第十一章 一二二〇年、夏 トリポリ(其の二)
第十一章 一二二〇年、夏 トリポリ(其の二)
今日は来ませんよ、とルルクウがホイヘンスに話していた頃、モカは一人で佇んでいた。地中海の初夏の陽射しも部屋の中までは入ってこない。今日は窓から吹き込む風が湿気を多く含んでいる。モカは妙に蒸し暑さを感じた。エルサレムでは、こんな湿った風が吹くなど滅多にない。やはり、海が近いからだろうか。
モカは窓辺に近付き、ぼんやりと地中海を眺めた。第四次十字軍に従軍した時も海は見ているはずだ。海を見たという記憶は一つも残っていない。山や丘、川を見た記憶もない。記憶にあるのは狂気のような破壊と殺戮だけだ。
モカとルルクウがトリポリ城に暮らし始めてからずいぶんと経つ。モカがホイヘンスに協力するのは、ルルクウの不思議な能力を解明してもらいたいからでしかない。
ルルクウには他人の行く末が見える時がある。どうして見えるのか分からない。ルルクウは自分の能力に悩んでいる。自分が望んでもいない能力に怯えている。その苦しみからルルクウを解放させてやりたい、俺はルルクウにそう約束した。そのためにトリポリ伯国へやって来た。
ルルクウの不思議な能力はまだ解明されていない。一方、トリポリ城で暮らすようになってから、ルルクウには他人の行く末が見えなくなっている。これもどうしてなのか分からない。ホイヘンスがモカとルルクウに協力を求めていた始祖の玉の調査も滞っている。
まあ、いいさ。モカは気長に待とうと決めていた。エルサレムの店なら心配ない。ティムのおいしい料理を食べに、今日も店は怪しげな客で繁盛しているだろう。ムスタージとジャミトの金貸しも順調に違いない。
それに、トリポリ城の生活は思っていたよりも快適だ。シャルル大司祭は目障りたが、食事はうまいし、部屋の掃除もしてくれる。王室周辺に近寄らない限りは城の中は自由に歩ける。帯剣は許されないが、エルサレムのように襲ってくる奴はいない。
何よりも、ルルクウがトリポリ城での暮らしを気に入っている。エルサレムでは朝の目覚めさえも億劫がっていたルルクウが、ここでは朝早くから起きている。部屋の窓を大きく開け、朝の陽光にきらめく地中海を毎朝眺めている。時を告げる城内のラッパの音を心待ちにして、食事や入浴の時間を楽しそうに待っている。城内を歩けば、長く続く生垣に咲く黄色や赤色のバラの花を見て喜んでいる。儀礼服に着飾って行進する王室騎士団や、美しいドレスに身を包んで庭園を散歩する娘たちに見惚れている。
ルルクウは、今ではホイヘンスの手伝いもしている。始祖の玉や永遠の命について記録がないか、ルルクウはメルと一緒に古代ギリシャの巻物を調べている。夕方、モカが待つ部屋に帰って来ると、ルルクウはその日に調べた巻物の話をしてくれる。とても楽しそうに話してくれる。そうしたルルクウの姿を見るたび、モカは自分の愚かさを思い知らされていた。
モカは、幼いルルクウに読み書きだけは教えていた。モカ自身、読み書きが出来たおかげで助かった経験がいくつもある。ただ、それ以上の教育はモカには無理だった。教える知識もなく、誰かに頼むのも無理だった。
他に、モカに出来たことと言えば、ルルクウを守ることだった。トゥランと叔母が死んでから、ルルクウの世界は狭く限られた。父が残した店と、店がある薄汚い通りだけになった。いかがわしく、汚く、危険な通りだ。モカに出来るのは、そんな場所にルルクウが染まらないように守るだけだった。ルルクウの無邪気な笑顔を守るだけだった。
けれども、そうした想いとは裏腹に、ルルクウは笑顔を失くしていった。肉親を失った悲しさと寂しさの感情を押し殺し、固い殻に閉じこもってしまった。店の一番奥の席でモカと一緒に座り、揺れる蝋燭の炎をただ見つめていた。生きている実感など得られない毎日を意味もなく生きていた。
今までの暮らしと、今のトリポリ城での暮らしと、どちらがルルクウのような年頃の娘にとって望ましいか。それは、ルルクウの表情を見ればすぐに分かる。トリポリ城に来てから、ルルクウの表情がこんなにも豊かで、こんなにも話し好きだったのかとモカはあらためて思い知った。
モカは自分の愚かさに気付いてしまった。自分はルルクウの心を縛り、ルルクウの自由を奪っただけでしかない。モカは、これまでルルクウを苦しめていた自分の愚かさを呪い、悔やんだ。
一方で、明日を夢見て変わっていくルルクウに、モカは言いようのない寂しさを感じていた。ルルクウは新しい世界へ飛び出そうとしている。それはそれでうれしい。うれしいが、ルルクウはどんどん俺から離れて行ってしまう。そう思うとモカは怖くて仕方なかった。モカは、自分がまた一人ぼっちになるのが怖かった。
モカは部屋の中を見回した。家具や寝具も品が良く落ち着いたいい部屋だ。いや、俺にとっては落ち着き過ぎている。俺には孤独感しかない。
こういう時は身体を動かせば気が紛れる。エルサレムでは、気が滅入った時には剣術の訓練をしていた。一人で練習もしたし、ジャミトやムスタージを相手に練習もしていた。でも、ここでは剣を取り上げられている。
では、城内の庭園でも歩くとするか。モカは部屋を横切り扉に手を掛けた。
ホイヘンスの部屋では、ホイヘンスやメルと同じようにルルクウも巻物を読み続けている。無言で巻物の文章を指でなぞり、目で追っている。窓から入り込んでくる湿った風がルルクウの長い黒髪を揺らしている。それが気になるのか、ルルクウは両手で後ろ髪をそっと束ねては戻している。
目の疲れを感じたメルは、顔を上げてぼんやりとルルクウの横顔を見た。エルサレムで初めて出会った時もきれいな顔立ちだと思った。けれども、あの時のルルクウは生きることに興味を失っていたように見えた。
メルには忘れられない出来事がある。それはトリポリ城にモカとルルクウが着いて間もない頃の出来事だ。ルルクウと話をしていたホイヘンスとメルは、彼女がまったくの世間知らずだと知った。子どもならまだしも、ルルクウの年頃でこれ程の世間知らずは冗談にもならない。
メルとホイヘンスは、ルルクウが世間並みの暮らしに慣れるような方策を考えた。その手始めがルルクウを町に連れ出し、人々の暮らしや店に並んだ品々を見てもらおうというものだった。メルはモカに相談し、一緒に来て欲しいと頼んだ。モカと一緒でないとルルクウは不安になるからだ。
モカは珍しく賛成した。モカも、ルルクウに人々の普通の暮らしを見せてやりたかった。けれども、モカとルルクウだけで外出するのは駄目だとシャルルから言われていた。
メルは、本当はモカなんかと一緒にトリポリ市内を歩きたくなかった。モカも、本当はメルなんかと一緒に歩きたくなかった。それでも、ルルクウのために我慢しようとそれぞれ諦めた。
それからというもの、ルルクウとモカとメルはトリポリ市内を何度も歩いて周った。人々は忙しそうに歩き、大声を出して物を売り、おいしそうに果物を食べ、楽しそうにお喋りをしている。ルルクウは目を大きく開けて不思議そうに人々を見ながら通りを歩いていた。
ある日、三人は町の中心にある中央市場に行った。中央市場には野菜や果物、肉や魚が豊富に並べられている。食器や雑貨を売る店もある。ルルクウはそうした店先に並んだ商品を見ながら歩いていた。その後ろを、モカとメルがお互いに距離を置いて歩いていた。
そのうち、ルルクウは一つの店の前で立ち止まった。その店には貝殻で造った装飾品や木彫りの魚や鳥が並んでいた。布の切れ端で造られた小さな男女の人形も並んでいた。どの男女の顔にも刺繍で笑顔が描かれていた。どの人形も幸せそうな笑顔をしていた。
ルルクウはその人形の前でしばらく立ち止まっていた。ルルクウはゆっくりと男と女の人形を一つずつ手にとった。後ろにいるモカに振り返り、両手を伸ばして男女の人形を見せた。
「私のお父さんとお母さんだよ!」ルルクウはうれしそうに笑って言った。次の瞬間、ルルクウは手にした人形を胸に抱きしめ地面に泣き崩れた。
メルは突然の出来事に驚いておろおろしていた。モカは驚かなかった。なぜかは分からないが、ルルクウが取り乱すだろうとモカには分かっていた。
突然の鳴き声に店の奥から主人が出てきた。泣きじゃくるルルクウには気付かれないよう、メルはモカに銀貨を渡した。モカは怒ったような表情になったが、黙ったまま銀貨を受け取り主人に支払った。男女の人形を買ってもらったルルクウはモカにありがとうと何度も言っていた。
次の日、モカはメルの部屋を初めて訪れた。昨日は助かった、礼を言う、モカはそっぽを向いて言ったが、その声は今までで初めて聞いた穏やかな物言いだった。
思いもかけないモカの言葉にメルは何も言い返せなかった。小さく頷いただけだった。
ルルクウに古代ギリシャの巻物を読んでみないかと誘ったのはホイヘンスだ。ホイヘンスは、ルルクウが洞察力に優れていると感じていた。洞察力が優れ過ぎて他人の行く末を感知し悩んでいるのだろう、悩むぐらいならその洞察力を他の興味に振り向ければいい、と考えた。
最初は面倒臭がっていたルルクウも、しだいに巻物に夢中になっていった。もともとルルクウは聡明なのだから、人類の叡智が凝縮された古代ギリシャの巻物に興味を示さないはずがなかった。ホイヘンスの思ったとおりだった。
ルルクウは熱心に巻物を読み続けた。巻物にある内容で分からない箇所はホイヘンスに尋ねた。ホイヘンスが忙しければメルに尋ねた。こうした日々が重なり、ルルクウはホイヘンスやメルに少しずつ心を開いていった。
同時に、ルルクウは様々な知識を得ていく内、物事を良く考え、自分の考えをしっかりと持つようになった。おそらく、これがこの娘の本来の姿なのだろうとホイヘンスは思っていた。
今、ルルクウはホイヘンスの話を聞いている。先程シャルルが持って来たハイサムの巻物にあった赤い星の動きについてだ。ルルクウは目を輝かせてホイヘンスの話を聞いている。
ルルクウは星の話を聞くのが好きだ。星に関する巻物もたくさん読んでいた。毎晩のように夜空も眺めている。こんなにたくさんの星が瞬いているのを不思議に思った。エルサレムでは夜空など見ていなかったし、見ようとも思わなかった。それは仕方なかった。ルルクウが住んでいた通りは、静かに星を眺められるような場所ではなかった。
ホイヘンスの話を聞いている内、ルルクウはふと疑問を持った。「ホイヘンス先生、赤い星の迷走を古代ギリシャの科学者も気付いていたのでしょうか?」
ホイヘンスはにっこりと笑った。「太陽の周りを地球や赤い星が回っていると古代ギリシャの科学者は知っていた。赤い星の迷走も、その仕組みもきっと気付いていただろう」
ルルクウはすかさず聞き返した。「気付いていたのなら巻物に書き残すのではないですか?」
ホイヘンスは満足そうに頷いた。ホイヘンスはこうした議論が大好きだ。
「古代ギリシャの巻物には、お腹が減ると食事しなさいとは書いていない。朝になると東から太陽が昇ると書いていない。探求心の旺盛な古代ギリシャの科学者がそうしたことを書いていない。どうしてだと思うかね?」ホイヘンスはルルクウに尋ね返した。
ルルクウの横でメルはうんうんと頷いている。どうやら、メルはホイヘンスの質問の意図を理解しているようだ。
「それは、当たり前の事だから、です」ルルクウは答え、答えながら自分で気付いた。古代ギリシャでは赤い星の迷走の仕組みは広く知られていた。だから、わざわざ書かなかったのね。
自らの言葉で理解したルルクウを見てホイヘンスも頷いた。さらに、ホイヘンスはメルとルルクウに一つの疑問を提示した。それは、観察と実験に基づいて宇宙や自然の真実を探求していた古代ギリシャにあって、なぜ赤い星は戦いの星と呼ばれていたのかという疑問だ。
メルもルルクウも、ホイヘンスの提示した疑問を考えた。二人は答えを見いだせない。
「赤い星が戦いの星と呼ばれていたのは、原因と結果の逆転によるものかもしれないね」そう言ってホイヘンスは説明を始めた。
過去、赤い星の迷走と大きな戦いの時期が偶然にも重なった。長い年月の中で、そうした偶然が何度かあった。やがて、赤い星は戦いの星と命名されるようになった。ところが、赤い星が戦いの星と命名された時から今度は逆転の現象が起きた。王や将軍は赤い星の動きを注視し、迷走を始める時こそ戦いを仕掛ける頃合いだと考え始めた、というものだ。
「もう一つ、興味深い事実がある」ホイヘンスは話し続けた。「古代ギリシャにはオリュンポス十二神として十二の神が祀られていた。その十二の神の一人が戦いの神アレスだ。アレスは好戦的で粗野で残忍な神とされていた。そのため、古代ギリシャの人々にはあまり好かれていなかった」
ルルクウは不思議に思った。人々に好かれていないのに、大切なオリュンポス十二神にどうしてアレスは含まれたのだろう?ルルクウはその疑問をホイヘンスに尋ねた。
ホイヘンスはにこりと笑った。「そうだね。その答は、さっきルルクウが私に言った言葉と関係があるのではないかな」ホイヘンスは悪戯っぽく笑い、ルルクウに考えを促した。
ルルクウは横に座っているメルの顔を見た。メルは微笑みながら右の眉毛を少し上げている。どうやら、これもメルには分かっているらしい。
私がさっき言った言葉?何だろう、当たり前だと私は言った。そうか、オリュンポスの十二神は海、大地、豊穣、知識、愛といった神だ。いずれも、人間が生きていく上で必要としている。
「分かりました。戦いもまた、人間が生きる上で当たり前だと考えられていたのですね」
「そうだよ、ルルクウ。悲しいが、遥か昔から戦争は人間の営みの一部となっている。今も大きな戦争が続いている。その大きな戦争は、異教徒を殺して聖地を取り戻そうという理由から始まった。誰であっても隣人を慈しむはずの宗教が、だ」
どの宗教でも、他人を傷付け、殺していいとは教えていない。そこに王や指導者の邪な意志が介在すると、宗教の教えはいとも簡単に置き換えられてしまう。自分たちが信仰する宗教が唯一絶対であり、異なる宗教は邪教でしかない。だから、邪教を信じる異教徒は殺さねばならない。それこそが神の教えなのだと置き換えられる。
「私は、トリポリ伯国の在り方は一つの理想だと思っている。かつては、この地でもキリスト教徒とイスラム教徒が戦った。だが、今ではボエモン四世の施政によりキリスト教徒とイスラム教徒、ユダヤ教徒は共存している」
ホイヘンスの説明をルルクウは真剣に聞いている。
「今も第五次十字軍とイスラム連合軍はダミエッタで戦っている。私は、せめてトリポリ伯国は今のまま平和を保ってほしいと願っている。そのためにも、ボエモン四世にはまだまだ玉座に留まっていただかなければならない」
「だから、永遠の命をもたらす始祖の玉を捜している」メルが口を挟んだ。
「そうだよ、メル。しかし、永遠の命というものは、やはり科学者としては信じられない。生き物としてあり得ない」
いつものようにホイヘンスとメルの議論が始まった。では、生き物とは何だろうか、生きるとは何だろうか、こうして二人の議論は果てしなく続く。それは決して結論を導くための議論ではない。議論を楽しむための議論だ。
ホイヘンスとメルのやり取りをルルクウは興味深く聞いている。どうして禁忌の玉を輝かせられたのか、どうして他人の行く末が見えていたのか。それが知りたくてルルクウはモカに無理を言い、トリポリ城にやって来た。
二つの謎は分からないままだ。それでも、ルルクウはトリポリ城に来て本当に良かったと思っている。新しい知識を得れば、さらに新たな興味が湧いてくる。それはとても楽しい経験だ。ルルクウは今日一日という限られた時間を無駄にしないように勉強している。新たな知識が得られる明日を心待ちにしている。
エルサレムにいた頃にいつも感じていた、暗闇を無限に虚ろうようなあの感覚はルルクウの心からすっかり消え去っていた。
トリポリ城にモカが住み始めてからだいぶ経つ。イアンはずっと憤慨している。シャルル大司祭は騙されている、あの下衆野郎のせいで美しいトリポリ城が汚れる、結婚もしていない男女が部屋を共にして風紀が乱れる、とイアンの怒りは積み上がるばかりだ。これで、毎日のようにモカと顔を合わせていれば、イアンは本当に爆発していただろう。
幸いにも、城内でイアンとモカが出会うなどそうそうなかった。それなのに今日は違った。それがイアンの不運となった。
ジャンニ一等騎士と城内を巡視していたイアンは、庭園を暇そうに歩くモカを見つけた。無視しようとしたが、イアンを見つけたモカが近寄ってきた。
「よう、二等騎士様。今日はバラのお手入れですか?」モカはおどけたように話し掛けた。
王室騎士隊は城内での喧嘩沙汰は禁じられている。それを知ってモカはイアンを揶揄っている。イアンはモカの挑発に乗らないように我慢した。
「白いバラも赤いバラもきれいだぜ。それとも、二頭騎士様は女の子にしか興味がないのか?」
身体を強張らせたイアンに気付き、ジャンニが注意した。「気にするな、行くぞ」
ジャンニは立ち止っているモカの横を通り過ぎた。後に続くイアンはモカの顔を睨んだ。モカはにやにやと笑っている。
モカの横を通り過ぎる瞬間、イアンは小声で言った。「お前みたいな奴と寝るなんて、ルルクウも物好きな女だよな」
モカはイアンとすれ違いざまに振り向き、イアンの剣を鞘から素早く抜き取った。「お前にルルクウの何が分かるかっ!」モカは怒鳴り、振り返ったイアンの胸元に剣先を向けた。あっという間の一瞬の出来事だった。
ジャンニが引き返し、モカに剣を降ろせと説得した。モカは聞く耳を持たない。凄まじい形相で怒るモカはイアンに謝罪を求めた。イアンは拒否した。その場にミシェルが通りかからなければ、イアンは胸を刺し抜かれていたかもしれない。
ミシェルはモカとイアンの間に割って入り、それぞれ事情を聴いた。その上で、イアンがモカに言った言葉はルルクウへの侮辱でしかない、王室騎士隊を代表して謝罪するとミシェルはモカに申し出た。必ずイアンを罰するとモカに約束した。
モカとミシェルはしばらく睨み合っていた。やがて、モカは剣をミシェルに手渡した。モカは無言のままその場を去った。
モカが去った後、ミシェルはイアンを叱った。「モカは口が悪い。それに乗せられるようでは二等騎士として未熟過ぎる。頭を冷やせ、自分の軽はずみな発言を反省しろ」
その夜、イアンは城内の牢屋で一晩を過ごした。イアンは怒りでまったく寝つけられなかった。モカの顔など二度と見たくなかった。
数日後の朝、宝石商がトリポリ城を訪れた。宝石商は城の正門の守衛兵に巻物を手渡した。守衛兵はホイヘンスの部屋にすぐに巻物を届けた。
ホイヘンスは巻物を拡げて読んだ。そこには、宝石商に頼んでいた翡翠の原石が届いたので明日引き取りに来られたい、価格については相談をさせていただきたいと記されていた。
ホイヘンスは二度、三度と巻物を読み返した。ホイヘンスは、翡翠の原石だけを捜すように宝石商に依頼していた。幼い子どもの握り拳程度の大きさで、緑色の色むらが著しく、加工も出来ないくらいに硬い翡翠の原石だ。ホイヘンスが具体的に指示したため、宝石商も何かあると勘付いたのかもしれない。それで価格について相談させろと強気に出てきたのだろう。
メルとルルクウが持っている禁忌の玉と同じ物が他にもある、ホイヘンスはそう考えていた。ハイサムが見せてくれた古い資料には、各地で悪魔が現れた記録が残っていた。多くの場所で、多くの悪魔を引き寄せた禁忌の玉が二つしか存在しないとは考えられない。おそらく、同じ玉は他にも存在しているに違いない。
ところが、十字軍の侵攻でそれらの玉の所在は分からなくなった。この百二十年間、十字軍はイスラム諸国を侵攻し、多くの町や村を破壊し、ありとあらゆる金品財宝を奪った。悪魔を呼び寄せる禁忌の玉も数多く奪われたに違いない。
十字軍に参加した貴族や領主は、奪った金品財宝をヨーロッパに持ち帰ろうとした。そのためには人夫や交易船を借りなければならない。その資金を得るため、奪った物の一部を現地で売り払っていた。当然、売り払った物は価値の低そうな物からだ。禁忌の玉には色にむらがあり、硬くて加工も出来ない。何も知らなければ、真っ先に売り払われる代物に違いない。その価値も知られずに禁忌の玉があちこちに散らばっている可能性は十分にあり得る。
一刻も早く翡翠の玉を受け取りたいので明日は一緒に宝石店へ行こう、貴重な物だから誰か護衛も連れて行こう、とホイヘンスはメルに言った。ホイヘンスとしては、途中で盗まれたりしないように万全を期しておきたかった。
その日の夕方、メルはミシェルと共に二等騎士の食堂へ向かった。ミシェルの入室に気付き、室内の二等騎士全員が姿勢よく立ち上がった。ミシェルは座って食事を続けろと指示した。全員が座り直して食事を続けた。
メルは夕食を食べているイアンに軽く挨拶し、向かい側の空いている席に座った。ミシェルは挨拶もなくイアンの背後に立った。何か分からないが、イアンは嫌な予感がしてきた。
「明日は訓練が休みなんだろ、ホイヘンス先生と一緒に市内へ行くので一緒に来てくれないか?」メルはイアンに持ち掛けた。
イアンはメルの言い方にむっとした。まるで休みの日には俺は何もしていないと決めつけているようだ。まあ、確かに何もしていない。それでも、イアンはメルに一言二言文句を言いたくなった。
イアンがメルに何か言おうとしたが、ミシェルが先に話し始めた。「ホイヘンス先生は研究資材を受け取りに行く。貴重なものだが、私は忙しくて同行出来ない。先日の罰としてお前が護衛をしろ。なお、このことは例の件に関するので誰にも言うな」
ミシェルはイアンに命令し、さっさと食堂を出て行ってしまった。
王室騎士隊長の命令なら仕方ないか、イアンはメルへの文句を我慢した。「で、ホイヘンス先生は何を受け取る?」イアンが尋ねた。
「翡翠の原石。何も知らない他の者に護衛を頼めばあれこれと詮索されかねないから、とホイヘンス先生からのご指名だよ」メルは肩をすくめて言った。
ホイヘンス先生が永遠の命を捜しているのを俺は成り行きで知った。もちろん、ミシェル隊長の指示で誰にも言わない。今回もそういうことだな。イアンは渋々と頷き返した。
次の日、イアンはトリポリ城の正門で待っていた。ホイヘンスとメルが歩いてきた。メルは珍しく帯剣している。その後をルルクウも歩いてくる。
イアンは少し気後れした。この間、俺は彼女を侮辱する言葉を口にしてしまった。ルルクウは知っているのだろうか。もし知っていたらどうしようか。イアンは困った。
ルルクウはイアンに明るく挨拶した。良かった、何も知らないようだ。イアンは安堵して挨拶を返した。返したが、はっと気付いた。「ルルクウが来る、つまり、あの野郎も来る」
ルルクウに気を取られてしまっていた。ああ、俺は間抜けだ。イアンは城を出る前から城に帰りたくなっていた。
やがて、モカが少し遅れて歩いてきた。モカはイアンをあからさまに無視している。その態度にイアンはむかむかと怒りが込み上げていた。もう、一緒に行くのを止めようかとも考えたが、それではミシェル隊長の命令に逆らってしまう。
そう考えている内、イアンはまた気付いた。隊長は、モカが一緒に行くのをきっと知っていたに違いない。だから、俺に罰などと言ったのだろう。とすると、メルも同様に知っていたのか?
イアンは先を歩くメルを見た。メルはモカが一緒なのを当然の様子で歩いている。おまけにモカと何か話しながら笑い合っている。
俺が下衆野郎を毛嫌いしているのを承知で騙したな、イアンはミシェル隊長とメルを呪いながら最後尾を歩いた。少しでも不審者が近付けば、問答無用で斬り倒したい気分だった。
宝石商の店に着くと、入口には帯剣した黒服の門番がいた。背は低いが、体格はがっしりとしている。ヨーロッパ系の顔立ちをした金髪の若い男だ。
この前は初老の男が門番だった。ミシェルの鋭い視線に怯えて、まるで門番らしくなかった。あれでは解雇されても仕方ないだろうな、とホイヘンスは思った。
ホイヘンスは自分の名前を門番に伝えた。門番は扉の外鍵を開けて店内に入り、しばらくしてから出てきた。店に入ったらお前たちの剣は預かる、門番は無愛想にメルとイアンに言った。メルもイアンも仕方ないと思った。治安が良いと言われるトリポリも最近は物騒になっている。モカは、門番の話し方に強いフランス語訛りがあるのに気付いた。
ホイヘンスたちは店に入った。ホイヘンス以外、誰もがこの店に入るのは初めてだ。外にいる門番が扉を閉め、用心のためなのか外から鍵を掛けた。
宝石商は店内で待っていた。相変わらずの赤ら顔だ。宝石商は大きく両手を拡げ、にこにことホイヘンスを抱きしめた。大袈裟な歓迎だが、宝石商にすればホイヘンスは幸運の女神かもしれない。ホイヘンスの研究が成功すれば自分の商売も大儲けになる。宝石商の気持ちはホイヘンスにもよく分かる。ホイヘンスは宝石商に嘘を付いている罪の意識を感じた。
初めて入ったメルは店内を見渡した。宝石店と言ってもずらりと宝石が並べられているものではないらしい。大きな机と椅子二つが置いてあるだけだ。どうやら、客の要望に応じて店の奥から宝石を持って来るようだ。メルは店の奥を覗き見た。奥には通路があり中庭が見える。中庭のさらに奥にはまた扉がある。そこが倉庫か住居のようだ。
宝石商はホイヘンスに椅子を勧めた。メルとイアンは店内にいる警備の茶色髪の若い男に剣を預けた。門番より長身だが、同じように黒い服を着ている。顔立ちはやはりヨーロッパ系だ。
「宝石商の店なのに宝石が見当たらないな」モカが茶色髪に尋ねた。
「宝石は奥の倉庫に保管してあります。お客様の要望をお聞きし、その都度、奥の倉庫から宝石をお持ちします。これも安全のためです」
茶色髪はそう答え、メルとイアンから差し出された剣を持って奥へ下がっていった。茶色髪にも強いフランス語訛りがあるのにモカは違和感を覚えた。
ホイヘンスと宝石商は机を挟んで椅子に座った。メルとイアン、ルルクウはホイヘンスの後ろに立っている。モカだけは狭い店内をふらふらと歩いている。下衆野郎は何をしている、イアンは苛立たしく振り返ってモカを睨んでいた。その内に警備の茶色髪も戻って来た。
モカはふらふらしている訳ではなかった。モカの心の何処かで何かがおかしいと感じていた。門番は外から鍵を掛けた。今日は暑いくらいの陽気だが窓は閉められている。茶色髪はメルとイアンの剣をわざわざ奥へ持って行った。戻って来たと思ったら、茶色髪は右手で剣の柄を強く握ったままで俺たちを見ている。治安の悪いエルサレムでもここまで厳重にはしない。何より、二人の若い男には不自然なくらいに強いフランス語訛りがある。これが、モカの心に一番引っ掛かっていた。
モカはふらふらと茶色髪に近付いた。気分が悪そうに屈み、茶色髪の剣の柄の端を見た。柄の端には十字軍の紋章が刻まれている。
そんなモカに構わず、ホイヘンスは宝石商と話し合っている。
「以外と早く見つかったようですな」
「はい、偶然に仕入れた原石に入っていました。色にむらのある翡翠です。硬くてどうにもなりません。それでよろしかったですよね」
宝石商は早口で話している。部屋の中が暑いせいか、宝石商の額には汗が浮かんでいる。
そこへ、モカが口を挟んだ。「暑くて気分が悪い、吐きそうだ。外で風に当たってくる」モカはルルクウの手を引っ張って店の扉に向かった。
ホイヘンスは腹立たしく振り返った。モカの無礼に宝石商も怒ったような顔をしている。モカに手を引かれたルルクウは訳が分からないという表情だ。モカのいつもの気まぐれに、メルもイアンも呆れている。
「なあ、いいだろ。ここで今朝の食事をぶちまけてもいいのか」モカは面倒くさそうに言った。
モカを引き留めてもあれこれ文句を言うだけだ。「さっさと出て行きなさい」ホイヘンスは怒ったように言った。
茶色髪の男は仕方なさそうに扉を叩いた。外の門番が外鍵を開けて扉を開いた。
「今にも吐きそうだぜ」モカはそう言いながらよろけるように外へ出た。手を引っ張られたルルクウも外に出た。
他に誰も出てこないので、門番は扉を閉め、再び外鍵を掛けた。よろけた振りをしたモカは門番の剣を見た。やはり十字軍の紋章が柄の端に刻まれている。
モカは気分が悪い素振りでそのまましゃがみ、右足首に手を伸ばした。立ち上がったモカは門番に素早く近付いた。
「お前ら十字軍は何を企んでいる?お前の取り分はいくらだ?」モカはフランス語で言った。
門番の顔色がさっと赤くなり剣に右手をやろうとした。しかし、モカの左手には右足首に隠していた短剣が握られている。モカは周囲から見えないよう門番の胸に短剣を鋭く突き付けた。
「騒ぐなよ、ここで騒げば町の警備兵が来るぞ。中に何人いる?」モカはフランス語で聞いた。
「糞野郎がっ!」門番がフランス語で言い返した。
「汚いフランス語を使うなよ」モカは門番の腹に右の拳を思い切り叩き込んだ。門番は大きく息を吐き出して倒れそうになった。モカは白目をむいている門番を抱え、ゆっくりと座らせた。
一瞬の出来事で、通りを歩いていた人々には何が起こったのかも分からない。人々が見るのは、具合が悪そうに座り込んだ門番を中年の男が介抱し、その後ろで娘が不安そうに見ている光景だ。その光景のとおりルルクウは不安だった。ルルクウにはフランス語は分からないし、事態がまったく理解出来ていない。
モカは門番の持ち物を探った。短剣は持っていなかった。モカは門番の上着をめくった。黒い上着の下は、背中に赤い十字軍の紋章が入った黄色い服だ。
モカは喉がひりひりするような渇きを感じた、あの時と一緒だ。モカは素早く周りを見渡した。店の外に他の仲間はいるだろうか。いや、いない。仲間がいればすぐにここへ駆けつけてきている。
モカは立ち上がった。「ホイヘンスたちが危ない、お前は先にトリポリ城へ戻っていろ」
ルルクウには訳が分からない。ルルクウは立ちすくんでいる。
「ルルクウ、おそらくあの時と同じだ」モカが小さく言った。
モカを見つめるルルクウの目が大きく見開いた。あの時と同じ、ルルクウはそれで理解した。
「城までの帰り道は分かるな?」モカの問いにルルクウは小さく頷いた。モカが自分の短剣をルルクウに手渡すと、ルルクウは足早に去った。立ち止まって一度振り返ったが、すぐに走り始めた。
モカはルルクウを見送ったりしない。門番を右肩で抱え上げて、門番の剣を抜き取った。外鍵を外してからこんこんと扉を軽く叩いた。
店の扉が少しだけ開いた。モカは扉を思い切り蹴った。扉の向こう側が何かに激しく当たり、ぎゃっという声がした。モカは門番を店の中に放り込み、自分も素早く店に入った。
椅子に座ったホイヘンス、立ったままのメルとイアンが驚いた表情で振り向いている。宝石商の男も驚いていたが、すぐに立ち上がって店の奥へ走って行ってしまった。
扉の横では茶色髪がうずくまっている。扉が顔に当たったようで、鼻血が出ている顔を両手で覆って痛そうに呻いている。
「早くそいつを取り押さえろ!」モカがメルとイアンに怒鳴った。メルとイアンには何が何だか分からない。仕方なく、モカはうずくまっている茶色髪の横腹を蹴り上げた。茶色髪はぐぇっと叫んで仰け反ったまま床に倒れた。
「君は何をしている?」ホイヘンスは椅子から立ち上がり怒鳴った。ホイヘンスがこんなに怒るのをメルは初めて見た。
その時、店の奥から宝石商の怒声が聞こえた。怒声はすぐに悲鳴に変わった。メルは自分の身体が強張っていくのが分かった。モカは剣を左手に持ち替え、とっさに屈んだ。左足首にも紐で結び付けていた短剣を右手に持った。
宝石商の悲鳴は聞こえなくなった。突然に店の奥から男が飛び出してきた。宝石商ではない、男は顔を布で覆い、剣を振りかざしてホイヘンスたちに斬りかかってきた。
モカは右手に持っていた短剣を男に向かって投げた。短剣は男の喉元に深く刺さった。ぐうっと喉から声を出し、男は机の上に覆いかぶさるように勢いよく倒れ込んだ。椅子に座ったホイヘンスの目の前で男の身体は小刻みに震え、すぐに動かなくなった。机の上には喉から溢れ出た血がみるみると拡がっている。
モカは机に突っ伏している男の上着をめくった。やはり、黄色い服で赤い十字軍の紋章がある。
「これを見てくれ、先生」モカはそう言って十字軍の紋章をホイヘンスに見せた。「こいつらは十字軍の連中だよ」
モカは男の身体を無造作に仰向けにし、喉に刺さった短剣を抜いた。刃先に付いた血は男の上着で拭い取った。顔の覆いを取ると、二十五歳くらいの若いヨーロッパ系の金髪の男だ。
モカは床で呻いている茶色髪の上着の裾もめくり上げた。やはり同じ、黄色い服に赤い十字軍の紋章がある。モカは気絶したままの門番の上着もめくり、ホイヘンスたちに十字軍の紋章を見せた。
ホイヘンスもメルもイアンも唖然として十字軍の紋章を見ている。
「昔、ルルクウの玉を奪おうとして襲ってきた連中がいる。そいつらもこれと同じ黄色に赤い十字軍の紋章が入った服を着ていた」
モカは机の上に仰向けになった男に近付いた。男の右手から剣をもぎ取った。柄の端には十字軍の紋章がある。モカはその剣をイアンに放り投げた。
「イアン、お前の好きな十字軍の剣だ。お前は俺と一緒に来い、逃げた宝石商を捕まえる。メルはここにいろ、扉は内鍵で閉めておけ。縄か紐を捜して門番と茶色髪の手足を縛っておけ」
モカは店の奥へ走って行った。剣を受け取ったイアンはホイヘンスとメルをちらりと見た。イアンはすぐにモカの後を追った。




