第七章 一二二〇年、春 ウル・カスル(其の四)
第七章 一二二〇年、春 ウル・カスル(其の四)
午後の陽射しは強いが、また冷たい風が吹き始めている。荷積みも終わり、船員は出航前の最終確認を船の各所で行っている。
出航すれば狭い船内で誰にも聞かれずに会話をするのは難しい。今しかないか、そう思い左衛門は小栗に声を掛けた。
「ちょっと話がある、誰にも聞かれたくないから船を降りるぞ」
小栗は嫌そうな顔をしたが左衛門の後をついて行った。二人は桟橋を降り、交易船が見えなくなる所まで歩いた。周りでは他の船の荷物を担いだ人夫が行きかっている。
左衛門は足を止めて小栗へ振り返った。「貴様、小太郎を言いくるめているようだな。それに先程の実篤様への無礼と言い、何を企んでいる?」
日本語だった。左衛門が日本語を使った理由を小栗も即座に理解した。他の者に聞かれてはまずい話だ。
「企むも何もない、私は帝様の御身と日本の行く末を案じているだけだ」小栗も日本語で返した。小栗の表情はいつもと変わらない。
「嘘を付くな。貴様は謀反を企てていると小太郎から聞いたぞ」
謀反と言われて小栗は意外そうな顔をした。「左衛門こそ何を言っている、それはお前の勘違いだ」
「では、役人や公家を敵視するような発言をどうして小太郎にした?」
「帝様により良い国を造っていただきたいからだ。では尋ねるが、左衛門はどう思っているのか。役人や公家が日本を良い国にしようと日々努力していると思っているのか?百姓や町民の貧しさや辛さを思い、彼らを助けようと尽力していると思っているのか?」小栗は左衛門を問い詰めた。
「それは、それは関係ない」
「関係なくなどない。このまま帝様が永遠の命を得てみろ、朝廷の役人や公家は安堵し、今まで以上に自分たちの保身しか考えなくなる」
左衛門は押し黙った。小栗の言い分は分かっている、百姓や町民の生活は苦しくなるばかりだと左衛門も知っている。この数年は夏が涼し過ぎた。稲穂は実らず、多くの村で百姓が飢え死にした。左衛門も領内を移動する時、百姓と思われる行き倒れの死体を数多く見た。それらは道端に捨てられたまま狐や野犬に食い荒らされていた。
忘れられないのは、生後三カ月程の乳飲み子を連れた女の行き倒れだ。骨と皮だけの母親に抱かれた乳飲み子は頬骨が浮き出ていた。その口元は何の膨らみもない母親の乳首に添えてあった。あまりの悲惨さにいたたまれず、左衛門は手を合わせて逃げるようにその場を去った。
押し黙ったままの左衛門に小栗は話し続けた。「いいか、干ばつだろうと冷夏だろうと、朝廷は年貢の量を毎年のように増やして徴収している。百姓たちはもう限界だ。佐々木様の手元には領内の村々から年貢の減免の嘆願書がいくつも届いている。佐々木様も百姓の身を案じ、朝廷へ出向いて役人へ訴えられている。このままでは百姓が死に絶え領内は維持できません、このままでは日本中の所領が崩壊します。飢饉ゆえ百姓の年貢の減免を何卒お願いします、そう訴えられている」
それは、左衛門にしてみれば初めて聞く話だ。小栗はエルサレム行きが決まるまで佐々木家に仕えていた。だからこういう話を知っているのだろう。一方、佐々木様であればきっとそうされるに違いないだろうと左衛門にも容易に想像出来た。佐々木様は領内の民を思われる気持ちがとても強い。
「ところが、役人は佐々木様の願いを聞くどころか激怒したそうだ。百姓は米を隠し持っている、お前は百姓に騙されている、減らしてくれなどと言う百姓からは去年の倍の年貢を取り立てよ、とな」小栗は淡々と話していたが、その目は明らかに怒りに燃えている。
「それに、公家の中には朝廷から支給される米を町民に売って儲けている奴がいる。それで公家の連中は私腹を肥やしている」
「しかし、それでは公家が食べる米が無くなるではないか?」左衛門は尋ねた。
小栗は左衛門を睨んだ。まだ分からないのか、という顔をしている。
「よく考えろ、朝廷の役人は年貢の取り立て量を増やしている。必要以上に取り立てている。役人と公家は結託している。帝様には気付かれぬよう、余っている米は公家を通して町民に売り、役人も私腹を肥やしている」
左衛門は衝撃を受けた。そこまで朝廷は腐っているのか。
「かつての平家の横暴を今は役人や公家が引き継いでいる。いや、平家以上に腐りきっている。あいつらは追放せねばならない。そうしないと日本はおかしくなってしまう」
左衛門も思い出した。年長の武士が集まれば、朝廷の役人や公家の贅沢三昧を苦々しく話し合う。ただ左衛門は、それは身分の違いによるものだから仕方ないと思っていた。ところが、その贅沢三昧が多くの百姓を飢え死にさせ、町民のなけなしの金銭を搾取した末のものであれば、断じて許されるものではない。
「お前の言い分は分かった。しかし、役人や公家にも立派な方はおられる。そうした方まで追放するのか?」
小栗はゆっくりと頷いた。「確かに立派な方もおられる。そうした方たちには残っていただく。腐敗した役人や公家を追放するのを手伝ってもらう」
小栗はそこまで言ってなぜか言葉を止め、再び話し始めた。「ただ、何もお咎め無しという訳にはいかない。その立派な方たちも、役人や公家の腐敗を少なからず知っている。それなのに改めようとしない、何も動こうとしない。それでは腐敗の助長に手を貸しているのと一緒ではないか」
それはそうだ、と左衛門も思った。それはそうだが、小栗の言うとおりに役人や公家を追放しようとすれば、保身を考える彼らは武士が謀反を起こしたと先手を打って帝様に伝えるに違いない。朝廷から外へ出ない帝様は役人や公家の話を信じるしかない。そうなれば、我々は朝廷に歯向かう逆賊にされてしまう。
しかも、武士も一枚岩ではない。北条家に従う東日本の武将は、この混乱を必ず利用するだろう。西日本の逆賊から朝廷を守るためと偽り、これ幸いにとばかり西日本の守護に攻め入るかもしれない。西日本の守護が無力化すれば、北条家はじめ東日本の武将は苦も無く京を包囲し朝廷に攻め入れられる。
左衛門はそうした懸念を小栗に伝えた。それでも、小栗はまったく動じない。「もちろん、そうした想定はしている。だからこそ準備をしている」
左衛門ははっとして顔を強張らせた。「貴様、準備とは何か?言えっ!」
詰め寄る左衛門を小栗は冷静に見返している。「左衛門、落ち着け。このような大きな企ては相応の立場のお方しか出来ない。私はそのお方の手足に過ぎない。私だけでいったい何が出来る?」
「それはそうだが、では、誰がこの企てを考えた?」
「私は左衛門に協力して欲しいと考えている、だから話す。その前に、他の誰にも決して言わないと約束してくれ。いいか?」
「協力するかどうかはまだ答えられない。だが、誰にも言わない」冷静さを取り戻した左衛門は小栗の目をじっと見つめて答えた。
「企てたのは藤原忠綱様と佐々木経久様だ。まず、佐々木様が西日本各地の守護を束ねて動き京の町を包囲する、同時に藤原様が帝様に真相を伝えご理解を賜る手筈になっている」
左衛門は驚いた。藤原忠綱様と佐々木経久様だと?お二人はエルサレムへ永遠の命を授かりに行くために我らを人選し、資金や物資を調達された当事者ではないか。
「藤原様も佐々木様も、最初からこの企てを考えていたのか?」
小栗は頷いた。「そうだ。藤原様は、かねてから役人や公家の腐敗を一掃したいと考えられていた。腐った役人や公家から帝様を救い、日本の国を立て直したいというのがお二人の願いだ。そのための切り札が永遠の命という訳だ」
「その切り札をどうやって使う?」
「役人や公家にはこれまでの腐敗に対する罪を問い、永遠の命を持ち帰った武士の功を認めさせる。帝様と日本を守れるのは武士だけだと言い渡す。その上で、今後の生活の保証を条件に京を離れて隠棲していただく。もともと保身しか考えなかった連中だ、生活の保証さえしてやれば多くは文句さえ言わないだろう」
それで役人や公家は納得するのか?左衛門は疑問に思った。
左衛門の疑問を察したのか、小栗は言葉を続けた。「もちろん、皆が言うとおりに従うとはお二人も思ってなどいない。従わない者は汚職や背信の罪で罰するしかない」
左衛門はしばらく考えた。「では、藤原様は?あの方も朝廷の役人だぞ」
「藤原様は残る。残らねばならない。必要な方には残っていただくとさっき言ったではないか。武士が内裏で出仕して儀式など出来ない。政務についても同様だ。朝廷の要職すべてを武士だけで出来るはずもない」何を当たり前の話をしているのだと言わんばかりに、小栗は左衛門に言い返した。
「しかし、藤原様だって役人の汚職を見て見ぬ振りをしていたのではないのか?それなのに何のお咎めも無しなのか?」
左衛門はどうも合点がいかない。言い方は悪いが、藤原様こそ今の朝廷に謀反を起こそうとしている。
「藤原様だけが得をすると言いたいのか?それは間違いだ。藤原様は見て見ぬ振りをしていたのではない。朝廷を改めるきっかけを捜していた。そのきっかけとして見つけたのが永遠の命だ。それに、藤原様は朝廷には残るが、高い役職は不要だと言っておられる。藤原様は自身の出世や権力欲しさに動いているのではない。あの方はこれからの日本を考えて行動しておられる。それは信じて欲しい」
左衛門もようやく納得した。それでも、藤原様と佐々木様が考えているような企てが本当に実現出来るのだろうか。
「左衛門、こうするしかない。北条家の脅威が増す中、真っ向から武士と朝廷が対峙すれば、それこそ日本は戦乱の波に飲まれる。それに、これからの朝廷は役人や公家だけではやっていけない。武士が執り仕切らねばならない」
左衛門は再び戸惑った。なぜ、政に武士が必要なのだろうか?
「いいか、これからの朝廷は国を治めるだけでは駄目だ。国を守る仕組みを考え、それを実行しなければならない」
「国を守る?どう言う意味だ。」
左衛門の問いに小栗は落胆の表情を見せた。「臨安で老人に教わった話を忘れたのか?日本の武士は装備も戦い方も遅れている。名乗りを上げて悠長に一対一で戦っているのは日本だけだ。モンゴルやエルサレムでは数万人の兵士が戦う集団戦だ。武具も戦法も遥かに進んでいる。だから、日本も備えをしなければならない」
確かに、臨安では宋の部隊長だった老人から世界の国々の戦い方を教えてもらった。それは世界の国々だ、日本は関係ない。「何の備えだ?日本は四方を海に守られている。まさか、何処からか日本へ攻めて来るとでもお前は本気で考えているのか?」
左衛門は茶化すようにおどけて言った。しかし、小栗は真剣に頷いている。
「私はサイードからいろいろと教えてもらった。異国の造船技術や航海技術は驚異的に進んでいる。今や南宋は強大な水軍を持ち、南方の島々へ進出している。ヨーロッパの十字軍は数万人の兵士を船で移動させている。膨大な兵士や武具、物資を運ぶには船は最適だ」
「だからと言って、何処の国が日本へ攻めて来る?」
「それは、分からん」
「ならば、そのような心配は無用だ」
話を終えて船に戻ろうとする左衛門を小栗は遮った。
「では、今後も数万人の異国の兵士が日本へ上陸して来るなどあり得ない、左衛門は帝様にそう誓えるのか?」
「先の出来事など分かるはずがない」
「では、日本の武士は異国の兵士との集団戦で勝てるのか?」
「やってみなければ分からん」
「左衛門の認識はその程度なのか?それで日本が負けたら、お前は帝様に何と詫びるつもりだ。異国から兵士が来るとは思いませんでした、勝つか負けるかはやってみなければ分かりませんでした、でも負けました、とでも詫びるのか」
小栗の口調は冷静なままだが、いつの間にか小栗は左衛門に詰め寄っている。
「では、どうすれば良い?」左衛門は根負けしたように聞いた。
「日本は万全の備えをすべきだ。日本へ帰ったら、私は佐々木様にそのように進言する。武具の強化、兵力再編、集団戦の導入は国を挙げて行う必要がある。それに、もっといい考えもある」
そこまで言った小栗は、誰も聞いていないのを確かめるように再び周りを見回した。三人の人夫が荷物を肩に担いでこちらに近付いている。小栗は人夫が通り過ぎるのを待った。
左衛門は怪訝に思った。今はお互いに日本語で話している、例え隣に人夫がいても、何を話しているのか分かるはずがない。
小栗は左衛門に近付き、小声で囁いた。「ここからは私の考えだ。私が異国の造船や航海の技術を持ち帰る。異国と戦っても負けないように武士を鍛練する。武具も一新する。そうすれば、いずれは日本から異国へ侵攻するのも可能になる。良い考えだと思わないか?」
左衛門は驚いた。左衛門は小栗の顔をまじまじと見つめた。小栗はどうだと言わんばかりに左衛門を見返して笑っている。
左衛門は返答しなかった。返答など出来ない、小栗の考えは飛躍し過ぎ、かつ危険だ。返答に窮した左衛門は無理やり話を切り上げた。もうすぐ交易船は出航する、急いで戻らねばならない、と小栗を促した。
交易船に戻る途中、左衛門は小栗に尋ねた。「貴様が教えてくれた話を、実篤様はどこまでご存知なのか?」
小栗は首を横に振った。「なぜ、話さなければならない?実篤様の使命は永遠の命を持ち帰ることだけだ。藤原様や佐々木様が役人や公家を追い払うと知れば、実篤様は間違いなく躊躇する。話せる訳がないだろう」
「それはどうしてか?」左衛門は聞き返した。
小栗はやれやれといった表情をしている。「近江守護は京に近い。だから、朝廷の腐敗も身近に知っている。しかし、実篤様は大宰府で生まれ育った。安芸にも数年おられたが、朝廷の腐敗の詳細などおそらく知らない。それに、わらびと茶々のこともある。だから、話せばきっと反対してしまう」
「そうか、陰陽師は公家に準ずるから、公家が追放となればあの子たちも同じように追放されるからだな」
そこまで言って左衛門は新たな疑問を覚えた。「それでも、永遠の命を持って日本へ帰れば、役人や公家を追放する企ては実篤様も知る。その時、実篤様やあの子たちが永遠の命を手渡すのを拒んだらどうする?」
小栗は答えない。左衛門を無視して小栗は歩き続けている。サイードの交易船が見えてきた。船員たちの動きは少なくなっている。出港前の作業はほぼ終わったようだ。
小栗は突然立ち止り、左衛門へ振り向いて答えた。「その時は実篤様を斬るしかない」
小栗は左衛門を見つめている。左衛門は言葉が出ない。左衛門は、小栗の目の中に得体の知れない闇を見たような気がした。
交易船はグワダルを出港した。四つの帆に強い風を受け、青く澄み渡った空の下を西へ向かって進み始めた。
甲板に一人で立つ小栗には、左衛門と話し合った興奮がまだ残っている。自分に何かあれば左衛門が皆を指揮しろ、と実篤様は明言された。そうであれば、左衛門はどうしてもこちら側に取り込まなければならない。
小栗は、近江を出発する間際に藤原忠綱、佐々木経久と三人だけで話し合った時を思い出していた。
「この企ては、エルサレムへ向かう五人の中でお前しか知らない」佐々木経久は小栗にそう言った。「出来るなら、他の四人も折りを見て説得し、賛同を得ておけ」
他の四人という言葉が小栗は気になった。「それは、唐橋実篤様はすでにご存じという意味でしょうか?」小栗は尋ねた。この時、小栗は実篤にまだ会っていなかった。
佐々木経久は首を横に振った。「唐橋家は安倍家と懇意にしている。実篤にすれば安倍晴幸は兄のような存在であり、わらびと茶々は弟や妹と同然の間柄だ。公家を一掃すると聞けば、正直な男だけにきっと心を乱すに違いない」
藤原忠綱も頷いた。「実篤は仕える事しか知らない。武術に優れた男だが、時代を変える器ではない」
藤原忠綱は小栗の目をじっと見て諭すように言った。まるで、お前こそ時代を変えられるとでも誘っているかのように小栗は感じた。
そんなに上手く変えられるのだろうか、小栗は半信半疑だった。一方、変えられるものなら変えたいと小栗は思った。そうすれば、復讐も遂げられる。
甲板に立つ小栗の目に青く澄み切った青空など映っていない。公家に対する深い憎しみが映っているだけだ。
「小梅、お前の無念はきっと晴らしてやるからな」
笑顔のかわいかった妹の面影を小栗は思い出そうとした。けれども、いつも思い出されるのは、琵琶の湖に身を投げた妹の変わり果てた姿だ。血の気もなく、醜く膨れ上がった白い顔には澱んだ目が大きく見開いていた。清楚で可憐だった妹があれ程まで醜くなった。いや、公家に醜くされ、殺された。妹だけではない、父も母も兄も公家に殺された。
小栗の父親は公家から高額な利子で金を借りていたが、夜道を歩いていた時に何者かに襲われて斬り殺された。残された病弱な母親、兄の松重、小栗、妹の小梅の四人に借りた金を支払うのは到底無理だった。
それでも、松重と小栗は商人の家に奉公して必死に金銭を稼いだ。ところが、小栗が疲労で倒れた。小栗の分も昼夜を問わず懸命に働いた松重は、無理がたたって発作で死んだ。病弱な母親は、もはや小梅をその公家の妾として差し出すしかなかった。
その後、母親は気が触れて家に火を付けた。自らの身体を燃え盛る炎の中に投げた。家族も住まいも失った小栗は、佐々木経久の家に引き取られた。
しばらくして、公家の妾となっていた小梅も琵琶の湖に身を投げた。
小栗から妹の死を聞き、佐々木経久は葬儀を手配してくれた。多額のお布施まで出してくれた。どうして妹が自死したのか、佐々木経久は何も聞かずにいてくれた。
小梅の葬儀から数日後、佐々木経久は役人や公家の腐敗を小栗に話した。年貢の米を不正に売って儲け、儲けた金で金貸しをしてさらに私腹を肥やしていると小栗に教えた。
「お前の妹は公家の妾だったと噂で聞き、もしかしてと思ってな」
小栗は、父親に金を貸した公家の名前を佐々木経久に告げた。佐々木経久は頷いた。目当ての娘を奪い取る目的で、返せる当てもないのに過大に金を貸している奴だ、おそらく父親もその公家の手の者に殺されたのだろう、と小栗に教えた。さらに、腐敗した朝廷の役人や公家の悪行の数々を小栗に教えた。
小栗の心は役人や公家に対する憎しみに染まった。
佐々木経久は言った。「日本をより良き国とするため、お前にも手伝ってもらいたい。腐った役人や公家を一掃する」
憎しみに燃える目で小栗は答えた。「ぜひ、私に手伝わせてください」
佐々木経久は小栗を藤原忠綱に会わせた。当初、藤原忠綱は小栗が役に立つのか見極められなかった。それでも、小栗とじっくり話し合う内に藤原忠綱の考えは変わった。小栗の公家に対する憎悪が揺るぎないものだと確認出来たからだ。
人間の感情の中で最も力強いのは憎しみだ。憎しみは年月の経過にも劣化しない。いつまでも心の中に燃え続ける。今の小栗は公家への憎悪だけで生きている。小栗をエルサレムへ向かわせよう、小栗なら目的を見失ったりしない。
やがて、藤原忠綱は小栗の優れた資質にも気付いた。小栗には武士と役人の双方の良い資質があった。何事にも動じない勇気があり、思考は聡明で理論的だ。小栗のような若者こそ、自分や佐々木経久が考える新しい朝廷に必要な人材だと考えた。
藤原忠綱は小栗に指示した、エルサレムとの往復で立ち寄る国々の情報を出来るだけ持ち帰れ、さまざまな国の統治や税制、日本との交易の可能性、保有する兵力や武具の種類について調べておけ、と指示した。
藤原忠綱は、新しい朝廷が導く日本を具体的に思い描いていた。積極的に周辺の国々へ使者を出し、それらの国々と交易を推進し、莫大な富を得る。その富を使い、治水や土地改良を進めて田畑を整備し食糧を十分に確保する。さらに、商業や工業を発展させて揺るぎない富国とする。同時に、大陸の強国に対抗しうる兵力を早急に備える。そう思い描く日本を実現するためにも、先進的な国々の情報は欠かせない。
小栗は、藤原忠綱と佐々木経久の企てにこうして深く関わっていった。もちろん、小栗自身もこの企てを成し遂げるつもりだ。家族を死に追いやった奴らに復讐してやる、必ず仇を取ってやる、そう決意していた。
「今に見ていろ、あいつらを地獄へ突き落としてやる」甲板に姿勢正しく立ったまま、小栗は楽しそうにつぶやいた。
一二二〇年の春、交易船はペルシャ湾の奥にあるウル・カスルに着いた。到着後、実篤たちは陸路を進む装備の調達を始めた。いざ始めると日数が掛かりそうだと分かった。
実篤は、準備が終わるまで交易船に泊めさせてもらえないかとサイードに相談した。そうすれば宿泊費は節約でき、装備を調達する資金に回せる。何よりも、住み慣れた交易船は安心出来る。
サイードはにやりと笑って了承した。「いいだろう、十日間は荷降ろしと荷積みで交易船を動かせられない」
実篤はバグダッドまで馬で移動しようと考えていた。しかし、サイードはラクダがいいと言った。ラクダは安いし丈夫だと教えてくれた。実際、ラクダは安かった。馬はとても高額だった。
実篤は二頭のラクダを買った。一頭にはわらびと茶々を乗せ、もう一頭には荷物を載せるつもりだ。実篤や左衛門たちは歩くしかない。一人一人にラクダを買うような資金の余裕はない。この先も何があるかは分からないから資金は無駄に使えない。
それに、サイードが言うように、バグダッドまでずっと平地が続くのであれば歩くのは負担ではない。長い船旅で足腰は確実に弱っているから、歩いて鍛え直すにはいい。
実篤はラクダを売ってくれた交易商人にバグダッドへの道のりを尋ねた。
「ウル・カスルから北西へ進み、ユーフラテス川にぶつかったら川に沿って上流へ進め。バビロンの遺跡まで二十五日くらいだろう。遺跡はとんでもなく大きいからすぐに分かる。バビロンの遺跡から北に向かい、チグリス川まで二日、その後は川沿いに上流へ進みバグダッドまで四日で行ける」
交易船に戻ってから、実篤はサイードにバグダッドへの道のりをあらためて尋ねた。サイードの答も同じだった。
実篤はサイードにもう一つ尋ねてみた。今では、実篤たちは武士の髪形を止め、イスラムの服を着ている。それでも、日本人はイスラムの人々と顔付きが異なる。果たして、道中で私たちは怪しまれたりしないだろうか。
サイードは笑い、気にするなと言った。「バグダッドには、それこそ世界から様々な人種が訪れている。それに、お前たちはアラビア語を流暢に話せるじゃないか。堂々としていれば誰もお前たちを怪しまないさ」
そんなものなのか、実篤は少し安堵した。
出発の日、サイードとの別れの日が来た。サイードの浅黒で険しい顔が見るからに寂しそうになっている。大柄なサイードは実篤たちを一人ずつ抱きしめた。わらびと茶々はご丁寧に抱っこまでされた。サイードにこんな繊細な感情があったのかと誰もが驚いた。
「みんな無事に戻って来い、帰る時も臨安までわしが送ってやる」そう言って、サイードは別れを告げた。
実篤たちのバグダッド訪問の目的は交易調査だ、などとサイードは信じていない。交易を望む親書の封筒は見せてもらったが、実篤たちの中で交易の才覚に長けた者は小栗くらいだ。結局、実篤から旅の本当の目的は教えてはもらえないままだった。
それでもサイードに不満はない。それは、自分が信用されていないからではない。日本人たちには言えない事情がある。そうしたことは他でもよくある。
サイードは、実篤たちの道中の無事を心から願っていた。
実篤たちはイスラムのゆったりとした服に身を包み、頭には布地を巻いて歩いた。ラクダのこぶの間に据えられた牛皮の鞍には、わらびと茶々が仲良く座っている。ラクダが歩くのにつれて二人の身体も右に左に揺れている。
実篤は、背中に日本刀を立てて括り付けている。重くて嵩張る日本刀を腰に付けていると歩き辛いからだ。もちろん、日本刀を背負っても重いが、その重みは身体の縦軸に重なり歩きやすい。いざと言う時は、頭の後ろに両手を寄せればすぐに抜刀出来る。実篤は、安芸の山中でも背中に日本刀を括り付けて駆け回っていた。
颯爽と歩く実篤の姿を見て、左衛門たちもすぐに真似てみた。背中に日本刀を括り付けるとずいぶんと歩きやすくなった。
わらびと茶々が乗ったラクダの手綱を曳く実篤は後ろへ振り向いた。小太郎が隣の彦助に話し掛けている。その後ろには小栗と菊千代、最後尾には荷物を載せたラクダの手綱を左衛門が曳いている。
サイードの言ったとおり、周りの人々は実篤たちを気にしている様子はない。まずは順調な滑り出だしだな、と実篤は思った。安心すると同時に実篤は気を引き締めた。今までは交易船に乗って安全に進めた。これからは陸路だ。何処に危険が潜んでいるのか分からない。その危険の最たるものは悪魔だ。
悪魔はどんな姿をしているのだろう、実篤は歩きながら考えた。それでも、一人で悩んでいた頃の漠然とした不安はもうない。いつでも何処でも対応出来るよう、今では全員が緊張感を持ち周囲に気を配っている。悪魔を撃退出来るかどうか、それは分からない。それでも、一方的に悪魔にやられるつもりもない。
実篤は背筋を伸ばし、胸を張って歩き続けている。左衛門たちも同じだ。堂々と歩く実篤たちの姿は周囲にすっかり溶け込んでいた。




