第四章 一二一九年、秋 トリポリ(其の五)
第四章 一二一九年、秋 トリポリ(其の五)
「まさか、エルサレムとはね」シャルルはホイヘンスの話を聞き驚いた。
「手掛かりがあるのではないか、という程度です」
「だが、それなりの確証を掴んだのだろう?」
エルサレムはキリスト教に仕える聖職者にとっては特別以上の場所だ。そのエルサレムに永遠の命の手掛かりがあるかもしれないというホイヘンスの説明に、シャルルも強く興味を持った。
シャルルは、若かった頃にエルサレムを一度訪れている。今から四十年前、エルサレムがイスラム連合軍へ奪い返される以前だ。
薄茶を帯びた石材を積み上げた聖墳墓教会。高い石壁が両側に続く教会の入口には緩やかな弧を描くアーチが掛けられ、その最上段に古式風の十字架が立てられていた。多くの教会にある原色に彩られたステンドグラスはなかった。ひたすらに質素で厳かだった。教会の中に入ると、高い天井とそこに描かれたイエス・キリストの姿に圧倒された。偉大なる神の御心に触れたような衝撃を身体中で受けた。それは、若きシャルルにとって忘れられない素晴らしい体験だった。
「それで、エルサレムの町の何処に永遠の命の手掛かりがあるのか。やはり、聖墳墓教会かね?」
ホイヘンスは苦笑したが、聖職者であるシャルルの気持ちは理解した。聖墳墓教会はイエス・キリストが亡くなり、復活した場所だ。永遠の命の手掛かりが聖墳墓教会にあるとシャルルが願いたいのは当然かもしれない。
「違います、そうした建造物ではありません。神聖な丘、と遠征記には書かれています。おそらく、エルサレムの町の南東にあるオリーブ山でしょう」
シャルルにもオリーブ山の記憶は微かに残っている。ごつごつとした大小の岩が転がる斜面にオリーブの木が点在しているだけの丘だ。そんな場所に永遠の命の手掛かりがあるのだろうか。
「果たして、それは間違いないのか?」
「推測です。エルサレムの町の周辺で丘と呼べるのはオリーブ山くらいしかありません。そこでアレクサンダー大王は三日三晩の儀式を行いました」
「しかし、どうしてアレクサンダー大王なのだ。アレクサンダー大王は短命だったではないか?それでは永遠の命とは言えまい」シャルルは大きな疑問を持った。
ホイヘンスは躊躇せず答えた。「そうです。アレクサンダー大王は三十二歳で死にました。だからこそ、私は重要な儀式で永遠の命を得たのではないかと考えました」
シャルルには理解出来ない。「いったいどうしてそう考えられるのだね?」
「そうですね」ホイヘンスはシャルルに説明を始めた。
若くして世界最大の帝国を築き上げたアレクサンダー大王の本名は、アレクサンドロス三世だ。アレクサンドロス三世は紀元前三百五十六年、マケドニア国の王ピリッポス二世と妻オリュンピアスの間に生まれた。
アレクサンドロス三世は幼少から英才教育を受けていた。アリストテレスのような、当時の科学や哲学の権威者がアレクサンドロス三世の家庭教師を務めた。
アレクサンドロス三世の初陣は十八歳の時だった。戦車部隊の指揮官としてギリシャ南部へ出兵し、マケドニア軍の勝利に貢献した。
二年後の紀元前三百三十六年、父ピリッポス二世は暗殺された。アレクサンドロス三世は弱冠二十歳でマケドニア国の王を継承した。継承した直後にアレクサンドロス三世はエルサレムを訪れている。エルサレムで重要な儀式を行うためだった。
紀元前三百三十四年、アレクサンドロス三世は父ピリッポス二世の意志を継いでペルシャへ出兵した。ここから、歴史に残るアレクサンドロス三世の快進撃が始まる。アレクサンドロス三世は周辺諸国を次々に制圧し、地中海からペルシャ、バタンにまで拡がる大帝国を築き上げた。
紀元前三百二十三年、アレクサンドロス三世は三十二歳の若さで生涯を終えた。バビロンで祝宴中に突然倒れ、高熱が十日間続いて死んだ。その死因には様々な説があり、毒殺の説もある。
「永遠の命を得た者がいるのか、つまり死なない人間がいるのか、私はそこから調べ始めました。ですが、そんな記録は一つもありません。永遠の命を授ける始祖の玉があり、それをずっと守り続ける古の一族がいるというのに、何とも妙ではありませんか」
そう言われればそうだ、シャルルもそう思った。あらためて思い起こしても、永遠に生きている人間などシャルルも聞いた記憶がない。「では、永遠に生きはしない、いつかは死ぬと?」
「そうです。永遠に生きる生物など有り得ません。それでも、始祖の玉の効力で長く生き続けたという事例はあるかもしれない。それで、今度は長く生きた人間の記録を調べました。ところが、やはり何も見つからなかった」
順序立てて説明するホイヘンスの話はシャルルにも良く理解出来た。だが、そこからどうやってアレクサンダー大王に繋がるのか?話を聞けば聞く程、シャルルは疑問を持った。
「私は考え方を変えました。例えれば、人の命は水瓶に満たされた水です。誰もが同じ大きさの水瓶を持って生まれ、日々その中の水を流して生きています。水瓶の水が尽きるまで少しずつ流せば長生きするし、すぐに流せば短い一生となります」
「それが、どうしてアレクサンダー大王に繋がる?」シャルルは少々苛立ってきた。ホイヘンスは何を言おうとしているのだ。
ホイヘンスは、シャルルの質問はもっともだと言わんばかりに頷いた。「私は、始祖の玉の効力は水瓶そのものを大きくするのではないかと考えました。つまり、水瓶が大きくなればそこに満たされる水も増えます」
「それだけ生きる時間が増える、長生き出来るのだね」
「そうです。しかし、さっきもお話ししたとおり、長生きした人間の記録はありません。私たちも、考えられないような長生きをした人の話など聞いたことがありません。もし実在していれば、噂だけでも人々の耳に入り広く伝わっているはずです」
それはそうだ、シャルルも頷いた。
「そこで、私は視点を変えました。長生きはしなかったが、普通では考えられない生命力を持っていた者がいないかどうか調べました。つまり、偉業を成し遂げた人間について調べたのです。大きくなった水瓶の水を一気に流しきったと例えればいいでしょうか」
シャルルにも分かりかけてきた。長生きはしなかったが、常識では考えられないような活躍をした人間、密度の濃い生き方をした人間だ。「それがアレクサンダー大王だと?」
「そうです。アレクサンダー大王くらい、短い生涯でありながらとてつもない偉業を成し遂げた人間はいません。しかも、大王は常に最前線にあり、敵と激しく戦い続けました。生死に関わるような重傷を何度も経験しています」
ホイヘンスはアレクサンダー大王の戦い振りを説明した。アレクサンダー大王はペルシャ、ナイル、ガウガメラ、東方のアオルノス、パンシャブへ侵攻した。アレクサンダー大王は死をまったく恐れなかった。いつも騎兵や戦車の先頭に立ち、真っ先に敵陣へ攻め込んだ。その雄姿は味方の士気を大いに高め、味方を勝利へと導いた。
一方、極彩色の派手な甲冑を着け、常に先陣を切って突入してくるアレクサンダー大王は、敵にも十分に知れ渡っていた。この勇猛な敵将を真っ先に倒そうと、いつでも、何処でも、敵兵はアレクサンダー大王を狙って攻撃した。そのため、アレクサンダー大王は生死に影響を及ぼすような重傷を何度も負った。
「死に至る程の重傷を負っても、数日後にはアレクサンダー大王は戦線に復帰しました。これは驚くべき生命力です。敵兵はアレクサンダー大王を不死の大王と呼び、底知れぬ恐怖を抱いたと言われています」
シャルルは納得した。「分かったぞ、その驚くべき生命力をアレクサンダー大王は始祖の玉から与えられていた。二十歳の時にエルサレムで行った重要な儀式で、な」
「はい、推測の域ですが」
「分かったよ、ホイヘンス先生」シャルルはホイヘンスの右肩を叩いた。シャルルは、エルサレムへ赴いて調査したいというホイヘンスの申し出を認めた。
ホイヘンスはシャルルに感謝し、その上でボエモン四世自身による自分の紹介状も用意してもらえないかと依頼した。
それは誰に宛てた紹介状なのか、とシャルルは尋ねた。ホイヘンスはエルサレムに住むある人物の名前を挙げた。
シャルルはその名前を思い出して驚いた。その人物はボエモン四世と何度か会っている。シャルルも一度会っている。ホイヘンスの言うように、その人物なら始祖の玉について何か知っているかもしれない。
「承知した、何とか紹介状を用意しよう」シャルルは約束した。
シャルルもホイヘンスにある依頼をした。それは、ホイヘンスの安全を考え、少数だが護衛を同行させたいというものだ。
イスラム連合軍の支配下にあるエルサレムだが、ヨーロッパ系の交易商人や巡礼者も日々出入りしている。第三次十字軍とイスラム連合軍との休戦協定後、十字軍の関係者以外であればヨーロッパ系の人間であってもエルサレムを訪れることは許されている。
しかし、カイロヘ侵攻する第五次十字軍とイスラム連合軍との戦いが激しくなっている影響で、エルサレム市内ではヨーロッパ系の人間が暴徒に襲撃される事件が頻発しているという。
「騎士見習いのイアンを同行させたい。騎士見習いの中では一番の剣術の腕前だし、先生の助手のメルとも親しい。メルもそこそこの剣術の腕前なので役には立つだろう」
ホイヘンス自身は護衛など要らないと考えている。それでも、何かあればトリポリ伯国へ迷惑を掛けてしまう。ホイヘンスはシャルルの依頼を承諾した。ただ、どうして騎士見習いのイアンなのか、ホイヘンスは疑問に思った。イアンはメルと気心が知れているが、他に理由が見つからない。
ホイヘンスの気持ちを読み取ったのか、シャルルは説明した。「我が国の王室騎士隊の一等騎士や二等騎士がエルサレムで事を起こせば、トリポリ伯国とイスラム諸国との間に無用な摩擦を生みかねない。騎士見習いであれば、トリポリ伯国は知らぬ存ぜぬで何とか乗り切れる」
そう言う配慮なのか、ホイヘンスは納得した。トリポリ伯国は周辺のイスラム諸国と友好関係にある。それでも、第五次十字軍の活発な動きのせいで今は微妙な関係になっているという訳だ。
一二一九年の十二月下旬、ホイヘンスとメル、護衛のイアンはトリポリ城を出発した。トリポリ伯国からエルサレムまでは、馬で十日間程の距離だ。
ホイヘンスがミシェル隊長から聞いた話では、今回の同行を命令されたイアンはすいぶんと渋ったそうだ。年明けには二等騎士への昇格試験があるため、のんびりとエルサレムまで行っている暇はないと文句を言っているらしい。エルサレムでアレクサンダー大王の調査をすると教えられても、口をへの字に曲げたままだったという。
その話を聞いたメルは首を傾げた。そんなはずはない、あんなじめじめして狭苦しい宿舎から離れられて、イアンはきっと喜んでいる。それに、アレクサンダー大王と聞いてイアンはわくわくしているはずだ。
黒い馬に跨り先頭を行くイアンの後ろ姿を見て、メルは自分の思ったとおりだと分った。トリポリ城が見えなくなると、イアンは楽しそうに口笛を吹き始めていた。
イアンが一緒なので、ホイヘンスとメルは始祖の玉や永遠の命について話し合えない。一方、イアンにも伝えられているアレクサンダー大王の調査については大っぴらに話せた。馬上で揺られながら、ホイヘンスとメルはアレクサンダー大王の遠征がもたらした周辺諸国へのギリシャ文明の拡散について話し合った。
「ホイヘンス先生、アレクサンダー大王ってどれくらい強かったのですか?」口笛に飽きたイアンが会話に割り込んできた。
「正確には、アレクサンドロス三世だ。今から千五百年前、世界最大の帝国を造り上げた偉大なマケドニア人だよ」
「あぁ、その三世です。強かったのでしょう?」
「イアン、君の言う強さとは大王自身の強さかね?それとも大王が率いた軍勢の強さかね?」ホイヘンスは教え子に尋ねるように言った。
「大王自身の強さですね。もし俺が闘ったら勝てるかな?」
偉大なるアレクサンダー大王を、まるで近所の知り合いのように話しているイアンにメルは恥ずかしくなった。
「君が勝てるかどうかは分からんが、どうして知りたいのかね」
「俺は誰よりも強くなりたいからです。あっ、体力も知力も強くなるって意味ですからね」
うふふふっ、とホイヘンスは笑った。同じ話をミシェル隊長からいつも言われているのだろう。「体力はともかく、知力を強くするには見識を深めるのが一番だ。ミシェル隊長からも、君の知識教養を深めて欲しいと私は依頼されている。楽しみにしてくれたまえ」ホイヘンスは陽気に言った。
うぇっ、という情けない声を上げ、イアンはがっくりと首をうなだれた。その後ろ姿にメルはにやりと笑った。
トリポリ市内から出ると、そこは砂塵が舞う荒地だ。荒地を通る交易路の周りには大小の岩が転がっている。所々には茶色く色褪せた草が群生し、細い幹の低木が数本ずつ立っている。
ホイヘンスたちは冬の交易路を進んだ。交易路を吹く北風はとても寒かった。交易路では多くのイスラムの交易商人とすれ違った。時折ヨーロッパ系の交易商人も見た。まだトリポリ伯国の領内だからなのか、ヨーロッパ系の交易商人に周囲を警戒している様子はない。
交易路には一定の距離を置いて井戸が掘られている。トリポリ伯国の領内であれば、井戸は誰が使っても許される。
ところが、トリポリ伯国を出れば事情が変わる。井戸はその土地の部族の所有物だから、所有する部族の者に許可を得ないと井戸は使えない。そうした井戸では、所有する部族の若者数名がいつも井戸を見張っている。
意外にも、ホイヘンスたちはどの井戸も使わせてもらえた。他の交易商人も同様に使っていた。ある井戸の見張りの若者が教えてくれたが、井戸の使用を拒否されるのはその部族と対立している部族の者だけらしい。
ホイヘンスたちは、井戸で休憩している交易商隊や見張りの若者から周辺の治安について話を聞いた。第五次十字軍の動きが活発になっているが、心配していたヨーロッパ系への襲撃はそれ程多くは起こっていないらしい。
それでも、ホイヘンスたちは野営を避けた。剣術に長けたイアンがいるし、メルもそこそこの腕前だ。けれども、多人数の盗賊に襲われたら三人ではひとたまりもない。ホイヘンスたちは、必ずどこかの町や村で宿を借りて泊まった。
夜になると、メルは宿泊した部屋から星の観察で時間を潰した。内陸のために空気が乾いているのか、トリポリ城で見るよりもくっきりと見える。南東の地平線近くにある赤い星もよく見えた。いつものとおり暗い赤色だ。
ホイヘンスもその赤い星を知っていた。赤い星は古代ギリシャの巻物にもあるとおり、戦いを象徴する星だ。赤い星が迷走する時、世界の何処かで大きな戦乱が起きる。
アレクサンダー大王が東方へ遠征した時も赤い星は迷走したのだろうか。メルは冬の夜空を眺めながら考えた。
四日目、五日目と進む内、周囲には小高い荒地の丘が連なるように続き始めた。交易路はその間を縫うように次第に標高を上げていった。
この頃から、交易路の道端には錆びて朽ちた甲冑や馬具の破片が見つけられた。エルサレムに近付く程、そうした遺物が目立つようになった。交易路を少し外れると、墓と思われる大量の石積みの塊や、埋葬もされないままの散らばった人骨を見つけた。
エルサレムへ続く交易路は、十字軍とイスラム連合軍が激しく戦った戦場でもある。父親やジョンおじさんもここで戦ったのだろうか、メルとイアンはそれぞれに思った。
時々、メルは懐に入れている翡翠の玉を触ってみた。今は亡き父親と母親とのたった一つの思い出の品だ。いつになったら、この翡翠の玉が輝いた謎は解けるのだろうか。悪魔が僕たちを奪いに来た謎が解けるのだろうか。
跨った馬の背で揺られながら、メルはずっと考えていた。




