。きっと、金のためならお前は母親でも父親でも殺すさ」モカは吐き捨てるように言った。

 オーギュストはしばらくモカを見つめていた。やがて、ゆっくりと剣を抜いて構えた。オーギュストの気配が途端に変わった。

「この二人は殺せ、どうせ仲間など来ない」オーギュストは男たちに言った。今までと同じ掠れた低い声だが、ぞっとするような殺意が溢れている。

 モカは剣を持つ両手にぐっと力を込めた。そうとなれば何人でもぶった斬ってやる。背中合わせのメルはモカの殺気を強く感じた。

 辺りはすっかり暗くなってきた。男たちはじりじりと間合いを詰め始めているが、いっせいに攻めては来ない。この暗さだから同士討ちを心配しているのだろう。それでも、形勢はモカとメルに圧倒的に不利だ。


 角を曲がり、パールはやっと娘を見つけた。息が切れて咳が出る。まだ声が上手く出せない。でも、すぐに話さないといけない。

 驚く娘にパールは呼び掛けた。「こ、これをあなたも持っているはず!」

 パールは懐から禁忌の玉を取り出した。玉はもう点滅していない。一定の輝きを保っている。

 カウナは舌打ちした。こんな場所で玉を見せるなど何を考えている、周囲の人々に騒がれるとまずい。女たちの周りに立って見えないようにしろ、カウナはゲンツェイやジョシェに命じた。

 実篤もここで玉を取り出したパールに驚いた。カウナと同じように、パールたちを囲むように小栗と菊千代に命じた。


 突然に現れた白い服の娘にルルクウは驚いた。娘の首飾りの翡翠の小さな玉が緑色に薄く輝いている。娘は懐から緑色に輝く玉を取り出した。「こ、これをあなたも持っているはず!」

 娘の言葉にルルクウも懐から玉を取り出した。娘の玉と同じく、もう点滅はしていない。一定の輝きを保っている。

「あなたも持っているの、どうして?」ルルクウは娘に尋ね返した。

 カウナや実篤たちが作った壁の内側で女たちは玉を見せ合った。パール、ルルクウ、茶々の持つ玉が輝いている。私はルルクウ、私はパール、私は茶々。三人は一瞬でお互いを理解した。ハクレアにもその交信は伝わった。やがて、玉の輝きは消えていった。

 ホイヘンスは言葉が出ない。突然に現れた男女に取り囲まれ、白い服の娘と小さな女の子は緑色に輝く玉をそれぞれ持っている。彼らは何者なのか?暗がりの中であっても、彼らの多くがヨーロッパ系の顔立ちではないのはホイヘンスにも分かった。

「君たちは誰だ?」ホイヘンスがカウナに話し掛けた。今は言えない、そう言おうとしたカウナをルルクウが遮った。

「お願い、モカを助けて」ルルクウは像で見た状況を話した。

 パールはカウナへ振り返った。「この人の仲間を助けてください」

 カウナは怒鳴りそうになるのを何とか抑えた。このシャーマンの娘は正気なのか?いきなり会った見ず知らずの娘の仲間を助けろだと?ふざけるのもいい加減にしろ。

「カウナ、この状況は私たちが助けてもらった時と似ている」後ろから実篤の声がした。カウナは後ろを振り向いて実篤を睨んだ。「お前はこいつらが敵ではないと言い切れるのか?」

「パールが助けてやってくれと言ったではないか?」

「パールは味方だと一言も言っていない。それに、お前たちと同じ状況だとしたら悪魔がいる。下手をすればこちらは全滅するぞ」

 実篤は黙った。確かにカウナの言うとおりだ。

「カウナ、この人たちは味方です。それに悪魔はいません。お願いだから助けてあげて」パールはカウナに頼んだ。カウナはパールを見ようともしない。

「あなたは私を信用していない、それは分かっています。ですが、今は信じてください」パールはカウナに詰め寄った。

 カウナは振り向いてムーレイ、ジョシェ、ゲンツェイを見た。暗がりの中、三人は頷いている。カウナは苛立たしく溜息を付いた。くそっ、みんながシャーマンの娘に振り回されている。

「それで、助ける奴は何処にいる?」カウナはパールを睨んだ。

 ホイヘンスが割って入った。「私が案内しよう。仲間が二人いる。だが、ルルクウは残していく。誰かが残って守っていてくれ」

 カウナは即座に考えた。助けなきゃいけない奴は二人、二人の所まではこの爺さんが案内してくれる、パールたちの護衛に何人かはここに残さなきゃいけない。

「ムーレイ、ハクレアは残れ。パールと子ども二人もだ。後の全員は爺さんについて行くぞ」そう言ってカウナはホイヘンスと走り出した。ジョシェとゲンツェイも後を追った。

「小栗は残れ」実篤が言った。

「なぜですか?」小栗は聞き返した。小栗は皆と一緒に行くつもりだった。

「子ども二人を残せというのが気に入らない。私たち三人が死んだら、茶々とわらびは誰が日本へ連れて帰る?」実篤は日本語で言い捨て、菊千代と駆け出した。

「気を付けて、実篤」わらびと茶々が日本語で叫んだ。

 

 モカはまた二人斬り倒していた。これで四人目だ。背後でモカがふっと動いた途端に誰かが斬られている。メルは不思議に思った。いつもはだらだらと過ごしている奴なのに、どうして戦いになるとこんなに機敏になれるのか。

 メルはモカの援護に専念していた。斬り込む瞬間、モカの背後は無防備になる。そこに付け入れさせないように三方を威嚇していた。

 周りを取り囲む連中も手練れのモカを恐れて斬り込んでこない。しかし、同士討ち覚悟でいっせいに斬り込まれたら、こちらは一溜りもなくやられる。

「仲間が来ると言ったな、いつ来る?」オーギュストがせせら笑った。

 そろそろ潮時だな、モカは取り囲む連中の中で逃げ出せそうな隙間を暗がりの中で捜している。けれども、突破出来そうな隙間はなかなか見当たらない。

 その時、周りを囲む野次馬の一角が騒がしくなった。そこをどけ、道を開けろ、怒鳴り合いが聞こえてきた。イスラムの警備兵が駆けつけたのか?それはそれでまずい。モカとメルは背中合わせのまま騒がしくなっている方角を横目でちらと見た。

 オーギュストたちも騒ぎの方角を見ている。オーギュストたちにしても、イスラムの警備兵の厄介にはなりたくない。

「モカ!メル!」突然、ホイヘンスの声が騒ぎの中から聞こえた。野次馬の中からホイヘンスが現れた。ホイヘンスの背後には剣を手にした五人の男が続いている。

 モカとメルは訳が分からず驚いた。五人はイスラムの警備兵ではない。三人はイスラムの三日月剣に似た剣をそれぞれ持っている。後の二人は見慣れない細く長い剣だ。それらの剣が、周りの建物から漏れた明かりを反射して煌いている。

「モカは何処かね、仲間を連れてきたぞ」ホイヘンスが叫んだ。

「ここです、二人一緒です」メルが剣を垂直に高くかざしてくるくると左右に回した。メルの剣が瞬くように輝いている。

 まさか、本当に仲間が来たのか。オーギュストたちは動揺している。モカにはその動揺が手に取るように分かった。

「君らを囲むのはすべて敵かね?」ホイヘンスがまた叫んだ。

「そうです、すべて敵ですっ!」メルが大声で答えた。

 メルが答えたと同時に、カウナたちはオーギュストたちへ斬り込んだ。カウナが真ん中、左にジョシェ、右はゲンツェイ。今夜も三人一組だ。暗闇の戦いでは敵味方を一瞬で判断するのは無理だ。一瞬の判断の遅れが死に繋がる。三人が四方を警戒しながら一緒に動くしかない。カウナたちの突入で二人が一瞬の内に斬られて石畳に崩れ落ちた。

 実篤と菊千代も同じ方角から斬り込もうとした。ところが、連携した突入に不慣れなために、菊千代が勢いよく突出してしまった。

「菊千代、何処にいる?」菊千代だけに分かるように実篤は日本語で叫んだ。暗がりの中から菊千代の返事はない。実篤は不安を感じた。

 菊千代に実篤の声は聞こえていなかった。菊千代は戦いに急ぎ、日本刀を振り回していた。いつも馬鹿にしてくるジョシェを見返そうと功を焦っていた。

 カウナたちの突入に動揺したオーギュストたちだったが、すぐに態勢を立て直した。四、五人がカウナたちのいるであろう方角へ機敏に動いた。その内の二人は動き過ぎた。カウナたちと勘違いして、再び近寄っていた野次馬を次々に斬ってしまった。あっという間に三人の野次馬が石畳に倒れた。周りにいた野次馬は悲鳴を上げて、散り散りに走って逃げ始めた。

 辺り一帯が大混乱になる中、モカとメルはカウナたちが突入してきた方角とは反対側に斬り込みながら移動していた。二人には、いったい誰が助けてくれているのかまったく分からない。向こうもモカたちは分からない。カウナたちが突入した方角にモカたちが動けば同士討ちの恐れがある。だから、反対方向へ無理に動いてでも距離を取る必要があった。

 気が付くとモカとメルはオーギュストたちの囲みを抜け出ていた。「俺たちはここにいよう、メルも下手に動くな」モカがメルに言った。

 メルもすぐに理解し、二人はその場に留まった。助けに入った連中の三日月剣のような湾曲した剣と細長い剣を持つ者以外、横幅があり真っ直ぐな騎士の剣を持つ者が近付くと斬り倒した。

 辺りはいっそう暗くなった。互いの声を頼りに動くしかないが、声を出せば相手に居場所を知られる。オーギュストの部下たちはこうした状況に不慣れだった。思わず声を出して居場所を知られてはカウナたちに斬られていった。かといって、慌てて反対方向へ逃げて走れば、そこで待っているモカとメルに討ち取られた。

 一方、実篤は菊千代の居場所も分からず思うように動けない。下手に動くとカウナたちに斬られる恐れがある。それでも、自分が動かなくても相手が次々にやって来た。

 叫び声を上げて近付く一人目の右太腿を、実篤は下段の構えから日本刀をすくい上げるようにざっくりと斬った。男は悲鳴を上げて道に倒れ込んだ。背後から走って来る二人目に、実篤は返す刀で腹部目掛けて真っ直ぐ射した。走ってきた勢いで日本刀は男の腹部に深く刺さった。暗闇の中、男の顔がおぼろげに見える。口を開けているが、腹を裂かれた激痛に声も出せない。

 前のめりに倒れる男に日本刀を持っていかれないよう、実篤はすぐに後ろに退いた。日本刃が内臓をずたずたに斬り裂き、肋骨とぶつかりながら引き抜かれる嫌な感触が実篤の両手に伝わる。

 少し離れた場所では菊千代も戦っていた。両手で握った日本刀を槍のように水平に構え、勢いを付けて目の前に現れた大柄な男に突進した。男は小柄な菊千代に気付くのが遅れた。日本刀の切っ先が男の脇腹に刺さった。菊千代がそのまま駆け抜けると、男の脇腹に大きな切れ目ができた。冷たく焼けるような激痛に男は悲鳴を上げ、そのまま倒れた。

 菊池代は明らかに焦っていた。実篤とはぐれ、まだ一人しか倒していない。くそっ、菊千代は次に斬る相手を捜した。ジョシェよりも多く敵を倒して見返してやりたい。

 すると、菊千代の目の前を別の男が横切ろうとした。男は菊千代がいるのに気が付いていない。無防備な奴め、何て馬鹿な奴だ。菊千代は日本刀を素早く上段に構えた。

「やぁーっ!」菊千代は渾身の力を込めて、横切ろうとする男に一気に日本刀を振り下ろした。。

「待て,日本人、やめろ!」誰かの声がすぐ近くで響いた。それがゲンツェイの声だと菊千代は気付いたが、振り下ろした日本刀の勢いは止められなかった。

 日本刀は吸い込まれるようにジョシェの左首筋を斬り裂いた。斬られた首筋から血が溢れ出た。ジョシェは叫び声もなく石畳へ倒れていった。

「糞野郎、こっちはお前に気付いていたんだ。それなのにお前は分からなかったのか?」ゲンツェイが絶叫して菊千代の身体を弾き飛ばした。菊千代は石畳に倒れ込んだ。

「ゲンツェイ、周囲を警戒しろ」カウナが叫び、素早く屈んだ。カウナはジョシェを抱き起した。ジョシェの首の傷口からどくんどくんと血が溢れている。ぱくぱくと動いていたジョシェの口がすぐに動かなくなった。

 教会とは反対の方角が騒がしくなってきた。野次馬が押し除けられている。今度こそイスラムの警備兵がやって来た。

「退けっ、いつもの場所まで退くぞ」オーギュストの掠れた声が響いた。男たちは戦いを放棄し、暗闇の中へ走り去っていった。

「こちらも退くぞ、さっきの教会まで戻る」カウナが叫んだ。

 カウナは自分の声が震えているのに気付いた。ジョシェは死んだ、日本人に殺された。カウナは怒りに震えていた。カウナはジョシェをそっと寝かせ、ジョシェの剣と衣服にしまった小物を取り去った。カウナは立ち上がり、何も言わずにゲンツェイと一緒にエッケホモ教会へ走った。

 実篤も退こうとして菊千代の姿を捜した。ぽつんと座り込む菊千代を見つけた。「立て、菊千代。教会まで戻るぞ」実篤は怒鳴った。

「ジョシェを、斬ってしまいました」菊千代が呆けたように返した。

「えっ?」実篤は驚き、菊千代が見つめる男に気付いた。石畳に横たわるその男は動かない。暗闇の中でもすでに死んでいると分かった。

「本当にジョシェなのか?」実篤の問いに菊千代は俯いたままだ。

「ええい、今は退くのが先だ」実篤は菊千代の袖を引っ張り、無理やり立ち上がらせた。

 モカもエッケホモ教会まで退こうとしたが、さっきまで隣にいたメルが見当たらない。モカは周囲を見回した。通りには十一人程の男が倒れている。数人はまだかすかに呻いている。

「モカ、手伝ってくれ。先生が怪我した」メルの声が後ろから聞こえた。

 振り返ると、暗闇にメルが屈み込んでいる。モカが駆け寄ると、メルはホイヘンスの上半身を起こしている。暗くて怪我の場所は分からない。

 モカはちらっと野次馬の方角を見た。イスラムの警備兵は数人で野次馬とまだ揉めている。ホイヘンスを運ぶ時間はまだある。「先生を運ぶぞ」

 メルは頷いた。「気を付けて、左肩を斬られている」

 モカはホイヘンスの左肩にそっと触れた。血でぬめった肉の切れ目から、折れた鎖骨が飛び出ている。モカの指先が当たった痛さに、ホイヘンスが思わず呻いて咳き込んだ。

「連中にやられたのか、先生?」モカが尋ねた。

「オーギュストを捕まえようと後ろから近付いたが、気付かれた」ホイヘンスは苦しそうに答えた。

「馬鹿な真似を、いや、すまないな、先生」モカが謝った。

 モカは足首から短剣を取り出して素早く立ち上がった。近くに倒れている男の服を大きく切り取った。切り取った布をホイヘンスの左肩にぐるぐると巻き結んで止血した。

「俺の背中に先生を背負わせてくれ」メルはホイヘンスを抱き起してモカの背中に預けた。モカとメルはルルクウが待つエッケホモ教会へ向かって走った。


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