第八章 一二二〇年、初夏 バグダッド(其の二)
第八章 一二二〇年、初夏 バグダッド(其の二)
交易商隊の顎髭の男が言ったように、三日目には周囲の景色が変わった。茶色の荒地から緑の草原へ変わっていった。その変わり様は突然で、実篤たちも戸惑うくらいだった。
平坦だった地形も変化し始めた。こんもりと盛り上がった丘が連続して現れるようになった。相変わらず陽射しは厳しいが、荒地で悩まされた照り返しは減って楽になった。何よりも、緑色の草に覆われたなだらかな起伏を見ていると心が落ち着いた。
その日の夕方、実篤たちは野営の準備を始めていた。いつの間にか、ラクダの群れを率いる遊牧民の老人が、同じように野営の準備を始めている。老人との距離は呼べば聞こえるくらいの距離だ。
その内、老人は色褪せた小さな絨毯を草の上に敷き、その上に正座した。何をするのだろうかと見ていると、老人は何かを唱えながら何度もお辞儀をしている。イスラム教の祈りだ。老人は熱心に何度もお辞儀をして祈りを捧げていた。
実篤は老人をじっと見た。白い顎鬚を伸ばして飄々としている老人は、どう見ても悪人には見えない。金目の物はまったく持っていない。盗賊も、これでは諦めて放っておくしかないだろう。
やがて、祈りは終わった。一緒に野営しよう、と実篤は老人に呼び掛けた。野営する時には地元の人間がいると情報収集の助けになる。それに、野営の人数は多い方がいい。人数が多ければ、それだけ盗賊に襲われにくい。
老人は実篤の言葉に頷きもせず、拒みもしなかった。どうするのだろうかと実篤が見ていると、老人は実篤たちの焚火の方へ寄ってきた。老人の後を追うようにラクダの群れもぞろぞろと移動してきた。
近付いた老人は、実篤たちの顔を見て戸惑っている。「お前たちはどこから来た?」
「日本という国だ」
「ああそうか、日本か」老人は思い出したように頷いた。
日本を知っている?驚いた実篤は聞いてみた。「ご老人、日本を知っているのか?」
「知らん、日本などという国の名前は初めて聞いた」老人は日本についてそれ以上は何も言わない。実篤もそれ以上は何も聞かなかった。
彦助と小栗が焼いたパンを実篤は老人にも分けた。老人は礼も言わずにパンを受け取り食べ始めた。実篤たちもパンを食べ始めた。
「ご老人、ここからバグダッドまでどれくらいの日数なのか?」パンを食べながら実篤は老人に尋ねた。
「あと少し、ユーフラテス川に沿って進めばすぐに着く」老人はつまらなそうに答えた。
実篤は首を傾げた。おかしいぞ、バグダッドに辿り着くには、ユーフラテス川ではなくチグリス川に沿って進むはずだ。実篤は老人にチグリス川ではないのか、と尋ねた。
「そうなのか、わしも良くは知らん」老人は答えた。わしはバグダッドなど行ったこともない、と老人は言った。
老人には悪びれた様子はない。おそらく、老人は自分が信じているとおりに実篤に教えただけなのだろう。
食事を終えた頃には空は暗くなっていた。わらびと茶々はいつものとおりに夜空を仰いで星々の観察を始めている。見張りについていない菊千代と小太郎が観察に加わった。菊千代と小太郎の大きな声で、老人は子どもたちが赤い星を観ているのに気付いた。
「どうして赤い星が気になるのか?」老人は実篤に尋ねた。
「赤い星は時折不思議な動きをする。逆行もする。それは、日本では不吉な兆しではないかと言われている」
ふーん、と老人は大きく息を吐いてぽつりと言った。「赤い星は大きな戦いを招くと言われている」
実篤は興味を持った。「大きな戦いを招く、とはどういう意味か?」
老人は白い顎鬚を触りながら話し始めた。「百年以上も昔、赤い星は大きく動いた。すると、ヨーロッパから十字軍がやってきて大きな戦争が起こった。十字軍はエルサレムを占領し、二十万人のイスラム教徒を皆殺しにした。しばらくして、また赤い星が大きく動いた。イスラムの勇敢な兵士が十字軍を全滅させ、エルサレムを奪い返した」
そうか、イスラムの世界では赤い星はそのように見られているのか。国によって捉え方や解釈は異なるが、それでも赤い星の動きにはどの国も注目している。その事実を、実篤は興味深いと思った。
「すべての戦争は赤い星の導きだ」老人は焚火の炎を見つめながら悲しそうに言った。
実篤は老人を見た。焚火の炎が、皺だらけの横顔を揺らめきながら映し出している。その横顔は物悲しそうに見える。
「ご老人、イスラムとヨーロッパはなぜ戦っている?」実篤は聞いた。
老人は焚火の炎を見つめたままだ。「知らん」
「イスラムとヨーロッパの戦いは異なる宗教の戦いだと聞いた」実篤が言うと、老人は実篤に振り向いた。
「お前の国、日本にも宗教はあるのか?」
「ある、仏教と言う」
ぶっきょう、ぶっきょう、と老人は何度か口にした。「そんな宗教は知らんが、その宗教は人を殺せと教えているのか?」
唐突な問いに実篤は驚いた。「馬鹿を言うな。自らを律し、困っている人、助けを求める人を救えと教えている」
老人は深く頷いた。「そうだろうよ、そうでなくてはならん。人を殺せなどと教える宗教が何処にあろうか」
「と言うと、イスラムの宗教もヨーロッパの宗教も?」
「自らを律し、人に慈悲を与えよと教えておる。ヨーロッパの宗教も同様、人々へ慈悲を与えなさいという教えだ。汝は人を殺してはならぬ、汝は人を傷つけてはならぬ、とな」
「では、なぜ戦う。聖地エルサレムで、イスラムとヨーロッパは仲良く暮らせば良いではないか?」実篤は不思議そうに言った。
老人はふーむと喉を低く鳴らした。「無理だ。エルサレムは我らの聖地、聖地から異教徒を追い払え。イスラムの兵士も十字軍の兵士もそう教えられて戦い、死んでいった」
実篤はふと考えた。聖地エルサレムには永遠の命がある。それをイスラムの兵士も十字軍の兵士も知っているのだろうか。そう思った実篤ははっとした。もしかして、聖地エルサレムにある永遠の命を手に入れるため、イスラムとヨーロッパの戦争は始まったのか?
老人は構わず話し続けている。「それが、今ではどうだ?聖地など関係ない、家族や仲間を殺されたからと殺し合っている。まさに怨恨の戦いだ。こうなっては誰にも止められん」老人は独り言のようにつぶやいている。
怨恨による戦い、それが最も厄介だ、誰にも止められない。実篤も頷いた。実篤にもそうした苦い記憶がある。安芸の山奥で山賊を退治していた頃だ。
実篤は揺らめく炎を見つめ、あの頃を思い出した。
山賊退治に志願して間もなく、実篤は不思議に思っていた。山賊退治に何年も従事している古参の武士全員が、異常とも思えるくらいに山賊に対して強い憎しみを持っていた。
もちろん、村々を襲い、罪もない農民を殺す山賊には実篤も憤りを覚えていた。ところが、古参の武士たちの憎しみは正義感から来る憎しみではなかった。得体の知れない激しい憎しみだった。やがて、その憎しみの正体を実篤も知り、実篤も飲み込まれた。
実篤が山賊退治に志願したのと同じ頃、安兵衛、頼近という二人の若武者が山賊退治に志願してきた。年齢が近いせいか、実篤は安兵衛、頼近とすぐに親しくなった。三人は気心の知れた間柄となった。
三人は常に一緒に戦った。攻め込む時は三人で先陣を切って斬り込んだ。退く時は三人で最後尾を守りながら追手を退けた。三人はいつも無傷で生き残った。実篤も、安兵衛も、頼近も、三人が一緒ならどんな戦いでも生き残れると信じていた。
冬の日、実篤たちは山賊の居住地を特定出来そうな千載一遇の機会を得た。山賊に気付かれない内にこちらから急襲すれば、一網打尽に退治出来るかもしれない。
山賊退治の指揮を執っていた綾乃五郎兵は、安兵衛と頼近に居住地への斥候を命じた。暗くなる前には戻って来いという指示を受け、安兵衛と頼近は雪深い山中に消えていった。
しかし、夜になっても安兵衛と頼近は戻らない。明け方になっても戻らない。綾乃五郎兵は、安兵衛と頼近に何かあったと判断した。明け方から全員で二人の捜索に向かった。
斥候となった者が常にするように、安兵衛と頼近も帰りの道を見失わないように行く先々で枝を折って目印を作っていた。その目印は、山賊退治に従事する武士にしか分からないように巧妙に施されていた。
綾乃五郎兵が先頭になり、全員が目印を辿って雪の山中を進んだ。やがて、安兵衛と頼近を発見した。正確に言えば安兵衛と頼近の一部を発見した。枯れ枝に、安兵衛と頼近の短刀を握った手首がそれぞれ紐でぶら下げられていた。目印はそこで途切れていた。
周囲に山賊の気配はなかった。それでも綾乃五郎兵は全員に注意を促し、安兵衛と頼近の遺体を捜すように指示した。山賊の罠かも知れないからだ。
しばらくして、安兵衛と頼近の頭や腕、足が次々と見つかった。顔には夥しい血がこびり付いていた。二人の両目は潰されていた。
「どれも血まみれだ、生きたまま身体を斬り刻んだのだろう」
「むごいな、あいつらは絶対に許せない」古参の武士はそう言い、集められた安兵衛と頼近に手を合わせた。
実篤は茫然としていた。実篤には信じられなかった。どんな激しい戦いでも三人は無傷で生き残ってきた。それが、今は自分しか生きていない。
実篤は泣き叫んだ。なぜだ、どうしてだ、と狂ったように絶叫した。綾乃五郎兵も古参の武士も実篤を放っておいた。それは、彼らも経験してきた悲しみだった。
それから実篤は変わった。目をぎらぎらとさせ、身体全体から殺気を発するようになった。実篤は一人でも先陣を切って山賊に斬り込んでいった。自分の命などあろうがなかろうが構わないという無謀さで斬り込んでいった。
実篤は山賊を容赦なく斬り殺した。命乞いをする山賊の手足を生きたまま斬り落とし、その場に捨て置いた。慈悲の止めなど決して与えなかった。お前らは苦しみながら死ね、生きたまま狐や狸に喰われてしまえ、そう言い捨てた。
綾乃五郎兵や古参の武士は、実篤に何も言わなかった。いずれ、実篤自身が気付く時まで待つしかない。
戦いが終局を迎えていた頃、実篤たちは山賊の最大居住地を急襲した。そこには、山賊に連れ去られて子を産まされた女たちがいた。幼い子どもが大勢いた。
実篤には女も子どもも関係なかった。目の前にいる者はすべて山賊だった。泣き叫んでいようが、命乞いをしていようが、実篤は無言で女や子どもも斬り続けた。
殺戮が終わった時、実篤は全身が返り血でびっしょりと濡れていた。それでもまだ斬り足りないという表情だったが、笑みも浮かべていた。
戦いの後、武具の調達と休息のために全員が山里の村まで後退した。山賊との決戦は目前に迫っており、綾乃五郎兵は全員に万全の準備をさせたかった。村では数名ずつに分かれて農家の家に泊めさせてもらう予定だった。実篤も割り当てられた家に向かった。
家の前では一人の女の子が遊んでいた。実篤に気付いた女の子は実篤を見て震え始めた。あの人は怖い、あの人の目は人の目じゃない、そう言って女の子は泣き始めた。
外の騒ぎに気付いた父親が家から出てきた。父親は女の子を叩いて叱った。お侍様になんて失礼なことを言うのか、そう言って何度も叩いた。父親は実篤に謝った。お侍様、どうかこの子をご勘弁ください、と。
実篤は気付いてしまった。雪でぬかるんだ地面に土下座してまで謝る父親も実篤に怯えている。家の中から様子を伺う母親も婆様も泣きそうな顔で怯えている。実篤は周囲を見回した。女の子の泣き叫ぶ声に様子を見に来た村人たちも、実篤に怯えている。
実篤は目眩のような感覚を覚えながら理解した。今の私は復讐の鬼だ、心も身体も憎しみに蝕まれている。これでは山賊と同じではないか。いや、山賊よりも酷い、今の私は修羅の畜生でしかない。
その夜、実篤だけは村から離れた所に一人で野営した。焚火の揺らめく炎を見つめながら実篤は泣いた。どうして泣くのだろうか、実篤には分からない。悲しい訳ではない、辛い訳でもない。それでも、涙がどんどんと溢れてくる。
「安兵衛、頼近、すまない」思わず実篤は口にした。何を謝っているのか、それも実篤には分からない。それでも、謝らなければいけないと思った。
老人も実篤も焚火の炎を見つめている。燃えかけの木がぱちっと鋭い音を立てた。実篤は音のした辺りの炎を見つめた。ゆらゆらと赤い炎が揺らめいている。
幸いにも自分は心を取り戻せた。憎しみの呪縛からも逃れられた。もし、あのまま憎しみに捕らわれていたら、自分はどうなっていたのだろうか。
「そうだな、ご老人。怨恨による戦いは誰にも止められない。私にも良く分かる」実篤は老人に静かに答えた。
老人は実篤の顔を見つめた。老人は焚火の揺らめく炎に視線を戻した。その夜、実篤と老人はそれ以上の会話はしなかった。
翌朝、実篤と老人は別れた。お互いにもう二度と会わないだろう。実篤は老人の健康を願い、老人は実篤たちの旅の無事を祈った。
それぞれは、それぞれの進む道へ歩いていった。
翌日の午後、実篤たちはユーフラテス川に辿り着いた。実篤は川の大きさに驚いた。川幅はとてつもなく広く、流れる水量は豊かだ。これ程の大きな川は日本にはない。
左衛門たちも呆けた様にユーフラテス川の流れを見ている。ほんの数日前までは一滴の水を得るのも苦労していた。その苦労があるだけに、豊かな水量を見ていると不思議な感覚に陥っていた。
実篤たちはユーフラテス川の岸辺で休憩した。岸辺に生えている低木に服をかけ、ふんどし一つで浅瀬に入った。ひんやりと冷たい川の水が心地良く感じられた。実篤たちは膝の高さまで水に浸かり、久し振りに身体の汗や埃を洗い流した。茶々も下着を着たまま浅瀬に入った。川の水で濡らした布で首筋や腕を丁寧に拭った。
身体を洗い終わった後、実篤たちは低木の木陰で休んだ。茶々の服は膝上までぐっしょりと濡れていたが、しばらくするとすっかり乾いた。それを見て、実篤たちも自分の服をさっそく洗った。縫い目にまで入り込んだ細かい砂を丹念に洗い流した。洗い終わった服は再び低木の上に拡げて乾かした。
その後、実篤たちは川に沿って上流へ進んだ。岸辺のあちこちに集落が点在している。数戸の小さな集落もあれば、百戸を超える大きな集落もある。実篤たちは怪しまれない程度の距離を保ち、集落を眺めながら進んだ。
大きな集落には必ず広場があり、広場を囲む木々には洗濯物が干されていた。どの広場でも子どもたちが駆け回って遊んでいた。女たちも集まって座り込んでいた。女たちはお喋りをしながら、臼のような器を先の丸い棒で突いたりしていた。穀物か木の実でも砕いているのだろうか、と実篤は思った。
一方、男たちは木陰に集まり何かを話し合っていた。どの集落でも、髭面の男たちが気難しそうな顔で集まっていた。道を尋ねたりすると不審な目で見られた。さっさとここから出て行け、とあからさまに怒鳴られたりもした。よそ者は疑われるし嫌われる、サイードの言っていたとおりだった。
実篤は不思議に思った。荒地ですれ違った交易商人の男たちは、砂嵐の見分け方や対処方法、バグダッドへの道を親切に教えてくれた。その他にすれ違った人々も、一言でも二言でも親しく挨拶を交わして通り過ぎた。人も住めない不毛の荒地では誰もがよそ者になる。だから、お互いに何の隔たりも感じないし、困った時は助け合えるのかもしれない。そう考えてみると何となく納得も出来た。
川沿いを歩いていると、時折ぼろぼろの家を見つけた。だいたいは一戸だけ、時には二戸か三戸の家が寄せ合うように並んでいる。枯れ木を紐で結んだだけの壁は隙間だらけだし、屋根は干し草を載せているだけ。家の入口には麻布もなく外から丸見えだ。中は大人が三人でも横になれば窮屈になるくらいに狭い。とても家とは言えない、子どもが遊びで造った隠れ家としか思えない。
ところが、そのような家に家族四人、五人が暮らしている。痩せた夫婦と痩せた子どもたちが道を歩く人々を家の中からじっと見ていた。家財はなく、寝具さえもない。目を背けたくなる程に貧しい人々だ。
これだけ貧しい人々だと、道を尋ねるのも実篤は気が引けた。やがて、ある町で彼らの話を聞いた。彼らは沼地のアラビア人と呼ばれ、集落に住む人々とも交流せずに暮らしているという。そう教えてくれた交易商人の男の口調から、沼地のアラビア人は侮蔑の対象だと実篤には分かった。
実篤はこの土地の風習を知らない。だから、どうしてあれ程までに貧しい人々がいるのか、どうして侮蔑されるのか分からない。ただ、実篤は悲しい気持ちになった。
一方、実篤には楽しみも出来た。それは、数多くのアラビアの馬を間近に見られる楽しみだった。どの集落にも周囲には畑があり、畑では農耕馬が数多く見られた。農耕馬と言っても日本のような小柄で脚の短い馬ではない。背が高く、身体が大きく、四本の脚はすらりと細い。まさに、惚れ惚れするような馬だ。
美しいと思うと半面、実篤はその能力に疑問を持った。畑で鋤を曳くならまだしも、あんな華奢な脚で速く走れるのだろうか。
ある日、道を歩く実篤たちの後ろから、何頭もの馬の蹄が土を蹴る音が聞こえてきた。実篤が振り向くと、四頭の馬が道から少し外れた所を走ってやってくる。それぞれの馬には同じ部族の服装をした若い男が跨っている。男たちは互いの位置を確かめながら、楽しそうに馬に掛け声をかけていた。
どうやら競争をしているだけ、危険はなさそうだ、実篤は頭の後ろに回していた右手を戻した。左衛門たちも同様に手を戻した。実篤たちの頭の後ろには、背中に立てて括り付けた日本刀の柄がある。
安堵した実篤は近付いてくる四頭の馬を見て心底驚いた。全速で駆けているとは思えないし、余力がまだ十分にありそうなのにとても速い。日本の馬など立ち向かえない速さだ。その走りも美しい。長い首筋から伸びるたてがみが風に揺れ、全身は筋肉の塊のように引き締まり、四本のすらりとした脚は力強く大地を蹴っていく。
四頭の馬は瞬く間に彼方へ走り去ってしまった。アラビアの馬は何と美しいのだろうかと実篤は感嘆した。
「モンゴルやイスラムの騎馬兵の強さの秘密が分かりましたよ」珍しく小栗が実篤に話し掛けてきた。
実篤も小栗の言うとおりだと思った。あのような馬に乗れたらどれだけ気持ちいいだろうかと実篤は想像した。一度でいい、あのような美しい馬で駆け巡ってみたいものだと実篤は心から思った。
そうした楽しみはあっても、実篤たちは常に警戒しながら道を進んだ。実篤たちは悪魔を警戒していた。どんな格好をして、いつ襲ってくるのか、それはまったく分からない。
荒地を進んでいた時も悪魔に警戒していたが、それ以前に荒地を生きて越えられるのかという不安が先にあった。それに、見渡す限り平坦な荒地を行き交うのは、その地域を支配する部族の者か交易商人くらいしかいない。近付く者は遠くからでもすぐに分かった。それは夜も同じだ。月明かりはなくても、周りが静寂過ぎるために石や砂を踏む足音で近付く者はすぐに分かった。
ところが、ユーフラテス川沿いに進み始めると状況は変わった。草木が生茂り周囲の視界は遮られた。昼も夜も蛙や鳥の鳴き声、風で擦れ合う木々の葉の音がそこら中から聞こえている。近付く者がいても分からない。行く先々にも集落があり、道を行き交う人も多い。誰が悪魔なのかなど分かるはずもない。だから、いつも警戒しなければならなかった。
幸いにも、これまで悪魔は現れなかった。その代わりに盗賊が現れた。これだけ人が多くなれば盗賊もいるだろう。
その夜の不寝番は菊千代と彦助の二人だった。真夜中になり、菊千代は何かがおかしいと感じた。ユーフラテス川沿いにはかろかろと一晩中鳴く蛙がいる。茶色のぬるぬるとした皮膚の小さな蛙だ。日本の蛙と違って口先がやや尖り、顔だけ見ると蜥蜴にも似ている。その蛙の鳴き声がいつの間にか聞こえなくなっていた。
菊千代は焚火越しに座る彦助の顔を見た。彦助はすでに短刀を取り出し、周囲の気配を探っている。彦助は菊千代の顔を見て小さく頷いた。菊千代は脇に置いている弓矢をそっと手に取った。
その気配から盗賊はかなり近付いている。実篤たちを起こす暇などない。こちらが盗賊に気付いたと分れば一気に襲われてしまう。
「お前の後ろに一人」彦助が日本語で言った。
「そっちの後ろは二人。薪を上に投げて照らせ、弓で射貫く」菊千代も日本語で返した。
彦助は、それと分からないように焚火にくべている手近な薪を左手で握った。
頃合いを見て菊千代が頷いた。彦助は左手に持った薪を頭上へ放り投げ、菊千代の弓の狙いを邪魔しないように地面へ屈み、右へ転がって逃げた。
彦助の背後まで近付いていた盗賊の二人は、頭上に放られた炎に照らされ一目瞭然となった。菊千代が間髪を入れずに二本の矢を続けて放った。二本の矢は胸や首に深々と刺さり、二人はぎゃっという声を出して倒れた。
一方、右へ転がった彦助はすぐに起き上がり、菊千代の背後に迫っていた盗賊の胸めがけて短刀を投げた。菊千代に剣を振り上げていた盗賊の右腕に短刀が突き刺さった。
盗賊は刺さった短刀を左手で抜き、そのまま菊千代に襲い掛かろうとした。そこへ、日本刀を抜いた彦助が突進した。上段の構えから一気に日本刀を振り下ろし、盗賊の首から胸を斬り裂いた。盗賊は口から血の泡を吹き出し倒れた。彦助が振り返ると、菊千代は弓で倒した二人に駆け寄り短刀で止めを刺していた。
すべては一瞬で終わった。物音で目を覚ました実篤が起き上がった。小栗や左衛門、小太郎も起き上がった。その時にはすでに終わっていた。
実篤は彦助と菊千代から事情を聞いた。倒れた男たちの服装や持ち物を調べてみた。身元が分かるような持ち物は何もなかった。実篤は三人の顔を覆う布を剥ぎ取った。彦助に殺された男の顔には、右頬と額に大きな刀傷があった。実篤は男の顔を思い出した。昼間に立ち寄った村で、実篤たちの持ち物を品定めでもするように見ていた男だった。
実篤は三人の遺体をそのままにした。かといって、朝まで遺体と一緒にいる訳にはいかない。眠っているわらびと茶々を実篤と左衛門がそれぞれ抱っこした。小栗と小太郎が近くの草むらに繋いでいたラクダ二頭を連れてきた。小栗と小太郎は荷物をラクダに乗せた。その間、彦助と菊千代は返り血の付いた服を川岸で洗った。
かろかろと蛙がまた鳴き始めた。わらびと茶々を抱っこしている実篤と左衛門を除く全員が、焚火の中から松明になりそうな薪を拾った。実篤たちは出発した。




