第五章 一二二〇年、新年 エルサレム(其の六)
第五章 一二二〇年、新年 エルサレム(其の六)
老人が入っていったその通りは、メルとイアンが育った孤児院の近くにあった歓楽通りと同じだ。メルは、聖地エルサレムにもこうした通りがあるとは考えもしなかった。
通りのあちらこちらでは、まだ明るいのに男たちが酒に酔って座り込んでいる。男たちの近くを通ると小便の匂いが立ち込めていた。見るからに不潔そうな建物の窓辺には女たちが佇んでいる。くすんでしみだらけの肌を露わにして、通りを歩く男たちの気を卑猥な言葉で引いている。
老人は通りの突き当りにある店に入っていった。店の入口にはトゥランと書かれた汚れた看板があった。店内には数人の男がまばらに座っている。男たちに構わず、老人は薄暗い店の中をどんどんと歩き、一番奥の席に座っている中年の男と若い女の前で立ち止まった。メルは老人の横に立った。
中年の男が気付いて目を上げた。男は値踏みするようにメルを眺めた。
「あんたの言うとおり連れてきた、こいつも輝く玉を持っている。約束は守ってくれよ」
老人の言葉に男は分かったとでも言うように左手を少し上げた。老人は踵を返し、メルを残したまま店をさっさと出ていった。
「まあ座れよ」男が低い声で言った。
メルは言われるまま椅子に座った。男の隣の娘がメルを見ている。室内は薄暗いが、娘が美しい顔立ちをしているのがメルにも分かった。
「名前は?」
「メル・フィッツ・トレーシー」
「どこに住んでいる?」
「トリポリ伯国」
「仕事はしているのか?」
「トリポリ城でアレクサンドリア図書館の巻物を調べている」
男はちょっと意外そうな顔をした。「どうしてエルサレムに来た?」
「それはあなたには関係ないでしょう」
「そうかもしれん。だが、俺を捕まえようなどと企んでいたら、お前はこの店から無事に出られない」そう言って男はメルの背後に目配せをした。
メルはゆっくりと後ろを振り向いた。離れた席にまばらに座っていた男たちは、鞘から抜いた剣や短剣を机の上に置いている。
「アレクサンダー大王の遺跡の調査に来ました。捕まえるって、あなたは捕まるような悪い事をしているのですか?」
男は小さく鼻で笑ったが、その目は笑っていない。「それで、お前は輝く翡翠の玉の何を知りたい?」
「どうやったら玉は輝くのですか?いや、そもそもなぜ輝くのですか?」遠回しに言ってもごまかされそうだ、メルは短刀直入に聞いた。
「お前は玉を持っているんだろ。それなのに分からないのか?」
「分からないからここに来たのです」この男はふざけているのか、メルは苛立った。
苛立つメルを男は面白そうに見返している。「お前は玉を輝かせた経験はあるのか?」
「一度だけ、子どもの頃です。自分では覚えていない」
娘がはっとして男の横顔を見た。男も娘を見た。娘は小さく頷いた。男は背筋を伸ばして机の上に両肘をつき、両手を重ねた。
「俺はモカ、彼女はルルクウ。お前が玉を輝かせた時の話を詳しく聞かせろ。そうすれば俺も話してやる」
その頃、ホイヘンスは宗教指導者の建物の前にいた。見送りに来てくれたハイサムに別れを告げていた。
「ハイサム殿、本当に感謝します」ホイヘンスは心から礼を言った。
ハイサムも満足そうに頷き返した。「いや、あなたの解釈も参考になった。非常に合理的で興味深かったですよ。まさにヨーロッパの思考ですな」
二人の会話に妙な間が空いた。戸惑いながらホイヘンスが口を開いた。「また、お会い出来るでしょうか」
ハイサムは首を横に振った。「今の時代、イスラム教の宗教指導者がキリスト教徒と親しくするなど許されない。どうか、察していただきたい」
ホイヘンスにも事情は理解出来る。今、こうして自分と話しているだけでもハイサムの立場は十分に危うくなりかねない。
「ハイサム殿、どうかお元気で」
「どうしても始祖の玉を捜すのですか?」
「はい」
ホイヘンスにはハイサムが微笑んだように見えた。ハイサムは待機していた兵士に合図した。ホイヘンスをトリポリ伯国の宿泊所まで護衛するよう、ハイサムは兵士に指示した。
「あなたに神のご加護がありますように」ハイサムはそう言い、振り返りもせず建物の中に戻っていった。
ジョンおじさんが教えてくれた話を、メルはモカとルルクウに伝えた。モカは黙ったまま話を聞いていた。ルルクウは時折モカの手を握りしめ、やはり話を聞いていた。
「いろいろと調べました。でも、何も分からかった」
「そうか、では、玉が輝いたのは大火事の時だけだな」
「そうです」
モカは椅子の背もたれに背中を預けて天井を仰いだ。「ルルクウ、持ってきてくれ」
ルルクウは席を立ち店の奥に入った。ルルクウはすぐに戻ってきたが、手には布で包んだ何かを持っている。ルルクウから布を受け取ったモカは布を開いた。
メルはあっと声を出した。そこには翡翠の玉があった。メルも懐から翡翠の玉を取り出した。メルの翡翠の玉を見て、今度はルルクウが声を出して驚いた。
机の上に二つの翡翠の玉が並べられた。形は少し違うが、二つともほぼ同じ大きさで、緑色の濃淡の具合も同じだ。
「悪魔の話はともかく、翡翠の玉が輝いたというお前の話は信じよう」モカが言った。
「でも、どうして?」メルは戸惑った。ずいぶんと物分かりのいいモカの言葉に疑問を感じた。こんな話をいきなりされたら、普通は誰も信じない。
ふと見ると、ルルクウが手を伸ばして翡翠の玉をそっと撫でている。その仕草を見たメルは、自分も時々同じようにしているのを思い出した。そんな、まさかこの娘もなのか?
メルの考えを察したのか、モカが答えた。「そうだよ、ルルクウも輝かせたのさ。しかも、何度もな。お前と同じ子どもの頃だ」
モカは、ルルクウが翡翠の玉を最初に輝かせた状況を説明した。もちろん、ルルクウの父親は盗賊で翡翠の玉は盗品だとは言わなかった。
モカの話を聞き終えたメルは考えた。自分もルルクウも大きくなってからは玉を輝かせていない。では、子どもしか玉を輝かせられないのだろうか。それ以前に、どうして第一次十字軍が翡翠の玉を捜していたのか。その疑問をメルはモカに尋ねた。
「俺もいろいろと調べたさ」モカは退屈そうに言った。「ローマ教皇が欲しがっていた、そう言えばお前にも見当は付くだろう?」
「聖職者の権威ですね」
モカは呆れた。「お前は馬鹿か。金も地位も手に入れた権力者が最後の最後に欲しがるものは何だと思う?」
メルは考えた。そうだ、アレクサンダー大王は永遠の命を得ようとエルサレムで儀式を行った、僕はそれを調べに来た。では、まさか?
「永遠の命ですね」躊躇うように答えるメルに、モカはにやりと笑い返した。
途端にメルの頭の中は混乱し始めた。この翡翠の玉が始祖の玉なのか?この翡翠の玉が永遠の命をもたらすのか?それが本当ならどうすればいい。先生に話すべきか?でも大火事の話をすれば、おじさんが悪魔の出現を黙っていたと皆に知られる。悪魔の出現で生き残った自分たちは悪魔祓いで処罰される恐れもある。いったい僕はどうすればいい?
突然に黙り込み、深刻な表情で考え込むメルをモカは怪訝に思った。「おい、いったいどうした?」
メルはまだ気が動転していた。どう答えればいいのか分からない。「いや、あまりに突拍子な話で、どう理解したらいいのか分かりません」
モカはメルをじっと見た。こいつは何かを隠している、モカはそう直感した。「お前はいつまでエルサレムにいる?」
「あと一日です。明後日の朝にはトリポリ伯国へ出発します」
あまり時間はないな。メルがエルサレムを訪れた本当の目的をモカは知りたくなった。
「もう暗くなってきた。ここの通りを抜けて出るにはお前一人だと危ない。手下を一緒に行かせよう」
メルは時間の経過をすっかり忘れていた。それでも、店の中はもともと薄暗い。外が暗くなったとどうしてモカには分かるのだろうか。そう思ってメルは気付いた、モカの席からは店の入口と外の様子が見えている。
「明日、また来てもいいですか?」メルはモカに尋ねた。駄目とは言わないだろうという確信はあった。
「俺も聞きたい事がたくさんある、待っている」モカはそれだけ言うと手下に合図した。
メルは、机の上にある自分の玉を懐にしまい席を立った。ルルクウがメルをじっと見ている。メルは何か言葉を掛けようとしたが、何も言葉が思い浮かばない。メルはモカとルルクウに一礼した。店を出て行くメルの後ろ姿をモカは見つめていた。
外に出ると辺りはすっかり暗くなっている。これでは帰り道が分からない。宿泊場所を知られるのは嫌だったが、メルは手下に案内を頼むしかなかった。
メルは歩きながらずっと考えていた。自分が持っている翡翠の玉が本当に始祖の玉なのだろうか。もしそうであれば、やはりホイヘンス先生に報告しなければならない。悪魔の話は黙っていればいい。イアンにも事前に黙っておくように言っておけばいい。何より、ホイヘンス先生なら、自分が翡翠の玉を輝かせた謎も解明してくれるかもしれない。
それでもメルは躊躇っていた。モカが何を企んでいるのかがメルには分からない。そもそも、ああいう男は信用出来ない。モカは永遠の命を求めているのか、それとも、何処かの国の王にでも永遠の命を売って大金を手に入れたいのか。
メルは地平線に近い夜空を見ようとした。周囲の建物が邪魔で見えない。今日も赤い星は輝いているのだろうか。
メルと話した内容をモカは思い返していた。悪魔の話はとても信じられないが、メルが翡翠の玉を輝かせたのは本当のようだ。
「これで、私が玉を輝かせられた理由も分かるかな」隣に座っているルルクウが尋ねた。
モカはルルクウの肩を優しく抱き寄せた。「分かるさ。いつも俺が言っているだろ、ルルクウは何も心配しなくていい」
ルルクウは安心したように目を閉じた。
モカはルルクウの横顔を優しく見つめた。モカは、シャイーブの最後の言葉を思い出さない日はない。ルルクウを守ってくれ、その言葉のとおり、モカはルルクウを大切に守ってきた。救えなかった妹のソフィーへの贖罪の思いもあった。
あの日からルルクウに不思議な能力が現れた。翡翠の玉を輝かせると、なぜかルルクウには未来の出来事が分かった。明日は雨が降ると言えばそのとおりに雨が降った。四日後に南東のユダヤ人地区で大火事があると言えばそのとおり大火事が起きた。
どうして未来が分かる、モカはルルクウに尋ねた。すると、今はいない人たちに教えてもらっているとルルクウは答えた。今はいない人?それは誰だとモカは尋ねた。良く分からない、とルルクウは答えるばかりだった。
未来の出来事が分かるなどと噂が広まれば、ルルクウは魔女狩りの対象とされる。だから、モカはルルクウとひっそりと暮らし始めた。ルルクウの友だちは、父親が誰かも分からない売春婦の子どもだけになった。
ある日、明日の夜にあなたのお母さんが殺されるよと、ルルクウは仲の良かった女の子に告げてしまった。次の日の夜、女の子の母親は客の男に滅多打ちに殴られて死んだ。残された女の子は、ルルクウが言ったとおりになったと周りの大人たちに話した。
同じような出来事が何度か続いた。もっと早く気が付けばルルクウを止められたのにとモカは悔やんだ。魔女狩りには遭わなかったが、もはや、誰もがルルクウを避けていた。ルルクウに係わると次は自分に不幸が起きると怖れていた。ルルクウと遊ぶ子どもはいなくなった。ルルクウは自分の能力を憎むようになった。
心を閉ざしたルルクウをモカは励ました。お前のその能力は誰にでもある物じゃない、神が与えてくれた大切な能力に違いない。今は辛くても、その能力はいつかきっとお前を助けてくれる、だから自分を責めてはいけない。
モカの言葉はルルクウに伝わらなかった。自分の能力にルルクウ自らが怖れていた。どうして未来が分かるの?今はいない人たちって誰なの?こんな能力を持つ自分は何なの?ルルクウの心は得体の知れない恐怖に包まれた。やがて、今はいない人たちにさえルルクウは心を閉ざしてしまった。ルルクウは翡翠の玉を輝かせられなくなった。
心を閉ざして無気力となったルルクウにモカは約束した。お前のその能力がどのようにして備わったのか、神がどうしてお前にその能力を授けたのか。俺が謎をきっと解き明かして見せる、だから何も怖れるな、と。
そう言ったモカだが、違う意味でモカも怖れていた。謎を解いてしまえば、ルルクウが何処かへ一人で行ってしまうのではないかと怖れていた。ソフィーを失った時のように、また自分一人だけになるのではとモカは怖れていた。
モカの手下の案内でメルは宿泊所に戻った。ホイヘンスも無事に帰っていたのでメルは安心した。ところが、イアンが翡翠の玉の話をホイヘンスにしてしまっていた。
「メル、すまない。お前がなかなか帰って来ないから俺は心配した。先生もひどく心配していた。だから話した、悪魔の話も」イアンは申し訳なさそうにメルに謝った。
メルも、翡翠の玉のことは今夜にでもホイヘンスに話すつもりだった。それでも、悪魔の話をイアンがしてしまったのには困惑した。
メルは、まず自分の身勝手な行動をホイヘンスに謝った。怒られると覚悟していたが、ホイヘンスは注意さえしなかった。ホイヘンスは急ぐようにメルに言った。「その翡翠の玉を見せてくれないか、メル」
メルは懐から翡翠の玉を取り出し、ホイヘンスにゆっくりと手渡した。ホイヘンスは右手に持った玉を見つめた。手を動かして向きを変えながら食い入るように見つめた。その様子にメルは何かおかしいと思った。ホイヘンスが何か焦っているようにも見える。
「悪魔の話は誰にもしないでください。お願いします」メルが念を押すように言った。
ホイヘンスは右手に持った玉を見ながら頷いた。「分かっている、君の叔父さんや君たちに悪魔祓いなど受けさせないよ」ホイヘンスは低い声で言い返した。
イアンはホイヘンス先生に悪魔祓いの話もしていたのか、メルはイアンを睨みつけた。
イアンは、意外そうな顔でホイヘンスの顔を見ている。「どうして悪魔祓いの話を?俺は何も言っていないのに」イアンがぽつりと言った。
ホイヘンスは顔を上げ、イアンとメルの顔を見比べながら言った。「ハイサム殿が教えてくれた。そうした十字軍の情報もイスラムには伝わっている」そう言って、ホイヘンスは再び玉を見つめ始めた。
メルは不思議に思った。ホイヘンス先生は何を調べてきたのだろうか。いや、それよりも重要な話がある、早く先生に言わなければならない。
「ホイヘンス先生、聞いてください」メルはホイヘンスに呼び掛けた。
玉に見入っているホイヘンスは、何だね、と気の無い返事を返した。
「この翡翠の玉こそ、始祖の玉かもしれません」
始祖の玉と聞いてホイヘンスはさっとメルを見た。メルの顔をまじまじと見つめた。隣にいるイアンには何の話だかまったく分からない。
「どうして、そう言えるのかね?」ホイヘンスの声は妙に上ずっている。ホイヘンスの表情は緊張したように強張っている。
メルはホイヘンスにすべてを話した。露店の老人に出会い、モカという男と翡翠の玉について話し合った。自分と同じように、子どもの頃に翡翠の玉を輝かせたルルクウという娘とも話した、とホイヘンスに伝えた。
「第一次十字軍がエルサレムで捜していたのは、その二人が持っている翡翠の玉らしいのです。それに、ルルクウは幼かった頃に僕と同じように玉を輝かせていたそうです」
メルの説明をホイヘンスは俯いて聞いている。
「ローマ教皇は、十字軍を使ってエルサレムからその玉を奪おうとしていたんですよ。アレクサンダー大王が永遠の命を得た儀式で使ったのは、その翡翠の玉に間違いありません。僕も同じ玉を持っていたんですよ」
メルの説明を聞き終えたホイヘンスだが、なぜか腕を組んで黙り込んでしまった。一方、始祖の玉や永遠の命について何も知らされていなかったイアンだが、メルとホイヘンスの会話からエルサレムを訪れた目的を理解した。
「それじゃあ、エルサレムで捜している物は、実はお前がずっと持っていたその翡翠の玉だったのか?」イアンが驚いて言った。
「そうだよ、イアン。何で今まで気付かなかったのだろう」興奮気味に話すメルとイアンの横で、ホイヘンスは眉をしかめた。
「それは違う、違うぞ」喜び合うメルとイアンにホイヘンスは言った。驚くくらい冷たい口調だ。騒いでいたメルとイアンは口を閉じた。
「メル、その玉は始祖の玉ではない。私はハイサム殿から古い記録を見させてもらった。本当の始祖の玉についても教えてもらった」
「じゃあ、本当の始祖の玉って何ですか?」イアンが尋ねた。
「記録では紅色の玉だそうだ。エルサレムでアレクサンダー大王が使ったかどうかは不明なままだ。始祖の玉が何処にあるのか、今では誰にも分からない」
メルは茫然とした。「では、この翡翠の玉は何なのですか?」
呆けたように尋ねるメルに、ホイヘンスは重々しく答えた。「同じ記録にあったよ。緑色の輝きを放つ玉は悪魔を呼び寄せるとね。イスラムには悪魔祓いの風習はない。悪魔との戦いで生き残った者もいた。それで記録を残せたのだろう」
僕のこの玉が悪魔を呼び寄せるだって?先生は何を言っている?この玉は悪魔から僕とイアンを守ってくれたんだ。メルにはホイヘンスの言葉がまったく信じられなかった。
しばらく考え込んでいたメルはホイヘンスに言った。「ホイヘンス先生、モカという男に会っていただけませんか?」
ホイヘンスは疲れたような表情で笑った。「私も、君にそうお願いしようとさっきから考えていたよ」
ありがとうございます、メルはホイヘンスに感謝した。
「分かっているよ、メル。君は翡翠の玉が輝いた謎を解きたいのだろ」ホイヘンスはメルに言った。メルは小さく頷いた。
翌日、メルはホイヘンスとイアンを連れてモカの店へ向かった。明るければ道はすぐに分かった。まだ昼前なのに、店のある通りには早くも数人の酔っぱらいが寝ている。
店の前には昨日見た手下の一人が立っていた。
「モカに会いたい。ホイヘンス先生と仲間のイアンを連れてきた」
手下は頷き、そこで待てと言って店へ入っていった。やがて三人は店の中へ招かれた。帯剣していたイアンは、モカの手下に剣を取り上げられた。
モカは昨日と同じ一番奥の席に座っている。隣にはルルクウも座っている。
「おい、何で他の連中を連れてきた?」モカは不機嫌そうに言ったが、その目は興味深そうにホイヘンスを見ている。
「一人だけで来い、とあなたは言わなかった」
メルの返答にモカは首を傾け、やがて両肩をすぼめた。メルはホイヘンスとイアンをモカとルルクウに紹介した。モカは挨拶の一つもしなかった。
「で、ホイヘンス先生とやらは俺に何の用だ?」
モカの無礼な言葉にもホイヘンスは怒らなかった。昨晩、モカはどういう男かをメルから聞かされていた。それに、こういう男とはこれまでにも何度もやり合っている。もちろん、議論のやり合いだ。
「そちらの持っている翡翠の玉を見たい」
「なんだ、横取りして十字軍に売るのか?それともイスラム教のお偉いさんに返して金を貰うつもりか?」モカは馬鹿にしたように言った。
「イスラムの宗教指導者は、その玉が戻って来るのを望んではいない。それは悪魔を呼び寄せる禁忌の玉だからな」
椅子の背に深くもたれていたモカが思わず身を乗り出した。ルルクウも驚いたように目を大きく開いている。この娘が人間らしい表情をしたのをメルは初めて見た。
「なんだと?」小馬鹿にするようにホイヘンスを見ていたモカの目付きが変わった。
よし、引っ掛かった。ホイヘンスは手応えを感じた。それでも、この男は頭の回転が速そうだから油断は出来ない。
ホイヘンスはモカへ説明した。始祖の玉を調べるため私たちはエルサレムを訪れたが、手掛かりとなるアレクサンダー大王の儀式の跡は見つからなかった。その後、私だけが宗教指導者のハイサムに会い、イスラムに残る資料を見させてもらった。
「メルと君たちがそれぞれ持っている翡翠の玉は、禁忌の玉と呼ばれている。イスラムの記録では、その玉は悪魔を呼び寄せると記されている。一方、永遠の命をもたらすとされる始祖の玉の在りかは分からない。始祖の玉を求めて第一次十字軍はエルサレムへ侵攻したが、その時に見つかったかどうかも分からない」
ホイヘンスは説明を続けた。メルは育ての親に迷惑が掛かると思い、翡翠の玉を持っていると私にさえ隠していた。だが、メルは君に出会い、君の話を聞いた。その結果、翡翠の玉を始祖の玉と勘違いして私に昨夜打ち明けた。
ホイヘンスはモカに真実を話した。もし作り話をすれば、きっとこの男は見抜くだろうとホイヘンスは感じていた。ただ、必要最小限の真実しか話さなかった。
説明を聞き終えたモカは大きな溜息を付いた。天井を仰ぎ見たまま低くつぶやいた。「何が永遠の命だ、十字軍の糞野郎どもは地獄へ落ちろ」
イアンが不満そうに言った。「無礼を言うな。誇り高き十字軍は、聖地エルサレムを取り戻すため多大な犠牲を払ったんだぞ」
途端にモカは逆上した。モカの顔はさっと赤みを帯び、座ったまま机を蹴飛ばした。ホイヘンスたちは机が飛んできた弾みでよろけて倒れた。その隙にモカは懐から短剣を取り出し、倒れたイアンを抑え込んで喉元に短剣を突き付けた。剣先がイアンの喉の肉に僅かに斬り込み、すでに血が滲み始めている。
「モカ、待ってくれ」「君、駄目だ」メルとホイヘンスが叫んだ。
モカは耳を貸そうとしない。モカの目は怒り狂ったようにイアンを睨みつけている。抑え込まれたイアンは苦しそうに喘いでいる。
「やめて、モカ!」ルルクウが叫んだ。
椅子から立ち上がったルルクウは涙を流している。モカの荒い息がしだいに収まっていった。モカは乱暴にイアンを突き離して自分の席に戻った。
ぜいぜいと咳き込みながらイアンは顔を上げた。イアンの目は怒りに満ちており、モカを睨み返している。
「小僧、覚えておけ。俺は第四次十字軍の少年兵だった。お前のように何も知らない小僧だった」モカは吐き捨てるように言った。
イアンの怒りは驚きに変わり、ぽかんと口を開けた。メルもそんな話は聞いていない。ホイヘンスだけがじっとモカを見つめている。
「誇り高い?笑わせるな。人を殺した経験のないお前に何が分かる。十字軍のせいでどれだけ多くの人間が慈悲もなく無残に殺されたと思っている」
ホイヘンスは気付いた。モカの怒りは、モカ自身にも向けた怒りだと気付いた。
モカは息を整えて再び椅子の背に深く持たれた。「話を戻そう。この玉は永遠の命ではなく、悪魔をお招きすると言うのだな」すでにモカの怒りは収まっている。
ホイヘンスは頷いた。「そうだ。だが、始祖の玉とも関わり合いはあるらしい」
モカはふーんと鼻を鳴らした。「それで、俺にどうしろと?」
「始祖の玉を捜すため協力してもらいたい。いや、正確に言うと君ではない、隣のお嬢さんに協力してもらいたい」ホイヘンスはルルクウを見ながら言った。
ルルクウがはっとした表情で顔を上げた。モカの顔色がまた赤く変わっていった。「駄目だ、お断りだ!」
「なぜだ、メルとお嬢さんは子どもの頃に玉を輝かせた。もっと調べれば、玉を輝かせた理由が分かる。それは、始祖の玉の手掛かりにも繋がる。お嬢さん、ぜひトリポリ城へ来てもらえないだろうか」
モカは苛立たしく首を横に振った。「駄目だ。もういい、さっさと帰ってくれ」ムスタージ、ジャミト、お客様はもうお帰りだ、モカはそう怒鳴って手下に合図した。
ホイヘンスは諦めるしかなかった。ホイヘンスとメルは店を出た。取り上げられていた剣を手渡されたイアンが後ろを振り返り、モカに大声で叫んだ。
「俺の父は第三次十字軍の騎士だった。誰からも尊敬された誇り高い騎士だった。お前なんかとは違う、父を侮辱するな」そう言い放ったイアンは、ムスタージに勢いよく小突かれて店から追い出された。
ホイヘンスたちが出ていった後、モカは椅子に前屈みに座り、頭を両手で抱えていた。
「みんな、出て行ってくれ」煮えたぎる感情を抑えてモカが言った。
ムスタージたちは顔を見合わせて店を出ていった。店の中はさっきまでの喧騒が嘘のように静かになった。ルルクウがモカの背中を優しく撫でていた。
モカは目を大きく開き、口元を歪めて呪っていた。少年兵の気高い心を踏みにじった十字軍を呪っていた。罪のない多くの人々を殺戮した十字軍を、自分に罪のない人々を殺戮させた十字軍を、モカはひたすら呪っていた。
宿泊所に戻った後も三人は無言のままだった。夕食の後、三人は明日の帰郷のために黙ったまま荷造りをした。
これで始祖の玉の手掛かりは失われた、メルはそう思い落胆した。ボエモン四世が亡くなれば、トリポリ伯国はベルモンド伯爵とジャン・ド・ブリエンヌの思うままになるのだろうか。そんな未来は考えたくもない。
メルはホイヘンスへ聞かなければならない疑問が一つあった。翡翠の玉についてホイヘンスがモカに言った言葉の意味だ。
「ホイヘンス先生、僕とあの娘が玉を輝かせた謎を解けば、始祖の玉の手掛かりにもなるとはどういう意味ですか?」メルはぎこちなく尋ねた。
うん、とホイヘンスがメルに振り向いた。意外にもホイヘンスは明るい表情だ。落胆しているような様子は少しも見られない。
「そうだな、メルは悪魔が現れる理由が分かるかね?」
「それは、私とイアンを連れ去るためだと思います」
「どうして連れ去るのかな?」
「分かりません」どうして連れ去るのか、それはメルが一番知りたい。
「じゃあ、知っている者に聞くしかないだろう」
先生は何を言おうとしているのか、メルはすぐに驚きの表情を浮かべた。
ホイヘンスは微笑んだ。「そうだ、悪魔に聞くしかない。悪魔なら始祖の玉について何か知っているかもしれない」
「でも、人々を殺戮した化け物ですよ。教えてくれるはずがない」
ホイヘンスはにっこりと笑って返した。「ジョンおじさんは悪魔と会話し、悪魔も応えたのだろう。つまり、悪魔は知性を持っている。無差別に殺戮するだけなら知性など要らない」ホイヘンスは当然のように言った。
これがホイヘンス先生だ、メルはあらためて感嘆した。発想の豊かさというより、予想も出来ない発想の飛躍に溢れている。それにしても、悪魔を呼び寄せるなど危険過ぎる。
「でも、あの娘は?悪魔とは何の関係もなく玉を輝かせています」
「悪魔がいないのに輝かせたのなら、それはお嬢さんに聞くしかない」
二人が話している横ではイアンが乱暴に荷物をまとめていた。あいつは十字軍を侮辱した、父親を侮辱した、少年兵だったなんて嘘に決まっている、あいつは絶対に許せない。そう考えれば考える程、イアンは怒りが込み上げた。
翌朝、朝食を済ませた三人は荷物を持って一階へ降りた。ホイヘンスは宿泊所の主人に馬を用意してくれと頼んだ。使用人の小年が厩へ走っていった。
馬の用意が出来た頃に三人は外へ出た。そこにはモカが待っていた。宿泊所の建物の壁に背をもたれて立ち、腕を組んで三人を見ている。
鞍に荷物を結び付けながらホイヘンスは呼び掛けた。「気が変わった、というのかな」
モカは悪びれもせず笑って答えた。「そうだ。ルルクウは協力する。もちろん、俺もトリポリ城へ行く」
それまでモカを無視していたイアンが嘲るように言った。「どうせ、協力する代わりに金をせびるつもりだろう」
モカはイアンの挑発には乗らない。にやっと笑い、腕を組んだままだ。「永遠の命が手に入るかもしれない。それに見合うだけの報酬は貰って当然だろう。トリポリの王様ならいくらでも払えるさ」
やはりボエモン四世だと気付いていたか、ホイヘンスは溜息を付いた。仕方ない、トリポリ城から来た我々が誰のために働いているのか、それは少し考えれば誰にでも分かる。
「報酬は私だけでは決められない。でも、出来るだけ努力しよう。何にせよ、君とお嬢さんの協力は歓迎するよ」ホイヘンスの言葉にモカは頷いた。
ホイヘンスたちは馬の手綱を持った。人の往来が増えてきた。これでは馬に跨って通れそうにない。やはり、城壁を出るまでは馬を曳くしかない。
「準備が出来ればトリポリ城へ向かう、それでいいか?」モカが尋ねた。
「それで構わない、待っているよ」ホイヘンスが答えた。
三人は馬の手綱を持って歩き始めた。モカは遠ざかって行く三人をじっと見ている。途中、メルがそっと振り向いた。メルは左手を挙げてモカに挨拶をした。モカは目を逸らしてその場を離れていった。
モカは店に戻った。ムスタージたちは貸した金の回収に出払っている。ティムが店に来るのはもっと後だ。今はモカとルルクウしかいない。
「本当に良かったのか、ルルクウ」モカはルルクウに尋ねた。
ルルクウは翡翠の玉を両手の間に挟んでいる。玉の冷たく固い感触を確かめている。「うん、これでいい」
トリポリ城へ行きたい、とルルクウが言ってきたのは今朝だ。夢の中で声が聞こえたとルルクウはモカに話した。「誰かが呼び掛けてきたの、一緒に行こうって。それが誰なのか、何処へ行くのか、私は知りたい」そう訴えるルルクウの目は真剣だった。
「モカが一緒に行かないなら、トリポリ城へは私だけで行く」そこまで言うルルクウにモカは驚いたが、そうなるのではという予感もあった。
ルルクウはずっと心を閉ざしていた。自分自身にも心を閉ざしていた。それが、自分と同じように翡翠の玉を輝かせた人間がいると知った。ルルクウの心に変化が起き始めているのはモカにも分かっている。ルルクウの望むようにさせてやれば、無邪気で明るかった幼い頃のように、ルルクウの心は再び開かれるかもしれない。
それに、モカにはルルクウとの約束がある。不思議な能力、翡翠の玉を輝かせた謎を俺が解き明かしてみせる、モカがルルクウにそう約束してからずいぶんと時が経っている。もしかしたら、ルルクウとの約束が果たせる時がやっと訪れたのかもしれない。
店の心配はまったくない。ティムが料理を作っていてくれる限り店は繁盛する。金貸しの商売はムスタージとジャミトが上手くやっていくだろう。トリポリ伯国だって、そう長く滞在するつもりはない。
そうした思いとは別に、モカには拭えない不安があった。心を開いたルルクウが自分から離れて行ってしまうのではないかと不安を感じていた。
ルルクウがいなくなれば俺は一人になる、また、一人になってしまう。モカはそれだけを怖れていた。




