第一章 一二一九年、晩春 サフリム(其の三)
第一章 一二一九年、晩春 サフリム(其の三)
部隊へ戻ったゲンツェイは用意された夕食を食べた。岩塩をまぶして焼いた羊肉だった。疲れた身体に合わせたかのように塩気がやや多かったが、それがまたおいしく感じられた。
天山山脈越えでは火を燃やせる場所もなく、こうした焼いた肉は食べられなかった。食べ物と言えば干し肉ばかりだった。ゲンツェイは干し肉が嫌いではないが、何日も続くと嫌になる。
夕食を終えた騎馬兵は草原のあちこちに座っている。ホラズム帝国やイスラム諸国の騎馬兵との戦い方について議論している者もいる。ゲンツェイもその議論に加わった。
ホラズム帝国やイスラム諸国の騎馬兵は、モンゴルの騎馬兵と戦い方が似ているというもっぱらの噂だ。軽装備で馬の脚力を活かし、神出鬼没な攪乱や陽動を行う。また、集団戦による速攻で敵を撃破する。
「奴らの馬は脚が長く、身体も大きい。モンゴルの馬よりも足が速い」「その上、戦い方も我々と似ている」「それが本当なら相当に手強いぞ」そう言っているのは歴戦の騎馬兵だ。彼らは幾つもの激しい戦いを経験している。
「そうでしょうか?連戦連勝の我が騎馬軍勢が負けるとは思えません」年若い一人の騎馬兵が疑問を投げ掛けた。
「いや、まだ見ぬ敵を侮ってはいけない。敵を知らずに勝利を語るのは愚かでしかないぞ」歴戦の騎馬兵は年若い騎馬兵を戒めた。
ゲンツェイも歴戦の騎馬兵と同じ考えだ。昨日は勝ったからと言って、明日も勝てると思ってはいけない。戦場ではそうした奢りや一瞬の気の緩みが敗北に繋がる。
そのうち、アフマド部隊長がやって来た。アフマドは草原のあちこちに散らばっている自分の部隊の騎馬兵を呼び集めた。何事だろうかと、ゲンツェイたちはアフマドの周りに集まった。
「この湖の近くに村がある。四十戸程の集落だ」アフマドは話し始めた。それは占領したばかりの土地で住民と揉め事を起こさないための通知だった。
「見るからに貧しそうな村だが、先行した部隊には抵抗もせず降伏した。村人はモンゴルに服従を誓っているが、無用な衝突を避けるため騎馬兵は村に入ってはならない。分かったな」
アフマドは騎馬兵を見回しながら厳しく命じた。
翌朝、ゲンツェイたちは村を見に行った。部隊長は村に入ってはいけないと言ったが、村を見てはいけないとは言わなかった。
村の近くまで行くと、同じように一人の騎馬兵が村の中をじっと見ているのに出くわした。監視しているというのがふさわしいくらいだ。
ゲンツェイたちはその騎馬兵に声を掛けようとしたが、先にその騎馬兵が気付いた。騎馬兵はなぜか小走りに去って行った。兜の下から覗いている長い髪の毛の色は金色だった。
異国生まれの騎馬兵は珍しくないが、金髪は珍しい。どの部隊の者だろうか、グルディスタン人やキプチャク人の部隊だろうか、ゲンツェイたちはしばらく話し合った。
ゲンツェイたちは気を取り直して村を眺めた。部隊長の言ったとおり、四十戸程の小さな家々が並んでいる。泥煉瓦を積み、泥の漆喰で塗り固めただけの粗末な造りだ。屋根には紐で縛って固めた草葺きが敷き詰められている。一目見ただけで寂れた村だと分かる。
村には破壊されたり火を放たれたりされた跡は見当たらなかった。通りを歩く村人の様子から、普段通りに生活しているのが分かる。部隊長の言ったとおり、村人は抵抗もせず降伏したようだ。いや、こんな小さな村では降伏するしか選択肢はない。
それでいい、降伏すればいい、戦う必要などない。ゲンツェイはそう思った。大ハーンに逆らえばこんな小さな村は燃やされ、住民は皆殺しにされる。降伏すれば大ハーンは破壊も殺戮もしない。モンゴルに服従を誓えば大ハーンは慈悲を与えてくれる。
大ハーンはいかなる国、いかなる民族、いかなる宗教であってもモンゴルへ忠誠を誓えば慈悲と寛容を示した。一方、彼らがモンゴルに敵対すれば慈悲の欠片一つも見せず殺戮と破壊の限りを尽くした。その村や町に住む老若男女を皆殺しにした例も数多い。
なぜそこまで冷酷にするのか、少年騎馬兵として従軍して間もなかったゲンツェイは強く疑問に思っていた。その疑問を親しくなった年上の騎馬兵に尋ねた。
「それこそが大ハーンの狙いだ」
「狙い?何が狙いなのですか?」ゲンツェイは聞き直した。
「女や子どもさえ容赦なく皆殺しにする冷酷さ、残虐さを知らしめる。そうやって敵の戦意を喪失させるのさ。一方で、速やかに降伏すれば慈悲を与えると教える。すると、どんな敵でも喜んでモンゴルに降伏する。つまり、戦わずして多くの町や村を占領出来る」
「でも、なぜそうするのですか?」
「俺たちは何年もの遠征に向かう。それだけでも俺たちの心身は消耗する。遠征で数万人の騎馬兵を統率し、強い士気を保ち続けさせるには、戦わずして勝利するのが何よりも重要なんだよ」年上の騎馬兵はそう言った。
なるほど、とゲンツェイは思った。しかし、それでいいのだろうか。「ですが、皆殺しにする必要が本当にあるのでしょうか?」
ゲンツェイの躊躇いがちな問いに年上の騎馬兵は黙り込むだけだった。
そういう時もあったな、ゲンツェイは遠い記憶を思い出した。あの頃の自分と今の自分とでは違う。今の自分は命令が下れば女も子どもも殺す。実際、何人もこの手で殺した。それでも、あの頃と同じ疑問は心の何処かで持ち続けている。この矛盾をどう理解すればいいのか。
ゲンツェイは寂れた村を眺めながらいつものように考えた。考えたが、いつものように答えは得られなかった。
その日の夕方、夕食を終えたゲンツェイは自分の天幕に戻って剣と弓の手入れをしていた。すると、アフマド部隊長が突然にやって来た。
「グラトフ万人隊長の天幕へ行ってこい、直ちにだ」アフマドはそう指示してさっさと何処かへ行ってしまった。
何だろうか。ゲンツェイは不安を覚えながら万人隊長の天幕へ向かった。万人隊長と言えば、その名のとおり一万人の騎馬兵を指揮する偉い人だ。ゲンツェイのような下っ端の騎馬兵がわざわざ呼び出された例など記憶にない。
ところが、万人隊長の大きな天幕の前には大勢の騎馬兵が集まっていた。部隊の所属はばらばらだが、若い騎馬兵が多い。ざっと数えて百八十人くらいはいる。
「俺たちはどうなるのか」「分からない」「何か罰せられるのだろうか?」「なぜだ、規律は守っているぞ」集まった多くの騎馬兵は不安な気持ちを小声で話し合っていた。
やがて、万人隊長付きの警備兵が全員へ整列を命じた。ゲンツェイたちは天幕の前に整列した。天幕の入口に掛けた幕が開き、大柄なグラトフ万人隊長がゆっくりと出てきた。
ゲンツェイはいつも遠くからグラトフを見ていた。こうして間近で見ると、覇気とも殺気とも思える気を全身から放っているのに驚いた。初老だがその肩の筋肉は隆々と盛り上がっている。立派な顎ひげと大きな鼻、鋭い眼光と相まって堂々たる風格に満ちている。
「貴様らは偉大なるモンゴル軍の騎馬兵だ。騎馬兵は明日の命も知れないのが定めだ。貴様らは故郷の家族との別れを終えているか?」割れんばかりの大声が響いた。
前列に並んでいた長身の騎馬兵が一歩前に進んだ。「この遠征に出発する朝、家族との別れは終えております。我が命はモンゴルと大ハーンに捧げるものと覚悟しております」
「私も同じです」「私もです」他の騎馬兵からも続々と声が続いた。
グラトフは満足したように頷いた。「よろしい、それでこそモンゴル軍の騎馬兵だ」
グラトフは姿勢を正して言葉を続けた。「大ハーンの勅命である。貴様ら二百人はこの地に残り、大ハーンの騎馬軍勢の足となる馬を養い、食料となる羊を増やせよ」
整列していた騎馬兵たちは呆気に取られた。ここに残り、馬を養い、羊を増やせ?どうして?
ゲンツェイも同じ思いだった。しかし、質問などしない。部隊長でもない、ただの騎馬兵が万人隊長に向かって質問するなど許されない。
「ここにキタイは来ておるか?来ておれば前へ出てもらいたい」グラトフはさらに大声を上げた。
「はい、ここにおります」後ろの列から低く落ち着いた声がした。
グラトフの前へ一人の男が現れた。長身の身体に精悍な顔付きの三十歳頃の男だ。
「もしや、キタイ殿が残ってくれるのか」「キタイ殿はかつて万人隊長だった」「そうか、それならば心配はない」整列している騎馬兵から驚きの声が上がった。
グラトフはキタイを自分の横に並ばせた。グラトフは整列した二百人の騎馬兵に怒鳴った。「今後はキタイが貴様らの部隊長となる、心得ておけ」
グラトフの横に立つキタイの顔に驚いた様子はまったくない。キタイにもすでに知らされていたのは間違いない。
「では、それぞれ所属部隊に戻れ。転属処理については部隊長から聞くが良い」それでグラトフの話は終わった。
警備兵は全員の解散を命じた。グラトフはキタイに何かを話し、キタイを外に待たせたまま天幕の中へ颯爽と戻っていった。
ゲンツェイは自分の部隊へ戻った。部隊の騎馬兵は焚火を囲み故郷の話に夢中になっている。ゲンツェイは皆から少し離れた暗がりに力無く座り込んだ。
しばらくするとアフマド部隊長がやって来た。アフマドはイスラムのカリフ朝で生まれた。今から二十年程前に同じネストリウス派の人々とモンゴルまで逃げて来た。モンゴルに忠誠を誓い、今は百人の騎馬兵を率いている。
四十歳近くになるアフマドの風貌は部隊長らしくない。髭を蓄えたいかつい顔は良しとしても、頭髪はすっかり薄く、身体は小柄で痩せている。腕っぷしもまったく弱い。けれども、博識で知力に秀でている。
今回の遠征でも、騎馬兵一人一人を直接統率する部隊長にはアフマドのような者が多い。体格や体力では劣っていても、博識で知力に秀でた者が多い。これは、長期遠征における大ハーンの人事方針による。
部隊長は屈強でなければならないと誰もが考えるが、屈強な部隊長は部下にも同じく屈強を求める傾向がある。短期決戦であればそれも良いが、数年以上の長期遠征となればそうもいかない。強すぎる部隊長と一緒では、部下は心身ともに疲弊してしまう。これでは必要な時に戦えない。
長期遠征において部隊長に求められる資質は、部下の状態を把握し健全に導く指導力、部隊を一つに纏める統率力、いざ戦いとなれば部隊の戦闘能力を最大限に発揮させる指揮力だ。
アフマドはそうした能力を備えた部隊長の典型だ。普段は百人の部下の一人一人を良く観察し、気掛かりな点があれば声を掛けた。部隊で演習を頻繁に行い一人一人の連携意識を高めた。戦いとなれば戦況を読み、攻める時は一気に攻め、退く時は躊躇なく退いた。百人と言う最小単位の兵力を巧みな戦術で指揮し、手強い敵を何度も撃破してきた。
それに、ゲンツェイにとってアフマドは師でもあった。十二歳で騎馬兵となってから五年間、ゲンツェイはずっとアフマドの部隊に所属している。アフマドからはいろいろと教わっていた。戦いの心得や戦術だけではない。アラビア語やイスラムの科学、数学、哲学。そうして学びを受けていた。
単なる騎馬兵で一生を終えるか、それとも部隊長、千人隊長、万人隊長へ昇進するか、それはお前たちの勤勉しだいだ。アフマドが良く言う言葉だ。ゲンツェイもアフマドの教えを熱心に聞いた。その動機は昇進だけではなかった。学問そのものが面白かった。アフマドにとっても、ゲンツェイは優秀な教え子だった。
アフマドはゲンツェイの横にどっこらしょと座り込んだ。
「お前がこれから何をするべきか分かったか?」アフマドは、いつものように淡々とした口調でゲンツェイへ尋ねた。
「馬や羊を養う専任の騎馬兵とは何ですか?戦わずして何が騎馬兵ですか?」ゲンツェイはあからさまに不満を口にした。
普段のゲンツェイならもっと思慮深く話す。相当混乱しているとアフマドは察した。
「我々は西方遠征の最初の難所である天山山脈を越えた。これからはブハラを攻め、サマルカンドを攻め、さらにバクダットを目指す。つまり、私の故郷へ向かって侵攻していく訳だ」
アフマドは淡々として話している。けれども、その口調の裏には複雑な想いがあるとゲンツェイは感じていた。
「バグダッドへ近付くには荒地や砂漠が続く。馬や羊の多くは移動中に消耗する。モンゴル軍の騎馬軍勢にあって馬や羊のいない遠征は考えられない。それは分かるか?」
アフマドの問いにゲンツェイは頷いた。
「大ハーンは考えられた。途中に豊かな草原があれば、その地で馬と羊を養い増やせば良い、とな。つまり、馬と羊の補給地だ。大ハーンは最初の補給地をここに決め、お前たちが選ばれた」
ゲンツェイは納得出来ない。「馬や羊の世話なら、ここの村人に任せればいいだけです」
「すぐには無理だ。村には農耕用のくたびれた馬が数頭いるらしいが、村人は馬の繁殖や育成の仕方も知らないらしい。それに羊を見るのは初めてだと言っている。これほど豊かな草原があるというのに不思議な話だ」
「馬や羊の養い方を教えるために、二百人もの騎馬兵を残すのですか?」
「村人に馬や羊の養い方を教えるためだけではない。村人がモンゴルへの忠誠を翻さないように監視する必要がある。馬や羊を盗みに来る盗賊がいれば、お前たちが退治しなければならない」
「それで、この部隊からは私が選ばれたのですか?」
「そうだ」アフマドはきっぱりと言った。
二百人の騎馬兵がここに残される理由は分かった。その二百人にどうして自分が含まれるのか、やはりゲンツェイには分からない。
ゲンツェイの心を見透かしたようにアフマドは言葉を続けた。「なぜ自分が選ばれたのか、そう言いたげな顔だな」
ゲンツェイは俯いたまま頷いた。
「お前がアラビア語を習得しているからだ。だから、私はグラトフ万人隊長へお前を推薦した。それに、お前は戦いから離れるべきだと私は思っている」
ゲンツェイは顔を上げた。ゲンツェイには部隊長の最後の言葉の意味が分からない。部隊長は何を言おうとしているのだろうか。
「この五年間、お前は多くの戦いを経験した。それでもお前は人を殺すのに慣れなかった」
「それは、私が臆病だという意味ですか?」ゲンツェイは少しむっとした。
「違う。いいか、お前の周りの騎馬兵を見ろ。すべてとは言わないが、人を殺すのに慣れ過ぎてしまっている。殺せば何でも解決すると思っている。そういう者が多過ぎる」アフマドは顔をしかめながら言った。
そう言われると、ゲンツェイにも思い当たることはあった。年上の騎馬兵は闘争心が強い反面、自分を抑えられない。占領した町で、些細な諍いであっても即座に住民を斬り捨てる場面をゲンツェイも幾度か見ていた。
「ですが、馬や羊を盗みに来る盗賊を相手にするなら、そういう騎馬兵こそ残すべきです」
「盗賊相手だけならそれもいい。しかし、大ハーンはそうは考えていない」
「どういう意味ですか?」大ハーンの考えと聞きゲンツェイは興味を持った。
「大ハーンはこの広大な草原をいたく気に入られたらしい。つまり、もう一つのモンゴルをここに造りたいと願っているそうだ」
それはすごい。でも、それが自分に何の関係があるのか。
「お前はアラビア語の読み書きが出来る。学問に対する理解もある。他者への寛容もある。物事をよく考え、冷静さを失わずに行動する」
多分、部隊長は自分を褒めてくれているのだろう。ゲンツェイはそう思って聞いていた。
「村人を監視して盗賊を退治するだけなら勇猛な騎馬兵だけでいい。だが、国を造るのであればまったく違う。他の騎馬兵や村人を束ねて導ける人材が必要になる。お前ならそれが出来る」アフマドはそこで言葉を切った。
それからしばらく、アフマドとゲンツェイは無言で過ごした。
離れた所にある焚火の周りでは若い騎馬兵が馬頭琴を奏でている。他の騎馬兵は馬頭琴の調べに合わせて故郷の歌を唄っている。
「私は、お前を戦いで死なせたくない」アフマドがぽつりと言った。アフマドの思わぬ言葉にゲンツェイははっとした。
「モンゴル軍の破竹の進撃も未来永劫に続きはしない。西方のイスラム諸国やヨーロッパは強大だ。いざ戦えば、我が騎馬軍勢も大きな損失を被る」アフマドは焚火を見ながら言った。「モンゴルも、いずれは戦いではなく調和による繁栄を目指さねばならない時がやって来る。そうした時、お前のような人間が必要になる」
ゲンツェイは何を言えばよいのか分からない。
やがて、ゲンツェイは尋ねた。「私はいつまでここにいなければならないのでしょうか?」
「大ハーンは、モンゴルに忠誠を誓ったこの村に慈悲をお示しした。お前たちは村人を大切にし、導き、共に生きていかねばならない」アフマドの答えは何一つ答えになっていない。
やがて、アフマドはゲンツェイの方を向いて静かに言った。「お前はここで生きる。ここで妻を迎え、子を育てる」
いつの間にか焚火の周りの歌は終わり、騎馬兵たちは自分の天幕に戻ってしまっていた。静寂が夜を支配していた。