第五章 一二二〇年、新年 エルサレム(其の四)
第五章 一二二〇年、新年 エルサレム(其の四)
翌日の昼、ユルが作成した契約書の下書きをモカは清書していた。モカは清書に集中出来なかった。近い内に決行だ、シャイーブはそう言った。それなのに、いつ何をするのか俺には何も教えてくれなかった。
「知れば、お前は不自然な態度を取り怪しまれる。だから教えない」それがシャイーブの言い分だった。
もう一つ、モカが集中出来ない理由があった。今日も事務所の前ではイングランド系の連中が騒いでいる。まあいい、すぐにグルイヤールが怒り出して追い返すだろう。そうは思っていたが、今日はいつもより騒がしい。いつまで経っても騒ぎは静まらない。
「ええい、うるさくてかなわん。お前が見てこい!」ユルはモカに怒鳴った。
仕方なくモカは事務所の頑丈な扉を開けて待合室へ向かった。後ろでは用心のためにユルが事務所の扉に鍵を掛ける音がした。通りからは、ユルの事務所を壊せ、強欲ユルを殺せと物騒な声が聞こえてくる。
モカは、いつもは入口に突っ立っているグルイヤールがいないのに気付いた。モカが入口まで出ると、グルイヤールは通りの真ん中で泥にまみれて倒れている。意識はあるようで低い声で呻いている。周りで騒ぐイングランド系の連中はいつもより数が多い。四十人もいるだろうか。それに、今日はどうしてだか全員が顔を布で隠している。
「ユルは中にいるのか?」一人がモカの左肩を手で突いて叫んだ。モカは危険を感じて事務所に戻ろうとしたが、取り押さえられて両手を縄で縛られた。
イングランド系の連中は待合室になだれ込み、事務所の頑丈な扉を叩き壊し始めた。もはや、連中の暴れ放題となった。いつの間にかユルも両手を縛られ、グルイヤールとモカの隣に座らされた。
事務所からはイングランド系の連中の高笑いと、物を壊して巻物を破る音が通りまで聞こえていた。モカは、自分たちを見張っている男を見上げた。顔を布で隠しているが、男が事務所を見る目は楽しそうに笑っている。隙だらけの男の様子から、どうやら身の危険はなさそうだとモカは確信した。
モカの横に座らされたユルは罵声を叫び続けている。このイングランドの糞野郎め、お前らなんぞ屑だ、お前らの父母も屑だ、と叫び続けている。この爺さんは勇気の上に馬鹿が付く、モカはすっかりユルに呆れていた。
やがて、事務所には火が放たれた。これで差し押さえの念書は燃えた、ユルの野郎に天罰が下ったぞ、とイングランド系の連中は叫びながら逃げていった。
通りに捨て置かれたモカたちは、ようやくやってきたイスラム連合軍の兵士三人に助けられた。兵士は周りの見物人に暴徒の特徴を尋ね始めた。ユルの人望がないせいか、誰も兵士に協力しようとしなかった。
命が助かっただけでも良かったな、兵士の一人はユルに言った。その言葉がモカの心に引っ掛かった。もしかして、とモカは疑念を持った。
縄を解かれたユルは気丈だった。一階の事務所と二階の自室をすべて焼失しても毅然としていた。わしとグルイヤールはしばらく市内の宿泊所に泊まる、お前はアランの所へ戻っておれ、とユルはモカに命じた。
「結局、お前はまったくの役立たずだったな」別れ際にユルは当てつけがましく言った。とことん嫌な爺さんだな、モカは苦笑した。
夜になり、モカは店に向かった。シャイーブと手下が揃って食事をしていた。今日の騒動の一部始終をモカから聞いたシャイーブたちは腹を抱えて大笑いした。笑いが収まった所でモカはシャイーブに尋ねた。「それで、玉は手に入れた?」
シャイーブは懐から緑色の玉を取りだした。「何だ、知っていたのか」
「暴徒にしては穏やか過ぎた。ユルに恨みがあるなら二、三発は殴るだろ」
ふん、シャイーブは鼻を鳴らしてモカの顔を見つめた。「イングランド系の奴らに今日は加勢してやるぜと言ったのさ。お前たちの借金の差し押さえの念書を燃やしてやるってな。連中、大喜びで協力してくれたぜ」
周りにいる手下はふたたび笑い転げた。
「それで、俺はこれからどうすればいい」モカはシャイーブに尋ねた。
「こちらから呼びに行くまでアランの倉庫で働いていろ。数日後、アランは爺さんを家に引き取り余生の面倒を見る。それで、アランは俺への借金が帳消しになる。門番の馬鹿は自分で何とか生きていくだろう」
「誰も殺さず手に入れたな」モカはにやりと笑った。
「知らないのか、砂漠の黒豹は無用な殺しはしない」シャイーブは笑い返した。「いずれ玉は金に換える。そしたらお前にも分け前をやる」
モカは首を振った。何か不満なのかとシャイーブが尋ねた。
「ルルクウのために貯めておきなよ」
モカの言葉にシャイーブは驚き、大声で笑った。
翌日からモカはアランの倉庫で再び働き始めた。夕方、アランが倉庫を訪れた。宿泊所にいるユルに会ってきた、明日には家に引き取るとモカに言った。
「ユルが、隠していた宝石が焼け跡から見つからないとあちこちで騒いでいるぞ」アランは眉をひそめてモカに詰め寄った。「トゥランの狙いは宝石だったのか?」
「知らないよ、トゥランに聞けばいいだろ」モカは冷たく答えた。
アランは顔を真っ赤にしたが何も言わずに倉庫を出ていった。ユルに会ったら嫌味を言われるかな、とモカは思った。
次の日の夕方、アランの家の使用人が慌しく倉庫にやって来た。アラン様が宿泊所で殺された、当分の間仕事は休みだ、とモカたちに告げた。
「ユルの爺さんはどうした?」モカは使用人に尋ねた。使用人は、モカがシャイーブの後押しで働いているのを知っていた。
「駆けつけたイスラム連合軍の兵士の話では、宿泊所の部屋でユルとアランと門番が殺されていた。隣の部屋にいた者の話では、いきなり大きな物音が何度かしたらしい。扉を開けてこっそり見ると四人の男が部屋から走り去った。赤い十字の紋章が背中に入った上衣を纏っていたそうだ」
赤い十字の紋章、それはテンプル騎士団だ。モカは悪い胸騒ぎがした。あの緑色の玉は十字軍が捜していた。それを、ユルの祖父が自分の戦利品にしてしまった。ユルは大事な宝石がなくなったと大騒ぎしていた。アランはシャイーブが宝石を盗んだと思っている。
モカは店に向かって急いで走った。
店の小さな窓から、西に傾いた陽光が射し込んでいる。ティムはまだ来ていないせいか、店内は奇妙なくらいに静かだ。
血まみれの死体が五つ、あちこちに転がっている。店の奥の席にはシャイーブが椅子に座っている。両手は椅子の後ろで縛られている。はだけた胸元にある数カ所の切り傷からは真っ赤な血が滴り落ちている。
モカはシャイーブに駆け寄り両手を縛る縄を切った。シャイーブは椅子から転げ落ちて床に力なく横たわった。モカはシャイーブの上半身を抱き起した。息はまだしているが、血の気が引いた顔は死人のように青白くなっている。
「シャイーブ、死ぬな」
モカの声にシャイーブの瞼が少し動いた。シャイーブの目がゆっくりと開いた。もう何も見えないのか、目の焦点は合っていない。
「アランが、奴らに全部話しやがった・・・」
「テンプル騎士団の奴らか?」
シャイーブはモカの声がする方に少し顔を傾げた。シャイーブは何か言おうとしている。モカはシャイーブの口元に耳を寄せた。
「ル、ルルクウ、守ってくれ」それがシャイーブの最後の言葉だった。僅かにシャイーブの身体が痙攣し、口から吐息が長く漏れた。
モカは、開いたままのシャイーブの瞼を右手で優しく閉じた。
しばらくして、今日の稼ぎを持った手下たちが店に集まって来た。全員がシャイーブたちの死体を見て復讐を叫んだ。しかし、復讐の前にすることがある。
「ルルクウが危ないらしい。イブラハム、ルルクウの居所を教えてくれ」モカはイブラハムに頼んだ。
イブラハムは頷き、他の者も一緒に来いと言って店を飛び出した。店には少年二人が残った。モカたち五人は夕暮れの市内を走った。
シャイーブの叔母の家はエルサレムの北東端のヘロデ門近くにある。イスラム教徒が多く住み、誰もが裕福ではないが治安は良い地区だ。
叔母の家の近くまでモカたちは辿り着いた。家の入口にはヨーロッパ系の男が一人いた。赤い十字の紋章の上衣は着ていないが、騎士の剣を手に持ち周囲を警戒している。叔母の家の入口はここだけだ、とイブラハムがモカに言った。
ガシムが通行人の振りをして入口の前を通り、男の隙を突いて思い切り腹を殴打し気絶させた。俺はここで見張る、早く中に入れ、ガシムは言った。
イブラハムが扉を静かに開けた。玄関では中年の女性が血溜まりの中に倒れていた。シャイーブの叔母だった。喉を斬られ、すでに死んでいた。
奥の居間からは、家具を物色する物音と数人の男の声が聞こえている。フランス語で、早く見つけろ、子どももいるはずだ、そう話している。
時間の猶予はない。モカたちは剣を構えていっせいに居間へ飛び込んだ。
居間には八人の男がいた。八人は赤い十字の紋章が背中に入った上衣を着ていた。捜し物に夢中だったのか、八人は剣を鞘に納めていた。
モカたちは斬り込んだ。人数は相手の方が多いが、モカたちは不意を突いた。モカは怒りに身を委ねて二人を続けて斬り捨てた。服の上から身体を斬り裂く、あの嫌な手の感触が戻った。人殺しはもうしない、あの誓いを破ってしまった。これでもう後戻りは出来ないとモカは感じていた。
戦いはすぐに終わった。八人は全員斬り殺した。こちらも一人が死に、エスカは肩に斬り傷を負った。イブラハムはモカと同様に無傷だった。
周辺の家の者は騒ぎに気付いてイスラム連合軍の兵士を呼びに行っただろう。ここに長居は出来ない。仲間の死体は置いていくしかない。モカは、エスカとイブラハムに先に戻るように言った。
「ルルクウ、悪い奴はもういない。モカだよ、返事してくれ」モカはルルクウの名を呼びながらベッドの下や衣装棚の中を捜した。それでもルルクウは何処にもいない。
もう逃げたのだろうかと諦めかけた時、台所の奥にある竈の中からモカを呼ぶルルクウの声がした。モカは急いで竈を開けた。灰で服や顔が汚れたルルクウが怯えていた。
「誰かが来てザハド叔母さんが入口に行ったら悲鳴がしたの、怖くて竈に隠れたらその拍子に外鍵が掛かって出られなくなった」ルルクウは泣きながらモカに話した。
「良かった、ルルクウ」モカはルルクウを優しく抱き上げた。ルルクウは返り血を浴びたモカの服を見て怯えた。
「ザハド叔母さんはどうしたの?」ルルクウは不安そうに聞いた。
「死んだよ、ここに居る訳にはいかない」モカはそう言い、急いで入口に向かった。叔母の死体をルルクウが見ないようにルルクウの目を覆った。
外に出るとなぜかガシムが待っていた。
「馬鹿な奴め、お前は帰り道を知らないだろう。さ、行くぞ」ガシムは腹立たし気に言って先に走り始めた。
モカはガシムの後について走った。モカに抱っこされたルルクウは、叔母の死にずっと泣いていた。シャイーブが死んだ、モカはルルクウに言えなかった。
店に着くと、入口では手下の少年二人が客を追い返していた。店内に入ると死体はもう片付けられていた。血の匂いは店内にまだ残っていた。
ガシムが気絶させた男は椅子に縛りつけられている。口には猿ぐつわがされている。男の顔は赤黒く腫れていた。だいぶ殴られたようだ。
「こいつはフランス語しか話さない」イブラハムは腹立たしそうに言った。モカは、縛られた男の姿をルルクウに見せないように気を付けて店に入った。
「ルルクウがいる、今は手荒な真似はしないでくれ」モカはイブラハムにそう言い、縛られた男を見せないように背を向かせてルルクウを座らせた。
ティムがコップに水を入れてルルクウに手渡した。ルルクウは気乗りしない様子で少しだけ水を飲んだ。ティムは料理着に着替えていない。どうせ、今夜は店を開けない。
モカは、コップに残った水を自分の服の袖口に含ませ、ルルクウの顔に付いた灰を拭きとった。ルルクウの服に付いた灰も両手で叩き落とした。それで、ルルクウが腰回りに小物入れをぶら下げているのに気付いた。中に固い物が入っている。取り出してみると、あの緑色の玉だ。
「これはどうした、ルルクウ」モカが尋ねた。
「お父さんがいつも持っていなさいって。ねえ、お父さんは何処なの?」そう言って、ルルクウは緑色の玉をモカの手から取り返した。
モカは困った。シャイーブが死んだなどとルルクウに言いたくない。周りを見ると、ガシムもイブラハムも俯いている。やはり、俺が言うしかないのか。
「ルルクウ、よく聞いてくれ。お父さんは死んだ」こんな幼い子に父親は死んだと言いきかせるのが辛かった。
ルルクウは、モカの言葉をまったく信じようとしない。「嘘よ。お父さんは何処、何処なの?」ルルクウはモカの手を強く叩いた。何度も何度も叩いた。モカは俯いたまま何も言えなかった。やがて、ルルクウは大声で泣き始めた。
すると、ルルクウの右手が突然に緑色に輝き出した。ルルクウはその輝きに驚いて泣き止んだ。ルルクウが右手をゆっくり開くと緑色の玉が輝いている。店内にいる誰もが驚き、声が出なかった。
緑色の輝きは、椅子に縛られた男からも見えていた。背を向けているルルクウの手の上で輝く玉を見て、猿ぐつわをされた口の中で男が何かを叫びだした。
「モカ、こいつ何か知っているらしい」男を見張っていたエスカが言った。
モカは頷いた。けれども、ルルクウがいる前で尋問はしたくない。モカはティムにルルクウを預け、奥の部屋で寝かせてくれと頼んだ。
ルルクウは父親を亡くした悲しみも忘れ、手の上で緑色に輝く玉を見て放心している。ルルクウを、ティムがそのまま奥の部屋に抱っこして連れて行った。
モカたちはじっと待った。しばらくするとティムが戻ってきた。「ルルクウは疲れ果てて寝てしまったよ」
「ティム、今日はもういい。あんたは帰ってくれ」イブラハムがティムに言った。そうするよ、そう言ってティムは店を出ていった。
モカはイブラハムとガシムを見た。二人は頷いた。モカは男に近付き、乱暴に猿ぐつわを外した。腫れた顔で分からなかったが、まだ二十歳くらいだ。
「いろいろと聞かせてもらう。まず、お前は何者だ」
モカがフランス語で質問すると、男はモカに向かって唾を吐いた。服に唾が掛かってもモカは冷静だった。第四次十字軍では、唾を浴びせられながらもっと残酷な行いをした。
モカは男の口に猿ぐつわを丁寧にはめ直した。それから、後ろの机に置いてある男の剣を手に取った。剣は十字軍のものに間違いなく、良く手入れされている。剣の刃先には血がこびり付いている。その血を見たモカは、身体の中で抑えようのない怒りが込み上げてくるのを感じた。
いきなり、モカは男の右肩に真っ直ぐ剣を突き刺した。男は充血した目を大きく開き、猿ぐつわをされた口の中で何度も悲鳴を上げた。
「話す気がなければ今度は左肩を刺す、どうだ?」モカはフランス語で言った。
それでも男は気丈だった。憎しみに満ちた目でモカを睨み返している。猿ぐつわをされた口の中で何かを怒鳴り散らしている。
モカは溜息を付き、男の左肩にも剣を突き刺した。剣先を右に左に動かし傷口を拡げていった。男の目から涙が流れ落ち、息を求め大きく開いた鼻からは鼻水が溢れ出た。
フランス語は分からないが、周りにいたイブラハムやガシム、エスカはその冷酷なやり方に息を飲んだ。
「話す気になったか?」無表情のままモカが尋ねた。男は急いで頷いた。男には抵抗する気力の欠片も残っていなかった。
モカは猿ぐつわを外した。刺された拍子に舌を噛んでいたのか、男は鮮血が混じった唾を床に吐き出した。モカは男が落ち着くまで待ち、質問を始めた。
男の名前はフェリベ・ルイ。エルサレムで生まれたフランス系だ。今は、テンプル騎士団から分離した騎士集団に加わっていると言った。おそらく暗殺集団の類いだろうとモカは推測した。
フェリベたちは、テンプル騎士団の指示で緑色の玉を捜していた。第一次十字軍が捜していた玉だ。とは言え、フェリベたちは半信半疑だった。百年以上も前に行方不明となった物が今さら見つかるだろうか、そうフェリベたちは考えていた。だから、調査のためにテンプル騎士団から支給されていた活動資金は遊びに使っていた。
ところが、市内の宿泊所にいる老人が緑色の宝石を盗まれたと騒いでいる、という情報が入った。老人の祖父は第一次十字軍に従軍したフランスの貴族で、その宝石はイスラムの宮殿から戦利品として得たという。
フェリベたちは宿泊所に出向き、老人を尋問した。話をいろいろと聞くと、捜し求めている緑色の玉のようだった。残念ながら、老人は尋問の途中で死んでしまった。一緒にいた頭の悪い大男は何も知らないと言い張ったが、こいつも尋問している最中に死んでしまった。そこに、アランという男が来た。その緑色の玉ならシャイーブが知っているはずだと教えてくれた。
「あの情けない男はいろいろと教えてくれたぜ。シャイーブには小さな女の子がいるから利用するといい、とかな。その女の子が住んでいる場所も教えてくれた。あんなお喋り野郎は信用出来ないから、俺たちで殺しておいてやったよ」
モカはフェリベの言葉をイブラハムたちに通訳して伝えた。
「さっき、玉が輝くのをお前たちも見ただろ。あの玉を俺に手渡せ。俺の仲間はお前たちに殺されたそうだが、少なくともお前たちが俺にした行いは許してやる」
モカは呆れ果てた。この状況で、こいつは自分に勝機がまだあると思っている。「どうしてテンプル騎士団はあの玉を欲しがっている?」
「知らないな」フェリベはそっぽを向いた。
「テンプル騎士団の資金は潤沢だ。あんな石ころ同然で値打ちもない玉をテンプル騎士団が欲しがるとは思えない。いったい、誰が欲しがっている?」
フェリベは躊躇しているように見えた。モカが再び剣を手に取ると、フェリベは慌てて答えた。「分かった、言うよ、ローマ教皇なんだ」
モカは驚いた。そうか、それでこいつは強気なのか。モカはイブラハムたちにもローマ教皇だと伝えた。イブラハムたちも驚いている。
「これで分かったか、俺の背後にはローマ教皇がいる。ローマ教皇を敵にすればどうなるかお前たちにも分かるだろう。お前たちに残された道は、俺の言うとおりに従うだけだ。今からでも考え直せ」ローマ教皇と聞いてモカたちが驚いたのを見て、フェリべは形勢逆転とばかりに言い放った。
モカはもう一つ質問をした。これが最後の質問だ。「お前たちが殺した俺の仲間に対して、お前は謝罪の言葉があるか?」
フェリベはきょとんとしている。モカの質問の意味が良く分からなかったらしい。
モカは同じ質問を繰り返した。質問の意味を理解したフェリベは、痛みに耐えながら低く笑った。
「謝罪する?くだらないことを聞くな。俺は高貴な騎士だ。お前たちイスラム教徒が何人死のうが、それはお前らの神の思し召しに過ぎない」
モカの通訳にイブラハムたちは怒りを露わにして剣を抜いた。それでも、フェリベは見下すような目をして平然としている。
モカはこの男を許すつもりなどなかったが、今の返答で心を決めた。モカは剣を両手で強く握りしめた。
「最後に教えてやる。俺は第四次十字軍の少年兵だった。自分の剣で地獄に落ちろっ!」
モカの言葉にフェリベは驚いた。モカはフェリベの剣を構え、フェリベが死の恐怖に怯えるため少し時間を置いた。
フェリベが恐怖に飲み込まれ叫びそうになった時、モカは両手で握った剣を水平に振り抜いた。床にごとんとフェリベの首が転がり落ち、周囲には血しぶきが飛び散った。
それからは、一番年上のイブラハムが皆を取り仕切った。モカたちは、以前のようにエルサレムを離れて交易路を行き交う交易商隊から金品を奪い続けた。しかし、分け前の諍いからガシムとエスカは去っていった。
ある晩、交易商隊を襲おうと待ち構えていた時にイブラハムが発作で死んだ。モカと二人の少年、ムスタージ、ジャミトだけになった。三人だけではもう盗賊は出来ない。モカはこれまで稼いだ金をイブラハムの家族とムスタージ、ジャミトとで分配させ解散した。
モカは、金を受け取らない替りに店を引き継いだ。ルルクウを育てるためだった。ティムは店に残ってくれた。その後、ムスタージもジャミトも店に戻ってきた。
ルルクウはずっと情緒不安定だった。突然に泣き出したり、夜中に悲鳴を上げた。モカは忍耐強く、献身的にルルクウの面倒を見た。一年後、ルルクウの心はようやく落ち着き、兄のようにモカを慕うようになっていた。
その頃には、店の売上だけでも暮らせるようになっていた。モカはルルクウ、ティム、ムスタージ、ジャミトの了承を貰い、店名をトゥランと替えた。また、売上金を元手に金貸しを始めた。貸した金の取り立てはムスタージとジャミトが担当した。
モカたちが砂漠の黒豹の下で働いていたと誰もが知っていた。そのせいか、金貸しでは新参者であるにも係わらず、モカたちは同業者から露骨な嫌がらせは受けなかった。
実は、嫌がらせを受けなかった理由は他にあった。モカには噂がついて回っていた。東ローマ帝国で同じキリスト教徒の女や子どもを虐殺した残忍なフランス人、エルサレムでは拷問の末にフランス系の騎士の首を撥ねた冷酷なフランス人。そうした噂から、嫌がらせは起きなかった。この噂を誰が広めたのかは分からない。もしかしたら、離別したガシムやエスカかもしれない。
一方で、あれだけ多くの人が死んで噂も広まった事件なのに、モカはイスラム連合軍から一度も取り調べを受けなかった。
イスラム連合軍の兵士は優秀だ、事件にモカが関与した裏付けは取れているだろう。それなのに、イスラム連合軍からは何の音沙汰もなかった。モカからすると、イスラム連合軍は緑色の玉を無視しているのか、それとも、避けているようにしか思えなかった。
やがて、世間では事件のことなどすっかり忘れられた。けれども、モカには忘れることなど出来ない。どうしてユルやアラン、シャイーブたちは殺されたのか。
それはルルクウも同じだ。どうしてあの玉のために父親は殺されたのか、どうしてあの玉を自分は輝かせられたのか。その答を、ルルクウはずっと求め続けていた。




