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厄災のユーラシア  作者: もとふ みき
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第六章 一二二〇年、冬 アイ・ハヌム(其の二)

第六章 一二二〇年、冬 アイ・ハヌム(其の二)


 遺跡の広場で男は待っていた。妻らしい女が寄り添っている。その周りに子どもが六人もいる。子どもたちは皆同じくらいの背丈で、男の子が二人と女の子が四人だ。

 男はとても丁寧な言葉遣いで話した。女や子どもたちはずっと黙っている。子どもたちは時々ふざけ合ったりしていたが、言葉らしいものは何も話さなかった。

 男の案内で町を出たカウナたちは、やがて草原の中の小高い丘に着いた。廃墟の町と違って草が豊富に生えている。川から離れているのにどうしてだろうか、地下水の水位が浅いのだろうか、カウナは不思議に思った。

 小高い丘の中腹に、土を掘り抜いて造った入口があった。これが神殿なのか?カウナは驚いた。ジョシェとムーレイが周囲を馬で走り回り、安全を確かめた。

 男と女と子どもたちは、カウナたちを手招きしながら入口を通り中へ入っていった。ジョシェとゲンツェイを見張りとして入口に残し、カウナたちは入口を通り中へ入った。

 丘を掘り抜いた内部は思ったよりも広い空間だ。廃墟の町の神殿の跡地に転がっているのと同じ石材で、壁や床、支柱が造られている。その奥には小さな祭壇がある。祭壇の周囲や壁際には白い光を放つ小さな棒がたくさん立っている。その灯りのせいで神殿の中はとても明るい。蝋燭でもなく、油を燃やすランプでもない。どうやって光っているのか、カウナたちにはまったく分からない。

 カウナたちは奥の祭壇に向かって歩いた。ところが、先に入っていったはずの男と女と子どもたちは見当たらない。カウナは入口に振り返って見た。細かい塵が積もった床の上に自分たちの足跡はくっきりと残っている。それなのに、先に入ったはずの男と女と子どもたちの足跡は見当たらない。

 祭壇の奥の壁には十二人の男女の等身大の彫刻が施されている。顔の鼻や髪、指先といった細かく彫られた部分の多くが朽ちたり欠けたりしている。もしかしたら、廃墟の町の神殿から運んだものかもしれない。

 祭壇の前には一人の痩せ細った老人が座っている。祭壇に向かい、カウナたちが知らない言葉で祈りを捧げている。さっきの男のように厚地の布を身に纏っているが、茶色く汚れ、裾はすっかり擦り切れている。

 老人の祈りの声が止まった。老人はゆっくりと振り向いた。振り向いた老人の顔を見たカウナは驚き、思わず剣に右手を掛けた。ムーレイも同じく剣に手を掛けている。

 老人の顔には頬の肉も唇もない。目があった場所は落ち窪み、鼻は軟骨が薄く残っているだけだ。身体も痩せ細り、餓死者のように骨が浮き出ている。とても生きているとは思えない。いや、この姿で生きているはずがない。

 カウナは斜め後ろにいるパールに振り返った。パールに動揺している様子はない。馬で頭や身体を踏み潰された死体さえ見慣れている俺やムーレイが驚くのに、このシャーマンの娘は平然としている。シャーマンとはどういう神経をしているのだ?

 カウナの心を読み取ったかのように、パールはカウナへ顔を向けた。その顔を見てカウナは驚いた。パールは少し微笑んでいる。

 遅れて入ってきたハクレアが老人の顔を見て悲鳴を上げた。老人はハクレアへ顔を向け、首を少し右へ傾けて口端を動かした。どうやら、老人はにこりと笑ったようだ。

「お嬢さん、すまない。驚かせてしまった」唇のない口が動いて声を出した。

 老人の声は少し甲高かったが、暖かみのある声だ。殺気も悪意も感じられない。カウナとムーレイは剣に掛けていた右手を降ろした。

 あなたは何者だ?カウナがそう言おうとした瞬間、斜め後ろから進み出たパールの右手が伸び、カウナの口の前を遮った。

 驚くカウナを横目にパールが言った。「お招きいただき、ありがとうございます」

 それは、いつもの感情をまったく感じさせないパールの声ではない。凛としていながら柔らかな印象を与える声だ。カウナはまた驚き、ムーレイとハクレアは顔を見合わせた。

「これはご丁寧に、私もお前さんたちを待っていたよ」

 パールを遮り、カウナが話し始めた。「俺たちを待っていたとはどういう意味だ?会いたいのはシャーマンだけだろう。それに、先に入った男と女と子どもは何処に行った?」

 矢継ぎ早に話すカウナに顔を向けて老人は笑った。「はっは、何とも威勢が良いな。さすがは勇猛な騎馬兵だ」

 カウナは眉をしかめた。「目がないのになぜ分かる?」

「目がないから何も見えない、と決めつけてはいかん。そんな考えではいずれ戦いで負けるぞ。見えるものこそ疑え、それが良い騎馬兵の条件だ」老人は揶揄うように笑った。

 カウナは苛立った。「騎馬兵の話などいい。俺たちを待っていたとはどういう意味だ?」

「では、お前はなぜここに入った?用がないなら外で待てばよかろう」

「それは、シャーマンを守るためだ」

「何から守る?目が見えず、動くのも叶わない老人にどんな危険があると言うのか?心配など要らぬ、今から外に出て行ってもわしは構わんぞ。さあ、出て行け」老人は明らかにカウナを揶揄っている。

 カウナは一歩前に進んだ。「見えるものこそ疑え、ご老人が言った言葉のとおりだ。そんな身体でもご老人は危険かもしれない」

 老人はゆっくりと頷いた。「ふむ、なかなか良い。苛立っている割に冷静だな」

 揶揄うにも程があるとカウナは呆れた。もういい、老人との会話はパールに任せよう。そう思い、カウナは左にいるパールを見た。しかし、パールの姿は何処にも見えない。後ろを振り向くとムーレイもハクレアもいない。カウナは唖然とした。

「ご老人、他の三人はどうした?」

 老人は何も答えない。カウナは再び剣に右手を掛けた。「ご老人、あの三人に何かあれば許さないぞ!」

 それでも老人はまったく動じない。しばらくして、カウナの言葉に気付いたように老人は顔を上げた。

「そう騒ぐな、ほれ見なさい」老人がそう言うと、カウナの周りにパール、ムーレイ、ハクレアの姿が戻った。三人がてんでばらばらに話している声で騒がしくなった。

 ハクレアがカウナの姿に気付いた。「カウナ、どうなっているの?」ハクレアが叫んだ。すぐにまた、三人の姿が消えた。

 カウナは唖然としたままだ。「何をした?」

「お前たち一人ずつと話せるように分かれてもらった。四人からいっせいに話し掛けられたら、いくらわしでも訳が分からなくなる」

「一人ずつに分けた?」

「そうだよ。わしは今、お前たち全員と個別に話し合っている」

「そんなの無理だ。ご老人は俺と話しているだけじゃないか」

 老人は短く溜息を付いた。「お前たちの視覚と聴覚に細工をした。今、わしは四人いる。お前たち一人一人と話している。これならちっとも無理ではない」

 カウナは混乱した。「視覚と聴覚に細工をしたって?馬鹿を言うな」

 カウナがそう言った途端、カウナは入口で見張りをしているジョシェとゲンツェイの前にいた。ジョシェはカウナの姿に気付き、目を丸くして驚いている。別の方向を見ているゲンツェイはカウナに気付いていない。

 次の瞬間、カウナは再び老人の前に戻っていた。

「細工をすると言ってもこの程度しか出来ん。さっ、わしにお前のことをいろいろと教えてくれ。久し振りの客人だ」

 驚きの余りカウナは息をするのも忘れている。「もしや、ご老人も始祖の玉を施されているのか?永遠の命を得ると、そのような超常の技が身に付くのか?」

「始祖の玉を施されたからと言って、超常の技は身に付かぬ。身体は朽ち、動けなくなってもわしは神に仕え続けた。気が付くと、さっきのような技が出来るようになっていた。それだけだ」老人は淡々と答えた。


 神殿の入口で見張りについているジョシェは退屈だった。丘に近付く者などいない、そもそも周辺に人がいる気配さえない。

 欠伸をしていたジョシェの目の前に突然カウナが現れ、すぐにまた消えた。ジョシェは腰が抜けるかと思うくらいに驚いた。

「おい、今の見たか?」ジョシェがゲンツェイに叫んだ。

 ゲンツェイはまったく違う方向を見ていた。「えっ、何ですか?」

「何って、今、隊長が目の前に現れただろ?」

「何を言っているんですか。まだ誰も中から出てきてないですよ」ゲンツェイは呆れたように言い返した。

 ジョシェは混乱していた。もしかしたら、神殿の中で隊長の身に何か起きているのか?持ち場を離れてはいけないが、やはり確かめるしかない。

「ゲンツェイ、俺は神殿の中の様子を見てくる。お前はここにいろ」ジョシェはそう言って入口から中へ入っていった。

 こうなるとゲンツェイにも何が何だか分からない。それでも、一人になった以上はここを絶対に離れる訳にはいかない。ゲンツェイは呆れると同時に怒っていた。

 次の瞬間、ゲンツェイは身体に異変を感じた。身体の中を痺れるような震えが何度も通り過ぎた。ゲンツェイは声を聞いた。いや、声が頭の中に響いた。「お前は、お前を大切に想う者のために命を捧げる覚悟はあるか?」

 誰の声だ?そう思ったゲンツェイの身体は碧い輝きに包まれていった。碧い輝きにゲンツェイは恐怖を感じた。

「お前は誰だ、この輝きはお前の仕業か?」痺れた身体では声も出せない。ゲンツェイは頭の中で叫んだ。

 しばらくすると再び声が響いた。「確かめさせてもらった」

 ゲンツェイの身体を貫いていた痺れは止まった。碧い輝きも嘘のように突然に消えた。同時にゲンツェイの意識は薄れていった。ゲンツェイは崩れるようにどさりと倒れた。


 ジョシェは神殿の中を見回した。カウナたちは何処にも見当たらない。祭壇の前に痩せ細った老人が座っているのを見つけた。ジョシェは祭壇に駆け寄った。

 おいっ、ジョシェがそう声を掛けようとする前に老人が振り向いた。老人の顔を見てジョシェは声を上げて驚いた。顔は頭蓋骨に皮一枚が貼り付いただけ、目は干からびて落ち窪み、鼻も口も朽ちている。

「先に入った四人なら心配ない、無事だよ」老人の声に敵意は感じられない。

驚きはしたが、ジョシェは恐怖を感じなかった。「あんたは、何だ?」

 目のない顔が、ジョシュの声の場所を確かめようと左右に動いた。「始祖の玉を授かった人間の慣れの果てだ。お前さんたちは始祖の玉を捜しているのだろ?」

 始祖の玉と聞きジョシェは警戒した。この老人はサフリムで戦った悪魔の仲間なのか?ジョシェはすかさず剣を抜いて構えた。

「早まるな、わしはお前さんたちを襲ったりしない」唇のない口が動いた。

 ジョシェは首を傾げた。この老人、俺の考えが分かるのか?

「お前の考えくらい分かる。剣を納めなさい、わしはお前さんたちの敵ではない」

 それでもジョシェは剣を構えている。「さっき、隊長がいきなり俺の目の前に現れて消えた。あんたの仕業か?」

「そうだ、わしの言葉を信じないのでな、少し驚かせてやったぞ」老人の声は心なしか楽しそうだ。

「それで、今度は俺をどうする気だ?」

「どうもせん。ところで、お前たちはどうして始祖の玉を求めている?」

「それを知ってどうする?」

 老人は骨と皮だけの右手を上げた。「邪魔するか、それとも手伝うかを決める」

 ジョシェは反論した。「さっき、敵ではないと言ったじゃないか?」

 老人の口端が広がり、ふふふっと息が漏れた。ジョシェには、それが老人の笑い声のように聞こえた。

「そう言うな、わしにとってお前たちは幾百年振りの客人だ。お前や世界の話をゆっくりと教えてくれ」

 ジョシェは戸惑った。カウナたちは何処にもいない。干からびた老人に危険はなさそうだが、図々しく話しかけてくる。いったい、俺はどうすればいい。


 老人はパールと向き合っている。数日前から、古の一族のシャーマンがアイ・ハヌムへ近付いている感覚を覚えていた。どうしてシャーマンがここへ近付いて来るのか、その目的は分からなかった。老人はシャーマンに興味が湧いた。久し振りに古の一族のシャーマンに会いたくなった。だから使いを送り、こうして神殿に招き入れた。

 今、目の前にはシャーマンがいる。まだ若い娘で、自分を真っ直ぐに見つめている気配を感じる。娘がシャーマンとして高い能力を持っていると分かる。視力を失っているので娘の容姿は分からない。

 私の名前はパールです、と娘は言った。一途で清らかな声だ。

 その声に、老人はかつて出会ったシャーマンを思い出した。あれから千五百年が経っているが、あの女を忘れることはない。今、目の前にいる娘と同じように、あの女も一途で清らかな声だった。

「古の一族のシャーマンは何処へ向かおうとしているのかね?」老人は穏やかに尋ねた。

 パールはじっと老人を見つめている。始祖の玉を施されているのは間違いない。朽ちた身体は痛ましいが、村で戦った悪魔のような悪意や危険はまったく感じられない。だから、私にもはっきりとした気配が気付けなかった。

「始まりの地ラトへ向かいます。ですが、何処にあるのか分かりません。ラトについて何かご存じですか?」

「ラト?ラトなど知らない。ラトへ向かうのはなぜかね?」

「始祖の玉を生成するためです」

「生成?どうして生成するのかな?」

「私の村が永遠の命を得た者に襲われました。その者のために大勢の村人が死にました。止むなく、私はその者に永遠の安らぎを与えました」

「そうか、では、一緒にいる騎馬兵は古の一族の者か?」

「いえ、違います」

「古の一族のシャーマンが、どうして古の一族と異なる者と一緒なのだ?いろいろと訳がありそうだな。良かったら教えてくれ」

 パールは説明した。モンゴルに送られたローマ教皇の密書、モンゴル軍の西方への遠征開始、モンゴル軍や悪魔の襲来を教えてくれた今は存在しない者たちとの対話、あの夜の悪魔との戦い。

 老人はパールの話をじっと聞いていた。そうか、あの女が教えてくれたように、憎しみに捕らわれた哀れな者が他にもいたのだな。

「古の一族のシャーマンには定めがあります。古い始祖の玉を葬る時、新たな始祖の玉を始まりの地ラトで生成しなければならない、と」

 ふーむ、老人は小さく唸った。「しかし、そのラトという場所は分からないのだな」

はい、とパールは短く答えた。

「それでどうする?」

「まずはエルサレムへ向かいます」

「聖なる地エルサレム、向かうとしたらそこしかない。お役に立てなくてすまないな。ところで、永遠の安らぎはどうやって与えたのだね」

 パールは禁忌の玉の話をした。老人はふんふんと頷いている。あの女が教えてくれたとおりだ。

「その禁忌の玉に触れさせてもらえないかね」

 老人は憎しみに捕らわれていない、では、禁忌の玉に触れても大丈夫に違いない。そう判断したパールは玉を取り出した。思ったとおり、玉は輝いてはいない。

 パールは老人の前にしゃがみ込み、自分の手を老人の手に添えて玉に触れさせた。パールの手が老人の手に触れた時、老人は遠い昔の記憶を思い出した。この娘の手はあの女と同じく暖かくて柔らかい。

「やはり、わしには禁忌の玉は効かない。お前はまだ生きていろということらしいな」老人は楽しそうに言った。

 この老人は長い年月をどうして穏やかに過ごせたのだろうか。神に仕えているからだろうか。パールは祭壇の後ろの壁にある十二人の男女の等身大の彫刻を見上げた。

「そうだよ、わしは神に仕える身だ。神に仕える喜びを知っている。それでも、わしが憎しみに捕らわれなかったのはそれだけが理由ではない」

「では、何なのですか?」パールが不思議そうに尋ねた。

 老人はパールに向かって干からびた口を左右に拡げた。それが老人の微笑だとパールは気付いた。

「わしの心を読みなさい。お前さんが優れたシャーマンならきっと出来るはずだ」老人は悪戯っぽく言った。


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