第四章 一二一九年、秋 トリポリ(其の三)
第四章 一二一九年、秋 トリポリ(其の三)
翌朝、メルとイアンは孤児院を出発した。ジョンとブリジット、子どもたちが二人を見送った。春の柔らかい陽光と暖かな春風が心地良く吹いている。
イアンは口笛を吹きながら歩いている。入隊試験で、イアンは相手になった王室騎士隊の一等騎士と互角に戦えた。おじさんや父さんのような立派な騎士になる、イアンはそう決意していた。
トリポリ城へ続く石畳の上り坂の途中でメルとイアンは振り返った。春の青空の下、白い干煉瓦で造られた家々が眼下に広がっている。町並みの向こうには藍色の地中海がある。遠くには、珍しくキプロスの島影がぼんやりと見えていた。
「きれいだな」「ああ」メルとイアンはしばらくその景色に魅入った。それから、再び上り坂を歩き始めた。
徐々にトリポリ城が見えてきた。トリポリ城はファーティマ朝時代に建造された。すでに二百年近く経つ古い城だ。
トリポリ城に着いたメルとイアンは、正門で待っていた大柄な男に城内の広場まで案内された。大柄な男も王室騎士隊の一員のようだった。
「ここで全員が揃うまで待て」大柄な男はそれだけ言い残して正門へ戻っていった。
広場には先に到着していた同年代の少年が三人いた。その後、十代半ばから後半の少年が大柄な男に連れられてやって来た。昼前には三十人程度が集まっていた。多くの少年は、メルやイアンが着たこともない上質の服を着ている。荷物を入れている袋は上質な牛革製だ。
やがて、大柄な男が前に立ち、四列に七人ずつの隊列を組むよう号令した。メルとイアンも隊列に並んだ。数えると全員で二十八人だ。
整列し終えると、黒服に身を包み帯剣した七人の一等騎士がやってきた。七人は隊列の前に横一列に並んだ。真ん中の小柄な黒髪の一等騎士が一歩前に進み出た。きれいな青い瞳だが、刺すように冷たく鋭い。左目の下には、剣で受けた傷が生々しく残っている。
「私は王室騎士隊長のミシェル・ドグルだ。今、諸君らはトリポリ伯国の王室騎士隊の騎士見習いとなった」ミシェルの声はやや低かったが広場全体によく聞こえた。
「これから諸君は厳しい鍛練に励み、精神を鍛え、二等騎士を目指す。泣き言を言う奴はすぐに城から叩き出すから覚えておけ。去年入ってきた連中は、二カ月で十人が城から逃げて行った」
ミシェルは怒鳴るように話しながら少年たちの隊列に入り、一人一人の顔をじっくりと見た。
「諸君らは互いに切磋琢磨する仲間だ。共に鍛え合う仲になれ。二等騎士となり、さらに訓練を重ねて一等騎士を目指せ。愚痴をいう奴は相手にするな。そんな奴は仲間じゃない、ただの弱虫だ。ただの弱虫は私が踏み潰してやる」
イアンの前にいる赤髪の少年はさっきから呼吸が早くなっている。他の少年も不安そうに目を伏せたり、きょろきょろと周囲を見ている。けれども、イアンにとっては何でもない。王室騎士隊の隊長の怒鳴り声など、孤児院近くの歓楽通りの酔っぱらいの罵声に比べればお上品すぎる。
腹が減ってきたなぁ、イアンはぼんやりと思っていた。気が付くと、イアンの横にミシェルがいつの間にか並んで立っていた。
「お前、名前は何という」ミシェルは低い声でイアンの耳元に囁いた。
イアンは驚いて直立不動の姿勢を取った。「はっ、イアン・ハントと申します」
ミシェルはその名前で何かを思い出したようだ。「お前がイアン・ハントか。今年の合格者では一番の腕前らしいな。どうだ、ここで私の部下と手合せしてみるか?」
えっ、とイアンは思った。思わずイアンは横に並んでいるメルを見た。訳が分からない、とメルは目配せして返した。
「どうした、もう逃げたくなったのか?」ミシェルの口調は明らかに挑発的だ。そうまで言われればイアンも引く気にはなれない。
「では、手合せをお願いいたします」イアンが大きく返事をした。
「よろしい。ジャンニ、お前が相手をしろ」ミシェルはイアンの周囲から少年たちを下がらせた。メルも後ろに下がった。
前に並んだ六人から一人が進み出た。その顔を見てイアンは思い出した。入隊試験でイアンの相手をしてくれた一等騎士だ。これは楽勝だな、イアンはほくそ笑んだ。
ジャンニはイアンの目の前で止まった。驚いたことにジャンニは自分の剣をイアンに手渡した。
「あの、あなたの剣は?」イアンは困惑したように尋ねた。
ジャンニは食事で使うナイフを懐から取り出した。
「お前が相手ならジャンニはそれで十分だそうだ」ジャンニに替わってミシェルが答えた。
イアンはむっとした。じゃあ、遠慮なくやらせてもらいますよ。
二人の準備が出来たのを見てミシェルは号令した。「始めろっ!」
イアンは剣を両手で持ち、頭の上に振り上げて構えた。ジャンニはナイフを構えもせず、立ったままイアンの動きをじっと見つめている。その目はイアンを刺すように見つめている。
さすがに隙がないな、どうするか。イアンは振り上げた剣をいったん降ろした。右へ左へゆっくりと位置を変えながら攻め方を考えた。それでも、イアンは攻めあぐねていた。
ミシェルとかいう隊長は何処へ行った、どうせ俺を笑っているのか、イアンは苛立ち、視線を周囲に巡らせた。
その瞬間、ジャンニが猫のように素早く突進してきた。ジャンニはあっという間にイアンの喉元にナイフを突きつけた。イアンは何も出来なかった。
「よし、終わりだ。諸君、隊列を組み直せ」ミシェルが号令した。
イアンは悔しさの余りすぐに動こうとしなかった。メルが力づくでイアンの手から剣をもぎ取り、ジャンニに返した。少年たちは再び隊列を組んだ。
「入隊試験では諸君らの素質を確かめただけだ。それなのに、一等騎士と互角に戦えたと勘違いしている者がいる。諸君らは騎士の入口に立っているだけでしかない。今後は自らを戒め、心と身体を鍛えろ。勘違いしている者はさっさと去れ、私は何も咎めはしない。以上だ」ミシェルはそう言うと、六人の一等騎士を連れて城内へ戻っていった。
さっきの大柄な男が、少年たちを城内の端にある騎士見習いの宿舎へ連れて行った。宿舎と言えば聞こえはいい。実際は雨風が凌げるだけの建物だ。小さな窓から射す光に照らされた室内には、四十程の粗末なベッドが整然と並んでいる。
「奥のベッドから順に詰めろ。そこが今日から貴様らの寝床だ。荷物はベッドの下に置き、俺が戻るまでここにいろ。すぐに昼食だ」大柄な男はそれだけ言うと部屋から出ていった。
残された少年たちは戸惑った。粗末なベッドに敷かれているのは使い古しの汚れた毛布だけ。こんな汚いベッドで寝られるかよ、着替える場所もないのか、何人かの少年は不満を口にし始めた。
メルとイアンのベッドは隣同士になった。先程の敗北などとっくに忘れたように、イアンはいつもの調子に戻っていた。
「なあメル、孤児院と大して変わらないな」
「そうだな」
「食事はちゃんと食べられそうだぜ」
「そうだな」
「いい所だな」
「そうだな」メルとイアンは小さく笑い合った。
一等騎士の集合部屋に戻ったミシェルはジャンニと向かい合わせに座った。部屋には赤色基調の円形紋様に彩られたペルシャ絨毯が敷かれている。その上に楕円形の大きな机が置かれ、机の周りを黒い毛皮地の椅子が二十席並んでいる。
「ジャンニ、あの坊主はどうだった?」ミシェルは机に左手の肘を付き、人差し指と中指で頬をゆっくりと撫でている。これは何かに興味を示している時の仕草だとジャンニは知っていた。
「荒削りですが構えはいい。基礎は出来ています。さすが、騎士ジョンに鍛えられただけはありますね。ただ、心に雑念がありすぎます」
「そうだな。あの坊主だけではない。全員が剣術と精神を鍛えねばならん。果たして、二等騎士には何人なれるかな」
今の言葉でジャンニは聞くべきか迷った。それでも聞いてみようと思った。「ボエモン四世は我ら王室騎士隊をどうするつもりですか?国を守るために多くの騎馬兵を養成する考えは理解出来ます。ですが、王室騎士隊がどうしてその養成に携わらなければならないのでしょうか?」
ん、とミシェルは頬を撫でていた指を止めた。「世界が変わったのだ、どうしようもない」ミシェルはぽつりと言った。
意外な返事に、ジャンニは首を傾けてミシェルを見つめた。
ミシェルは背筋を伸ばして姿勢を正した。「騎士が活躍する華々しい戦いはもう終わった。これからは大量の虐殺があるだけだ。つまり、私たちは用済みだ」
ジャンニは訳が分からないという表情でミシェルを見つめ続けた。
ミシェルは立ち上がり窓辺に移動した。冷たい青い瞳で遠くの空を見つめた。「十字軍とイスラム連合軍の戦いを見ろ。何千、何万という兵士が最低限の礼節もなく殺し合っている。負けた者への慈悲の欠片もないし、勝った者の誇りもない。そんな戦いに我ら王室騎士隊の出番は無い」
「だから王室騎士隊はもう要らない、と」
「戦いに勝つには、敵よりも多くの騎馬兵をてっとり早く揃えればいい。五年も六年もかけて、せいぜい王室騎士を百人育てても戦いには勝てんさ」
「ですが、兵士の模範となるのは騎士です」ジャンニは異を唱えた。
「騎士道のことか?聖ヨハネ騎士団やテンプル騎士団がイスラム諸国で何をした?破壊と殺戮と略奪だけだ。十五年前の第四次十字軍は、同じキリスト教徒の国へ攻め込み市民を皆殺しにした。もう、誰も騎士道など信じていないよ」
ジャンニも十字軍の悪行の話は数多く知っている。それは、敬虔なキリスト教徒のために聖地を取り戻す崇高な戦いではない。罪のない異教徒の女子どもを、罪のない同胞さえも虐殺した。
「ジャンニ、騎士見習いを迎えるのは今年が最後になるだろう。我ら王室騎士隊はいずれ解体され、騎馬兵の指導員に成り下がる」ミシェルは力なく言い、再び遠くの空を見つめた。
翌朝から二等騎士になるための訓練が始まった。騎士見習いは夜明け前に起床し、午前中は城内の掃除と馬の世話、剣術の訓練を行う。午後は二等騎士に同行し、トリポリ市内を巡回する。夜は戦術の勉強で休む暇もない。
その上、訓練や勉強以上に規律そのものが厳しかった。最初の一カ月で四人が去り、二等騎士になる資質が無いと判断された三人は強制的に除隊させられた。
メルとイアンは無事に一カ月目を終えた。二カ月目から、騎士見習いには毎月二日間の休暇が与えられた。その休暇で、メルとイアンは久し振りに孤児院に戻った。
あらためて孤児院に戻ると、建物のあちこちが傷んでいるのに気付いた。孤児院で暮らしていた時はそれが当たり前だと思っていたが、これは何とかしないといけないと二人は考えた。
二度目の休暇から、メルとイアンは孤児院の建物の修復を始めた。メルとイアンにとって孤児院は大切な我が家だ。右足が不自由で修繕もままならなかったジョンは二人に感謝した。
三カ月目になると、騎士見習いの訓練はいよいよ厳しさを増していった。イアンの剣術もみるみる上達していった。騎士見習いとなってから四カ月が過ぎる頃になると、イアンは二等騎士と互角に戦えるようになった。同期の騎士見習いでは一番の上達だった。
一方、メルの剣術はそれほど上達していなかった。剣術への興味が薄れつつあるのをメル自身が感じていた。メルはどうすればいいのか悩んだ。
訓練には身が入らなくても、メルにとって戦術の講義は楽しかった。戦術の講義は過去に実際にあった戦いを題材として、地形と天候を考慮して兵力をどう配置するか、どう戦うか、どのように撤退するかを学んだ。講義が終わると、メルは納得するまで講師の二等騎士や一等騎士へ質問した。また、メルは自分なりに過去の事例について考え、その解釈について尋ねた。
メルは、僅かな時間があれば城内の書庫へ出入りもした。最初は輝く翡翠の玉について密かに調べるつもりだった。ところが、メルは書庫にある巻物に夢中になり、時間も忘れて読み始めた。
書庫には古代ギリシャの古文書が多数保管されている。それらは、アレクサンドリア図書館に保管されていた巻物だ。自然や動植物、気象や宇宙、人間の身体や心理を冷静な探求心で記した巻物が数多く並んでいた。アリストテレス、デモクリトス、ソクラテス、プラトンといった偉人の巻物を、メルは貪るように読み続けた。
メルは書庫を頻繁に訪れる研究者と親しくなった。彼はメルの博識と探求心を褒め、騎士見習いであることを嘆いた。その研究者こそ、ヨーロッパの小国ホラントからトリポリ伯国へ招かれていたヤン・ホイヘンスだ。
北海の海岸部にあり、低湿地帯が国土の大半を占める小国ホラント。この小さな国は、フランスと神聖ローマ帝国という二つの大国に挟まれながらも、長く独立国であり続けている。それは、ホラントが大国さえも上回る高度な工業力と商業力を持ち、周辺国との強い経済的な結び付きを築き上げていたからだ。
ホラントにとって、高度な工業力は国土保全に不可欠だった。低湿地帯への海水流入を防ぐため強固な堤防を造り、水門や運河を整備し管理していた。また、ホラントの商工業者の連合体であるギルドは、ヨーロッパ全体の経済活動に影響を与えていた。ヨーロッパ各国はギルドから優秀な商人や職人を招き、自国の産業を成長させていた。フランスをはじめ、各国はホラントに攻め入るよりもホラントとの連携による経済発展を選んでいた。
ホラントの独立を支え続けた工業力と商業力を生み出したのは、国民への教育の普及だ。九一六年にフリースラントからホラントが独立した際、初代王のティルク一世はこの小国を繁栄させるために必要なものを考えた。教育の普及と産業の発展だとティルク一世は答を出した。
こうした考えは、教会の絶対的な権威と厳格な階級社会が根付くヨーロッパでは異例だった。小国だからこそ、こうした異例が行えたとも言えた。
ホラントでは国民総数に占める知識層の割合がヨーロッパで最も高い。ナイメーヘンにはヨーロッパで初めてとなる大学も開設されている。大学の名は、ホラント繁栄の基礎を造った初代王に敬意を表してティルク一世大学と名付けられていた。ティルク一世大学にはフランス、神聖ローマ帝国、イングランドから上流階級の子弟が集り、世界最高の学問を学んでいた。
そのティルク一世大学で、ヤン・ホイヘンスは自然科学を教えていた。三年前、ホイヘンスは知り合いの交易商人を通じてトリポリ伯国のボエモン四世から手紙を受け取った。
“我がトリポリ城内には世界の知識の宝と称された古代ギリシャの学術書が多数あります。アレクサンドリア図書館に保管されていた貴重な巻物です。その数は一生では読み切れない程ですが、必ずやヤン・ホイヘンス先生の探求心を満たすでしょう。その傍ら、先生には命の起源について調べていただきたい。ぜひともトリポリ城へのお越しをお待ちしています。”
一国の王からの手紙にしてはずいぶんと簡素な文面だったが、アレクサンドリア図書館の巻物という文言にホイヘンスは興味を持った。調査対象が命の起源というのも気に入った。それは、ホイヘンスが半生を捧げて解き明かそうとしている謎だ。
五十歳を迎えたホイヘンスは、愛した妻にすでに先立たれている。三人の娘は嫁ぎ、今は夫や子どもたちと幸せに暮らしている。ホイヘンスにとって、ホラントを離れるのに迷いはなかった。
ぜひともトリポリ城へお伺いしたい、ホイヘンスはボエモン四世への返信を交易商人へ託した。一年半後、トリポリ伯国の使者がホイヘンスを迎えに訪れた。ホイヘンスはティルク一世大学を辞め、娘や孫に別れを告げてホラントを旅立った。
トリポリ伯国への旅は、十字軍がイスラム諸国へ侵攻した道を辿る旅だった。それは千五百年前にアレクサンダー大王が通った道にも重なった。
行く先々で、ホイヘンスは歴史的に名高い遺跡を見た。遺跡の周辺には今を生きる人々の暮らしがあった。異なる民族や宗教、文化が調和し共存している町があった。殺戮と破壊により消えてしまった町もあった。
トリポリ伯国への旅は、人間の偉大さと愚かしさを体験する旅ともなった。
一二一八年の九月、ホイヘンスはトリポリ伯国へ到着した。ホイヘンスはボエモン四世の謁見を賜り、ボエモン四世はホイヘンスを心から歓迎した。
謁見の結果、ホイヘンスはボエモン四世が聡明な王だと認識した。多民族が共に暮らしている割に国内が平穏なのは、ボエモン四世の公正な治世によるものと理解した。一方、王自身の健康には深刻な問題があるように見えた。
謁見の後、ホイヘンスは城内を案内された。ホイヘンスを案内したのは、城内にある教会の責任者シャルル大司祭だ。シャルルと会話したホイヘンスは、大司祭が科学をとても重んじているのを知った。シャルルは神の教えを叙情的に語り、科学の真理を論理的に話した。
ホイヘンスはとても驚いた。シャルルのような聖職者はヨーロッパでは考えられない。もしもここがヨーロッパなら、シャルルは間違いなく異端者として処罰されている。ホイヘンスはトリポリ伯国が気に入った。
「命の起源を調べる目的は何でしょうか?」歩きながらホイヘンスはシャルルに尋ねた。
シャルルは立ち止った。「ホイヘンス先生は、始祖の玉をご存じだろうか?」
始祖の玉という言葉をホイヘンスは知らない。知らないと答えたホイヘンスに、始祖の玉は永遠の命をもたらすらしいとシャルルは説明した。「十字軍の遠征が始まったのも、そもそもはローマ教皇が始祖の玉を捜すためという情報もある」
「その情報の信憑性は?」ホイヘンスは再び尋ねた。
シャルルは首を横に振った。「第一次十字軍に参加したフランスの貴族が死ぬ間際にそう言った。聞いたのは、死に際に立ち会ったこの教会の先々代の大司祭だ。それ以上は何も分からない。ただ、始祖の玉が本当にあるのなら何としても入手したい。そうした目的で調べていただきたい」
それでいったい誰に使うのですか、ホイヘンスはシャルルに尋ね返した。尋ね返しながらもホイヘンスにはその答が何となく分かっていた。
「王は重い風土病に罹っておられる。余命僅かと医者から言われている。トリポリ伯国の平和と繁栄はボエモン四世がいてこそだ。永遠の命など私は信じないが、王の症状が良くなり寿命が延びるのであれば始祖の玉を手に入れたい。まずは、その手掛かりを巻物から捜し出していただきたい」
やはりそういう事情か、ホイヘンスは納得した。そうした手掛かりがあるとすれば、シャルルの言うとおりアレクサンドリア図書館の巻物だろう。
紀元前三世紀、アレクサンダー大王が創設したアレクサンドリア図書館は人間の叡智の集積となっていた。哲学、数学、医術、宇宙の起源、地球を構成する海と地と空の組成、動植物の進化を記した巻物が多数保管されていた。その数は五十万冊とも伝えられ、アレクサンドリア図書館はまさに世界の知識の中心となっていた。
七百年後の四百十五年、その叡智を布教の妨げと考えるキリスト教の狂信者集団がアレクサンドリア図書館を襲撃した。アレクサンドリア図書館は破壊され、巻物は燃やされた。この襲撃を先導したキュリロス主教は、アレクサンドリア図書館を破壊した功績により聖人として称えられた。
他国へ貸し出されていたためにこの襲撃を逃れ、焼失を免れた巻物も多かった。しかし、ヨーロッパ諸国に貸し出されていた巻物は、遅かれ早かれ同じ運命を辿った。一方、イスラム諸国に貸し出されていた巻物は無事だった。
かつてはイスラム諸国の一つだったこの国にも大量の巻物が貸し出されていた。当時の王や側近はアレクサンドリア図書館の巻物の価値に気付いていた。自国にある巻物だけでなく、現存する巻物のすべてを集めようと考えた。王は側近に命じ、周辺諸国の城に保管されている巻物を多額の資金を使って買い集めた。購入出来ない場合は、多額の謝礼を支払い、その内容をアラビア語に翻訳して書き写して持ち帰った。
その後、十字軍の侵攻によりこの国はトリポリ伯国となった。十字軍国家ではあるが、キリスト教徒である先々代の王も巻物の価値を認め、更なる巻物の収集に尽力した。こうして、トリポリ伯国は現存する古代ギリシャの巻物をもっとも多く保有する国となっていた。
ホイヘンスはさっそく巻物を読み始めた。エラトステネスは、夏至の正午に同じ高さの棒が落とす影の長さが場所により違うと知り、そこから地球の大きさを計算した。ヘロンは歯車による機械仕掛けを考案し、蒸気による動力機関を考案した。ユークリッドは難解な幾何学を体系化した。エンペドクレスは空気の存在を証明した。デモクリトスは物質の最小単位を原子と名付けた。
また、アリスタルコスは、地球は星々の一つであり、他の星と同じように太陽のまわりを周っていると実証した。ヒッパルコスは夜空に輝く星の位置を図面にし、プトレマイオスは星に名前を付けてその明るさを記録した。ピタゴラスは、調和と秩序が保たれた宇宙をコスモスと呼んだ。
巻物に記されたそれらの内容はホイヘンスに大きな衝撃を与えた。ホイヘンスは、神が世界を造ったのではなく、宇宙の片隅で星が生まれ、その星に動物や人間が生まれたと理解した。
ホイヘンスは敬虔なキリスト教徒だったが、何よりも事実を探求する科学者だった。




