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厄災のユーラシア  作者: もとふ みき
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第六章 一二二〇年、冬 アイ・ハヌム(其の一)

第六章 一二二〇年、冬 アイ・ハヌム(其の一)


 昨夏、モンゴル軍は強固な城壁に守られたブハラの町を取り囲んだ。大ハーンは町の守備兵に降伏を要求した。守備兵は降伏に応じなかった。

 大ハーンは直ちに攻撃命令を発したが、天山山脈越えのために巨大な攻城兵器は持ってきていない。そのため、町を囲む城壁を突破することが出来ず攻めあぐねた。夜になると町の守備兵から夜襲を受けていた。

 ところが、五日後に町の守備兵はブハラから逃げ出してしまった。あんなに抵抗していたのは何だったのか、と誰もが不思議に思った。モンゴル軍は町へ入った。大ハーンは報復を命じ、騎馬兵は家々に火を放った。ブハラの町は瞬く間に燃え上がった。

 町の守備兵に協力していた役人や市民は殺された。九万人が暮らしていたブハラの市民の半数が殺された。死体はブハラの郊外に広がる草原に運ばれて埋められた。

 死体を運んで埋めるように命じられたのは、生き残ったブハラの市民だった。命令を拒めば例外なく殺され、一緒に埋められた。その後、大ハーンは生き残った市民を近隣の町へ逃がした。

 サマルカンドには、ブハラから撤退した守備兵を含めて十一万人の兵力が集結していた。ホラズム帝国の精鋭部隊一万人も到着していた。ホラズム帝国はサマルカンドを決戦の場と考えていた。

 そこへ、ブハラから逃げて来た市民がなだれ込んだ。生き残った市民はモンゴル軍の残虐非道を口々に訴えた。四万人が虐殺された、いや虐殺されたのは六万人だ、女も子どもも容赦なく殺された、草原は死体で埋め尽くされている。いいか、抵抗すればサマルカンドも同じ運命を辿るぞ。

 この訴えにサマルカンドの市民は恐怖した。ブハラの二の舞にならないように、モンゴル軍には即時降伏するよう守備兵に訴えた。町から逃げる市民も後を絶たなかった。やがて、守備兵も一人、二人と逃げ始めた。

 間もなく、モンゴル軍はサマルカンドを取り囲んだ。市民にも守備兵にも抵抗する意志など欠片も残っていなかった。唯一、精鋭部隊一万人が抵抗した。サマルカンドの市内で激しい戦いが繰り広げられた。

 四日間の戦いの後に精鋭部隊は全滅し、サマルカンドは陥落した。

 

 サフリムを出発したカウナたちは、ブハラ、サマルカンドへ進んだ。村を初めて離れたパールにとって、それはモンゴル軍の破壊の痕跡を辿る道となった。パールは、モンゴル軍がホラズム帝国と戦った痕跡をまざまざと目にした。

 そこかしこから人骨が突き出している草原、燃やし尽くされ瓦解したブハラの町並みにパールは目を覆った。親を殺され孤児となり、町の城壁の外に無表情のまま座り込む痩せ細った数百人の子どもたちに言葉を失った。あの夜の悪魔との凄惨な戦いとは違う、戦争という途方もない殺戮の真実にパールは大きな衝撃を受けていた。

 それは、大ハーンの遠征の真の姿を初めて見るハクレアにとっても同じだった。もちろん、ハクレアは大ハーンを心から信じているし、モンゴル軍の進撃を心強く思っている。それでも、こうして多くの人々が虐殺され、家屋が焼き払われ、多くの孤児が飢えに苦しむ姿を見るのは辛かった。

 ハクレアは、この惨状をパールがどう感じているのか気になった。パールが大きな衝撃を受けているのは傍にいて分かっている。殺されたのはパールの国の人々だ。その人々を殺したのはハクレアの国の人々だ。

 ある日、悩んだ末にハクレアはパールに謝った。「ごめんね、こんなに酷いことになっているとは思わなかった」

 ところが、パールは大ハーンもモンゴル軍も非難しなかった。ただ、「ハクレアが謝っても戦争は続きます。統べる者が人々を導かない限り戦争は無くならない」と冷たく答えただけだった。

 ハクレアに返す言葉はなかった。私が謝っても戦争は続く、パールの言うとおりだ。

 パールは変わってしまった。ブハラやサマルカンドの惨状を見たからではない。あの夜、悪魔と戦ってからパールはすっかり変わってしまった。ハクレアはそう感じていた。初めて出会った頃の、明るく朗らかな笑顔は消えた。口数も少なくなり、時折険しい表情になる。何かを一心に考えている、いや、何かを思い詰めているようにも見える。

 それでも、ハクレアはパールと親しく話している方だった。モンゴル人の中で、パールに自然と寄り添い会話が出来るのはハクレアだけだ。それに比べてゲンツェイはかわいそうだった。あれ程に親しく話し合っていたのが嘘のように、パールはゲンツェイを無視していた。どうしてもゲンツェイと話さなければいけない時には、パールは視線を合わせず、感情をまったく交えずにゲンツェイと話していた。

 ゲンツェイと何かあったの?ハクレアはパールに聞いてみた。いいえ、何もない、とパールは冷たく答えた。

 ハクレアにも、パールがゲンツェイを避ける理由は何となく分かっていた。サフリムでは村人に親切で優しかったゲンツェイも、モンゴル軍の騎馬兵に違いない。ゲンツェイもこれまでの戦いで多くの人を殺してきたのだとパールはあらためて知った。だから、ゲンツェイに騙されたと思っているに違いないし、それがきっと許せないのだろう。

 同じように、パールはカウナやムーレイ、ジョシェにも冷たい態度を取っていた。カウナはともかく、ジョシェとムーレイにとってもパールは最初から近寄りがたい存在だった。ジョシェとムーレイは無邪気だった頃のパールを知らない。二人にとってパールは人智を超えた存在だ。翡翠の玉を輝かせ、光の矢で悪魔を倒した古の一族のシャーマンだ。

 四人の騎馬兵の中で、パールとよく話していたのは意外にもカウナだった。お互いに心を開いて話し合うといった雰囲気とは無縁だが、パールはカウナによく質問していた。質問の内容は多岐に渡っていた。大ハーンの生い立ち、草原の国が統一されたモンゴルの成り立ち、モンゴルが戦った国々、カウナが遠征で見てきた国々の様子。

 パールの質問にカウナは丁寧に答えた。カウナにすれば、どうせ長い旅になる、説明する時間はいくらでもあるというくらいの気持ちだった。

 カウナはパールに教えた。大ハーンがテムジンと呼ばれていた幼少の頃からの苦労、大ハーンが広大な草原の諸部族を統一した戦い、金王朝への遠征、同じ騎馬民族である西夏王朝との今も続いている長きに渡る戦い。

 カウナの説明を聞き、パールはさらに多くの質問をした。その質問は時には生意気に聞こえ、時には尊大に聞こえた。モンゴル軍の遠征については、パールは大ハーンを批判するような言葉を平然と口にした。

 パールの批判をカウナは肯定も否定もしなかった。永遠の命を持ち帰るまではパールとの関係を悪化させる訳にはいかない。僻地に生まれ育った世間知らずの娘の意見にいちいち腹を立てても仕方ない。

「古の一族はモンゴルの人間ではない、俺は古の一族の人間ではない。立ち位置が違うからお互いの意見は異なって当然だ。そうした背景を常に考えないと、世界の成り立ちや仕組みは理解出来ないぞ」カウナはそうパールを諭した。

 カウナとの会話に飽きると、パールはジョシェやムーレイにも質問し始めた。ジョシェもムーレイも最初は及び腰だった。ただ、ジョシェもムーレイも長旅には飽きていた。結局、話すのが手っ取り早い唯一の気晴らしだった。

 パールはジョシェとムーレイの生い立ちから尋ねた。ジョシェは祖先のキプチャク族がロシア正教から受けた宗教弾圧によってモンゴルに逃げてきたこと、ムーレイはイスラム教の宗派対立により祖先がモンゴルへ逃げてきたことを包み隠さず話した。もとより、生まれも育ちも様々な人々が集まって暮らすモンゴルでは、こうした会話をお互いに交わす機会は日常でも頻繁にある。

「民族や宗教の違いにより故郷を追われた人々が、モンゴルでは民族や宗教の壁を乗り越えて結束している。それはどうしてですか?」パールはジョシェとムーレイに尋ねた。

 二人は説明した。「モンゴルに忠誠を誓う限り、大ハーンはいかなる民族、いかなる宗教も受け入れてくれる」「それぞれが持つ能力を発揮し協力すれば、それだけモンゴルは発展する。モンゴルが発展すれば自分たちの暮らしも豊かになる。だから結束する」ジョシェとムーレイはそう答えた。

 そうした会話を毎日重ねる内、パールが知りたいこと、パールの興味の対象が何か、カウナはおぼろげに気付いた。それは、世界では何が起こっており、人々は何を考え、何処へ向かおうとしているのかということだ。

 そう気付いたカウナには新たな疑問が浮かんだ。見捨てられたような僻地に暮らす古の一族のシャーマンが、どうしてそんなことを知りたがっているのか。一方、そうしたことを知れば知る程、パールはカウナたちとなぜか距離を置くようにも感じられた。

 お互いに一通りの話を済ませると、パールとカウナたちとの会話はすっかり途絶えた。会話が途絶えるとお互いの心も疎遠になった。今では、パールと親しく話し続けているのはハクレアだけになっていた。

 話し合えなくてもパールが親しくしている相手はいた。いつの頃からか、パールはハクレアが連れているコハクをかわいがるようになっていた。コハクも、不思議なことにパールに良くなついていた。

 休息時にハクレアがコハクを放すと、いつの間にかコハクはパールの手の中で丸くなっていた。パールも優しい表情でコハクを優しく撫でていた。

 カウナはその姿を見るたびに戸惑った。その優しく穏やかな姿は、あの夜に悪魔と対峙した同じ娘とは思えない。ゲンツェイはもちろん、自分たちには冷淡で決して心を開こうとしない娘とも思えない。この落差にカウナは戸惑うばかりだった。


 サマルカンドを出発した後、カウナたちは南へ向かって進んだ。西へ進むとカラクーム砂漠に突き当たり進めないからだ。ヒンズークシ山脈の手前のアイ・ハヌムまで南下し、それから西へ方向を変えてバハ山脈の麓に沿ってずっと進む。そうすればバグダッドまでは五カ月程で行けるはずだ。

 行く先々で出会った交易商人からカウナたちは注意を促された。バグダッドまでは遠い、盗賊も多い、十分に気を付けて行きなさい、と。もちろん、カウナたちも注意しているが、心配はしていない。カウナたち四人の騎馬兵とハクレアは剣術に優れている。自分たちとパールは十分に守れる自信はある。

 その代わり、別の心配があった。カウナたちは大ハーンの密命を受けて隠密に行動している。だから、カウナたちは西方へ進撃するモンゴル軍と遭遇したくなかった。なおかつ、モンゴル軍よりも先にバグダッドへ到達したかった。


 サマルカンドを出て二十日程、カウナたちはアイ・ハヌムへ着いた。正確には、アイ・ハヌムの廃墟に着いた。ここは、アレクサンダー大王が造った町のなれの果てだ。

 アレクサンダー大王の功績について、カウナは同じ部隊にいたイスラム出身の戦友からいろいろと教えてもらっていた。ジョシェとムーレイも、アレクサンダー大王の武勇伝について祖父や父親から聞かされていた。ゲンツェイも少しは知っている。アレクサンダー大王は千五百年以上も前にマケドニアという小国の王子として生まれた。近隣諸国を次々に征服して広大な帝国を築いた。知っているのはそれくらいだ。

 

 アイ・ハヌムの町の中心を貫く大通りには砂塵が積もり舞っていた。建物の一部だった石煉瓦の壁が、途切れながらも大通りの両側に沿って残っている。巨大な神殿を支えていたと思われる大きな石の柱が何本も倒れている。

 瓦礫が散らばる広場には、水を溜めていたと思われる大きな堀がある。その掘りから主要な通りにはいくつもの水路が拡がっている。きっと、アイ・ハヌムの町全体に水路が巡らされ、十分な水が供給されていたのだろう。その掘も水路にも、今は砂塵が溜まっている。

 カウナたちは廃墟の町を離れた。少し離れたアムダリア川の岸辺に野営した。ここなら水の心配はなく野営が出来る。川辺には馬が食べられる草が豊富に生えている。

 サマルカンドを出発してからはずっと野営だ。町や村に立ち寄るのは食料を購入する時だけ。その時、カウナとゲンツェイは布で鼻と口を覆い隠した。ジョシェやムーレイ、ハクレア、パールはともかく、カウナとゲンツェイの東方の顔立ちは目立ち過ぎた。それに、ホラズム帝国を侵攻しているモンゴル軍の騎馬兵だと分かれば、どんな仕打ちを受けるかも分からない。

 もちろん、野営にも危険はある。一度、サマルカンドを離れてから深夜に襲われた。相手はホラズム帝国軍の敗残兵六人だったが、身なりと振る舞いは盗賊そのものだった。

 敗残兵は不意の夜襲を掛けたつもりだったが、見張りをしていたジョシェとゲンツェイが瞬く間に四人を斬り倒した。残る二人も飛び起きたカウナとムーレイが斬って捨てた。その間、ハクレアは短剣を構えてパールを守った。

 何処にいても危険は常に存在する。好意に甘えて泊まれば夜中に寝首を斬られるかもしれない。野営であれば自分たち以外はすべて敵だから心構えも出来る。今は冬だが、モンゴルのように寒さは厳しくない。

 カウナたちにとっては、良くも悪くも野営の方が安心出来た。


 冷たく澄んだ空に傾き始めた冬の陽射しが紅く映えている。ゲンツェイとムーレイは灌木の茂みから枯れ木を拾い集めて焚火を起こした。

 焚火で暖を取るハクレアは、隣にいるパールの様子が気になって仕方なかった。アイ・ハヌムの廃墟に近付く頃からパールに落ち着きが見られなくなっていた。気付いているのはハクレアだけだ。パールと親しいハクレアだから気付いた。それでも、カウナたちが周りにいるから、どうしたのとは尋ねられなかった。

 今も、パールは焚火の炎で暖を取りながら周囲を気にしている。カウナたちは近くにいない。よし、聞いてみよう。「パール、何か気になるの?」

 驚いたようにパールは振り向いた。「ええ、誰かの声が聞こえる気がします」

「誰かって、また悪魔なの?」ハクレアが不安そうに尋ねた。

「いいえ、違います。でも、何かは分からない」

「そうか、カウナに言っておく?」

 パールは少し考えた。「危険は感じないから何も言わないでください」

うん、ハクレアは頷いた。ハクレアは少し間を空けて尋ねた。「ねえ、パール、始まりの地で私は何をすればいいの?」

 パールはまだ何かを感じるのか周囲を見回している。「それは前にも言いました、ラトに着くまで私にも分かりません」

「やっぱりそうなのね。じゃあ、パールが変わったのはどうしてなの?」ハクレアは心配そうにパールを見つめている。

 パールは思わず顔を逸らした。ハクレアは私を心配してくれている。でも、私はハシムの言い付けを守らなければいけない。ハシムは言った、モンゴルの騎馬兵を信用してはいけない、少しでも隙を見せれば奴らは始祖の玉を奪う。それはハクレアも同じだ、と。

 だから、パールはカウナたちにいつも冷淡に接している。ハクレアとは会話はするが、心を読まれないように距離を置いて感情を押し殺している。けれども、そうした状態が毎日続けば心は疲弊する。パールは叫びたくなる衝動を時折感じるようになっていた。

「私は古の一族のシャーマンとして務めを果たさなければならないのです。だから、私は変わらなければならないのです」パールは毅然として答えた。

 そうなんだ、シャーマンって辛いんだね、ハクレアは悲しそうに言った。

ハクレアの悲しそうな声にパールの心は揺れ動いていた。まただ、また心が苦しくなってきた。ハシム、苦しいよ。ハシム、ごめんなさい、私は強くなれない。

 それからずっと、焚火の前の二人は静かだった。

 

 草を食べ、水をしっかりと飲んだ馬を連れてカウナとジョシェが戻ってきた。二人は食事に使う水も一緒に持って帰ってきた。さっそく、ゲンツェイが鉄鍋に水を移し替えて、焚火の火で温め始めた。

 ハクレアは、荷物の中からボルツと呼ばれる干し肉の塊を鉄鍋に入れた。熱湯の中で干し肉の塊はゆっくりとほぐれて嵩を増していった。

 カウナたちは焚火の周りに座り込んだ。ハクレアが鉄鍋からボルツ汁を器に盛った。カウナたちはハクレアから一人ずつ器を受け取り、ほぐれた干し肉を食べ、干し肉から染み出て塩気が溶けた汁を飲んだ。暖かい食べ物は心と身体を元気にしてくれる。北風も収まり、焚火の炎の暖かさがいっそう心地良かった。

 遠くの山々に夕日が隠れると周囲は一気に暗くなった。食事を終えたカウナたちは寝る準備に取り掛かった。夜は騎馬兵四人が二組に分かれて交替で見張りをする。焚火の暖かさで眠りそうになるが、そんな時は年上だろうが隊長だろうが、もう一人が遠慮せずに剣の鞘で突いて良いとしている。

 パールとハクレアは見張りを免除されていた。二人は一つの毛布にいつも一緒にくるまって寝た。そうすればお互いの体温で暖め合え、ぐっすりと眠れた。

 この夜、最初の見張りとなったムーレイとゲンツェイを残し、他の四人は毛布にくるまり寝入った。冬の夜空には、数えきれない星々が瞬き始めている。

「バグダッドへ向かう途中、エルブールズ山脈の近くにはムーレイの故郷があるはずだと隊長が言っていましたよ。それって本当ですか?」

 ムーレイはしばらく黙っていた。ムーレイは口数が少ないが、黙っていたのには理由がある。夜の見張りは眠気との戦いだ。焚火の炎に身体が暖かくなれば、いくら気を付けていても眠りに落ちてしまう。何かしていないとあっという間に眠ってしまう。

 だから、カウナは見張り同士が話し合っても良いとしていた。ただし、小声でゆっくりと話し、片方が話した後は間を空けて相手が話すように決めた。そうすれば周囲の物音にも気付ける。

「そうだよ、爺さんと婆さんの故郷だ。爺さんの家族は羊飼いだった。羊たちに食べさせる草を求めて、いつも草原を移動していた」

 ムーレイが黙ると深い静寂が闇の中から戻ってくる。時折、焚火にくべた薪がぱちんと弾ける音が響く。

「その頃の生活はとても貧しかったらしい。腹一杯に食事をした記憶はなかった、と爺さんは親父にいつも言っていたそうだ」

「それが、イスラム教の宗派争いでモンゴルへ逃げて来たんですよね。もしよければ、もっと教えてください」

 ムーレイは焚火の反対側でこくりと頷いた。「ある時、町に住んでいた人々が草原へ逃げてきた。余りにも多くの人数だったので、爺さんたちはすごく驚いたそうだ」ムーレイはゆっくりと話した。

「大勢が殺された、そこまで奴らは追って来ている、と人々は叫んでいた。爺さんの家族も逃げてきた人々と同じ宗派だった。それで、爺さんたち家族も一緒に逃げたのさ」

 宗教の違いに寛容なモンゴルに生まれ育ったゲンツェイには、宗教はもちろん、宗派が違うというだけで争う意味が分からない。どの宗教でも他人を敬い、他人に危害を加えてはならないと説いている。それなのに、どうして争いが起きるのだろう。

「一緒に逃げた人々の中に婆さんがいた。爺さんと婆さんは逃げる途中で知り合い、モンゴルへ辿り着いてから結婚した。それからは、貧しいながらも幸せだった」

 また静寂が戻った。薪が弾けた、小さな火の粉がぽっと舞った。

「運命的な出会いだったのですね」ゲンツェイはぽつりと言った。

「そうだな。だが、宗派の争いと爺さんと婆さんの幸せは何も繋がらない。確かに、宗派の争いが起きなければ、爺さんと婆さんは出会わなかった。だからといって、宗派の争いが爺さんと婆さんを幸せにしてくれたなどと考えるのは間違いだ。宗派の争いがもたらしたのは悲しみと憎しみだけだ。爺さんと婆さんが幸せに暮らせたのは、二人が幸せになろうと努力したからだよ」

 ぽつぽつと話すムーレイの言葉にゲンツェイは頷いていた。ムーレイの言葉はそのまま自分たちにも跳ね返ってくる。モンゴル軍とホラズム帝国の戦いもまた、多くの悲しみと憎しみを生んでいるはずだ。

 大ハーンの西方遠征は正義なのだろうか、ふとゲンツェイは思った。ゲンツェイはアフマド部隊長の言葉を思い出した。「戦いに正義を求めてはいけない。だが、戦いに大義は求めろ」部隊長はいつもそう言っていた。

 そう言えば、部隊長も宗教の争いでモンゴルに逃げてきた。部隊長はゲンツェイにこうも教えてくれた。「従う者には慈悲を授け、抗う者は殲滅しろ。それが大ハーンのやり方だ。そこに民族や文化の違いはなく、宗教の優劣もない。一人の征服者として、大ハーンの考えはある意味とても公正で分かりやすい」

 そうだ、大ハーンの戦いは民族と民族の戦いではなく、宗教と宗教の戦いでもない。大ハーンが世界の王となれば戦争はなくなる。人々はモンゴルの名のもとに一つとなり、人々は今まで以上に豊かに暮らせる。これ程の大義は他にはない。

 その後もムーレイとゲンツェイは眠気を払うようにぽつぽつと話し合った。モンゴル軍は何処まで侵攻しているだろうか。噂されている大ハーンの健康状態はどうだろうか。それから、話題はいつものとおり始祖の玉の話になった。

 カウナは、他の騎馬兵三人とハクレアにも旅の目的を教えていた。旅の道中では何が起きるか分からない。もし自分がいなくなっても、残る者が大ハーンの密命を遂行出来るようにという考えからだ。

 目的が分かれば、その目的に興味が湧くのは当たり前だ。見張りの夜は、何を話していても、誰と話していても、結局は永遠の命や始祖の玉の話になっていった。

「始まりの地ラトという場所は何処にあるのか?」

「始祖の玉からどうやって永遠の命を得られるのか?」

 パールでさえ、始まりの地ラトに行かなければ始祖の玉の詳細は分からないと皆に言っている。ましてや、ゲンツェイたちに何かが分かるはずがない。それが逆に、ゲンツェイたちの想像力を掻き立てていた。

 永遠に生きる、生きるとは何だろうか、死ぬとは何だろうか。その夜、ムーレイとゲンツェイはいつの間にかそんな話をしていた。二人とも騎馬兵として戦ってきた。これまでそんなこと考えもしなかった。

「人間の生死に意味を見出せられるのでしょうか?」

「それは、その人間が何を成したかに拠るのだと思う。大ハーンのような偉業を成し遂げた人間のようにな」

ゲンツェイは頷いたが、ムーレイは質問の半分しか答えていないとも思った。

 確かに、その人間が何を成し遂げたかとは、その人間が生きた意味とも言える。それでは、その人間が死ぬ意味は何だろう。病に伏せていると噂される大ハーンが亡くなれば、その死に意味はあるのだろうか?

 いや、そんなことを考えては駄目だ。モンゴル軍の騎馬兵として、大ハーンが亡くなるなど不謹慎極まりない想像だとゲンツェイは自分を戒めた。

 ところが、ムーレイがその問いをゲンツェイに投げ掛けてきた。「誰でもいつかは死ぬ。それは必然だ。必然である死に意味を求めるのは、それこそ無意味なのかもしれん」

 ムーレイも考えた。人も動物も、生まれ、成長し、新しい命を生んで育み、死ぬ。植物だって芽吹き、花を咲かせ、種を残し、やがて枯れる。生きている限り死は免れられない。だけど、新しい命には自らの命を託せられる。俺の身体には爺さんや婆さん、父と母の血が流れている。いつの日か、俺が嫁を得て子どもが生まれれば、俺の血も受け継がれる。

「死ぬからこそ命は次の世代に受け継がれる。それこそが死ぬ意味なのかもしれない」揺らめく焚火の炎を見つめながらムーレイがつぶやいた。

「では、死なない意味は何なのでしょうか?」

 ムーレイも考えた。大ハーンが永遠の命を得れば、それは何を意味するのか?ゲンツェイも考えた。ずっと考えたが、何も分からない。

 真夜中過ぎとなり、カウナとジョシェが起きてきた。ムーレイとゲンツェイは見張りを交替した。ゲンツェイはジョシェが寝ていた毛布に包まった。まだ温もりが残っている。眠ろうとしたが、なぜか悪魔と対峙した時のパールの言葉が思い出されて眠れなくなった。

 あの時、ゲンツェイはパールのすぐ傍にいた。パールはハシムに言った、「この者は死ぬことも出来ない、安らぎを与えます」

 確かそんなことを言っていた。その直後にパールは悪魔を倒した。永遠の命を得た悪魔が望んだ安らぎ、それは死だったのか?


 ぼそぼそとした話し声に気付き、ゲンツェイは薄目を開けた。周囲はすっかり明るくなっている。ゲンツェイは鼻孔から大きく息を吸い込んだ。毛布に包まって暖まっていた体内に冷気が入り込んでいく。

 ゲンツェイは上半身を起こした。左隣に寝ていたはずのムーレイはすでに起き上がっている。焚火の反対側ではハクレアが一人で毛布に包まりぐっすりと寝ている、一緒に寝ているはずのパールはいない。

「見ろ、誰かと話している」立っているムーレイの視線の先をゲンツェイも見た。

 離れた場所でパールと見知らぬ男が何か話をしている。男の両脇には幼い男の子と女の子がいる。二人の子どもは男の服にすがって遊んでいる。男は茶色の、子どもたちは白色の厚地の布を身体に纏っている。

 男たちとパールから少し距離を置いて、カウナとジョシェが立っている。二人は男たちと周囲を見回して警戒しているが、剣には手を掛けていない。危険はないようだ。

 しばらくすると、男と子どもたち、パールは互いに手を振り別れた。男と子どもたちは何処かへ去っていった。カウナがパールに近付き話し合っている。ムーレイもそこへ駆け寄り会話に入った。

 ゲンツェイは毛布を畳んだ。その気配でハクレアが目覚めた。ハクレアの胸入れからコハクがちょこんと顔を出した。呑気な顔で周囲をきょろきょろと見回している。主人が寝返りを打った時によく潰されないなとゲンツェイは感心した。

 カウナたちが焚火まで戻ってきた。

「ハクレアも起きたな。話がある、聞いてくれ」カウナはそう言い焚火の前に座った。皆が順々に焚火の周りに座った。

「さっきの男だが、この近くの神殿に仕えているらしい」話し始めたカウナの横顔を、パールは無表情のままじっと見ている。

「男はパールに用があってきた。どうして俺たちがここにいると男に分かったのかも含めて、後はパールから説明してもらう」カウナは隣に座るパールに目配せした。

「あの男性が仕える神殿には、千年を超えて生きている神官がいるそうです。不思議な力を持っており、その力で神官は私の居所が分かったそうです」

 ハクレアはおやっと思った。パールはいつになく緊張している。ただ、それが分かるのは自分だけだろう。

「神官は、古の一族のシャーマンに是非とも会いたいという伝言を男性に託しました。おそらく、その神官は永遠の命を得た者だと思います」話し終え終えたのか、パールはカウナに顔を向けた。

 俯いていたカウナが顔を上げた。「千年も生きていると聞いて、俺はあの悪魔を思い出して反対した。だが、パールは、あの日に悪魔が村に近付いて来た時のような嫌な気配は感じていない。それに、悪魔が俺たちを殺す気なら、昨夜の内に襲っているだろう」

「だから、行ってみる?」カウナの正面に座っているジョシェが尋ねた。

「だから、行ってみる。朝食を食べたら神殿へ向かう。神殿の場所は昨日見た町の遺跡の近くらしい。遺跡の広場でさっきの男が待ってくれている」

 ゲンツェイが手を上げて質問した。「全員で行くのですか?」

「そうだ、あの男もそう頼んできた。それに、やはり危険はあるかも知れん。俺たち自身を守るには分散して行動する訳にはいかない。六人全員が一緒に動くしかない」

 全員が頷いた。その後、朝食の準備をしたり、荷物をまとめて鞍に積み始めた。

「誰かの声が聞こえるって、これだったの?」ハクレアはパールに尋ねた。パールは自信なさそうにゆっくりと頷いた。

 六人は早々に朝食を終え、アイ・ハヌムの廃墟の町へ向かった。


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