第一章 一二一九年、晩春 サフリム(其の一)
第一章 一二一九年、晩春 サフリム(其の一)
南から吹く乾いた風が、草原に大海原の波のようなうねりを造っている。黄色や白色の野草の花がうねりの中で揺れている。
ハシムは心地良い南風にふと立ち止まった。後ろを振り返ると、孫娘は草原の中で立ち止まったままだ。また何かを感じたのだろうか。あの子は大きくなるにつれてシャーマン(霊術師)の能力がどんどんと高まっていく。
パールは草原のうねりの中で目を閉じたまま立っていた。何だろう、また異国の誰かが私に呼び掛けているような気がする。一緒に行こう、この前は私にそう呼び掛けていた。
パールは心を静めて意識を集中した。南風にパールの濃い黒灰色の長い髪が揺れている。感じる、異国の誰かが呼び掛ける声を感じる。
「パール、早く来なさい」遠くからハシムの声が聞こえた。
もう、ハシムの声で何も分からなくなったじゃないの。パールは残念そうに目を開いた。きらきらと輝く黒い瞳が草原の遠くを見つめた。天山山脈の頂に残る残雪が、晩春の明るい陽射しを受けて白く輝いている。
目の前の草むらが小刻みに揺れた。風じゃない、何だろう。パールは腰を屈めて草むらを覗き込んだ。白い尾なしネズミが驚いたように逃げて行った。
お前は小さくて可愛いね。パールは先を進むハシムの方へ軽やかに走った。シャーマンの服装である裾長の純白のスカートが風にはためいた。
「何をしておった、パール」駆けて来たパールにハシムが尋ねた。
「誰かが呼び掛けてくるようで心を静めていたの。でも、ハシムの声で分からなくなった」
パールの少し不機嫌そうな物言いに皺だらけのハシムの顔がほころんだ。「それは心地良い南風のせいだよ。年老いたわしでさえこの南風には心が惑わされそうだ」
「茶化さないでっ!」
「ほっ、すまんのう。さ、早く祠へ参ろう」
週に一度の儀式のためにハシムとパールは祠のある湖に向かって歩いた。近付くにつれてパールはいつもの胸の高まりを感じた。以前、そうハシムに伝えると、それだけシャーマンとしての能力が高くなっているのだろうと教えてくれた。
しばらくすると二人は湖に着いた。豊かな水を湛えた湖は対岸が見通せないほど広い。風が強いためか、いつもより波が高くなっている。
祠は湖の岸辺にある。周囲には丈の高い葦のような植物が生え、祠は目立たないように隠されている。祠そのものには飾りは無く、祀る像も無い。子どもの背と同じくらいの高さまで小さな岩を円錐状に積み重ねただけの造りだ。
何も気にしない者が見れば、子どもが小岩を積み上げて遊んだものだと思うだろう。注意深い者が見れば、湖の岸や草原には見当たらない小岩で積み上げられていると気付くだろう。それでも、これが古の一族の祠と分かる者はいないだろう。
それは昔からの決まり事だった。古の一族以外の者には決してそれが祠と気付かれないようにしなければならない。
「この祠は、我ら古の一族が生き残り、安住の地を見つけるための道標だ」ハシムは先代の長からそう教えられていた。
古の一族がサフリムに辿り着いてから二百年は経っている。このままサフリムが安住の地となるかどうかは分からない。古の一族は幾世代にも渡って放浪を続けていた。
古の一族は古の父に選ばれた子孫だ。古の一族のシャーマンは超常の能力を持っている。その能力を利用しようとした王は古の一族を探し求め、古の一族は利用されないように逃げ続けた。一方、古の一族は人々から迫害されてもいた。人々は古の一族の呪われた言い伝えを覚えていた。
幾世代にも渡って放浪を続けていく内、超常の能力や呪われた言い伝えは作り話だと人々は思うようになった。古の一族の者でさえ、同じように作り話だと思う者も出始めていた。ハシムでさえ、最後に始祖の玉が施されてから何百年が過ぎているのか知らない。
それで良い、とハシムは考えていた。シャーマンが超常の能力を使う機会などなくて良い。シャーマンの超常の能力を巡って古来より国と国が戦ってきた。そのために多くの人々が殺し、殺されるなどもうたくさんだ。
サフリムは辺境の地で暮らしは貧しく辛い。それでも、ここなら古の一族のシャーマンは利用されたり、迫害されたりはしない。ひっそりと、静かに暮らせられる。
ハシムは祠に張り付いている枯れ草を取り去った。持っていた皮袋から禁忌の玉を取り出した。それは半透明の緑色の翡翠で赤ん坊の拳くらいの大きさがある。
どうして禁忌の玉と呼ばれるのか、それはハシムもパールも古い言い伝えにより知っている。世界には憎しみと絶望に彷徨う者がおり、古の一族のシャーマンはその者に永遠の安らぎを与える、そのために禁忌の玉はある。
とは言え、その言い伝えは余りにも現実離れしている。ハシムもパールも、何の疑問も持たずにその言い伝えを信じる気にはなれない。
今、村にとって重要なのは食料となる穀物の確保だ。ここ数年、サフリムは干ばつに見舞われていた。特に、今年は春に入ってからまとまった降雨がない。そのため、早春に芽吹いた麦はすっかり枯れてしまった。もし、今からでも雨が降るのであれば麦は播ける。厳しい冬が訪れる前に何とか収穫が出来る。
ハシムは禁忌の玉をパールへ手渡した。「さあ、パールよ、ここからはお前の務めだ」
ハシムは祠から離れ、替りにパールが祠の前に立った。パールは晩春の白みがかった青空を仰ぎ見た。白い雲がゆっくりと流れている。
雨は降るのかな、それともあの像をまた観るのかな。パールは深呼吸して気持ちを集中させた。
パールは禁忌の玉を持った右手を真っ直ぐに伸ばした。伸ばした右手にある禁忌の玉は、ちょうど祠の頂きの真上にある。
「ラトに住まわれたる古の父よ、我ら一族に進むべき道をお示しください」パールはそう言い、目を閉じ、心を開いた。
パールの右手にある禁忌の玉が鈍く輝きだした。同時に、パールが身に付けている首飾りの小さな翡翠の一つ一つが鈍く輝き始めた。
パールの心の中に像が流れ込んできた。それは待ち望む雨の像ではなかった。
また、あの像が観える。数えきれない馬と羊の群れ、騎馬兵、異国の若い男女、村人の笑顔。それからは燃える家々、倒れている多くの村人。
‐始まります‐
‐東方から強大な騎馬軍勢が訪れます‐
‐光と闇の混沌、世界の混乱です‐
目を閉じたままパールは戸惑っていた。今までと同じ像、いえ、今までよりも鮮明な像になっていた。これは、像で観た事象が近い内に起きる証しだ。でも、断片的な像で何も分からない。いったい何が始まるというの。
ハシムは禁忌の玉の鈍い輝きが消えるのを待っていた。禁忌の玉が輝いている間、パールは像を観て対話をしている。その間はパールに声を掛けてはいけない。
どのような像を観ているのか、それはその時により様々だ。それに、対話といっても誰と対話しているのかハシムには分からない。
先代のシャーマンだった老婆は、かつてハシムに教えてくれた。「対話の相手とは、今は存在しない者たちだよ。もちろん、相手が誰かなど分からぬ。その像と対話の声は起こる将来を示すだけ。進むべき道は自分たちで探せよと諭しているように思える」
今は存在しない者たち?それは死んだ者たちか、とハシムは尋ねた。老婆は頷いた。「一人とか数人ではない、これまでにこの世を生きた人々の重みにも等しいと感じる時がある」
その先代のシャーマンだった老婆が亡くなったのが十七年前。老婆が亡くなった日にパールは生まれた。
すでに村の長となっていたハシムは、亡くなった老婆が使っていた禁忌の玉を生まれたばかりのパールの小さな手に触れさせた。すると、禁忌の玉は緑色に鈍く輝いた。古いシャーマンが死ぬ時、新しいシャーマンが生まれる。言い伝えのとおりだった。
パールの母親のアニュテは身体が弱かった。パールが一歳になった冬、アニュテは風邪をこじらせて亡くなった。同じ冬、ハシムの一人息子であり、パールの父親であるトノイも亡くなった。雪の草原に一人で狩りに出かけ、吹雪に迷い凍死してしまった。新しくシャーマンとなった子の父母は長生きしない、これも言い伝えのとおりだった。
それ以来、パールは祖父のハシムと祖母のキルマが育てた。
両親の記憶もないパールが不憫で、キルマは父親と母親の話をパールにいつもしていた。それなのに、幼いパールはまったく興味を示さなかった。
何て薄情な子だろうとキルマはパールを叱った。ところが、返ってきたパールの言葉にキルマは驚愕した。
「だって、お父さんとお母さんはいつも一緒だよ」幼いパールは当たり前のように言った。
二年前にキルマが亡くなった時もそうだった。パールはキルマととても仲が良かった。キルマと一緒に草原で花を摘んだり、髪を三つ編みに結び合ったりしていた。それがもう出来なくなり、パールは本当に悲しんでいた。
それでも、パールはキルマの死そのものは悲しんでいなかった。キルマと一緒に遊べないのを悲しんでいただけだ。「キルマはいつも一緒にいてくれるから」とパールはハシムに言った。
ハシムが村の長となってから、パールは三人目のシャーマンだ。三人とも女だ。シャーマンに男はいないとハシムは先代の長から聞いていた。
その三人の中でも、パールのシャーマンとしての能力は特別だった。祠で行う対話での能力は特に際立っていた。
ハシムの知るパール以前の二人のシャーマンは、観る像は明瞭ではなく、対話の声は滅多に聞こえなかった。雨が降る像を見ても、それが明日なのか一カ月後なのか分からなかった。湖が凍る像を見て厳しい寒さが来ると言っても、数日なのか、十日間も続くのか分からなかった。
パールは違った。像が明瞭で対話の声も常にはっきりと聞こえると言う。激しい雨の像と共に、明後日に雨が降ると対話が言えば明後日に激しい雨が降った。吹雪の像と共に、十日後に厳しい寒さが四日間続くと対話が言えば、十日後から四日間は厳しい寒さが続いた。
対話が教えてくれたのは天候だけではなかった。遠くで起きている出来事も教えてくれた。ある時、ブハラやサマルカンドで流行っている疫病を対話は教えてくれた。数日後、東方へ向かう交易商人がサフリムの村を訪れた。大きな町では疫病が流行っているから行くなと教えてくれた。
対話の相手は、今は存在しない者たちだ。その者たちが将来や遠くの出来事をどうして知っているのか、ハシムはパールに尋ねてみた。けれどもパールは答えられない、パールにも分からない。
対話は将来や遠くの出来事のすべてを教えてはくれなかった。パールが望んでも、その多くは教えてくれなかった。そうかと思うと、一方的にいろいろな像を見せて教えてくれた。過去の出来事も将来に起こる事も無作為に教えているようにも思えた。
不思議なのは、今は存在しない者たちが死んだ者だとして、そこに代々のシャーマンはいっさい含まれていない。村の長も含まれていない。だから、古の一族の歴史や言い伝えの意味を教えてもらおうとパールが願ってもまったく駄目だった。
対話は村人の死を教えてくれた。病が治らない年寄りや、死んで生まれてくる赤子をパールに教えてくれた。そのすべてが現実になっていた。
パールがまだ幼かった頃、パールは対話で知った村人の死期をハシム以外の者にも教えていた。当事者や当事者の家族に教えていた。パールとしては親切心のつもりだった。
その死期が寸分の狂いも無く当たるため、やがてパールは村人から怖れられ、忌み嫌われた。同じ古の一族でも、パールの能力は村人の理解出来る範疇を超えていた。幼いパールと一緒に遊ぶ子どもは誰一人いなくなった。
「どうして、みんなは私と遊んでくれないの?」幼いパールは泣きながらハシムに尋ねた。
「お前は古の一族のシャーマンだ。お前は特別な能力を持っている。村人にはそれが理解出来ない。村人はシャーマンを敬うが、怖れてもいる。大人も子どももお前が怖いのだ」ハシムは孫娘に正直に答えた。
「じゃあ、私がシャーマンでなかったらみんなは私と遊んでくれるの?」パールは悲しい目をしてハシムに訴えた。
先代のシャーマンだった老婆も同じように嘆いていた。シャーマンなんかなりたくなかった、皆と同じように暮らしたかった、もうシャーマンなんぞ辞めたい、と。
古の一族の長としてハシムはそれを許す訳にはいかなかった。かつて老婆を諭したように、ハシムはパールも諭した。
「お前はシャーマンの能力を与えられた。それは欲しいと言って与えられるものではない。能力を活かせる者にしか与えられない。それを名誉と思うか、苦難と思うか。それはお前自身が決めなければならない」
幼いパールに理解しろというのが無理だった。それはハシムにも分かっていた。それでも、ここで気休めの慰めを言ってもこの子のためには何にもならない。
「シャーマンとして選ばれた理由は、お前がシャーマンとして生き続けてこそ初めて分かる」
やがて、パールは与えられた能力を受け入れた。同時に、自分と村人は理解し合えないという悲しみを受け入れた。自分は村人から怖れられ、忌み嫌われる存在である苦しみ受け入れた。
ハシムはそうした孫娘の成長を誇らしく思った。同時に、たった一人の孫娘が古の一族のシャーマンとして生きなければならない運命に深い悲しみを覚えていた。
パールが右手に持つ禁忌の玉の輝きは消えた。首飾りの小さな翡翠の輝きも同様に消えていった。どうやら対話は終わったらしい。
「パール、どうだったかね。雨は降りそうかな?」そう言いながらハシムはパールに近付いた。後ろ姿のパールの様子が変だとすぐに気付いた。
パールは祠の前で立ち尽くしている。きっと何か深刻な像を観たのだとハシムにも分かった。それは、かつてホラズム帝国の兵士が村へやって来るとパールが対話から教えられた時のようだ。あの時は、村の若者が兵士に抵抗して十一人が殺された。
こういう時はパールを急かしてはいけない。パールは像と今は存在しない者たちの声から何が起ころうとしているのか考えている。それが終わるまでは待つしかない。
しばらくして、パールがハシムへゆっくりと振り向いた。パールの顔色は青ざめており、困惑した表情になっている。
「ハシム、東方の強大な騎馬軍勢を知っている?」
東方の強大な騎馬軍勢、それはモンゴル軍の騎馬軍勢だとハシムはすぐに察した。
一年に数回、僻地であるサフリムの村にも交易商人が立ち寄る。その一人から、ハシムは東方の強大な騎馬軍勢の話を聞いていた。モンゴルと呼ぶ大草原の国には二十万人もの騎馬軍勢がいる。その騎馬軍勢は、東方の北部にあった金王朝に攻め入り瞬く間に滅ぼした。
「知っておる。おそらくモンゴル軍の騎馬軍勢だろう。果たして、モンゴル軍の騎馬軍勢がサフリムにも来るのか?」ハシムは心配そうに聞いた。
「そう。だけど、それは村にとって良い兆しでもあるらしいの。よく分からないけど、村人はもう飢えに苦しまなくなるみたい」
春播きの麦が干ばつで枯れてしまった今、そうした話は嬉しい限りだ。「それは良いではないか。だが、他にも何かあるのか」
「うん、村に災いが起きる」
予想もしていなかった言葉にハシムは驚いた。「村に災いだと?モンゴルの騎馬兵が村を襲うのか?村人が殺されるのか?」
「違う、騎馬兵じゃない。分からないけど村が焼かれて村人が殺される。でも、どうしてそうなるのかは分からなかった」そう言うと、パールは俯いたまま押し黙った。
ハシムはそれ以上尋ねるのを止めた。もう少し時が経ち、パールの心が落ち着いてからあらためて聞くしかない。
「分かった。さあ、村へ帰ろう」
ハシムはパールから禁忌の玉を受け取り皮袋へ戻した。慰めるようにパールの背中を左手でそっと撫でた。
「ごめんなさい、雨が降るかどうかは分からなかった」パールは申し訳なさそうに謝った。
南風に乗った白い雲が青空をゆっくりと流れている。祠へ向かう時とは違い、パールとハシムは無言で村へ戻っていった。
それでも、まだこの時はサフリムに平和な時間が流れていた。
同じ頃、天山山脈の西の麓では人と馬と羊の長い行列が進んでいた。大ハーン(チンギス・ハーン)が率いるモンゴル軍の騎馬軍勢だ。
十カ月前、騎馬軍勢は西方へ侵攻するためモンゴルを出発した。騎馬兵十万人、職人や商人とその家族が五千人、馬は二十万頭、羊二百万頭が続いた。
人と馬と羊の果てしない行列は、まるで一つの国が移動しているように壮大な眺めだ。出発を見送った人々は、それが数年以上に及ぶ大規模な遠征だと理解していた。
騎馬軍勢はモンゴルの草原から安西、トルファン、ウルムチを通って来た。道中は順調だった。騎馬軍勢は天山山脈の東の麓に辿り着いた。眼前には天山山脈の険しい峰々が立ち塞がっていた。
天山山脈を越えて西方ヘ向かうには二つの道がある。天山山脈の南麓に沿ってカシュガルからパミール高原を抜ける南路、天山山脈の北麓に沿ってバルハシ湖に繋がるイリ川流域を越える北路だ。
南路の最大の難所はパミール高原の不毛地帯だ。そこには池も川も無く、草木も生えていない、見渡す限り砂礫が続く死の荒野だ。それでも、十分な水と食料を持ち、強靭な馬で走り続ければ十日で通り抜けられる。
北路はイリ川流域を越えるために水を容易に確保出来るし、馬や羊の食料となる草原も各所にある。それでも、肝心の山脈越えでは水も無く、草原も無い斜面を数日間通らなければならない。
東方と西方を往来する交易商隊は数名から数十名の少人数で動く。移動速度も速い。そのため、無理をしてでも距離の短い南路を通っていた。
騎馬軍勢は遠回りになる北路を選んだ。南路の不毛地帯を、これ程までに多くの人、馬や羊が無事に通り抜けるのは不可能だった。
しかし、天山山脈の北麓に沿う北路も厳しい道のりとなった。騎馬軍勢は積雪や雪崩に進路を阻まれないように雪解け後の晩春に進んだが、この北路は急な斜面に小さな砂礫が積み重なった悪路だった。それは滑りやすくとても危険だった。
騎馬兵は馬を降り、人と馬と羊は足を滑らせないように慎重に歩いた。そのため移動速度は極端に遅くなってしまった。
職人や商人の馬車には天幕や仕事道具、家財道具を積んでいた。重心は高くなり、砂礫の続く急な斜面で馬車は大きく傾きながら進んだ。何台もの馬車が横倒しになり壊れてしまった。
さらに、晩春だというのに厳しい寒冷に二日間も襲われた。厳冬期のような寒さには屈強な騎馬兵でさえ弱音を吐いていた。
騎馬兵の隊列の最後尾にいたゲンツェイは身体中に南風を受けている。とても心地良い風だ。見上げると、晴れた空には幾つもの白い雲が流れている。
ゲンツェイは迂闊にも馬上でうたた寝を始めてしまった。それでも、馬の動きに合せて身体が反射的に平衡を保つので馬上から落ちたりしない。
騎馬兵の隊列の後には職人や商人の馬車が続いている。その先頭には鍛冶職人のオルリと娘ハクレアの馬車があった。ゲンツェイの父親が鍛冶職人だった関係で、同じ十七歳のゲンツェイとハクレアは幼馴染みだ。
ゲンツェイが馬上でうたた寝しているのは後方から見てもすぐに分った。あんなに寝ているのに落馬しない、さすがは騎馬兵ね、とハクレアは感心していた。と言うよりも、呆れていた。
「勇猛なモンゴル軍の騎馬兵も呑気ね」ハクレアがつぶやくと、ハクレアの隣で手綱を手にしているオルリが大きく笑った。笑い過ぎたのか、オルリはごほごほと咳込んだ。
ハクレアは心配そうにオルリの顔を覗き込んだ。
「これだけ暖かくなれば風邪などすぐに治る」オルリが答えた。その言葉のとおり、オルリの顔色は数日前よりかなり良くなっている。
幼馴染みのうたた寝を揶揄したハクレアも南風を心地良く感じていた。あの危険な砂礫の急斜面はもう通らなくていい。身体の芯から凍える寒さも終わった。数日前まで恐怖と寒さで凝り固まっていた心と身体が、暖かい陽射しと南風でゆっくりと癒されている。
ハクレアは馬車の緩やかな揺れに身体を任せ、周囲に見える草花を楽しんでいた。周囲には一面の草原が広がっている。黄色や白色の小さく美しい花を咲かせた野草があちこちに群生している。モンゴルでは見ないものばかりだが、そのかわいらしい花々を見ているとハクレアの心は和んだ。
ふっと、ハクレアは心に呼び掛ける声を感じた。また、あの声だ。天山山脈を越え始めた頃から心に時折呼び掛けてくる。一緒に行こう、と繰り返し呼び掛けてくる。
ハクレアは思わず後ろを振り返った。急いで周囲を見回した。それでも、心に呼び掛けてくるのが誰なのか分かるはずもない。
いったい誰なのだろうか、溜息を付きながらハクレアはもう一度振り返った。
数百台もの馬車が左右にがたごとと揺れながら草原をゆっくりと移動している。その後ろには膨大な数の馬や羊の群れが続いている。馬や羊は草を食べながらのそのそと歩いているだろう。
後ろに続く馬車の列から目を上げると天山山脈が見える。峰々の頂きには白い残雪が輝いている。こうして見ると美しい光景だが、実際には恐ろしい難所だった。
天山山脈を越えれば、ホラズム帝国の都市サマルカンドまでは三十日だ。さらに、サマルカンドからバグダッドまでは百四十日、バグダッドからエルサレムまでは六十日と教えられた。
難所だった天山山脈を越えて自然との戦いは終わった。これからは人間との戦いが始まる。モンゴル軍の騎馬兵と、ホラズム帝国やイスラム諸国の騎馬兵との戦いだ。
大ハーンはサマルカンドへの侵攻の前にブハラを目指していた。小都市のブハラを攻め、ホラズム帝国の兵力の構成や指揮命令系統、兵の練度を確かめるためだ。
それでも、このままブハラに向かう訳にはいかない。天山山脈の北路越えで誰もが疲弊している。馬や羊も衰弱している。
先行していた偵察隊からは、この先には大きな湖があり周辺には広大な草原が広がっていると報告が上がっている。
大ハーンはその広大な草原で人にも家畜にも十分に休養を取らせる決断をした。騎馬兵の休息と共に馬を休ませ、食料となる羊を太らせるのは、次の戦いへの大切な準備だ。