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厄災のユーラシア  作者: もとふ みき
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第一章 一二一九年、晩春 サフリム(其の二)

第一章 一二一九年、晩春 サフリム(其の二)


 馬上でうたた寝をしていたゲンツェイの無防備な表情からは、この童顔の騎馬兵が幾多の激戦を戦い生き残ってきたとは到底思えない。

 ゲンツェイが騎馬兵になろうと決心したのは、五年前の十二歳の時だ。

 ゲンツェイは、鍛冶職人の父親の後を継ごうとは思っていなかった。騎馬兵を選んだのは、この年頃の男の子にありがちな理由だった。強い敵と戦い武勲を挙げたい、それだけだ。この年頃の男の子では、自分が戦いで死ぬなど考えも及ばない。

 その頃、大ハーンはモンゴルと長年に渡り敵対関係にあった隣国の金王朝と一時休戦し、モンゴルから西方へ向かう交易路を支配する西夏王朝と戦っていた。

 西夏王朝の主な兵力は、モンゴル軍と同じ騎馬兵だった。武具や戦法も似ており、両軍の戦いは消耗戦と化し、長期化もしていた。大ハーンは広域に渡る前線への兵力の補充のため、ゲンツェイのような少年兵も投入した。

 ある時、対峙する敵の騎馬兵を本陣から誘い出すため、囮部隊による陽動作戦が実施された。囮部隊にはゲンツェイたち少年兵が選ばれた。囮部隊では、馬の脚力を活かして素早く駆け抜けられるよう、体重の軽い少年兵が選ばれるのが常だった。各部隊から合わせて五十人が集められた。

 こちらから少しくらいの陽動を掛けても、西夏王朝の騎馬兵は動かない。本陣へ矢を放つ挑発でもまったく乗ってこない。だから、罠だと分かっていても、怒りに任せて草原へ飛び出させるぐらいに挑発する必要があった。少年兵には鉄砲てつはうと呼ばれる炸裂爆薬が八個ずつ支給された。

 明け方近く、少年兵は五騎ずつの小集団に分かれて敵の本陣に近付いた。火矢の合図でいっせいに本陣へ突入した。ゲンツェイたちは点火した鉄砲を左右の天幕へ次々に放り投げていった。

 西夏王朝の本陣は大混乱に陥った。悲鳴と怒号が飛び交った。

 天幕から飛び出した敵兵がゲンツェイたちの前に立ち塞がった。馬を止めれば殺される。先頭を駆ける少年兵はそのまま馬を敵兵に体当たりさせて跳ね飛ばした。その少年兵も敵兵にぶつかった衝撃で落馬した。馬から落ちた少年兵に敵兵が群がっていった。

 先頭で指揮を執る者が倒されれば、二番手を走る者が指揮を執る。二番手はゲンツェイだった。ゲンツェイは最後の鉄砲を放り投げて本陣から離脱しようとした。ゲンツェイは後ろの三騎に振り返って離脱の合図をした。最後尾を走る少年兵は敵の矢に射貫かれて落馬していった。

 天幕の間を駆けるゲンツェイは、自分たちと並行して駆けて来る少年兵三騎を見つけた。ゲンツェイはその三騎をちらと見た。先頭の少年兵が鉄砲に点火した直後、その背中に矢が刺さった。少年兵は痛みの余り前屈みになった。次の瞬間、手に持った鉄砲は爆発し少年の肉片が飛び散った。後続の二人も爆発に巻き込まれて落馬した。

 ゲンツェイは馬と仲間を大声で急き立てて本陣から離脱した。他の少年兵も合流してきた。後ろを振り返ると、本陣から多くの敵の騎馬兵が追手となって迫って来ている。

「駆けろ、止まるなぁ」

 ゲンツェイは大声で叫び続けた。その声は自身を叱咤する叫びだった。

 ゲンツェイたちは味方の陣地には戻れないような位置から敵の本陣を離脱した。そのまま味方の陣地とは反対の方向へ馬を走らせた。これも敵の騎馬兵を欺く手段だった。ゲンツェイたちは味方の陣地へ戻れず、孤立無援となったと誤解させるためだった。

 怒り狂った西夏王朝の騎馬兵はゲンツェイたちを追い掛け続けた。その数はざっと四百騎はいるとゲンツェイは見た。

 ゲンツェイの周りから二騎、三騎と遅れ出した。全速で駆けていた馬の脚力が衰え始めていた。遅れ始めた馬に乗っていた少年兵たちは敵の騎馬兵の剣に斬り倒されていった。それでもゲンツェイたちは草原を駆け続けた。

 やがて、ゲンツェイたちは別働隊が待ち伏せる場所へ辿り着いた。二百人の騎馬兵が草原に馬を横たわらせ、遠くから見えないよう巧妙に隠れていた。

 ゲンツェイたちがそこを駆け抜けた瞬間、草原の四方から別働隊の二百騎が姿を現した。

 ここにモンゴル軍の騎馬兵はいないはずだ、不意を突かれた西夏王朝の四百騎は混乱し、統率が取れず総崩れとなった。四百騎はすべて討ち取られた。

 時を同じくして、モンゴル軍本隊の騎馬兵六百人が手薄となった西夏王朝の本陣を襲撃した。追手として出撃した四百騎が一騎も帰らず動揺していた本陣も総崩れとなった。

 戦いはモンゴルの圧勝だった。少年兵の犠牲も大きかった。ゲンツェイたち五十人の少年兵の内、生還できたのは僅か七人だった。

 三年前、ゲンツェイは金王朝の首都である中都の攻略にも従軍した。この戦いの転機となった居庸関での攻城戦では、ゲンツェイたち騎馬兵も馬を降りて戦った。

 二週間も籠城を続ける金王朝の歩兵七万人に対して、大ハーンは静観を構えていた。堅固な城に無理に戦いを仕掛けても、味方の兵力を損耗するだけだ。籠城したければするが良い、やがて食料が尽きれば自決するか降伏するかを選択させれば良い。

 そこへ、早馬の伝令が金王朝の援軍の動きを伝えた。あと二日で居庸関へ敵の大部隊が到着するでしょう、歩兵が二万人、騎馬戦車が五千台という大規模な兵力です。

 この援軍が到着すれば、味方の騎馬軍勢は挟み撃ちにされる。大ハーンは決断した。金王朝の援軍が到着する前に城内へ突入して勝敗を決する。

 その夜、馬を降りた騎馬兵たちは敵に気付かれぬように城壁を調べた。ゲンツェイの部隊が、城壁の造りが弱いと推測される箇所を見つけた。元々あった入口を急ごしらえで塞いだように見えた。

ゲンツェイたちは城壁に大きな輪を描くように何カ所も深くて細い穴を掘った。その穴のすべてに爆薬を仕掛けた。

 夜空が白み始めると同時に、ゲンツェイたちは爆薬を爆発させた。爆発後、城壁には大人が通れる程の大きな穴が開いた。ゲンツェイの部隊はすかさず城内へ突入した。他の部隊も後に続いて突入していった。

 城内では血みどろの白兵戦となった。ゲンツェイは敵兵を何人斬ったか分からなかった。剣は敵の血糊で鈍らになった。ゲンツェイは倒した敵兵の剣を奪って戦い続けた。

 その日の昼には居庸関の城は陥落した。この敗北を受けて敵の援軍は引き返した。大ハーンは引き返す援軍にも追い打ちを掛けて全滅させた。その後モンゴル軍は中都へ進み、金王朝は滅亡した。

 この五年という年月はゲンツェイを一人前の騎馬兵に成長させていた。ゲンツェイも、自分がモンゴル軍の騎馬兵であることを誇りに思っていた。


 ゲンツェイの幼馴染みのハクレアにはイスラムの血が流れている。父親のオルリはイスラム諸国の一つ、カリフ朝の商業都市シーズに生まれた。

 オルリの父親ケイマンは優秀な鍛冶職人だった。ケイマンは東方との交易に携わっていたのがきっかけで、家族と一緒に金王朝に招かれた。ケイマンの造る剣は鋭く頑丈で美しかった。

 オルリは父親から鍛冶職人としての技術を教えられた。父母が亡くなった後もオルリは金王朝に残った。オルリの造る剣も鋭く頑丈で美しかった。

 オルリはイリヤという娘と結婚した。イリヤの父親はバグダッドから金王朝に移り住んだ交易商人の娘だった。結婚して二年目、イリヤは元気な女の子を産んだ。それがハクレアだった。

 その年、金王朝の領土に長年に渡り侵攻を心見ていたモンゴルが大きな戦いを仕掛けてきた。オルリが住んでいた小都市トンプゥがモンゴル軍に占領された。トンプゥにあった財宝はすべてモンゴルに運ばれた。同時に、トンプゥに暮らしていた商人や職人はモンゴルに連行された。

 オルリは家族全員が殺されるのではないかと不安だった。しかし、不安は無用だった。商人や職人は客人として丁重にもてなされた。大ハーンから本来の仕事をモンゴルで続けて欲しいと依頼され、トンプゥで暮らしていた頃よりも恵まれた生活が保証された。モンゴルのため、商人はいっそう交易に励み、職人は優れた製品を生産した。オルリも優れた剣を次々と造り上げた。イリヤも小さなハクレアと幸せな生活を送っていた。

 幼いハクレアの遊び場はオルリの仕事場だった。ハクレアは父親が同じ鍛冶職人だったゲンツェイと出会った。ゲンツェイの遊び場も父親の仕事場だった。幼い二人はいつも一緒に遊んでいた。

しばらくすると、ゲンツェイとハクレアはそれぞれの父親の手伝いをするようになった。幼い二人は、剣の良し悪しの見方を次第に覚えていった。

 十二歳になったゲンツェイは少年騎馬兵に志願したが、ハクレアはそのまま父親を手伝った。ハクレアは剣の魅力に取りつかれていた。

 三年前、高麗から大ハーンへの貢物を持参した使者一行がモンゴルを訪れた。滞在中、一行の内の二人の女性がモンゴルの人々に剣舞を披露した。

 両手に細くて長い剣を持つ小柄な二人の女性が、それぞれが振り回す剣の重さと勢いを利用して飛び跳ねるように舞った。それを見たハクレアは剣舞に魅了された。剣舞を覚えたいと熱望した。しかし、モンゴルに剣舞を教える者はいない。遊牧生活に剣舞など必要ない。ハクレアの剣舞への憧れは憧れのままで終わるかと思えた。

 ある日、オルリたちの仕事場近くで二十人ほどの騎馬兵が休憩していた。彼らはイスラムの出身だった。全員がカリフ朝で生まれ育ち、キリスト教の古い宗派であるネストリウス派を信仰していた。

ネストリウス派は、イスラム教が生まれる六百年以上も前に誕生していた。当時、周辺諸国はネストリウス派に寛容だった。それが、百年以上も前から始まるヨーロッパの十字軍との戦いにより、イスラム諸国にはキリスト教に対する憎しみが急速に拡がっていた。

 ネストリウス派の人々も憎しみの対象となった。ネストリウス派を信仰する人々は疎まれ、やがて生命の危険を感じるようになった。ネストリウス派の人々は故郷から逃げた。軍に所属していた騎馬兵も家族と一緒に逃げた。十字軍が侵攻している西方へは向かえない。十字軍に見つかればイスラムの騎馬兵として処刑される。残された逃げ場所は東方だけだった。こうして最後に辿り着いたのが東方の大草原モンゴルだった。

 そのイスラム出身の騎馬兵の一人が、オルリの仕事場の近くで暇を持て余してペルシャ剣舞を舞い始めた。すぐにもう一人が立ち上がり、対になって舞い始めた。

 オルリの仕事場にいたハクレアも二人の剣舞に気付いた。それは、高麗の女性が舞ったような優雅な舞いではなかった。戦いの場で培われた武骨な舞いだった。それでも、ハクレアは剣舞を再び見られて嬉しかった。やはり自分も剣舞を舞いたいと強く思った。

 大ハーンも別の機会にイスラム出身の騎馬兵のペルシャ剣舞を見ていた。大ハーンはペルシャ剣舞をいたく気に入った。

 この頃、大ハーンは自らが率いる騎馬兵についてある問題点を指摘していた。モンゴル軍の騎馬兵は確かに強い。剣、槍、弓、すべてにおいて馬上での戦いは強い。巧みな戦術と圧倒的な集団戦を駆使すれば負け知らずだ。

 それが、騎馬兵が馬を降りて個人で戦うとなると強いとは言えなかった。モンゴル軍の騎馬兵が馬を降りて戦っても勝ち残れるよう剣術の練度を高める必要があった。そこで、大ハーンはペルシャ剣舞をナーダムの競技に加えた。

 ナーダムはモンゴルが国を挙げて行う競技大会だ。一年に一度、馬術、剣術、槍術、弓術、格闘術の技量を競う。ナーダムには腕に覚えがあれば老若男女を問わず誰でも出場出来た。優勝者は大ハーン自らが讃えた。優勝者が兵士であれば昇進が言い渡され、民間人であれば報奨金が手渡された。

 ペルシャ剣舞がナーダムの競技種目に加えられてハクレアは喜んだ。ハクレアの他にもペルシャ剣舞に興味を持つ者は徐々に増えていった。

 ペルシャ剣舞の師範はネストリウス派の騎馬兵が務めた。騎馬兵の教えるペルシャ剣舞にハクレアは当初戸惑った。ペルシャ剣舞は腕力で剣を大きく振り回して舞う。小柄なハクレアには、高麗の女性が舞ったような剣の重さや振りの勢いを利用して舞う方が合っていた。

 ハクレアにはどうしようもなかった。ナーダムにおけるペルシャ剣舞は舞いの美しさを競うものではない。実戦の場で効果を発揮する戦いの舞いだ。出場者はお互いに剣舞を舞いながら、相手が突いてくる剣先を躱し、自分の剣先を相手の胸に正面から突く。横合いから突いても、背後から突いても、それは勝利と認められない。

 ナーダムに出場するため、ハクレアは練習を重ねた。ネストリウス派の騎馬兵が教えるような腕力に任せた舞いに、高麗の女性の飛び跳ねる舞いを加えた。やがて、ハクレアなりに満足できる舞いが出来上がった。

 その後、ハクレアはゲンツェイを相手に練習に励んだ。刃先を潰した剣をゲンツェイに持たせ、遠慮なく胸を突いてよとゲンツェイをけしかけた。

 ゲンツェイはハクレアに怪我をさせたくなかった。だから、最初の頃は手加減していた。ハクレアは遠慮なくゲンツェイの胸を剣で何度も突いた。剣先は潰れて防具を付けていても、突かれた痛さは相当だった。ゲンツェイは痛さに懲りて手加減するのを止めた。

 それからの二人の練習は真剣勝負だった。戦いが白熱し過ぎて、練習を終えてからも仇同士のようにお互いを避けたりしていたくらいだった。

 昨年のナーダムのペルシャ剣舞にハクレアは初めて出場した。ハクレアは両手に持った剣を前後左右に素早く振り回しながら、小柄な身体で飛び跳ねるように舞った。出場した大柄な騎馬兵は、踊るように舞うハクレアの俊敏な動きに翻弄された。気が付くと正面からハクレアの剣先が自分の胸に突かれていた。

 ハクレアは初出場で優勝した。大ハーンはハクレアの栄誉を称え、自らの近衛兵にハクレアの剣舞を教えるよう依頼した。ハクレアは二カ月間、大ハーンの近衛兵に自らの剣舞を教えた。近衛兵への教えが終えると、大ハーンはハクレアに金貨二十枚を贈った。

 近衛兵に剣舞を教えている間、ハクレアは大ハーンと何度か会話を交わしていた。大ハーンの身体は大きくない、腕力も飛び抜けて強くはない。また、大ハーンは饒舌でもない。むしろ、大ハーンの口数は少ない。

 それでも、大ハーンがそこに佇んでいるだけで周囲の空気は張り詰めた。大ハーンが一言話すだけで周囲の人々は感嘆した。ハクレアも間近で話す大ハーンに圧倒された。思慮深く、冷酷で、それなのに温和な大ハーンの言葉に心を打たれた。

「我は世界の王となる。我が世界の王となれば、モンゴルの名の下に国や民族、宗教の壁を越えて人々は平和に暮らせる。それが我の夢だ」

 ハクレアは大ハーンの思い描く世界を素晴らしいと思った。大ハーンならそうした世界を実現してくれると感じた。大ハーンの思い描く世界を実現するため、自分にも出来ることがあれば喜んで引き受けようと決心していた。


 その日の午後遅く、ゲンツェイの部隊は湖のほとりに天幕を組み立てた。組み立ててしまうと仕事はもう何もなかった。アフマド部隊長からは、ここで半月近く滞在すると教えられた。

 暇を持て余したゲンツェイは、アフマド部隊長の許しを得て職人たちの宿営地へ向かった。オルリは天山山脈越えで風邪を患っていたから、きっと手助けが必要になるだろうと思っていた。

 宿営地に着くと、オルリとハクレアは天幕を組み立てていた。心配したとおり、まだ体調が万全ではないオルリと小柄なハクレアは天幕を組み立てるのに苦労していた。

「オルリさん、手伝いましょうか」ゲンツェイは大声で呼び掛けた。

 天幕の横壁となる蛇腹の木枠を拡げていたオルリとハクレアが驚いたように顔を上げた。

「やあ、ご覧のとおりだ。もうすぐ日が暮れるし、手伝ってもらえるなら大助かりだ」オルリは本当に助かったという表情だ。ところが、横にいるハクレアは不機嫌そうにしている。何だろうな、とゲンツェイは思った。

 三人は蛇腹の木枠を円周に組み、その蛇腹に壁布を掛けた。屋根の木枠と布はゲンツェイが張った。ハクレアは天幕の中に絨毯を敷いた。

 気が付くと太陽はすっかり西に傾いていた。ゲンツェイとオルリは明日の朝までに必要な食事道具や寝具を急いで馬車から降ろした。その間、ハクレアは湖まで水を汲みに行った。思ったよりもオルリの容態は良かったので、ゲンツェイは少し安心した。

 ハクレアは汲んできた水を鍋に入れ、薪を燃やして沸かし始めた。オルリが配給の羊肉を貰ってきた。どうやら今晩の食事は羊肉の煮込み料理らしい。

 オルリは、今回の遠征では妻イリヤと八歳の息子アリフをモンゴルに残していた。本当はハクレアも残したかったらしいが、それではオルリは一人になる。オルリは優柔な鍛冶職人だが、いくら優秀でも一人では手が回らない。

 騎馬兵の戦いが始まれば、オルリたち鍛冶職人の戦いも始まる。オルリたちの所には昼夜を問わず刃先が欠けたり鈍らになった剣や槍が持ち込まれる。それを素早く、次々に焼き直して研がなければならない。だから、どの鍛冶職人も必ず一人か二人の部下を連れている。

 それに、西方への遠征にオルリが参加した特別な理由もある。オルリは、幼い頃に暮らしていたイスラム諸国を再び見たかった。だから、西方に行きたい、西方を見てみたい、とハクレアが懇願してきた時はオルリも認めざるを得なかった。何しろ、ナーダムでは屈強な騎馬兵を次々に倒して優勝したハクレアだ。駄目と言って引き下がるような娘ではない。

 モンゴルを出発してからオルリはハクレアにあらためて尋ねた。そんなに父親の生まれ故郷が見たいのか、と。すると、ハクレアはこう答えた。大ハーンは世界を一つにしようとしている、その世界がいったいどういうものなのか見てみたい。

 オルリは少年の頃を思い出した。優秀な鍛冶職人だった父親と共に家族は金王朝に招かれた。遥か東方へ向かったその時の旅は、少年だったオルリに世界の広さを教えてくれた。

 ハクレアは女の子だ。それでも、自分の時と同じように、ハクレアにも世界の広さを実感してもらいたいと今ではオルリも思っていた。


「ゲンツェイも一緒に食べるかね」オルリはゲンツェイに声を掛けた。

 ゲンツェイはちらっとハクレアを見た。ハクレアはオルリの言葉に気付いた様子はない。オルリとゲンツェイに背中を向けたまま、配給された羊肉を包丁で切っている。

「すみません、今夜は部隊で夕食が出ますので遠慮します」ゲンツェイは残念そうに断った。ゲンツェイは本当に残念に思っていた。

「そうか、仕方ない。残念だな、ハクレア」オルリがハクレアへ大声で言った。

 ハクレアは羊肉を切る包丁を止めて振り返った。「父さんはしっかりと食べて身体を回復させなきゃいけないの。そこにいる騎馬兵さんに食べ物を分けるような余分は無いのよ」

 それだけ言うと、ハクレアは再び背を向けて羊肉を勢いよく切り始めた。

「すまんな、ゲンツェイ。ハクレアも母親に似てきた。言いにくいことを躊躇いもなく言うようになった。とても年頃の娘とは思えん」

「いえ、いいのです。この遠征で逞しくなったのでしょう」

 そう言ったゲンツェイは、血の付いた包丁を持ったまま自分を睨んでいるハクレアに気付いた。

「いや、そう言う意味じゃないんだ」ゲンツェイは慌てて言った。

「じゃあ、どういう意味よ?」ハクレアの鋭い問い掛けにゲンツェイは返す言葉がない。

 しばらくして、ゲンツェイは部隊へ戻ろうと立ち上がった。周囲はすっかり暗くなっている。

 ゲンツェイがオルリに別れを告げて歩き始めると、ハクレアが駆け寄って来た。周りの篝火に照らされたハクレアの表情は穏やかだ。

「今日はありがとう。助かったわ」

 ゲンツェイは安堵した。「いいさ。ハクレアが怒っているみたいで、何かあったのかと思った」

「ううん、何でもないの。ただ、山脈越えが終わって、また戦いが始まるのかなって少し悲しくなったの」ハクレアがゲンツェイの目を見つめて言った。

 ゲンツェイは少し息が苦しくなった。ゲンツェイはハクレアから目を逸らし、夜空を見上げた。星が二つ三つと輝き始めている。

「大丈夫さ、モンゴル軍の騎馬兵は負けない。じゃ、おやすみ」

「うん、おやすみ」

 ゲンツェイは方向を間違えないように部隊へ戻って行った。その後ろ姿が暗闇に消えるまで、ハクレアはじっと見つめ続けていた。


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