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厄災のユーラシア  作者: もとふ みき
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第三章 一二一九年、秋 太宰府(其の六)

第三章 一二一九年、秋 太宰府(其の六)


 出航の日、畠山嘉次が家族と一緒に見送りに来てくれた。皆さん無事に戻って来てください、と畠山嘉次は涙を流しながら言ってくれた。

 わらびと茶々は、畠山嘉次の子どもたちとすっかり仲良くなっていた。言葉は通じないが、滞在中はずっと一緒に遊んでいた。言葉など関係なく子どもたちはすぐに理解し合えるのだな、実篤はそう思い感心していた。

 交易船が港を離れてからも畠山嘉次たちはずっと手を振っていた。実篤たちも船上から手を振り続けた。

 乗船して分かったが、サイードの交易船は思った以上にさらに大きかった。見た目では、三角形の帆が四つ並んでいるのが特徴だ。舳先から数えて二つ目の帆には横に切れ目が二本入り、他の帆とは別方向へ風を受け流す仕組みになっている。このため、逆風に向かっても進められるという。

 南宋でいろいろ買い込んだため、実篤たちの荷物は増えていた。サイードはその荷物の多さにぶつぶつと文句を言っていた。それでも、実篤たちのために船倉の一角に寝場所を用意してくれた。

 再び始まった航海だが、実篤たちにはやらなければいけない大事なことがあった。それはアラビア語の習得だ。エルサレムへ行くにはアラビア語の習得が不可欠だ。アラビア語が話せなければ道を尋ねられないし、物が買えないし、宿にも泊まれない。

 長い航海だから時間は余る程あるが、自分はアラビア語を覚えられるだろうか。実篤は当初心配していた。しかし、心配は無用だった。サイードも船員もアラビア語しか話さない。乗船した初日から、実篤は否応なくアラビア語を覚えていくしかなかった。

 むしろ、心配は近江武士の五人にあった。アラビア語を覚えなければならないのに、五人はサイードや船員に話し掛けられると船内を逃げ回った。言葉が通じないのが一番の原因だが、それは南宋のジャンク船に乗っていた時も同じだった。

 そのうち、五人が逃げる理由が実篤にも分かった。南宋の船員は日本人と背丈は変わらず、顔付きも同じだ。ところが、サイードやイスラムの船員は身体が大きいし、髭だらけの顔は恐ろしくていかめしい。つまり、若い五人は彼らにただただ圧倒されていた。

 やがて、船員が集まって談笑していると、自分たちが馬鹿にされているのではないかと五人は思うようになった。日常の習慣の違いもあり、五人は船員に対して疑心暗鬼になっていた。

 実篤は五人に説教をした。馬鹿にされてなどいない、国が違えば習慣も違うのは当たり前だ、それを頭に叩き込んで船員と接しろ、船員にどんどん話し掛けてアラビア語を覚えろ、と叱咤した。

「私たちは異国の者として乗船している。私たちこそ船員たちの考え方や習慣を理解しなければならない。もし船員に文句があるのなら、アラビア語で文句が言えるようになれ」

 実篤は五人にさらに厳しく言った。「今後は、日本人同士でもアラビア語だけで会話しろ、そうしなければいつまでも覚えられない。アラビア語が覚えられない者は荷物でしかない。この旅に余計な荷物はいらない。余計な荷物は置いていく」

 とうとう五人も覚悟を決めた。五人の内、左衛門が先頭に立った。船員と喧嘩するにしても言葉を覚えないといけない、左衛門はそう言って自らを奮い立たせた。左衛門は船員を呼び止めて自分や相手、太陽や海を指さした。船員の喋る言葉を真似て同じように喋った。そうやって、単語を一つまた一つと覚えていった。他の四人は左衛門の後ろで同じように真似て発音した。

 サイードも、日本人にアラビア語を教えるようすべての船員に指示していた。アラビア語を教えることも、畠山嘉次から受け取る報酬の一部に含まれているからだ。実篤とわらび、茶々にはサイード自身がアラビア語を教えた。

 当初、左衛門たちは船員の発音を聞き取り、真似て発音するだけで精一杯だった。それが三十個、五十個と単語を覚えると、もっと多くの単語を覚えたくなった。覚えた単語に、動詞や形容詞が加わった。船員とアラビア語で挨拶が出来るようになると、五人はさらに話したくなった。

 若いだけに、覚えだすと五人の上達は早かった。しばらくは頭の中でアラビア語から日本語へ、日本語からアラビア語へ変換していた。それがいつの頃からか、頭の中で変換しなくても船員のアラビア語が理解出来たし、アラビア語が自然と口から出るようになっていった。


 実篤たちを乗せた交易船は、臨安を出港してから陸地伝いに南下した。海は透明な薄緑色となり、白い珊瑚礁では鮮やかな赤色や青色、黄色の魚が群れを成して泳いでいる。遠くの陸地には白い砂浜が見え、その奥に濃い緑色の葉に覆われた木々が立ち並んでいる。それらは、日本の自然、風土とはまったく違う眺めだ。

 時折、浜辺にある小さな集落を見つけた。大きな葉を重ねた屋根があるだけの粗末な家屋が並び、色黒の男女は腰に布地を巻いただけの半裸だ。交易船が珍しいのか、大人も子どもも船に向かって何かを叫んでいる。

 左衛門たちやわらび、茶々は不思議そうに半裸の男女を眺めた。

「見るからに貧しそうな恰好だが、彼らはどうやって生きている?」実篤はサイードに尋ねた。

「密林に入ればイモもバナナもある。魚は好きなだけ獲れる。寒くないから服もいらない。あいつらは生活に何も困っていない」

 サイードは顔をしかめて続けた。「あいつらは厄介者だ。迂闊に集落の近くで停泊でもしてみろ、夜中にあいつらは忍び込んで何でも盗んでいく。それに、自分の交易船ではまだ起きていないが、他の交易船では船員が連れ去られて火あぶりにされた」とサイードは言った。

「貧しそうな恰好と言うが、暑い所ではあれが一番いい。お前さんたちのような服を着ているのがおかしい。そのまげとかいう束ねた髪型と併せて、上陸すればお前さんたちはすぐに目立つ。目立ち過ぎて、いずれ厄介事に巻き込まれるぞ」実篤の頭、羽織と袴の姿を見ながら、サイードはもっともらしく言った。

 実篤はエルサレムへ平穏無事に進みたかった。目立つのは良くない、どうすれば良いだろうか、実篤はサイードに相談した。

「決まっている。まず、その妙な髪形を止めろ。わしらと同じ服を着て、わしらと同じ物を食べ、わしらと同じように振る舞えば良い」

 確かにそうだな、実篤は明快に理解した。実篤たちはまげを切り、髪を自然に伸ばした。入港した際には現地の衣服を買うと決めた。


 交易船は、マラッカ海峡を西へ抜けると北西へ進路を変えた。いくつもの港に立ち寄り、交易と食料や水の補給のため二、三日は停泊した。寄港すれば、実篤たちは上陸して異国の町を歩き、その土地の料理を食べた。長い航海の気分転換は上陸時の食事ぐらいしかない。

 実篤たちは、ナツメグやグローブといった香辛料の香りに馴染めなかった。それに、調理方法はヤシの実の油を使って炒めるか、煮込むか、揚げるかしかない。何処で何を食べても結局は辛いか甘いかのどちらかしかない。

 実篤は実家の漬物が恋しかった。炊きあがったばかりの白米を漬物で食べる夢を何度も見た。小太郎と菊千代も同じように漬物を食べる夢を何度も見ていると告白した。

 サイードは、そう話す実篤を笑った。暑い土地では味も栄養も濃厚な食事が必要だし、それを食べなければ体力が持たない、と実篤に言い返した。

 仕方なく、実篤たちは我慢して食べた。我慢して食べていると、そのうちおいしいと思えるようになった。今では、心底おいしいと食べられるようになっている。

 実篤たちが気に入った食べ物もある。それはバナナだ。黄色い皮に包まれた白く柔らかなこの果物は、芳醇な香りと饅頭のような粘りのある食感、口の中に広がる甘さが特徴だ。わらびと茶々は特にバナナがお気に入りで、それこそ周囲が呆れるくらいバナナを食べ続けた。


 寄港した先々で、実篤はエルサレムやイスラムと十字軍の戦いの情報を聞いて回った。イスラムと十字軍の戦いについて言えば、イスラム諸国が編成した連合軍に十字軍は劣勢を強いられているという情報がほとんどだった。

 バタン王国のボンペイに寄港した時、実篤はサイードが親しくしている役人に会った。その夜、実篤はサイードと一緒にその役人と食事をした。

 役人はシンバと名乗った。若い頃には王室に仕えていたらしく、今でも地位は高いらしい。サイードの話では、シンバはサイードの交易船が立ち寄る度に停泊の手続きや人夫の手配に便宜を図ってくれているという。

 役人なら何か知っているかもしれない。実篤は、バグダッドで殺されたバタン王国の王室近衛兵と子どもたちについて、シンバにそれとなく聞いてみた。臨安にいるベネチアの交易商人から聞きました、酷い事件でしたね、犯人はもう捕まったのですか、と。

 酒の勢いで口が軽くなっていたシンバは、噂程度の話だと断った上で話し始めた。

「あれは悪魔の仕業と言われている」赤ら顔のシンバは言った。「遺体は長くて鋭い何かで切り裂かれていたらしい。斬り裂かれた腹からは腸が飛び出ていた。まともな人間なら、あのような酷い真似は出来ないだろう」

 実篤は、藤原忠綱が言っていた魔物の話を思い出した。

「悪魔ってどんな容姿ですか?」実篤はそう言い、シンバの盃にどんどん酒を注いだ。隣に座ったサイードが思わず顔をしかめた。食事に誘ったのはシンバだが、いつものように食事代はサイードが支払わなければならない。

 悪魔について熱心に尋ねる日本人に、シンバは興味を持った。どうしてそんなに悪魔のことを知りたいのか実篤に尋ねた。

 実篤は当たり障りのない返答をした。「いえ、日本にも妖怪という化け物がおります。これが人々に悪さをいたします。まあ、夜道で驚かせるといった悪戯です。私も妖怪退治をした経験がありますが、何しろ得体の知れない輩どもで興味を持っています。大陸にもそうした妖怪もどきがいるのか知りたいのですよ」

 実篤の返答にシンバは怪訝な表情をした。日本人は何か隠し事をしていると疑った。とは言え、日本人はサイードの客人だ、あまりうるさくして困らせると、後でサイードから怒られる。サイードを怒らせると賄賂が貰えなくなる。そうなると浪費癖の若妻に文句を言われる。

 シンバは、それ以上に実篤を詮索するのを止めた。


 一二二〇年の二月半ば、カラチを出港した交易船は西へ進んでいた。四つの帆は風を受けて大きく膨らみ順調に航行していた。

 あと半月で三月を迎える。三月になると、北西へ進むのに必要な風が一気に弱まってしまう。それまでに、サイードはアラビア海を抜けてペルシャ湾に入りたかった。サイードが手掛ける交易の本拠地である、ペルシャ湾の奥のウル・カスルに辿り着きたかった。

 臨案を出港してすでに四カ月近く、実篤たちのアラビア語はずいぶんと上達した。わらびと茶々の星々の観察も続けられていた。

 南東に見える赤い星は、依然として予測の出来ない不規則な動きをしている。わらびと茶々は折に触れて翡翠の玉を手に取った。しかし、いつかの夜のように翡翠の玉はもう輝かなかった。

 毎晩のように星を眺めるわらびと茶々の隣で、実篤はあれこれと考えていた。藤原忠綱が教えてくれた魔物、アレッサンドロやシンバが教えてくれた悪魔、赤い星の不規則な動きと併せてわらびが言った「人と人ではない者たちとの大きな戦い」。

 考えれば考える程、これらの謎は深まった。実篤の心はそうした謎に包まれて混沌としていた。今のままでは何も分からない、分からないまま待つのはとても辛い。

 山賊との戦いと同じだな、実篤はそう思った。目の前に行く手を阻む敵がいるのなら何も悩まず戦えばいいだけだ。ところが、何処にいるのかも分からず、姿も形も数も分からないのでは戦いようがない。魔物だろうが悪魔だろうが、もしもいるのなら早く目の前に現れてくれ、そうすれば私は存分に戦える。

 波も穏やかな船上で、今夜も実篤はわらびや茶々と赤い星を見つめていた。夜空に輝く星々の下、実篤の心を焦燥にも似た思いが包んでいた。


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