第八章 一二二〇年、初夏 バグダッド(其の四)
第八章 一二二〇年、初夏 バグダッド(其の四)
荷物の整理が終わると午後遅くになっていた。八人は近くにある市場へ食事をしに出掛けた。大きな町には市場があり、市場には屋台があり、屋台では安くてたくさん食べられると実篤たちは学んでいた。
市場の場所は使用人の少年に教えてもらった。宿の前の通りを円城に向かって歩くと大きな市場がある、と少年は教えてくれた。
実篤たちは教わったとおりに歩いた。しばらく歩くと市場があった。大きな市場だ。穀物、野菜、果物、肉、魚が豊富に売られている。屋台も多いし、屋台に並べられた料理の種類も豊富だ。
実篤たちはブリヤーニという料理を見つけた。見た目と言い、匂いと言い、おいしそうに思えた。どう調理したのか、実篤は屋台の主人に聞いた。野菜と肉を煮込んだ煮汁で米を炊き、その上に炒めた挽肉や野菜を乗せると主人は答えた。
聞いているとますます腹が減るし、久し振りに米が食べくなった。イスラムの米は細長くぱさぱさしているが、それでも米は米だ。夕食はブリヤーニに決めた。
人数分の皿に盛ってもらい、実篤たちは邪魔にならない壁際に座って食べ始めた。ブリヤーニにはいろいろな香辛料が混ざり合わさり、薄い塩味に仕上げられていた。想像していた味とは違ったがとてもおいしかった。
バグダッドに到着し、宿も見つけ、実篤は安堵した思いでブリヤーニをゆっくりと味わって食べた。わらびと茶々も笑いながら食べた。左衛門たちも旅の緊張から解放され、和やかに会話しながら食べていた。
「このままだとエルサレムまで無事に辿り着けそうだな」
「危険な目に遭ったのは盗賊の時だけだった」
「見事に返り討ちにしたぞ」
「何を言う、お前はぐっすり寝ていただけじゃないか」
菊千代と彦助、小太郎が賑やかに話している。左衛門が三人のやり取りを聞きながらにやにやと笑っている、小栗も笑みを時折浮かべている
実篤は左衛門たちを優しい眼差しで見ていた。ここまでの旅は辛かったに違いない。エルサレムまでも同様に辛いと考えているだろう。それでも、仲間同士であれば、こうしてお喋りして苦労を笑い飛ばせる。何とも気持ちのいい若者たちだ。
実篤は決意を新たにした。わらびと茶々、左衛門たち五人を連れて日本へ帰る。永遠の命を持って全員で日本へ必ず帰る。それが自分の果たすべき役割だ。
久し振りに寛いだ食事を終えて、実篤たちは市場を後にした。お腹がいっぱいで眠くなったわらびと茶々を菊千代と小栗がそれぞれ背負った。疲れと安心とで、わらびと茶々はすぐに寝入ってしまった。
市場を出て間もなく、明るい空が急に暗くなってきた。実篤たちは空を仰ぎ見た。空一面を黒色の雲が覆い始めている。実篤は夏の太宰府を思い出した。こういう黒い雲が空を覆うと決まって激しい夕立が降ったものだ。
雨が降るのか、どうだかな、小太郎と左衛門が後ろで話している。少しくらいの雨なら降るのもいいだろう、実篤はそう思っていた。ウル・カスルからバグダッドまで、実篤たちは雨らしい雨を見ていなかった。
ひんやりした風が吹き始めた。ぽつりぽつりと雨が降り始めた。通りを歩いていた大人たちは早足に歩き始めた。子どもたちは雨だと叫びはしゃいでいる。子どもたちの喜ぶ様子から、バグダッドでも久し振りの雨なのだなと実篤は思った。
すぐに雨は激しく降り出した。大粒の雨が叩きつけるように降り始めた。あちこちで大きな水溜まりが現れた。子どもたちもさっさと家の中に入ってしまった。
実篤たちは駆け足で宿に向かったが、まだ遠い。何処かに雨宿りが出来る場所はないのかと捜した。幸いにも、大きなひさしのある家屋を見つけた。扉や窓の傷み具合から空き家と思われた。
実篤たちはひさしの下で雨宿りした。わらびと茶々はぐっすりと眠ったままだ。黒い雲は途切れない。大粒の雨は絶え間なく降り注いでいる。あちこちに出来た大きな水溜まりが繋がり、通りは泥水が溢れる川のようになってしまった。
その時、実篤は通りの彼方に佇んでいる一つの黒い影に気付いた。実篤は息を飲んだ。背中に冷たい感覚が走った。何かおかしいと身体が感じた。安芸の山奥で山賊に待ち伏せされていた時と同じような感覚だ。
左衛門たちも黒い影に気付いていた。実篤とは違うが、左衛門たちも黒い影に不穏な気配を感じていた。
「皆、気を付けろ。菊千代と小栗は後ろに下がれ」
わらびと茶々を背負った菊千代と小栗は後ろへ下がった。実篤は振り返った。二人に背負われたわらびと茶々は、何も気付かずに寝ている。
黒い影がゆっくりと近付いてきた。離れていてもずいぶん太った身体だと分かる。その太った身体が妙にふわふわと近付いてくる。歩き方から男と分かるが、重量感はまったく感じられない。太った身体のあちこちがでこぼことしていて醜い。服を着ているのに分かるのだから、相当にいびつな身体をしているのだろう。顔は布で覆っていて見えない。それでも、実篤たちをじっと見ている。
「実篤様、あいつは短剣を数本持っています」左横にいる彦助が小声で言った。
実篤はこくりと頷いた。実篤にも見えている、男は右手と左手の両方に数本ずつの短剣を握りしめている。
男はなおも近付き、実篤たちまで三十歩程の距離で止まった。男は実篤たちをじっと見ている。明らかに敵意を抱いている。
「そこの男、何か用でもあるのか?」実篤が尋ねた。
男は何も答えない。顔を覆った布の奥から実篤たちをじっと見ている。
「貴様、用がないなら何処かへ行け」彦助が叫んだ。
男は答えない。男は無言のまま、ゆっくりと短剣を持った両手を拡げた。
短剣を投げるつもりなのか?この距離ではこちらに正確に当てられない。そう思いながら実篤は男の様子を伺った。すぐに実篤は気付いた、短剣に見えたのは男自身の爪だ。長くて鋭い爪だ。けれども、あんな短剣のような爪を人間は伸ばせるはずがない、では、こいつが悪魔なのか?悪魔は夜に襲って来るのではないのか?
「あの爪で戦うつもりでしょうか?」左衛門が小声で言った。
「分からん」太った男は悪魔なのか?それさえ実篤には分からない。分からないが、戦うしかないようだ。
「皆、通りに出て散開しろ。いつでも抜刀出来るようにしておけ。菊千代と小栗は巻き込まれないようにもっと後ろへ下がっていろ」
実篤たちはゆっくりと通りに出た。降りしきる雨の中、実篤たちは一定の間隔を取って横に並んだ。実篤は首の後ろに右手を回した。背中に括り付けた日本刀の柄を握り締めた。他の三人も柄を握り締め、いつでも鞘から抜刀できるよう身構えた。
ふと、実篤は懐の翡翠の玉を思い出した。バタン王国の兵士と子どもが襲われた夜、緑色の輝きが部屋から漏れていたと聞いた。あの男が悪魔であれば、この懐にある翡翠の玉も輝いているのだろうか。
男の様子を気にしながら、実篤は左手で胸の部分の服を拡げて覗いてみた。なんと、翡翠の玉が眩しいくらいに輝いている。拡げた所から緑色の輝きが漏れ、雨に濡れた実篤の胸元を明るく照らした。
はっとして実篤は服を直し、すぐに男を見た。男は興奮したように肩を揺らして大きく息をしている。
しまった、見られてしまった。実篤は嫌な予感がした。
次の瞬間、男が得体の知れない気を発したのを実篤は感じた。とても強い気だ。憎シミニ身ヲ委ネヨ・・・、声にならない声を身体が感じた。
突然、周囲の家々から悲鳴や怒鳴り声が聞こえてきた。一つや二つではない。物が壊れる音、殴打する乾いた音、追いかける足音、人が倒れる鈍い音。それらが多くの悲鳴と共に通りのあちこちからいっせいに聞こえてきた。
男の立っている右後ろの家から、右腕から血を流した老いた男が飛び出してきた。男はそのままどさりと泥の中に倒れ込んだ。老いた女が追いかけて出てきた。女は倒れた男の身体に馬乗りになり、奇声を上げながら何度も刃物で刺している。
何が起きている?左衛門たち三人は実篤の指示を待たずに思わず抜刀してしまった。けれども。日本刀を手にしてもどうしたらいいのか分からない。
憎シミニ身ヲ委ネヨ、声にならない声を身体に感じた時、小栗は心の疼きを感じた。それは憎しみの疼きだ。家族を死に追いやった公家への復讐を誓った時と同じ疼きだ。
どうしてなのかは分からないが、小栗は周りの人間を無性に傷つけたくなった。隣にいる菊千代や、菊千代に背負われているわらびを斬りたくなった。
背中にある日本刀を手に取るには、背負っている茶々が邪魔だ。小栗は、背負っている茶々を投げ飛ばしてやりたいと思った。そうだ、それがいい、殺してしまえばいい。
菊池代も声にならない声を感じた。わらびも茶々も目を覚まし、異変を感じていた。嫌な感じがする。茶々は、自分を背持っている小栗の様子がおかしいのにも気付いた。
「小栗さん、駄目っ!」茶々は叫び、手を伸ばして小栗の後頭部を叩いた。小栗が怯んだ隙に茶々は小栗の背中から飛び降り、小栗の足を思い切り蹴飛ばした。
小栗は蹴られた激痛に叫んだ。痛みと叫びで正気に戻った。自分は茶々たちを殺そうとしていたのに気付いた。なぜ殺したいと思ったのか、それは自分でも分からない。
「憎しみに飲まれる、すぐに後ろへ下がって!」「早く、飲みこまれる」茶々とわらびの声に小栗と菊千代は走って逃げた。実篤たちから距離を取った。
周囲の家々からは悲鳴や物が壊される音がいくつも聞こえている。憎しみに飲まれる、飲み込まれる、小栗はおぼろげに理解した。あの声で自分の心の中の憎しみが増幅され、茶々たちを殺そうとしたのだと理解した。
「茶々、ありがとう」小栗は礼を言った。
「小栗さん、もう大丈夫なの?」茶々がおそるおそる尋ねた。
大丈夫、とは答えられない。「分からない、またおかしくなったら蹴ってくれ」小栗はそう言い、男と対峙する実篤たちを見た。
実篤たちの後方からひときわ大きな悲鳴が聞こえた。実篤たちは思わず振り返った。少女が家から通りに飛び出し、父親らしい男が短剣を持って追いかけている。泥水で滑った少女は父親に捕まり、短剣で何度も刺された。すぐに少女は動かなくなった。
血だらけの少女を見て父親は満足そうに笑いだした。父親は実篤に気付き、今度は実篤に向かって短剣を振りかざして近付いてきた。
実篤はまだ抜刀していなかった。ここで殺傷沙汰を起こせば後が面倒になる、それは避けたい。その気持ちが実篤を躊躇わせていた。
父親が奇声を上げ、走って近付いてきた。実篤の前に小太郎が立ち塞がった。
「待て、小太郎っ」
小太郎は父親を素早く斬り倒した。「こいつらの目は尋常ではありません。実篤様、覚悟を決めてください」
実篤はまだ躊躇っている。
「実篤様、お早くっ!」小太郎が叫んだ。
「分かった」実篤も抜刀した。
目の前の家から血だらけの少年が飛び出してきた。手には短剣を持っている。少年は奇声を上げて実篤に向かって駆け寄ってきた。
少年の目を見た実篤はぞっとした。狂気の目だ。実篤は身体を翻して短剣を躱し、日本刀の柄の先端で少年の横腹を強く突いた。少年は大きく息を吐きながら泥水の中に倒れた。実篤は対峙する太った男にすぐに向き直り、日本刀を構え直した。
周囲では怒号や悲鳴が飛び交い、人々は殺し合っている。何が起きているのかまったく分からない。それに、父親も小年もどうして私に襲い掛かろうとしているのか?
冷静を装っても実篤は動揺していた。それは左衛門も小太郎も彦助も同じだ。三人は心が締め付けられるような恐怖を感じていた。
「実篤様、輝きが漏れています」左衛門が叫んだ。
実篤は自分の胸元を見た。ぐっしょりと濡れた胸元の服の下で、いっそう明るさを増した緑色の輝きが透けていた。これだけ輝くと隠しようもない。
もしかして、父親も少年もこの輝きを目印に私に襲い掛かって来たのか?実篤は緑色の輝きが漏れている自分の胸元をもう一度見た。実篤に隙が生じた。
対峙していた太った男が信じられない俊敏さで動いた。両手の爪を拡げ、太った身体が嘘のように飛び跳ねながら向かってきた。男の顔を覆っていた布が勢いで外れ、こぶだらけの醜い顔が見えた。
やられるっ、そう覚悟した瞬間、実篤と男の前に彦助が割って入った。「実篤様に何をするかっ!」彦助は叫びながら両手で握った日本刀を振りかざした。
男の動きは素早かった。彦助の日本刀を左手の爪で弾き返し、右手の爪を水平に振り回した。じゃっ、と衣服が裂けるこもった音が聞こえ、彦助は悲鳴を上げた。服が大きく裂けて夥しい血が流れている。彦助は口からも血を吐き、泥水の中に前のめりに倒れた。
男はそのまま実篤に近付き、今度は左手を振り回してきた。迫ってくる鋭い爪に自分の日本刀を当てがい止めようと、実篤は日本刀の背に左手を添えて構えた。
男の凄まじい力を受けて日本刀は大きな音をたてて折れた。その反動で実篤は泥水の中に横倒しに倒れてしまった。目に泥水が入り、あまりの痛さに実篤は叫んだ。口の中にも泥水が入り、唾を何度も吐き飛ばした。実篤は男の位置を見失っていた。目が開けられない実篤は、折れた日本刀を振り回して男を牽制した。
実篤をかばおうと左衛門が男の前に飛び出した。男の右手の鋭い爪が今度は左衛門の頭を狙った。左衛門も日本刀で鋭い爪を受け止めようとした。思い切り振り回される男の右手の勢いに負け、構えていた日本刀は折れた。鋭い爪はそのまま左衛門の頭の左側に突き刺さった。左衛門の首の骨が折れる大きな音がした。左衛門は喉から咳のような呻き声を一度だけ出し、泥水に崩れ落ちた。
ようやく目を開けられた実篤は、目の前に倒れている左衛門に近付いた。息をしていない、すでに死んでいる。
「迂闊に斬り込むな、とんでもない力だ」実篤が小太郎に叫んだ。男へ斬り掛かろうと間合いを詰めていた小太郎は後退した。
実篤は腹這いのまま彦助ににじり寄った。生きてはいるが、呼吸は弱々しい。
「すまないが借りるぞ」実篤はそう言い、彦助が握っている日本刀を手に取った。実篤は小太郎の所まで泥水の中を這いずり下がった。
小太郎と対峙していた男だが、今はなぜか周囲を見回している。
男との間合いを取った実篤はよろよろと立ち上がった。あらためて男の顔を見た。顔を覆う大小のこぶからは膿が滲み出ている。爛れた鼻と口は元の形を留めていない。正視出来ないくらいに醜い。
やはりこいつが悪魔なのか。しかし、こぶの間に見えている小さな目は何かに怯えているようにも見える。きょろきょろと周囲を見回す挙動も何かに怯えているようだ。急にどうした、いったい何を怯えている?
実篤は背後を振り返った。菊千代と小栗はひさしの下にはいない。通りのもっと後方に退いている。わらびは心配そうにこちらを見ている。茶々は手を合わせて何かを拝んでいるように見える。
通りでは依然として悲鳴と怒号が続いている。いくつもの家々から血まみれの男や女が飛び出し、刃物や短剣を持った家族が止めを刺そうと追い打ちを掛けている。
老いた男に馬乗りになり、刃物を刺していた老いた女がゆっくりと立ち上がった。女は奇声を上げて太った男に向かって走り出した。男は女の刃物を避けようともせず、左手の爪で受け止めた。男は右手の爪で女の首筋を裂いた。女の首から血がどっと噴き出した。女は絶命しながら男の胸元へ倒れ込んだ。男は女を避けようと後ずさりしたが、女の両腕が男の上衣に絡みついた。男は右手で女を払い除けようとするが、長い爪が女の服に刺さり込み上手くいかない。
男の動きが乱れている、小太郎が一気に斬り込んだ。
「無茶だ、小太郎」実篤は叫んだ。
小太郎は両手で握り締めた日本刀を槍のように水平に構え、男の胸元へ目掛けて突進した。男は向かってくる日本刀を左手の爪で大きく払い飛ばした。小太郎は男の動きを見越していた。男の右手の爪は女の服に引っ掛かり使えない。左手は大きく振り切ってしまった、男の胸元は無防備なまま空いている。
小太郎は懐から短刀を素早く取り出し、男の胸元に思い切り突き刺して裂いた。引き裂かれた胸元の皮膚が大きくめくれ、裂け目から紅い輝きが見えている。
男は大きくよろめいたが、すぐに態勢を立て直した。日本刀を振り払った左手に反動を付け、今度は小太郎の腹部を水平に斬り裂いた。小太郎は悲鳴を上げて泥水の中にがくんと倒れた。大きく裂けた服の中から血にまみれた腸が飛び出している。小太郎の周りの泥水が見る見るうちに赤く染まっていった。
実篤は小太郎を助けようとしたが男が立ち塞がった。実篤は後退するしかない。どうすれば男を倒せるのか、いや、どうすれば男から逃げられるのか。実篤は考えた。必死に考えたが何も思い浮かばない。
そこへ小栗が走ってきた。小栗は手拭いを鉢巻きがわりにして額に巻いている。目に雨が流れ込むのを防ぐためだと実篤には分かった。
「翡翠の玉をくれと茶々は言っています。あの男に奪われては駄目だと」
実篤は翡翠の玉を納めている胸元を見た。まだ玉は輝いている。眩しいばかりの輝きが濡れた服を通して見えている。
あいつはこの玉が欲しいのか、でも、どうして欲しがる。実篤はその理由が知りたくなった。次の手を考える時間も欲しかった。
男はゆっくりと実篤に近付き始めている。そこへ、実篤が呼び掛けた。「翡翠の玉が欲しいようだな、お前にとって大切な物なのか?」
男の歩みが止まった。醜いこぶに囲まれた小さな目が実篤をじっと見つめている。
「私の連れは、翡翠の玉を自在に輝かせられるぞ」実篤が続けて言った。
男の目はじっと実篤を見つめている。
「オレヲ、元ノ姿ニ戻シテクレ」男の爛れた口が動いて肉声が聞こえた。さっき頭の中に聞こえた乾いた声と同じだ。それなのに憎悪を感じない。
元に戻してくれとはどういう意味か。玉を欲しがる理由と関係があるのだろうか。実篤は男に応えようと考えた。これで少しは時間が稼げる。
「教えてくれ、元に戻りたいとはどういう意味だ?」
男は何も答えない。実篤をじっと見つめている。
「お前は人間だったのか?」実篤はもう一度尋ねた。
その問いに男は逆上した。醜い顔をさらに醜くした。男は突然に動いた。実篤たちとの間合いを一気に詰め、実篤の胸に鋭い爪を突き刺そうとした。
避けられない、それならば相打ちにしてやる。実篤は右足を一歩退き、腰を屈めて力を溜めた。両手で素早く日本刀の柄を持ち、水平に構えた。日本刀の切っ先は迫って来る男の胸元を狙っている。実篤の後ろでは小栗も日本刀を水平に構えた。
不意に、実篤と小栗の背後から光が飛んできた。矢のように細い緑色の光が音もなく飛んできた。光の矢は二人の間を通り過ぎ、実篤にあと数歩と迫っていた男の胸元へ吸い込まれるように刺さった。紅い輝きがある皮膚の裂け目に刺さった。
ぎゃっ、と男は叫び、仰け反って泥水の中に倒れた。実篤と小栗は数歩下がり、男との間合いを再び拡げた。
「下がりなさい、あなたたちでは倒せません」
背後から若い女の声が聞こえた。実篤と小栗は、男がまだ起き上がれないのを確かめてから後ろを振り返った。
先程よりも近い場所で茶々とわらびは手を繋いで立っている。右側には菊千代が弓を構えて男に狙いを定めている。左側には娘が立っている。初めて見る娘だ。黒灰色の長い髪は雨に濡れ、顔や衣服にへばりついている。端正な顔立ちのようだが、今は無表情に倒れた男を見つめている。
実篤はあっと叫んだ。娘は右腕を真っ直ぐに挙げている。その右手には緑色に輝く玉が握られている。実篤の懐にある玉の輝きと同じだ。娘の胸元にある首飾りの小さな玉も緑色に輝いている。
「気を付けて、立ち上がります」娘は叫んだ。
男はゆっくりと泥水の中から立ち上がった。先程の光の矢が効いているのか、男はふらふらとしている。男は胸の裂け目を見つめて絶叫し、裂け目を守るように左手で覆った。
そんな、一撃で倒せなかった?パールには予想外だった。距離が遠すぎるから?光の矢が雨に当たって勢いが削がれたから?
どちらにしても、あの者は左手で胸に埋め込まれた始祖の玉を隠してしまった。光の矢は始祖の玉に直撃させないと効き目はない。やはり、カウナたちも連れて来るべきだった。
「もう一撃しないと倒せません。あの者が胸の紅い輝きを隠せないよう、あなたたちは左右から斬り込んでください」パールは実篤と小栗へ呼び掛けた。
こちらの手の内を聞かれてしまうが仕方ない、早く倒さねばならない。パールは頭上に掲げた禁忌の玉に再び意識を集中した。
娘の指示する声に実篤と小栗は顔を見合わせた。実篤はふらついている男の動きに注意しながら菊千代に叫んだ。「菊千代、その娘は味方なのかっ?」
菊千代は弓で男に狙いを定めたまま叫び返した。「我らの味方ですっ!」
実篤は菊千代の言葉を信じた。実篤は小栗に目配せした。小栗は小さく頷いた。
「かかれっ!」実篤の叫び声と共に実篤は左側へ、小栗は右側へ斬り込んだ。
男は左手と右手を拡げて実篤と小栗の日本刀を受け止めた。左手の覆いがなくなり、胸の紅い輝きは剝き出しになった。さっきの一撃で男の力は弱くなっているのか、左右から斬り出された日本刀を受け止めたまま男の動きは止まってしまった。
今だわ、パールは禁忌の玉から光の矢を放とうとした。
ところが、男の右手が小栗の日本刀を跳ね飛ばした。左手は実篤の日本刀を受けたままだが、男は右手で胸の紅い輝きをすぐに覆った。
跳ね飛ばされた小栗は泥水の中に倒れた。小栗は泥を左手ですくって男の顔に向かって投げつけた。男の目に泥が掛かり、男は視界を奪われた。
小栗は立ち上がって再び斬り込んだ。右から来る小栗の日本刀を防ごうと、視界が効かない男は右手を振り回している。男の胸元を覆い隠すものは何もない。
「娘、早く放てぇ!」実篤が叫んだ。
実篤と小栗の間を緑色の光の矢が一瞬で通り過ぎた。男の胸元の紅い輝きに光の矢が突き刺さった。男は大きな叫び声を上げた。紅い輝きを放っていた玉に幾筋もの亀裂が入った。紅い輝きは徐々に薄れていく。
男は激痛のあまり、実篤と小栗の日本刀を受け止めていた両腕を闇雲に振り回した。実篤と小栗は急いで男から離れた。
痛みに暴れていた男の動きが突然に止まった。
「頼ムカラ、元ノ姿ニ戻シテクレ、オネガイダ」男は肉声で言った。男は崩れ落ちるように泥水の中へ座り込んだ。
そこへ、パールが駆け寄った。
男はパールを見上げ、爛れた口を歪めた。「オ前ガ古ノ一族ノシャーマン?」男の口調はたどたどしくなっている。紅い輝きも消えかかっている。
パールと男はお互いを見つめた。その瞬間、パールの心の中に男の思いが流れ込んだ。
男はかつて王都に住む貴族の息子だった。王都で一番美しいと言われた美青年だった。青年は貴婦人たちの愛人となり、気ままに暮らしていた。
ある時、青年は貴婦人の一人から永遠の命を一緒に得ようと誘われた。その貴婦人は王都で最も美しい女性だった。貴婦人は青年に言った、私とあなたの美しさは何物にも代え難い、永遠の美として残したい、私はあなたと永遠に愛し合いたい、と。青年と貴婦人は、古の一族のシャーマンから永遠の命を施された。
間もなく戦争が始まった。王都は他国に占領され多くの人々が殺された。青年と貴婦人は逃げるので精一杯だった。財産はなく、住む家もない。二人は当てもなく放浪した。
数百年が経ち、二人の身体は醜く老い始めた。貴婦人は醜くなっていく自分の顔と身体を嘆き、青年の前から姿を消した。それきり、青年は貴婦人と会っていない。青年も醜く老いていく自分に恐怖を感じた。美しかった顔立ちは形の悪い瓜のように膨れ上がった。大小のこぶが顔を醜く覆った。すらりと伸びた身体は太った。
青年の心も醜く歪んでいった。どうして私がこんな酷い目に遭わなければならない、私がどんな悪いことをしたというのだ。青年の心を憎しみが支配していった。青年は幸せそうに暮らす人々を殺し続けた。
もう一度、若い頃の身体に戻りたい、青年はそう願った。元に戻れば、憎しみに飲まれて人々を殺したりしない。かつてのように貴婦人たちと愛し合い、気ままに暮らせられる。
青年は、永遠の命を司るシャーマンを捜すため数百年を放浪した。今、青年は古の一族のシャーマンと出会えた。
「若カッタ頃ノ姿ニ戻リタイ、ドウカ戻シテクレ、オ願イダ」男は悲しそうに叫んだ。けれども、始祖の玉は壊れた。パールには何も出来ない。
男は再び実篤たちを見た。最後の力を振り絞るようにささやいた。「僕ノ名前ハ、アジス・エル・ガスリ、王都クテシフォン一番ノ美男子ダヨ」
胸の紅い輝きが消えた。降りしきる雨の中で男の身体は悪臭を放ちながら溶け始めた。溶けた身体は泥水に混ざり消えていった。
「倒した、のか?」実篤はパールに尋ねた。
パールは悲しそうに頷いた。パールは輝きが消えた禁忌の玉を懐にしまった。首飾りの玉の緑色の輝きもすでに消えている。
実篤は頭から血が引いていくような激しい疲れを感じた。小栗は目の前に横たわる三人の仲間を茫然と見ている。彦助と左衛門はもう動かない。さっきまで弱々しく呻いていた小太郎も動かなくなってしまった。
実篤は後ろを振り返った。菊千代が泥水の上に両膝を付いて、わらびと茶々を抱きしめている。わらびと茶々は声を上げて泣いている。
「ここにいては駄目です、すぐにバグダッドの警備兵がやって来ます」パールが言った。
実篤にもそれは分かっている。目の前には彦助と左衛門と小太郎、通りのあちこちに多くの人々が血を流して死んでいる。男の身体は溶けて跡形もない。これで捕まれば面倒になるのは間違いない。何が起きたのか説明しても信じてはもらえない。しかし、このまま左衛門たちを残しておけない。
「急いで、あなたはあの子たちを守らねばなりません」パールが冷たく諭した。
実篤は気を取り直して倒れている左衛門と彦助、小太郎に駆け寄った。一人ずつ脈を確かめた。三人とも死んでいる。諦めるしかない、ぐずぐずしている暇はない。実篤と小栗は、左衛門たち三人の短刀や身元が分かる遺留品を急いで回収した。
「左衛門、彦助、小太郎、すまない、許してくれ」実篤はそうつぶやき、死んだ三人に向かって両手で素早く合掌した。小栗と菊千代も両手を合わせて別れを告げた。わらびと茶々も手を合わせた。
「私について来てください」そう言ってパールは走り出した。
泥水にまみれて無残に死んでいる三人を残し、実篤たちはパールの後を追って走った。




