第五章 一二二〇年、新年 エルサレム(其の二)
第五章 一二二〇年、新年 エルサレム(其の二)
三十二年前の一一八七年の秋、モカブリュノワール・グーノンはフランス北部のノルマンディに生まれた。貧しい小作農の三男坊だった。
二人の兄とは歳が離れていたため、遊んでもらった記憶はない。モカブリュノワールと呼ばれた記憶もない。二人の兄は長ったらしい名前だといつも笑った。いつも、モカとしか呼ばなかった。
モカが幼い頃、第三次十字軍に従軍していたイングランドの騎士や民兵がノルマンディにやって来た。ノルマンディからシュルブールに辿り着き、ドーバー海峡を輸送船で渡ってイングランドへ帰るためだ。
リチャード一世に率いられて帰国を目指す彼らは、かつてはフランスの騎士や民兵と共にイスラム連合軍と戦った。それなのに、彼らはフランス各地で村々を焼き払い、人々を殺戮し、僅かな金品さえも戦利品として持ち帰ろうとしていた。
イングランドの騎士や民兵が襲ってくる、そうした噂はモカの村にも伝わっていた。村人を守るはずの領主と騎士は早々に逃げていた。
その日の朝、村に黒々とした煙が立ち昇っているのが見えた。モカの家は村から離れているし、貧し過ぎて盗まれるような金品はない。それでも、家族はすぐに森へ隠れた。けれども、モカは一人で村へ向かった。
村の家々はすべて燃やされていた。イングランドの騎士や民兵が逃げ惑う村人を剣で斬り倒している。納屋の中からは娘の泣き叫ぶ声が聞こえている。
モカは物影から惨状を見ていた。村人が殺されるのを見ても可哀想だと思わなかったし、怖いとも思わなかった。モカは、村人に振り降ろされる剣の鈍い輝きに魅せられていた。
昼過ぎにはフランスの騎士の一団が救援に駆け付けた。それから数週間、ノルマンディではフランスとイングランドの激しい戦いが繰り広げられた。この戦いの中でリチャード一世は戦死し、フランスが勝利した。
モカの村にも平和が訪れたが、荒れ果てた畑には無数の矢や剣が埋まり、多くの死体が腐乱している。これでは麦も野菜も植え付けられない。
村の教会には少し変わった司祭がいた。司祭は、畑に埋まった矢や剣をすべて村人に拾わせた。使えそうな槍や剣は売り払った。破損していれば鍛冶屋に持ち込んだ。鉄に溶かしてから鋤や鍬をいくつも造らせた。死体からは指輪や鎖帷子などの金品を取り外し、やはり売り払った。
武具や金品の売却で得た金で、司祭は麦の種を購入した。ポワチエやベルダンなどから収量の多い麦の種を取り寄せて村人へ与えた。村人は新しく造った鋤や鍬で畑を耕し、麦の種を播いた。村は少しずつ復興した。
その司祭は村人に読み書きを教えていた。聖書を読めるようにするためだ。それぞれの家から一人ずつ教会へ通わされ、読み書きを学ばされた。モカの家からは、まだ労働力の足しにもならない幼いモカが選ばれた。読み書きが出来ても貧しい生活は変わらなかった。
数年後、モカには妹が出来た。名前はソフィー、笑顔の可愛い子だが、生まれつき右足が不自由だった。両親も二人の兄も、足に障害を持つソフィーを邪険にした。歳の近かったモカだけがソフィーに優しくした。
モカを慕って、幼いソフィーは不自由な右足を引きずり、モカの後をいつも追った。モカはソフィーを抱っこして野原を歩いた。ソフィーの身体の温もりをモカは両腕に感じた。その温もりにモカの心は安らいだ。ソフィーは本当にかわいい子だった。
ソフィーは四歳の時に流行り風邪に罹ってしまった。裕福な家の子どもなら、暖かい部屋で栄養のある食事を取り、一週間も寝ていれば治るだろう。けれども、モカの家は裕福ではない。その日に燃やす薪さえ乏しく、僅かな食べ物は両親や兄が争って食べてしまう。
ソフィーに食べ物を与えてくれ、モカは両親に訴えた。モカは父親に殴られた。母親は、ソフィーはもう助からないと冷たく言った。
モカは、自分の僅かな食事をソフィーに与え続けた。モカはソフィーの手を握り、優しく話し掛け続けた。喋る力も失くしたソフィーは、痩せ細った小さな手でモカの頬を撫でて返していた。
その後、ソフィーは高熱にうなされ続けた。僅かな食事も食べられず、四日目に衰弱して死んだ。モカはソフィーの最後を看取った。モカはずっと大声で泣き続けた。
モカはソフィーを抱っこして教会へ向かった。もう、ソフィーの身体に温もりはない。その冷たい身体がモカは怖かった。ソフィーを抱っこしているのに、ソフィーがいなくなってしまったのが怖くてたまらなかった。
教会に着いたモカは、司祭にお願いしてソフィーを埋葬してもらった。モカは自分も一緒に死んであげたいと思った。でも、怖くて出来なかった。
モカは家を出ていくと家族に告げた。行く当てはない。それでも、もうこの家にはいたくなかった。両親も兄もモカを止めなかった。食い扶持が一人減れば、残る家族には食べ物が多く行き渡るからだ。それくらいモカの家は貧しかったが、ノルマンディで貧しい家は珍しくなかった。どの家も惨めなくらい貧しかった。
十四歳になったモカは港町ブレストに流れ着いていた。乞食のような姿で、モカは小雪が舞う冬の朝に道端で行き倒れていた。
モカは近くの教会に運び込まれた。教会には、年老いたラフィー司教と三十歳のジャブイエ修道司祭がいた。ラフィーとジャブイエはモカを辛抱強く介抱した。
数日後、モカは元気になった。ラフィーとジャブイエは、行き倒れていた事情をモカに何一つ聞かなかった。それでも、モカの心は荒んだままだった。ラフィーやジャブイエにモカは暴言を口にして反抗した。
ある日、モカは教会に寄付された金を盗んだ。ラフィーもジャブイエも盗んだのはモカだとすぐに気が付いた。夕方、酒に酔ったモカが教会へ帰ってきた。喧嘩でもしたのか、身体は泥まみれになっていた。
ラフィーとジャブイエは何も言わなかった。そんな二人に、酔ったモカは唾を吐き捨て二人を蔑んだ。「お前らの金をもらったぜ。いや、あれはどっかの馬鹿から恵んでもらった金だ。だからお前らの金じゃなかったな」
モカはふらつきながら続けて言った。「何が神の祝福だ、お前らみたいな嘘つきを見ていると反吐が出る」
モカはふらふらと祭壇へ向かい、神を冒涜する言葉を叫びながら装飾品を壊した。それでも、ラフィーとジャブイエはモカを止めなかった。しばらくすると、モカは疲れて祭壇の横に寝てしまった。
翌朝にモカは目覚めた。頭の中がずきずきと痛く、上半身を起こした途端に胃の中の物を自分のズボンに吐いた。口の中が苦く、酸っぱくなった。
周りを見渡し、モカは祭壇の横で寝ていたのに気付いた。蝋燭が飛び散り、多くの装飾品が壊れている。どうしたのだろう、そうだ俺が壊してしまった、モカはおぼろげに昨夕の出来事を思い出した。
そこへジャブイエがやって来た。まず顔と身体を洗い、それから着替えの服を着なさい、そう言ってモカの近くの椅子の上に服を置いた。
立ち去ろうとするジャブイエにモカは尋ねた。「あの、祭壇を壊したのは俺ですか?」
ジャブイエは頷いた。「そうだ、後で一緒に片付けよう」そう言ってジャブイエは行ってしまった。
教会の近くを流れる小川で顔と身体を洗い、モカは服を着替えた。着替えながら、どうして怒られないのだろうかと不思議に思った。井戸水を飲むと頭の痛みが少し和らいだ。
ふと気が付くと、後ろにラフィーが立っていた。
「あの、ごめんなさい・・・」どうしてか分からないが、モカは謝った。
ラフィーは何も答えず、モカの目をじっと見つめていた。教会の金を盗み、祭壇を壊したのだ、きっと俺は追い出される。モカはそう覚悟した。
「ジャブイエの少年の頃と一緒だな」ラフィーが静かに言った。
ジャブイエ修道司祭と一緒?どういうこと?モカがラフィーに尋ねた。
「今、言ったとおりだ。お前はジャブイエの少年の頃と同じだよ」ラフィーはそう言い、ぽつりぽつりと話し始めた。
「ジャブイエは家族を流行り病で失くして一人ぼっちだった。あちこちで盗みを働いて、何とか生きていた。ある日、教会の金を盗み、捕まった。私は、少しの間でいいから二人きりにさせてくれと皆に頼んだよ」ラフィーは懐かしむように話している。
「二人きりになり、お前の望みは何なのかとジャブイエに尋ねた。すると、ジャブイエは怒りだして神など死んでしまえと祭壇を壊し始めた。私はジャブイエを止めなかった。好きなだけ壊させた。やがて、ジャブイエは壊すのを止め、大声で泣き始めた。死んだ家族の名前を叫んで、みんなに会いたいと大声で泣いていたよ」
ラフィーの話をモカはじっと聞いていた。
「泣き止んだジャブイエに私は言ったよ。好きなだけ教会にいなさい、自分と向き合いなさい、と。ジャブイエには私が何を言っているのか分かっていなかったようだ。だが、行く当てはなく、教会に留まった」
モカは怯えたように俯いた。
「行き倒れていたお前が教会へ運ばれた時、この子は自分と同じだとジャブイエは言い、この子を助けたいと私に頭を下げて頼んだよ」
どうして自分と同じと言われたのですか?モカはラフィーに尋ねた。
「道に倒れて虫の息だったお前は、何度も同じ名前をつぶやいていたそうだ。ソフィー、会いたいよ、とな」
突然に込み上げる感情を抑えられず、モカは泣き始めた。ソフィーが死んだ日に大声で泣いたように、大声で泣き続けた。それまで、自分の中で強がっていた何かが崩れ、逃げ続けていた自分に気付いた。
しばらくしてモカは泣き止み、ラフィーと一緒に教会へ戻った。教会へ戻ると、ジャブイエが壊れた祭壇を片付けていた。モカはどうしようか迷った。ラフィーは、お前のしたいようにしなさいとモカに言った。
モカは祭壇に行きジャブイエの片付けを手伝った。片付けが終わるまで、ジャブイエもモカも一言も話さなかった。
それからは、モカは教会を手伝い、教会で暮らし始めた。モカはノルマンディにある自分の家、家族、妹のソフィーのことをラフィーとジャブイエに話した。
モカが教会で暮らし始めて一年が経っていた。年老いたラフィーは、教会の催事はジャブイエにすべて任せていた。ラフィーは、ジャブイエを司教へ聖叙したいとローマ教皇庁へ嘆願書を出していた。ジャブイエもモカも、そのことをラフィーから教えられていた。
ラフィーはモカに言った、お前は聖職者になる気はないか、と。ジャブイエが司教となれば、司教を補佐する人手が必要になる。今からでも修道士になれば、数年後には修道司祭になって戻ってこられるとモカに伝えた。
モカはラフィーに感謝した。けれども、モカは聖職者になるつもりはなかった。モカには自分の気持ちが分かっていた。ここなら安心して暮らせる。でも、このままここにいても自分の心は満たされない。
ある日、フランス王室宮殿の若い騎士が十人の騎士を連れてブレストを訪れた。騎士はラフィーの許可を得て、町の若者を教会に集めた。
騎士は若者に十字軍への参加を呼び掛けた。「敬虔なるキリスト教徒の若人よ、聞いてほしい。キリスト教の聖地エルサレムはイスラム連合軍に奪われ、イスラム教徒に汚されている。今こそ、我らの手でエルサレムを取り戻そう。十字軍に参加すれば、諸君には末代まで語られる名誉が授けられる。ローマ教皇も莫大な褒美を授けるだろう」
若い騎士は端正な顔立ちをしていた。長く伸ばした金髪に青い瞳が凛々しかった。綺麗な白い服に身を包み、柄には宝石を埋め込んだ長い剣を右手で掲げて若者に呼び掛けた。
モカも教会の片隅から騎士の話を聞いていた。その姿を恰好いいと思った。自分もあんな風になりたいと思った。モカは、自分が何をしたいのか分かった気がした。
モカは十字軍への参加をラフィーとジャブイエに相談した。ラフィーは反対したが、ジャブイエは賛成してくれた。どちらにしても、モカの心はすでに決まっていた。
旅立ちの前夜、ラフィーとジャブイエはモカの門出を祝ってくれた。立派な剣や武具が買えるようにと、モカが驚く程の金を与えてくれた。必ず生きて帰れよ、ジャブイエが優しく言葉を掛けた。
モカは二人の前で泣いた。必ず帰ってきます、と笑いながら泣いた。
モカが従軍した第四次十字軍は、イスラム連合軍の本拠地であるアイユーブ朝のカイロへ侵攻し、その後にエルサレムを奪還すると計画していた。モカのような少年兵も数多く従軍していた。すべてのキリスト教徒のために聖地エルサレムを取り戻そうと、どの少年兵も固く心に誓っていた。
第四次十字軍は、地中海を渡り、ダミエッタに上陸してカイロへ侵攻する予定だった。ところが、当初から深刻な資金不足に陥っており、地中海を渡る交易船をベネチアの交易商人から借りられなかった。
資金不足の要因は、フランス以外のヨーロッパ各国が参加を見合わせたからだ。第三次十字軍が大敗したため、各国の王室は今回の十字軍への参加を見送っていた。
ベネチアから地中海を渡るための資金を至急に集めなければいけない。そこで、あろうことか第四次十字軍は同じキリスト教徒が住むハンガリー王国、東ローマ帝国へ侵攻し金品を徴収しようと目論んだ。
有力な騎士の多くがこの目論見に反対した。反対は結局聞き入れられなかった。心ある騎士は、無念の思いを抱きながら第四次十字軍を離脱していった。
その後、第四次十字軍は侵攻を開始した。ハンガリー王国、東ローマ帝国は、同じキリスト教徒に侵攻された。
当初は金品を徴収するだけのはずだった。しかし、有力な騎士が多数離脱していたため、規律も統率も失われていた。第四次十字軍は略奪と殺戮を繰り返した。町や村は破壊され、あらゆる金品は略奪された。子どもから老人まで容赦なく殺された。若い女は強姦されてから殺された。
モカたち少年兵は、この残虐非道な行為に衝撃を受けた。敬虔なキリスト教徒である騎士や民兵が、同じキリスト教徒を容赦なく殺戮していた。昨日は何人殺した、金目の物をどれだけ手に入れたと自慢し合っていた。
この人たちは狂ってしまった、とモカたちは思った。実際には、騎士も民兵も狂っていなかった。朝夕には祈りを欠かさず、イエス・キリストへの感謝の言葉を口にしていた。
略奪により、交易船を借りるだけの資金は集まった。それでも略奪と殺戮は続いた。騎士や民兵にとって、聖地エルサレムの奪還などどうでも良くなっていた。奪えるだけ金品を奪い、故郷へ帰って贅沢な暮らしをしたい、騎士も民兵もそれだけを考えていた。
少年兵の中には、いつまでも続く殺戮と略奪に精神を病む者が出てきた。身体の震えが止まらない者、突然に泣き出す者、食事も睡眠も拒み衰弱する者。もちろん、大人たちのように殺戮の快楽に蝕まれる者も出てきた。
多くの少年兵が狂っていく中、モカは正気を保っていた。幼い頃、ノルマンディの村で村人が虐殺されるのを目撃した経験があるからかもしれなかった。それでも、限界だった。この狂気から逃げたいと何度も思った。モカは、自分が狂気に染まるのが怖かった。
同じキリスト教徒の国へ攻め込み、同じキリスト教徒を虐殺している第四次十字軍の蛮行を知り、ローマ教皇イノケンティウス三世は激怒した。イノケンティウス三世は第四次十字軍を破門にした。このため、第四次十字軍は遠征途中で解隊された。
貴族出身の有力騎士は戦利品を携えてさっさと故国へ帰った。彼らに金品を預けていた騎士や民兵は故国へ帰る金も奪われ、放浪の身となった。少年兵はもっと悲惨だった。騎士や民兵の中には少年兵を奴隷として売りさばき、故国へ帰る資金を工面していた。
とうとう、モカたちは暴動を起こして逃げた。もう誰も殺さないとモカたちは誓い合い、人殺し以外は何でもした。行く先々で食べ物や衣服を盗んだ。夜になると、皆でフランスへ帰ろうと励まし合った。
しばらくすると十字軍狩りが始まった。第四次十字軍に家族を殺され、家を燃やされたキリスト教徒は、十字軍の騎士や民兵を見つけては捕えた。数日間も拷問し、最後には町の広場で処刑した。処刑された死体は腐るまで見世物にされた。
少年兵も一人、また一人と捕まった。町の広場で仲間が処刑される様子を、モカは人混みからそっと見た。平然と悪態を付きながら首を斬られた者もいた。母親の名前を泣き叫びながら火炙りにされた者もいた。
処刑される仲間を見ても、不思議とモカは怖くなかった。ところが、最後まで一緒だった仲間の少年が病気で死んだ時、その冷たい身体に触れたモカは底知れない恐怖を感じた。それは、また一人だけ取り残された恐怖だった。
ソフィーの時と同じだ、どうして俺は一人ぼっちになってしまうのだろう。モカは泣きながら死んだ少年を土に埋めた。その場から走って逃げた。
十字軍狩りが横行する中、陸路でフランスへ帰るのは不可能だった。かといって、留まるのも無理だ。モカはフランスとは反対方向に進むしかなかった。そこはイスラム連合軍の支配地域だ。
一人になったモカに生きる力を与えたのは憎しみだった。十字軍への消しようもない憎しみだった。少年兵の気高い心を踏みにじり、欲望にまみれて殺戮と略奪を重ねた騎士や民兵。彼らが身に付けていた十字軍の紋章。その紋章をモカは憎み続けた。
ある夜、モカは小さな村の民家の納屋に忍び込み、迂闊にも見つかってしまった。モカは走って逃げたが、村人はしつこく追い掛けてきた。モカは村人の声と松明の火が見えなくなるまで走り続けた。何とか逃げ切ったが、喉が渇き、空腹で倒れそうだった。
しばらく歩くと焚火の火が見えた。焚火の周りには、布を頭に巻いたイスラムの二人の男が座っている。焚火から少し離れた所には大きな天幕が張られている。どうやら交易商隊の野営のようだ。
焚火の二人は見張りのはずだが、会話に夢中になっていた。天幕にそっと近付くモカにまったく気付いていなかった。モカは天幕の中を覗いた。焚火の薄明りに照らされ、六人の男が寝ているのが分かった。天幕の奥のほうには交易品を入れた箱が積んであった。交易商隊にしては箱の数が少なかった。
食べ物はないかとモカは見回した。同時に、何かおかしいと感じた。いったい何だろうかとモカは考えた。
いつの間にか、焚火を囲む二人の会話が途絶えていた。モカは、腰紐に結んでいた鞘から短剣を抜き取り右手に持った。ゆっくりと天幕の傍に横たわり身体を隠した。
焚火の方を見ると、先程はいなかった三人の男が立っている。その前で、見張りの一人は手を挙げて座らされている。もう一人の見張りは手足を無造作に投げ出して倒れている。死んでいるのか、まったく動かない。
モカは三人の男に目を凝らした。焚火の炎の明かりで、騎士の剣を持ち、十字軍の紋章が入った騎士の胸当てをしているのが見えた。一人の騎士が剣を置いて屈み込んだ。倒れた見張りの衣服を乱暴にまさぐり、装飾品を剥ぎ取っていった。
モカはその騎士の顔に見覚えがあった。モカと同じ部隊で指揮を執っていた騎士だ。その騎士の命令で、モカは身籠った若い女を殺さなければならなかった。
その時、騎士はモカに剣を向けて強要した。「殺さなければお前を殺す」若い女はお腹を守るように両手で抱え、剣を持って近付くモカに叫んだ。「お願いだから、お腹に赤ちゃんがいるの」モカは涙を流しながら若い女の喉元を剣で刺した。若い女はモカの目を見つめながら絶命した。モカが騎士へ振り返ると、騎士はおかしそうに笑っていた。
忘れもしないその騎士の憎い顔を見ている内、モカの心に止めようのない怒りが燃え上った。お前が俺を地獄へ引きずり込んだんだ。モカは自分でも気付かないまま、短剣を振りかざして走り出していた。
モカは屈み込んでいた騎士の喉元に深々と短剣を突き刺し、脇に置いてあった剣をそのまま奪った。短剣を刺された騎士は押し潰したような声を上げ、喉元から血を吹き出しながら横向きに倒れていった。
不意は突かれたものの、他の二人はモカに素早く剣を向けた。座らされていた見張りの男は、その隙に闇の中へ駆け出して逃げていった。
モカは、二人の騎士に挟まれないように後ずさりして距離を取った。どうしようか、相手が二人ではこちらからは斬り込めない。同時に斬り込まれたらこちらがやられる。
もう逃げるしかないか、そう思った瞬間にモカの耳元にびゅっと風切り音がした。目の前の騎士の右目に矢が深々と刺さった。ぎゃっという叫び声と共に騎士はがくんと屈み両膝をついた。もう一人の騎士は暗闇の中へ一目散に逃げ出した。
「追いかけろ!」野太い声が後ろから聞こえた。後ろから三人の男がモカの横をすり抜け、逃げた騎士を追っていった。
交易商隊にしては手際が良すぎる。モカは持っていた剣を投げ捨て、両手を高く挙げてゆっくりと後ろに振り返った。
そこには三人の男が立っていた。その内の二人がすぐに倒れている見張りに駆け寄り、生死を確かめた。駄目だ、ウルジャはもう死んでいると一人が言った。もう一人は、右目に矢が刺さったまま屈み込む騎士の胸に剣を突き刺して殺した。
矢を放った男は、次の矢をモカに向けて構えている。「お前はここで何をしている?」男がモカに鋭い口調で尋ねた。さっきの野太い声だ。
モカは矢を向ける男の顔を無言のまま睨み返した。
「お前には口がないのか。おい、こいつを縄で縛っておけ」男は矢を戻し、他の二人にそう命じて天幕へ戻っていった。
逃げた騎士を追っていた三人が帰ってきた。二人が剣を剥き出しのまま持っている。その剣にはべっとりと血が付いていた。
モカは後ろ手に両手首を荒縄で縛られ、その場に放置された。殺されるとモカは覚悟したが、不思議にも怖くなかった。喉の渇きも空腹も忘れ、モカは深い眠りに落ちた。
誰かが頬を叩くのに気付いてモカは目覚めた。目を開けると空は明るくなっている。起き上がろうとしたが、まだ後ろ手に縛られたままだ。
モカは自分の頬を叩いた人物を見上げた。昨夜、モカに向けて矢を構えていた男だ。全身を黒い服で包み、髭面で額に大きな刀傷がある。
「やっと起きたか」男はそう言い、モカの両手を縛っていた荒縄を短剣で斬った。強張った両手をほぐすモカに男は水筒を手渡した。モカは奪うように水筒を受け取り、ごくごくと水を飲んだ。
「その様子じゃ腹も空いているな、来い」男は歩きだした。モカもよろよろと立ち上がり後に続いた。
天幕の中では、昨晩見た男たちが車座に座りパンを食べていた。その中の一人がモカにパンを手渡し、座る場所を空けてくれた。仕方なく、モカは車座の中に座った。
「お前の分はそれだけだ」刀傷の男はそう言い、自分のパンを食べ始めた。
「あの、俺は処刑されるのでしょうか」モカが尋ねた。盗賊は、捕まればその場で処刑されるのが普通だ。
「お前が何しにここに近付いたのかは容易に想像出来るし、お前の命など俺にはどうでもいい。だが、イブラハムがお前を助けたいそうだ」そう言って、モカにパンを手渡してくれた男を右手で指差した。
指された男はモカに頷いて見せた。「俺は殺される寸前だった。お前が飛び込んでこなければ、ウルジャと同じように喉を裂かれていた」
では、命を助けてくれるのか、モカは安堵し、やっとパンを口にした。
「なあ、聞かせてくれ。どうしてお前はあの三人に立ち向かった?お前と同じヨーロッパ系の人間だろ?」
「話したくない」モカはそれだけ言うと俯いた。
「そうか、じゃあ聞くのは止めよう。次の町までは送ってやる」
朝食の後、男たちは出発した。ウルジャはすでに埋葬されていた。モカは、ウルジャが使っていた馬に跨った。何処へ行くのかモカは気になった。幸い、昨夜にモカが逃げて来た村の方向へは進まなかった。
道中、モカに話しかける者は誰一人いなかった。どう見ても、この男たちは交易商隊には見えない。刀傷の男といい、誰もが一癖も二癖もありそうな面構えだ。何者だろうか、ずっとモカは考えていた。
昼前に何処かの村に着いた。モカの知らない村だ。
「ここでお別れだ、これからはまっとうに生きろ」刀傷の男が言った。馬を降りたモカは小さく頷き返した。
「お前の名前は?」
「モカブリュノワール・グーノン」
刀傷の男はにやりと笑った。「俺はトゥラン・シャイーブ。これからのお前の人生にアラーの加護があらんことを」
男たちはモカを残して出発していった。モカは刀傷の男が名乗った名前を思い出した。トゥラン・シャイーブ、砂漠の黒豹と呼ばれているグルディスタン生まれの盗賊だ。




