第九章 一二二〇年、初夏 バグダッド(其の三)
第九章 一二二〇年、初夏 バグダッド(其の三)
実篤たちは宿に着いた。実篤はパールとゲンツェイに送ってくれた礼を言った。カウナと実篤の対立を見たばかりのゲンツェイはどう答えれば良いのか分からなかった。
「明日の朝、私が迎えに来ます」ゲンツェイはそう言って別れを告げた。
パールが実篤に近寄った。「今夜から禁忌の玉は茶々に持たせるようにしてください」
「あなたと常に話せるようにするためか?」
「それもあります。ですが、皆さんの身を守るためといった方が良いでしょう」
また悪魔が襲ってくる可能性があるのか、実篤は尋ねた。
「どれだけの悪魔が何処にいるのか私にも分からないのです。悪魔が憎しみの気を放たなければ分かりません。用心してください」
実篤は頷き、分かったと答えた。
パールとゲンツェイは宿を後にした。帰ってきた実篤たちの人数が三人減っていると宿の主人は気付いたが、興味なさそうに何も尋ねなかった。
部屋に戻ると、実篤は禁忌の玉を茶々に手渡した。茶々はベッドに横になり、すぐに寝入ってしまった。わらびは床の上で寝た。小栗と菊千代も疲れ切っていた。それでも、左衛門、彦助、小太郎の遺留品の汚れを拭き取り、荷物の傍に丁寧に置いた。三人の荷物が手つかずのまま整然と置いてあるのが虚しかった。
宿を後にしたパールとゲンツェイは、自分たちの宿へ向かった。パールと二人きりになるなどサフリムを出てから初めてだ。いや、悪魔と戦った日から初めてだな、ゲンツェイは不思議に思った。
出会った頃、パールは表情が豊かで明るい娘だった。サフリムしか知らないパールは、ゲンツェイやハクレアに外の世界についてしつこいくらいに質問してきた。他の国ではどのような暮らしをしているの?どのような服を着ているの?どのような食べ物を食べているの?どのような花が咲いているの?どのような鳥が飛んでいるの?
次々と質問するパールを見て、本当に何も知らない無邪気な娘だなとゲンツェイは思っていた。質問はやがて複雑になった。世界にはどのような国があるの?どのような人が王様になっているの?どのような仕組みで国は成り立っているの?国によってその仕組みは異なるの?どうして国と国が戦うの?何が原因で戦うの?戦うしか解決の方法はないの?
ずいぶんと難しいことを尋ねる娘だな、とゲンツェイは不思議に思った。国と国がどうして戦うのか、そんなのゲンツェイは考えたこともない。
それが、あの夜からすっかり変わった。多くの村人と騎馬兵が犠牲となった悪魔との戦い。その戦いを終わらせたパール、悪魔を絶命させた古の一族のシャーマン。パールの豊かな表情は消えた。感情そのものが消えた。
ゲンツェイに対するパールの態度も変わった。それまでが親密だった訳ではない。それでも、ゲンツェイに対するパールの態度は無関心に等しいくらいに変わった。それなのに、始まりの地ラトへの旅にパールはゲンツェイの同行を望んだ。不思議というよりも理解出来ない。古の一族の命運を賭けるような大切な旅に、無関心な存在でしかない者を同行させるだろうか。
一方、パールがゲンツェイの同行を望んでいたなど知らないまま、ゲンツェイはこの旅の一員に志願していた。ゲンツェイはどうしても一緒に行きたかった。ハクレアが心配だったからだ。ハクレアはオルリの反対を押し切り、パールと一緒に始まりの地に行くと決めてしまった。その話をオルリから聞いたゲンツェイは驚いた。
「二人が出会う前から、ハクレアはパールの存在を感じていたらしい。それは、パールも同じだという。あの二人には見えない絆があるらしい」オルリはゲンツェイにそう話し、ゲンツェイの手を取って頼んだ。「ハクレアを守ってほしい、あの子を無事に連れて帰ってきてくれ」
涙を流しながら頭を下げるオルリにゲンツェイは頷いた。同時に、ゲンツェイはハクレアに対する自分の感情に気付いた。自分はハクレアが好きだ。それは幼馴染みへの気持ちではない。この感情こそ男が女を愛する想いなのかとゲンツェイは感じた。
その想いを、ゲンツェイはハクレアにはまだ伝えていない。一族のために、大ハーンのために、パールやカウナが永遠の命を持ち帰ろうと辛く厳しい旅を続けているというのに、こんな個人の感情など露わには出来なかった。
ハクレアも禁忌の玉を輝かせられる、とパールはさっき言った。ハクレアにもそうした資質が本当にあるのか。ゲンツェイは一緒に歩くパールの横顔を見た。相変わらず無表情だ。それでも、聞くなら二人だけの今しかない。
「パール、少し聞いていいかい?」ゲンツェイはパールへ話し掛けた。
パールは歩みを止めず、ゲンツェイに向かって頷いた。
「さっきの話、ハクレアは禁忌の玉を本当に輝かせられるの?」
「そうです」
「じゃあ、ハクレアはシャーマンなのか?」
パールは立ち止った。ゲンツェイも足を止めた。暗闇の中、パールの瞳が真っ直ぐにゲンツェイを見つめている。
「それは違います。ハクレアはシャーマンではありません。始祖の玉の生成に協力するだけです」
協力?またその言葉が出てきたとゲンツェイは戸惑った。「協力って、危険な目に遭うのか?」
「あなたの言う危険が何を意味するのか分かりません」
「ハクレアは何を協力する?」
「禁忌の玉を輝かせるのです。それ以上は私にも分かりません。始まりの地へ着かなければ分からないのです」
「ハクレアは禁忌の玉を輝かせる、では、私は何をする?」
「始まりの地へ着かなければ分かりません」
「本当に?」
「ええ、そうです。それとも、私が知っているとして、旅立つ前に私が教えればあなたは志願しなかったとでも言うの?」
「違う、私は自分の意志で志願した。オルリからもハクレアを守ってくれと頼まれている。私は命を懸けてハクレアを守る」
「では、志願が叶ったから良かったではないですか」そう言ってパールは歩き始めようとした。
パールの左手をゲンツェイの右手が掴んだ。「志願したけど、キタイ隊長はその場で駄目だと言った。ところが、次の日にはお前を同行させると言ってきた」
左手を掴まれたパールはゲンツェイの言葉をじっと聞いている。
「キタイ隊長は、パールが私の同行を望んだからだと教えてくれた。だから、パールには感謝している。でも、教えてくれ、どうして私なんだ?」
ゲンツェイは暗闇の中に見えるパールの大きな瞳を見つめて言った。パールもゲンツェイをじっと見返している。
「あなたにはあなたの成すべき事がある。さっきの日本人の男の子もそうです。それが何なのか、それは始まりの地へ行かねば分かりません」
これでは堂々巡りだ、ゲンツェイは溜息を付いた。「もう一つ教えてくれ。アイ・ハヌムで妙な体験をした時だ。気を失う前に声が聞こえた。いや、頭の中に響いた。お前はお前を想う者のために命を捧げられるのかと言っていた。いったいどういう意味だろうか?」
パールは無表情にゲンツェイを見つめている。「私に分かるはずもありません。ですが、その言葉のとおりではないですか。さっき、あなたはハクレアを守る、命を懸けて守ると言いましたよ」
確かにそうだ、私はハクレアを守りたい、その一心で志願した。ハクレアは自分をどう思っているのだろうか。それは、ゲンツェイが一番知りたいことだ。
「パール、ハクレアは私をどう考えているのだろうか。その、ハクレアは私について何か言っていないかい?」ゲンツェイは俯きながら尋ねた。
パールがなかなか答えないのでゲンツェイは俯いた顔を上げた。暗がりの中でもパールがいっそう冷めた表情をしているのが分かった。
「あなたには永遠の命を持ち帰る使命がある。それなのに、いったい何を考えているの?」パールの声はとても冷たく厳しい。
パールはゲンツェイの右手を振りほどき、さっさと歩き始めた。やはり、ハクレアの話はするべきではなかった。ゲンツェイは後悔した。ゲンツェイは気まずそうにパールの後を追った。
パールは足早に歩いている。あれ以上はゲンツェイと目を合わせるのが辛かった。パールの目は深い悲しみに包まれていた。
その後、宿に着くまで二人は一言も言葉を交わさなかった。
パールとゲンツェイが日本人を送っている間、カウナはジョシェ、ムーレイ、ハクレアと今後について話し合っていた。
「悪魔が現れてもパールがいれば撃退出来る。正直に言って日本人と行動を共にするのは嫌だ」ジョシェが不満そうに言った。
「だが、パールが禁忌の玉で一撃を放つには、悪魔の身体に埋まっている始祖の玉を剥き出しにしないといけない。それには人数が必要だし、犠牲も出る」ムーレイはカウナとジョシェの顔を見ながら言った。
カウナも頷いた。「そのとおりだ。だから、それは日本人にやってもらう。それがあいつらを同行させる唯一の理由だ」
ジョシェは不満そうだが、カウナに見つめられ仕方なさそうに頷いた。
カウナはハクレアに振り向いた。「パールから禁忌の玉を輝かせられると聞いていたのか?」
ハクレアは首を横に振った。「いいえ、さっき初めて聞きました」
「では、今までに輝かせたことはない?」
「はい、パールが持っている玉を触ったりもしましたが、輝かせたことなどありません」
ムーレイが口を挟んだ。「ハクレアが玉を輝かせられるとしても、その玉がない。パールも日本人も余分な玉は持っていません。どうやってハクレアに玉を輝かせ、協力させるのでしょうか?」
それはハクレアも気になっていた。自分は禁忌の玉など持っていない。
「パールは首飾りに玉をたくさんぶら下げているじゃないか?小さいけど同じ翡翠の玉だろ。それでは駄目なのか?」ジョシェが言った。
カウナは首を振った。「サフリムで悪魔を倒した時には使った。その後でキタイ隊長はパールに尋ねたよ、首飾りの玉だけでも光の膜を造ったり、光の矢を放てるのか、とな。けれども、玉が小さすぎて無理だそうだ、力の容量が足りないらしい」
「そういうものですか?」ジョシェは首を傾げた。
「そうだ、俺もパールに尋ねて確かめている」
ジョシェとカウナの会話を聞きながらハクレアはぼんやりと考えていた。パールが言うように、本当に私は禁忌の玉を輝かせられるのかしら?ハクレアの膝の上で丸くなっていたコハクが顔を上げた。ずっと眠っていたためか大きな欠伸をしている。その姿にハクレアは少し微笑んだ。
カウナはハクレアを見つめた。パールはハクレアが禁忌の玉を輝かせられると知っていた、だからハクレアを始まりの地ラトへ連れて行きたいと言ったのか。そうであれば辻褄は合う。そうならば、どうして今まで黙っていたのか。
サフリムを旅立つ前、カウナはキタイから古の一族について教えられていた。「パールもハシムも永遠の命についてはよく知らない。それは本当だ。古の一族は流浪の民だ。彼らは数千年もの間、権力者に利用され、民衆に迫害され、西へ西へ逃れてきた。ハシムが言うには、永遠の命を最後に施したのは千年以上も前だと伝えられている」
「パールは過去の出来事や未来の事象を対話によって明確に知る。ハシムによると、対話の相手は死んだ者たちだという。これ程の能力はハシムが知る他のシャーマンにはなかったとも言っていた。それだけ、シャーマンとしてのパールの能力は飛び抜けている」
「ところが、永遠の命については対話の相手も知らない。始まりの地ラトが何処にあるのかも分からない。なぜなら、対話の相手には過去に生きたシャーマンがいないからだ。これは不思議だ。シャーマンだって死ぬ。死ねば対話の相手として出てきておかしくないが、なぜか出てこない」
ムーレイが何か言っている、カウナは意識を戻した。
「それで、日本人はどうするのですか?」
「日本人は同行させる。パールが言うように悪魔がこれからも出てくるなら人数は欲しい。日本人には先陣を切って戦ってもらう」カウナはきっぱりと言った。
「明日は日本人と勝負をしますか?」ジョシェが尋ねた。
「もちろんだ、あいつらがどの程度戦えるのか知っておかねばならない」
ジョシェは強く頷いた。ムーレイは天井を見ている。ハクレアは俯いている。
「お前たちは日本人を仲間にするのはやはり不満か?」カウナがもう一度尋ねた。
ジョシェとムーレイは頷いた。ハクレアは顔を上げてゆっくりと頷いた。カウナは小さな溜息を付いた。「俺も不満だ」
「では、どこかで日本人と袂は分かつと?」ジョシェが尋ねた。
「いや、一緒に行動する」カウナは色褪せた天井を見上げて言った。
「それはなぜですか?」今度はムーレイが尋ねた。
「永遠の命を入手するにはパールが必要だ。あの気難しい娘がいなければどうにもならない。パールは日本人を同行させたがっている。始祖の玉を手にするまでパールの言うとおりにするしかない」
ハクレアは心が痛んだ。あの明るく無邪気だったパールをカウナたちは知らない、だから、こうやってパールを非難している。それが辛い。
「俺たちモンゴル人に対する牽制もあるのでしょうね」ムーレイが言った。
「もちろん、そうだ。まあ、パールの態度は気に食わないが、俺はあの娘に期待もしている」とカウナはおもむろに話し始めた。
「いったい何を期待するのですか?」ムーレイが尋ねた。
「あの娘を中心に物事が動いている。何か大きな出来事が進んでいるように感じられる。それに俺たちも導かれている。もしそうなら、俺は最後まで見届けたい」カウナがにやりと笑って見せた。
ハクレアは再び考えていた。禁忌の玉を輝かせられたとして、自分は何をするの?それは自分にとって何を意味するの?
コハクがハクレアの膝上で寝返りを打っている。コハクはハクレアの悩みなど知りもしない。お前はそれでいいの、コハクはいつものコハクでいてちょうだい、ハクレアはそう思った。ハクレアはコハクの身体をそっと優しく撫でた。コハクは満足したように小さく鳴いた。
その夜、疲れ切った実篤たちは深い眠りに落ちていた。わらびだけはなかなか寝付けない。わらびは実篤たちと同じように床の上に横になっている。茶々はベッドで寝ている。わらびは茶々と一緒にいたくなかった。
「始まりの地で玉を輝かせるのは女だけです」パールの言葉は使命感に満ちていたわらびの心を挫けさせた。帰り道では、パールはずっと優しく話し掛けてくれた。わらびの気持ちは少し落ち着いた。それでも、挫けた心が元通りになる訳ではない。
どうして自分が選ばれたのか、それは翡翠の玉を輝かせられるからだ。どうしてエルサレムヘ行くのか、それは永遠の命を日本へ持って帰るためだ。どうして永遠の命を持って帰るのか、それは朝廷に謀反を企てる北条義時との戦いを前に、帝様に永遠の命を捧げるためだ。
わらびにも帝様の力になりたいという思いはある。父親の期待に応えたいという思いもある。だから、自分こそが何としてもエルサレムから永遠の命を持って帰ろうと決意していた。その決意は崩れ去ってしまった。
床に横たわるわらびはすすり泣いていた。悔しくて仕方ない。八つ当たりだと分かっていても、わらびは茶々を恨めしく思った。生まれて初めてわらびは茶々を憎んでいた。
その時、わらびの心に茶々の声が聞こえた。「わらび、大丈夫?泣いているの?」
わらびは茶々を無視した。茶々と心を通わしたくない。
「わらび、お願い、応えて」
茶々の声は泣きそうになっている。茶々が自分を心配してくれているのが分かった。そうだ、茶々は悪くはない。これまでも茶々が悪かったことなど一度もない。わらびは自分を恥じた。
わらびは茶々に心を開いた。お互いの相手に対する思いがお互いの思考の中に流れ込み始めた。
「パールの言葉が気になるのでしょ」
「そうだよ、僕は必要ないって言われた」
「違うの、本当はわらびが必要なの。どうしてもわらびじゃないと出来ないことがあるらしいの。パールがそう教えてくれた」
「必要って何?、玉を輝かせる以外に何をするの?」
「ごめんなさい、それは始まりの地へ行かないと分からないらしい」
「分からないのに必要だなんておかしいじゃないか?」
「そうだけど、でもわらびが私を守ってくれるとパールは言っていたよ」
「守る?いったい何だい?」
「ごめんなさい、それ以上は分からないの。でも、今までもわらびは私を守ってくれたから、これからも守ってほしい」
「分かった」
「わらび、お父さんもお母さんも元気かな?」
「元気だと思うよ」
「二人で一緒に日本へ帰ろうね」
「そうだよ、永遠の命を持って一緒に帰ろう」
わらびの横に寝ていた実篤がのそりと起きた。「眠れないのか、わらび?」
「ううん、違うよ」
実篤は少し考えて暗闇の中でわらびと茶々を交互に見た。「茶々と話していたのか?」
「うん、そうだよ」「そう」わらびと茶々が答えた。
「二人で何を話していたんだ?」
「一緒に日本へ帰ろうって」
実篤は二度、三度と頷いた。わらびの声から不安や迷いが消え去っているのが分かった。実篤は安心した。実篤は幼い頃からわらびを知っている、わらびは芯の強い子だ。
翌日の朝、ゲンツェイは実篤たちを迎えに行った。 実篤はずっと無口だった。他の日本人も無口だった。緊張しているのか、不満なのか、その両方なのだろうとゲンツェイは思っていた。ゲンツェイも実篤たちに声を掛けなかった。
自分たちの宿に着いた。ゲンツェイは二階の部屋に行き、カウナに日本人の到着を告げた。「日本人は外で待っています」
外で待っている、その意味はカウナにも分かっている。すぐに勝負したいという意味だ。
ゲンツェイは隣の部屋のパールとハクレアにも日本人の到着を告げた。
「すぐに勝負するのですか?」パールは尋ねた。ゲンツェイは無言で頷き返した。
廊下に出たパールはカウナと鉢合わせした。何か言いたげなパールに向かって、カウナが口を開いた。「俺の用事を先に済まさせてもらう」
カウナは階段を降りた。ジョシェやパールたちもその後に続いた。
実篤は宿の入口に向かい、通りの真ん中に立っている。通りを行き交う人々は仁王立ちの実篤を邪魔そうに見ながら歩いている。小栗と菊千代、わらびと茶々は宿の軒下で陽射しを避けている。
「ここで勝負するつもりなのか?」宿から出てきたカウナが実篤に呼び掛けた。実篤はカウナが帯剣していないのに気付いた。
「バグダッドで剣を振りまわせばイスラムの警備兵がやって来る。そうなると面倒になる」そう言いながらカウナは通りに出た。昨日の大雨で泥の川になった地面もすっかり乾いている。カウナは土の乾き具合の感触を両足で踏んで確かめた。
「では、どうする?」実篤が言い返した。
カウナは実篤について来いと言い、宿の裏に回った。そこは、昨夕に実篤が身体を洗った厩だ。実篤は訝しみながら後に続いた。ジョシェや小栗たちも後をついて行った。
宿の裏は厩だが、よく見れば剣を交える程度の広さはある。昨日は薄暗かったし、そこまで気付く余裕もなかった。実篤が柱に掛けて干していた服もそのまま残されている。実篤は服を干していたのも忘れていた。それぐらい余裕がなかったのだなと自分でも分かった。
「何で勝負する、剣か?素手か?」実篤は尋ねた。
「素手?殴り合いか、それは痛いから勘弁してくれ」そう言いながら、カウナは厩の資材置き場をごそごそとかき回し始めた。同じ長さの棒を二本取り出した。左手に一本ずつ持って振り回し、棒の重さを確かめた。
「殺し合いじゃない、腕前の優劣をはっきりさせるだけならこれで十分だ」カウナは棒の一本を左手で実篤に投げた。
実篤は真正面に飛んできた棒を受け取った。実篤は腰から日本刀を外し、小栗が受け取った。
「互いの服を調べてくれ、誰か頼む」カウナが言った。
私がやりましょう、ムーレイがそう言って前に出た。ムーレイは、カウナと実篤の二人の身体を調べた。こうした勝負の際、双方が武具を持っていないか確かめるのは必要だ。激高すると、隠し持った武具で衝動的に相手を殺すようなこともある。
二人とも武具は所持していなかった。カウナと実篤はお互いに離れて間合いを取った。大丈夫だ、いつでもいいぞ、カウナと実篤はそれぞれムーレイに答えた。
ムーレイは後ろへ退き、右手を真っ直ぐに空へ伸ばし一気に振り落とした。「始めっ!」
カウナは両手で持った棒を頭の上に振り上げて構えた。実篤は棒を持った両手を上半身の前に低く伸ばして自然に構えた。実篤が構える棒の先端はカウナの顔へ真っ直ぐに向いている。二人は間合いを測り、じりじりと大きな円を描くように動いている。
最初に仕掛けたのは実篤だ。実篤は棒の先をすっと振り上げ、カウナの右手に向けて振り下ろしながら攻め込んだ。それをカウナは予想していた。カウナは頭の上から棒を素早く振り下ろして攻め込む棒を強く叩き弾いた。
まともに受ければ棒を叩き落とされる、実篤は自らの棒も斜めに降り下げながらカウナの振り下ろした棒の勢いを受け流した。受け流しながらそのまま大きな輪を描くように棒を回し、絡めたカウナの棒の先をあらぬ方向へ向けさせた。実篤は後ろへさっと退いた。
「俺が左手で棒を投げたから左利きと思ったな、だから右手を攻めた。残念だが俺は右利きだ」カウナは余裕たっぷりの表情だ。
実篤はカウナの策に騙された自分を叱った。このモンゴル人は騎馬兵らしいが、こうした一対一の勝負にも慣れている。後ろに下がったまま実篤はカウナの動きを探った。次はモンゴル人から仕掛けてくるだろうと肌で感じた。
余裕の表情を見せたカウナだが、実篤の動きに内心では驚いていた。振り下ろした一撃で日本人の棒は両手から叩き落とせるはずだった。それを自らの棒も合わせるように瞬時に降ろして衝撃を受け流した。受け流しながら俺の棒の先を絡めて輪を描いた。しかも、すぐに攻めず、冷静に後ろへ退いた。この日本人は戦いに慣れている。
カウナと実篤は元の構えに戻った。二人の息遣いが聞こえてきそうな程に緊迫している。ジョシェたちモンゴル人、小栗たち日本人は固唾を飲んで勝負を見ている。パールだけが少し離れ、冷ややかに勝負を見ている。
カウナが一気に攻め込んだ。数歩前に出ながら、頭上から真っ直ぐに棒を振り下ろした。カウナの素早い動きに実篤は避けられず、棒を横向きに構えてカウナの棒を受け止めた。棒と棒が激しくぶつかり大きな音がした。厩に繋がれていた馬が驚いている。
カウナと実篤はそれぞれ退き、また近付いては二度、三度と棒と棒を勢いよく打ち合い、再び離れて間合いを取った。
日本人の腕を甘く見ていた、とカウナは悟った。騎馬兵であるカウナは馬上からの剣さばきに長けている。騎馬兵は敵兵の集団に馬で斬り込み、馬をぶつけて踏み倒し、駆け抜けながら周囲の敵兵を剣で撫で斬りにする。もちろん、馬から降りて戦うことはある。それは勝ち戦が決まった後に敵の生き残りを掃討するような場合だ。それ以外は馬を降りて戦うことはない。そもそも、止むにやまれぬ事情がない限り、騎馬兵が馬から降りて敵と戦うなど戦術として有り得ない。
実篤はカウナの動きに強い違和感を覚えていた。日本人同士で戦う時とは異なる動きだ。カウナの間合いの取り方、立ち回りの仕方は日本人にはない。カウナの動作や視線の動きから次の動きを予測するのも無理だ。
カウナと実篤、それぞれの考えで一致していることもあった。それは、次の攻めで勝敗は決まるだろうという考えだ。大人数の集団戦は勝敗が決するまで時間が掛かる。少人数の戦いは短い時間で勝敗は決着する。ましてや、一対一の戦いなら瞬時に終わる。
問題は、どちらから攻めるのか、だ。
先にカウナが動いた。カウナは振り上げていた棒を身体の右側に素早く降ろし、棒の先で地面を擦るように実篤に向かって突進した。
カウナの両肩の筋肉に力が入っているのを実篤は瞬時に見た。下の構えから棒を勢いよく振り上げ、こちらの棒を跳ね飛ばすつもりだろう。振り上げる力だから強くはないが、こちらの動きしだいでは足や腰に狙いを変えてくるかもしれない。
迷いながらも実篤は冷静だった、考える以前に身体が動いていた。実篤は突進してくるカウナに向かって自らも突進した。カウナが降り下ろしていた棒に自分の棒を叩きかぶせ、左足で棒を思い切り蹴とばした。
予想もしていなかった実篤の蹴りに、棒を持つカウナの手が揺れて身体がよろめいた。カウナの上半身から力が抜けて胸元が無防備に空いた。その胸元へ、実篤は右肘を尖らせて突き込んだ。カウナは防ぎきれない。ジョシェとゲンツェイがあっと叫んだ。
しかし、実篤はカウナの胸元の寸前で右肘をすっと止めた。カウナも動きを止めた。勝負はこれで決まった、
小栗と菊千代は顔を見合わせ微笑んだ。わらびと茶々もうれしそうにしている。ジョシェとゲンツェイは面白くない表情だが、ムーレイは感嘆したように実篤を見ている。
カウナは実篤の目を見つめながらゆっくりと離れた。悔しそうな表情はない。「棒でなく剣だったらどうするつもりだった?蹴とばした足がすっぱり斬れてしまうぞ」
「さあ、どうかな。私が剣を持っていれば、そちらもあのような攻めは出来なかった」
カウナも軽く頷いた。「そうだな」
カウナは実篤に近付き右手を伸ばした。実篤は持っていた棒をカウナに手渡した。カウナは自分の棒と一緒に、二本の棒を資材置き場の元の場所に丁寧に戻した。
実篤の足蹴りをカウナは卑怯とも思わない。こんなお遊びに勝ち負けなどどうでもいいが、あのような動きが瞬時に出来たのに感心していた。よほど近接戦の場数を踏んでいなければ、ああいう動きはとっさに出来ない。やはり、日本人には悪魔との戦いで先陣を切ってもらおう。
「日本人にも面白い奴がいるのは分かった。だが、俺は騎馬兵だ。馬の上でならば、俺は誰にも負けない。それは覚えておけ」カウナは穏やかに言った。
実篤は潔く頷いた。カウナの言葉が負け惜しみではないのは実篤にも分かっている。カウナの棒を蹴とばしたのは他に何も思いつかなかったからで、奇策でしかない。まともにやり合えばカウナの攻めを防ぐ手立てはなかった。ましてや、馬上であればまったく勝負にならないだろう。やはり、モンゴル軍の騎馬兵は最強だ、 臨安の老人の言っていたとおりだ。
ジョシェやゲンツェイは悔しがっている。カウナはそれが気になった。二人とも表面的な勝ち負けしか見ていない。ムーレイは一喜一憂などしていない。ムーレイは勝ち負けという結果ではなく、勝負の本質を見極めたのだろう。ハクレアにも驚いている表情はない。大ハーンの近衛兵に剣舞を教えただけの資質はあるな、とカウナは思った。
ふと、カウナはパールの視線を感じた。パールを見ると、いつの間にか茶々と手を繋いでいる。パールはじっとカウナを見つめている。いつもの無表情だが、その目は安堵している。
「終わった、満足か?」カウナはパールに声を掛けた。
パールが少し微笑んだように見えた。「さすがですね、カウナ」
パールの思いがけない言葉にカウナは返す言葉が思い浮かばない。カウナは少し戸惑ったように右手を少し上げて振った。
干してあった服を取り込んでいる実篤にカウナは呼び掛けた。「日本人、もう気が済んだろう。部屋に戻ってこれからの話をしようじゃないか」




