第六章 一二二〇年、冬 アイ・ハヌム(其の三)
第六章 一二二〇年、冬 アイ・ハヌム(其の三)
千五百年も昔、老人はまだ青年だった。青年は下級神官として、アイ・ハヌムの町の中心にある神殿に仕えていた。
神殿にはオリュンポス十二神が祀られていた。神々の王である全能の神ゼウス、ゼウスの妻で神々の女王ヘラ、知識の神アテナ、芸術の神アポロン、愛と美の神アフロディア、戦いの神アレス、豊穣の神アルテミス、大地の神デメテル、鍛冶の神ヘファイストス、旅人の神ヘルメス、海の神ポセイドン、家の神ヘスティア。神殿の壁面には、十二神の彫刻が彫られ美しい色彩で彩られていた。
神殿には鋼で造られた円盤があった。料理皿くらいの大きさだ。暗灰色に塗られた表面には、二頭のライオンが曳くペルシャ戦車に乗った女神キュベレイと翼を持つ女神ニケ、祭壇に立つ神官、天空には太陽の神ヘリオスと三日月と星が描かれていた。
円盤に描かれた神々は銀と金の鍍金で美しく仕上げられ、いつも輝いていた。青年はそこに描かれた暗黒の世界に輝く神々に魅了された。人智を超えた美しい姿に、背筋が凍るような畏怖を感じていた。
青年はマケドニアからアイ・ハヌムに移住していた。アイ・ハヌムは、故郷マケドニアの町と同じように美しい町だ。遠くを流れる大河から繋がる水路のおかげで、町は豊かな水と緑に潤っていた。町の周辺にも水路は巡らされ、開墾された農地では麦や野菜、果物が豊かに実っていた。
もともとアイ・ハヌムは草木も生えず、大小の岩が転がるだけの荒地だった。この不毛の地にアレクサンダー大王が町を造ったのは、近郊の鉱山からルビーやサファイヤといった宝石が掘り出されるからだ。特に、希少価値の高いラピスラズリが採掘出来るのはこの鉱山だけだった。採掘されたラピスラズリは帝国の貴重な交易品だった。
アレクサンダー大王は侵略だけで帝国を発展させたのではない。こうした交易により莫大な富を得て、発展の原資とした。
ある日、神殿に帝都バビロンから密使がやって来た。密使には連れがいた。裾長の純白のスカートを纏った老女だった。老女は、小さな翡翠を連ねた首飾りを身に付けていた。
神殿の上級神官と密使は長い時間を話し合った。やがて、青年は上級神官に呼ばれた。密使は口と鼻を布で覆い、名前すら名乗らなかった。
密使は青年にいろいろと質問した。密使は青年に裸になれと命令した。否応もなく、訳も分からず、青年は命令に従わされた。裸になった青年に密使は近寄り、頭の上から足先まで丹念に見回した。密使は上級神官に向かって大きく頷いた。
「お前はアレクサンダー大王の身代わりとなる」上級神官が青年に告げた。
「どういうことか説明してください」青年は懇願した。
すると、密使が説明を始めた。「残念ながら、アレクサンダー大王に反対する勢力が帝国内部にある。その首謀者は大王に非常に近い有力者だ。しかし、証拠を残さず巧妙に振る舞っており、我々はその者を捕まえられない。そこで、我々は大王の身代わりを仕立て、暗殺や毒殺を企てられかねない会席や祝宴にその身代わりを出すと決めた」
何か言おうとした青年を制して密使は続けた。「心配する必要はない。大王のように振る舞い玉座に座るだけだ。君が客人と会話することはない。必ず我々が間に入る」
青年は唖然とした。心配する必要はない?つまり、自分はアレクサンダー大王の身代わりとして毒を盛られろというのか。
上級神官が続けて話した。「私は大王を間近に拝謁したことがある。私から見ても、お前は大王に容姿が実に似ている。以前、私がバビロンに出向いた時、その話をこのお方にしたのだ。その話を覚えていらっしゃった」
青年に拒否する権利は与えられなった。青年は大王と同じ髪形に切り揃えられ、密使が持参していた大王の服を着せられた。服を着た青年は姿勢や歩き方、立ち居振る舞いを密使から何度も指示された。密使は申し分ないと言わんばかりに満足していた。
密使の指示を受け、上級神官は青年を破門した。その後、神殿の奥にある祭壇の部屋へ青年を連れて行った。部屋の中には屈強な兵士が二人立っていた。大きな机の前で老女が椅子に座っていた。老女の横には脇机があり、聖杯と金色の鞘に収まった短剣、細長いラピスラズリの碧い玉、白く輝く玉が置いてあった。
何をするのですか?青年が密使や上級神官に尋ねると、座っていた老女が口を開いた。「お前に永遠の命を授けるのだよ」
「永遠の命?そんなものあるはずがない。それにこの老女は誰ですか?」青年は上級神官に尋ねたが何も答えてくれなかった。
替わりに密使が答えた。「永遠の命はある。この老女は古の一族のシャーマンだ。君も聞き覚えはあるだろう、永遠の命を司るシャーマンだ」
古の一族と聞いて青年は思い出した。緑色に輝く玉を使って魔物を操り、恐怖と殺戮をもたらす呪われた一族だ。けれども、古の一族は滅亡したと聞いている。
「古の一族は滅んでなどいない。迫害され、各地を放浪していた。私は帝国の密偵を使って古の一族をようやく見つけた」
「ですが、なぜ私に永遠の命を?」そう訴える青年の顔は青ざめていた。
「君は大王の身代わりになるが、祝宴の盃に毒が盛られたからといって早々に死んでもらっては困る。むしろ、毒を飲んでも生き続ける。それこそが大王の威光を高め、謀反を企む者たちの邪悪な意志を粉砕する。それ以上の説明は不要だろう。さっ、始めよう」
身体に何かされるのは嫌だ。青年は抵抗したが、兵士二人が青年を大きな机の上に力づくで仰向けにした。二人は慣れた手付きで青年の手足や胴体を縄で机にきつく縛り付けた。青年はまったく身動きが出来なくなった。
その後、兵士二人、密使、上級神官は次々に部屋を出て行った。部屋の中には老女と青年だけになった。老女はゆっくりと準備を始めていた。
青年が最後に見たのは、右手に金色の短剣を逆手で持ち、左手に聖杯を持って近付く老女だった。老女は無表情のまま聖杯を傾け、青年の胸元に聖水を少しずつ掛けた。不思議な香りのする聖水に青年は意識を失ってしまった。
どれくらい時間が経ったのか、青年は深い眠りから目を覚ました。柔らかい布団に裸で寝ていた。まるで水面に浮いているような浮遊感覚が全身を覆っていた。青年は手先足先をゆっくりと動かした、無事に動いた。
青年は上半身を起こし、室内をゆっくりと見回した。木彫りの梟や鹿の置物がある。誰かの家らしい。右手の指先で胸をそっと撫でた。胸の中央に細くて長い傷跡が盛り上がっている。あの老女が短剣で胸を傷付けたのか、傷跡をなぞっても不思議と痛みは感じない。
青年はしばらくぼーっとしていた。やがて、密使が部屋に入ってきた。
「やっと目覚めたか、儀式は無事に終わったな」口と鼻を覆った布の奥から密使のうれしそうな声が聞こえた。青年には身体の中で何かが変わったという感覚はなかった。
「君は六日間ずっと寝ていた」密使はそう言い、青年の左手を取って手首の脈を診た。「シャーマンの言うとおりだ、成功だな」
青年も気になり、自分で左手首に右手の親指を当ててみた。脈が無くなっていた。おかしい、そう思って親指の先に感覚を集中し驚いた。どくんどくんという脈が無くなり、川の流れのように絶え間なく血が流れている。
「私には永遠の命が本当に授けられたのですか?」
密使は頷きながら答えた。「そうだ、君は運が良かったな」
青年は身体を強張らせた。「運が良かった?」
「君の他にも身代わりの候補は何人もいた。だが、儀式の途中で皆死んでしまった。始祖の玉の力に耐えられなかったとシャーマンは教えてくれた。この話を先にすれば、君は逃げるかもしれないと思ってね。許してくれ」
今さら許してくれなどとよく言えるな。それでも、青年は密使を責めなかった。何を責めればいいのか分からない。それに、自分でも状況がまだ理解出来ていなかった。
「あの老女はどうしたのですか?」
「ああ、帰って行ったよ。今回は成功したと言い張り、儀式が終わるとさっさと古の一族の村に帰ってしまった」
十日後、青年は密使と共に帝都バビロンへ出発した。アイ・ハヌムを離れると密使は顔の覆いを外した。とても端正で、意志の強そうな顔立ちだった。私はアレクサンダー大王の近衛部隊の将校だ、密使は青年にそう告げた。
それからは長い旅だった。将校は、アレクサンダー大王が人前で見せる癖や仕草を青年に細かく教えた。声の高さ、話し方、喜怒哀楽の表情も教えた。歩き方や立ち居振る舞いは数えきれないくらい練習させられた。時間はいくらでもあった。
「戦いになれば大王は常に先陣を切って敵陣へ斬り込む。その剣術は見事なものだ。君が戦いに出る場面はないだろうが、剣術も覚えておけ」
将校はそう言って剣の扱い方、構え方を青年に教えた。青年は覚えが早かった。青年の剣さばきの腕はみるみる上達していった。
将校も青年も博識で会話には事欠かなかった。それに、二人とも誠実で他者への思いやりがあった。寝食を共にする内、いつしか二人の間には友情のような意識が芽生えていた。
その日の昼、夕方にはバビロンに到着しそうな距離まで将校と青年は近付いていた。水飲み場で休憩していた将校と青年の前を、バビロンの方角から帝国兵士の部隊が次々に通り過ぎ始めた。遠征に行く装備ではないが、後から後からどんどんとやって来る。相当な数の部隊が移動していた。
将校は不安を感じた。何かあったのか聞いてくる、そう言って将校は一つの部隊へ近付き隊長に問い質した。しばらくして将校は戻ってきた。将校の顔色は蒼白だった。戸惑いと悲しみが入り混じった表情だった。
「昨晩、アレクサンダー大王が亡くなった」
聞いた話では、十日前の祝宴の最中に大王は突然倒れ、高熱にうなされ続けて昨晩に亡くなったという。死ぬ間際、大王の最後の言葉は“最強の者が帝国を継承せよ”だった。
次々に通り過ぎる各部隊の隊長に、将校は移動する理由を尋ねた。その答は将校が懸念したとおりだった。帝国諸国の貴族や将軍たちは自国の部隊を呼び戻し、帝国継承のための内戦の準備に取り掛かろうとしていた。
「大王の遺言のとおり、最強の者が帝国を受け継ぐ。これから帝国全土で内戦が起こるだろうな」将校は青年にそう話した。
「私はどうなるのですか?」青年は不安そうに尋ねた。大王が亡くなった以上、大王の身代わりは不要だ。青年はアイ・ハヌムに戻りたかった。
将校は青年に待ってくれと言った。これまでも大王が亡くなった偽の噂が何度も流れたことがある。まずは、本当に大王が亡くなったのか確かめる必要がある。
将校と青年はその日の夕方にバビロンに入った。町は混乱していた。通りでは多くの市民が集まり、大王の死への悲しみと帝国の行く末への不安を話し合っていた。故郷へ逃げ出そうと荷造りを始めている商人や職人も数多くいた。
近衛部隊の兵舎近くに青年を待たせ、将校は兵舎に入っていった。残念ながら、大王の死は本当だった。多くの将校と兵士はすでに自分の故郷へ出発していた。
将校は青年の所へ戻った。「大王は亡くなられた。もはや、内戦は避けられない。君はアイ・ハヌムへ戻っていい」
青年は驚いた。用済みとなった自分は殺されると思っていたからだ。青年は、自分は殺されると思っていたと素直に話した。すると、将校は首を振りながら悲しそうに笑った。
「永遠の命を授かった君をどうやって殺す?まあ、首を撥ねればさすがに死ぬかもしれん。だが、私は君にそんな仕打ちはしたくない。どうか無事にアイ・ハヌムへ戻ってくれ。」
「あなたはこれからどうするのですか?」
「もう少しバビロンに留まるが、おそらく私も故郷へ戻って戦いの準備をせねばならないだろう」
二人は別れた。別れ際に将校は青年に頭を下げて謝った。「すまなかった、君の人生を狂わせてしまった」
その後、青年と将校は二度と会わなかった。
しばらくして、各地で帝国継承を巡る内戦が勃発した。友軍として共に戦ってきた兵士が敵同士となり、共食いのように殺し合った。
内戦の拡大と激化により、帝国内の町や村は次々と破壊され、多くの人々が殺された。緑豊かな農地は踏み荒らされ、井戸には毒が撒かれた。食料不足と疫病が広まった。かつての繁栄は消え去り、帝国は崩壊した。
内戦に巻き込まれないよう、青年は野山を進んでアイ・ハヌムを目指した。途中で避難民と出会い、行動を共にした。ある日、青年たちは退却する部隊の兵士に遭遇した。兵士は避難民の食料や衣服を奪い取ろうとした。抵抗する者は即座に斬り殺された。
青年は強い怒りを覚えた。青年は母子を斬り付けようとしている兵士に背後から近付き、剣を持つ右腕を止めようと強く掴んだ。すると、兵士の右腕が身体からちぎれて血が噴き出た。他の兵士がすぐに青年に斬り掛かったが、いくら斬られても青年は死ななかった。怒りに我を忘れたように、青年は兵士を全員惨殺した。生き残った避難民は青年に感謝するどころか、青年を化け物と叫びながら逃げてしまった。
一人となった青年はアイ・ハヌムに辿り着いた。アイ・ハヌムも内戦に巻き込まれていた。町は破壊し尽くされ、人々は町を放棄していた。人々が何処へ逃げたのかまったく分からなかった。
破壊された神殿の前で青年は茫然とした。これから私はどう生きていけばいいのか。俯いた青年の目に、瓦礫の中で陽光に光る何かが目に入った。青年は瓦礫の中からそれを拾い上げた。神殿にあったあの円盤だった。銀や金の鍍金の一部は剥がれていたが、女神キュベレイと女神ニケが戦車に乗る姿は今でも美しく輝いていた。
円盤を手にした青年は再び神に仕えようと心に決めた。その後、町の近くの丘を掘り進めて建設している途中の神殿を見つけた。おそらく、内戦の影響を避けようと新たに造られていたのだろう。
青年は町の神殿の瓦礫から、祭壇や彫刻が刻まれた壁を運び続けた。神殿を破壊された怒りと口惜しさが身体中に満ちると、人が持ち上げられないような大きな大理石の支柱まで持ち運ぶことが出来た。やがて、青年は丘を掘り進めて神殿を造り上げた。完成した丘の中の神殿に青年は円盤を飾った。
ところが、時が経つにつれて、青年がかつて感じていた暗黒の世界に輝く神々への畏怖は薄れていった。青年自身が永遠の命を得て、畏怖される存在となってしまったからだ。青年自身、自分が人間である感覚を失いつつあった。
死なない身体となり、青年は生きる意味が見い出せなくなっていた。青年は神に仕えることで生きる意味を見つけようとした。けれども、何も見つけられなかった。十年、五十年、百年と一人だけの虚しい時間が過ぎていった。
青年は古の一族の行方を捜し始めた。永遠の命など欲しくない、元の身体に戻して欲しい。その一心で、古の一族を捜して歩いた。
どれだけ年月が経ったのか分からなかったが、青年は古の一族が住む村へやっと辿り着いた。青年は古の一族の男たちに取り囲まれた。私は永遠の命を得たと話すと、男たちは後ずさりした。
一族の長が現れ、お前は何をしに来たと青年に優しく尋ねた。
「永遠の命など要らない、元の身体に戻してもらうためにシャーマンに会いに来た」と青年は答えた。長はしばらく考え、青年をシャーマンの所へ連れて行った。
青年を出迎えたシャーマンは若い女だった。青年に永遠の命を施してから九代目のシャーマンだった。長い黒髪が美しく、優しそうな女だった。
青年はずっと驚いていた。さっきの一族の長と言い、このシャーマンの女と言い、とても穏やかで理性的だ。青年がこれまで聞いていた呪われた一族という表現はまったく当てはまらなかった。
青年は、自分が永遠の命を得た経緯を女に話した。人々から怖れられ、生きる意味も見いだせず、今はたった一人で虚しく生きていると明かした。
「私は今も神殿に仕えていますが、虚しい日々を過ごすだけです。どうか、元の身体に戻してください。皆と同じように老いて死ぬ身体に戻してください」
女は首を左右に振った。元の身体には戻れません、と女は言った。「あなたは永遠に生きねばならないのです」
元の身体に戻れないと知り青年は嘆いた。嘆く青年を女は優しく慰めた。
「辛いのは分かります。ですが、あなたは神に仕えておられます。あなたなら心穏やかに生き続けられるかもしれません」
あなたなら、という女の物言いに青年は引っ掛かる何か感じた。「もしかして、私の他にも永遠の命を授かった者を知っているのですか?」
女は小さく頷いた。自分は一人ではない、青年は喜んだ。その者が何処で何をしているのか知りたくなった。青年は女にそう尋ねた。
女は俯いたまま答えた。「その者には安らぎを与えました。残念ですが、本人がそう望んでいました」女は悲しそうに言った。
「安らぎとは何ですか?まさか、死ですか?ですが、どうやって?」分からない、永遠の命を得ている者をどうやって死なせるのだろうか。
女は顔を上げた。「あなたは知りたいのですか?」
青年は頷いた。「知りたいです。せめて、終わりは自分の望む時に叶えたいのです」青年の真っ直ぐに見つめる目が女に訴えていた。
女は静かに席を立ち、奥の部屋へ何かを取りに行った。すぐに戻ってくると、女は机の上に緑色の翡翠の玉を置いた。
「古の一族のシャーマンが持つ禁忌の玉です。この玉が輝き、輝く矢を放ち、胸に埋め込まれた始祖の玉を破壊します。始祖の玉が破壊されると永遠の命の源は失われます。つまり、死ぬのです」
女の説明が終わっても青年は身じろぎもしなかった。女は、自分の行く末を知った青年が衝撃を受けたのだと思った。ところが、そうではなかった。
自分の最後について悲しいとか怖いといった思いは青年にはなかった。どうして自分は怖くないのだろうか、青年はあらためて考え、思い至った。女にも言ったとおり自分は神に仕えている。神に仕える者にとって死は生であり、生は死だ。その思いは永遠の命を得た後も変わっていない。
「その玉に触れてもいいでしょうか?」
「玉が輝いていないのは、あなたが憎しみに捕らわれていない証しです。あなたなら触れても大丈夫です」
青年は玉をぎこちなく手に取り、左右の手に持ち変えたり、窓から差し込む陽光にかざしたりした。どう見ても、何の変哲もない翡翠の玉にしか見えなかった。
背年は感謝しながら玉を女に返した。その時、二人の手と手が触れ合った。青年は女の手の暖かさと柔らかさに息苦しさを覚えた。青年は、女のことをもっと知りたいと思った。もっと声を聞いていたいと思った。
それからというもの、青年は自分の宗教観を交えながら、命そのものについて女と長い時間を話し合った。自分の神殿に飾っているオリュンポス十二神の神話も女に話した。それは、神といっても生身の人間と変わらない欲望、嫉妬、裏切り、悲しみ、優しさと慈しみに溢れた古代ギリシャの神話だった。
女にとって青年は不思議だった。女は青年の話にどんどんと引き込まれていった。古の一族には、青年のような男はいなかった。そもそも、誰もがシャーマンを怖れ、こうして自然に話し合える機会がなかった。
青年は女に尋ねた。永遠の命の源となる始祖の玉はどうやって造られるのでしょうか?どうして永遠に生きられるのでしょうか?それは、青年が永遠の命に抱いた客観的な興味だった。青年の言葉に恨みや怒りはなかった。
女は不思議に思った。この青年は、私が安らぎを与えた王のように、あらゆるものを憎み罵倒したとか思えば、今度は死なせてくれと泣き叫んだりしなかった。
しかし、女は青年に何も教えなかった。古の一族が呪われた一族と呼ばれていた理由を教えられる訳がなかった。
それから数日間、青年は古の一族の村に留まった。青年は女に好意を感じていた。それは、男が愛しい女を守りたいと思う感情に近かった。女も青年にずっと留まって欲しいと思っていた。博識で誠実な青年に好感を抱いていた。この青年なら自分を理解し、自由にしてくれるのではないかという恋い焦がれる感情に近かった。
それでも、青年も女もそれ以上に関係を深めるような真似はしなかった。お互いの手を握り合いもしなかった。青年はシャーマンから永遠の命を与えられ、女はその永遠の命を司るシャーマンだ。お互いの立場を知れば、お互いに好意は持っていても男女の関係になれるはずもなかった。
別れの朝、女は青年にある物を渡した。手の平に収まるくらいの大きさの細長いラピスラズリの玉だった。青年はその碧い玉に見覚えがあった。青年が永遠の命を授けられた時、老女のシャーマンが同じ物を持っていた。
「これは創造の玉です。永遠の命の源である始祖の玉を生成したり、施したりする時に使う物です。いずれ、あなたの役に立つかもしれない」
「でも、これはあなたにとって大切な物でしょう?」
女は首を横に振った。女の長い黒髪が魅惑的に左右に揺れた。「私はまだ他にも持っています。あなたに持っていて欲しい。どうか、心安らかに生きてください」
女は青年の手を取り創造の玉を手渡した。また手が触れ合った。やはり、女の手は暖かくて柔らかだ。青年は驚いて女の顔を見つめた。女もじっと青年の目を見つめていた。
青年の手は女の手を優しく握り返した。青年と女はお互いに両手を開き、お互いを求め合うようにお互いの両手の指を深く絡め合わせた。
「私はいずれ死にます。どうか、私だと思って大切にしてください」
その後、青年はアイ・ハヌムへ戻った。百年、二百年と時が流れ過ぎたが、青年は神に仕え続けた。女の贈り物をいつも大切に身に付けていた。青年は永遠の命を肯定していた。
いつの頃からか、青年には友だちもできた。小さな友だちだった。丘の周囲に広がる草原には尾なしネズミがたくさん住んでいた。尾なしネズミがいつの間にか神殿にも住みついていた。冬でも暖かい神殿は尾なしネズミにとって居心地がいいようだった。
尾なしネズミの寿命はとても短かったが、その命は子孫に確実に紡がれていった。青年は何百世代もの小さな命の繋がりを優しく見守り続けた。
千年も経つと青年の容姿は徐々に変わっていた。命の衰えはまったく感じなかったが身体の劣化は止めようがなかった。三百年前からは足が萎え歩けなくなった。二百年前からは目が見えなくなった。身体のあちこちが朽ちたり干からびたりしていた。
それでも、青年は女の贈り物を大切に身に付けていた。もし、再び会えたなら心安らかに生きてこられた礼を言おう。女は遠い昔に死んでいるのは分かっているが、そう考えると今でも胸が高まるばかりだった。
「女の言ったとおり、わしは安らかな心で生きてこられた。だが、身体は時の流れには逆らえん。自分ではもう見えないが、わしの身体はさぞかし朽ちているだろう」老人は優しい口調でパールに尋ねた。
「そうですね。ですが、あなたの心はちっとも老いていません。私の祖父よりも若い心をお持ちだと思います」
老人は唇のない口端を拡げ、ふふふっと笑った。「何ともうれしいな、こんなに気分が華やぐのは久しぶりだ」
老人は何度も大きく頷いた。やがて、老人はパールへ顔を向けた。「それで、永遠の命についてお前さんは何を知りたいのだね」
パールは躊躇したが、すぐに尋ねた。「あなたは、永遠の命をどのように授かったのでしょうか?」
老人はすぐに答えなかった。「今は存在しない者たちとやらは教えてくれないのか?」老人は不思議そうに尋ねた。
老人がそう言うのはもっともだ。対話で教えてもらえれば始まりの地ラトの場所も始祖の玉の生成方法も分かる。けれども、対話は何も教えてくれない。
「教えてくれません。と言うより、今は存在しない者たちも知らないのです。それを私は疑問に思っていました。ですが、分かったのです。対話に出てくる今は存在しない者たちの中には、代々のシャーマンはいないですし、永遠の命を与えられた後に安らぎを得た者もいないのです」
「シャーマン以外の古の一族の者もいないのか?」
「いましたが、永遠の命についてはシャーマンにしか分からないと言っていました」
「しかし、悪魔が村に近付いてきたのを教えてくれたのだろう?」
はい、パールは困ったように返事をした。
ふむ、今は存在しない者の中にシャーマンはいない。シャーマンも死ねば今は存在しない者たちの一員になってもおかしくないのに、だ。永遠の命を得ながら禁忌の玉で安らぎを与えられた者がその一員になってもおかしくないが、そうではない。いくら考えても、老人にも答は思い浮かばない。
「何か少しでもいいのです、手掛かりが欲しいのです」パールの切実な声に老人は意識を戻した。
「私は永遠の命を授けられたが、部屋にいたのは私と老女だけだ。部屋には聖杯、金色の短剣、ラピスラズリの碧い玉、白く輝く玉があった。ただ、私は儀式が始まった途端に気を失ってしまった。だから、お前さんの知りたいことは分からない」老人は詫びた。
パールはがっくりとうなだれた。パールの長い髪が大きく揺れた気配がした。老人は再びあの女を思い出し、女の言葉を思い出した。
「ところで、お前さんは創造の玉は持っておるかな。始祖の玉を生成するのに必要なラピスラズリだ。先代のシャーマンから譲り受けておるか?」
「いいえ、譲り受けてはいません。私はラピスラズリを見たこともありません」パールは悲しそうに答えた。
ふーむ、老人は深く溜息を付いた。「ラピスラズリは碧く美しい玉だ、白色や黄色の点が夜空の星のように散りばめられておる」
老人は祭壇の上に手を伸ばし、碧い玉を器用に取った。老人はパールへ手を伸ばして見せた。パールは干からびた老人の手の中にある碧い玉を見た。碧い玉の中に白色や黄色の斑点が美しく連なっている。
「これはここで採掘された物だ。残念だが、創造の玉ではない。ただのラピスラズリだ」
パールはふと思いついた。「創造の玉がラピスラズリだとアレクサンダー大王は知っていたのでしょうか。それでアイ・ハヌムに町を造った?」
「ラピスラズリは貴重だった、帝国の財政を豊かにする格好の交易品だったよ。しかし、お前さんが言うように、ローマ教皇や大ハーンが永遠の命を求めて世界中に侵攻しているのならば、アレクサンダー大王も同じだったのかもしれないな」
もし、それが本当だったとしたら、とパールは考えた。いつの世も王や権力者は永遠の命を欲してきた。そのためにいくつもの戦乱が起き、多くの人々が犠牲になってきた。
「それで、お前さんは大ハーンに永遠に命を授けるのか?」
「はい、モンゴル軍には悪魔から村人を救ってもらった恩があります、けれども、」
「そうしないかもしれない」
「どうすればいいのか分からないのです。私は村で生まれ育ち、世界をまったく知りませんでした。何処かも分からない風景を対話で観るだけでした。ですが、村を出て現実の世界を知りました。今、世界は大きな戦乱に覆われています。戦乱の原因が永遠の命だとしたら、私はどうすればいいのでしょうか?」
老人にもパールの苦しみと悲しみは理解出来た。永遠の命を求めて世界中で戦乱が起き、その永遠の命はこの娘が司っている。この娘もあの女と同じように思い悩んでいる。自分の運命に思い悩むパールを老人は愛おしく感じた。
老人は懐からやや細長い碧い玉を取り出してパールへすっと差し出した。パールは不思議そうにその玉を手に取った。濃い碧色で白色や黄色の点々が連なるラピスラズリだが、先程見たラピスラズリの玉とは比べ物にならないくらい美しく磨き上げられている。
「お前さんに譲ろう、それは創造の玉だよ。それがあれば始祖の玉は生成出来る」
パールは驚いた。「でも、これはあなたが女の人から貰った大切な物ですよ」
「いや、いいのだよ。お前さんに持っていてもらいたい」老人は感慨深く言った。お前さんの仕草や清らかな声があの女に似ているからだ、と言う訳にもいかない。
パールは老人に深々とお辞儀をした。その気配が分かったのか、老人が口の端を拡げて微笑んだ。「ラトが見つかるといいな、お前さんの幸運を神に祈ろう」
その瞬間、パールの隣にムーレイが現れた。いや、パールがムーレイの隣に現れた。「パールは無事だったな」ムーレイが言葉少なく言った。
どうやら老人との話は終わったらしい。周りを見回したがカウナとハクレアはいない。まだ老人と話しているのだろうか。
パールは右手に持った創造の玉を見つめた。それから、祭壇の前に背を向けて座っている老人を見つめた。老人は振り向きもせず、右手を挙げて小さく振ってくれた。




