第三章 一二一九年、秋 太宰府(其の四)
第三章 一二一九年、秋 太宰府(其の四)
翌朝、晴幸は藤原忠綱と佐々木経久に返答した。我が双子はエルサレムへ向かわせますが、一つお願いがあります、と。
「幼い頃からわらびと茶々の面倒を見ている武士がおります。武術に秀でており、足手まといにはなりません。何より、親しい者が傍にいれば、わらびと茶々は道中を不安に思わないでしょう」
藤原忠綱と佐々木経久にも同様の懸念はあった。両親と離れた子どもたちが寂しさの余り情緒不安定となり、翡翠の玉を輝かせられなくなるのではないかという懸念だ。
「それで、その武士は誰か?」佐々木経久が尋ねた。
「はい、太宰府の守護を担っております唐橋家の長男、実篤にございます。数えで二十三歳の若輩者ですが、安芸の佐伯家にて武者修業に励みました。先日、五年間の修業を終えて太宰府に戻ってきたばかりでございます」
佐々木経久は思い出した。「唐橋実篤とやら、二年ほど前に厳島神社を訪ねた際に剣術を披露してくれた記憶がある。相当な手練れと佐伯殿も褒めていた」
「そうですか。それならば話は早い。実は実篤を待たせております。藤原様も佐々木様もぜひ会ってください」
藤原忠綱と佐々木経久はお互いに顔を見合わせて頷いた。
晴幸は退室し、すぐに実篤を連れて戻った。「この者が唐橋実篤でございます。私とも、兄弟同然の親しい者です」
晴幸の後ろにいる実篤は、藤原忠綱と佐々木経久に深々と頭を下げた。
佐々木経久は大きく頷いた。「唐橋殿、元気そうじゃな。近江の佐々木じゃ、二年前にお互い会っておるが覚えておるか?」
実篤も佐々木経久は覚えていた。「はい、厳島神社でお顔を拝見させていただきました。佐々木様もご健勝で何よりです」
「いやいや、立派な武士となられたな。頼もしい限りだ」佐々木経久はそう言い、藤原忠綱へ振り向いた。「藤原様、この者ならば信用出来ますぞ」
藤原忠綱はあらためて目の前の若者を見つめた。鍛えられた身体は着物の上からもはっきりと分かる。真っ直ぐに藤原忠綱を見返すその目には一点の迷いもない。
「その様子では、安倍殿からすべて聞いておるようだな」
実篤は、はい、と一言だけ静かに答えた。
「唐橋殿は双子の子を守り、エルサレムへ向かう覚悟は出来ているのか?」
「エルサレムなる場所が何処にあるかは存じません。ですが、帝様のご所望賜れます品物を必ず持ち帰れるよう尽力いたします」
実篤の落ち着いた受け答えに藤原忠綱は好感を持った。それでも、本当にこの若者を同行させて良いかどうかはもう少し話をしなければ決められない。藤原忠綱は実篤とじっくりと話し合った。
数刻後、藤原忠綱は実篤の同行を認めた。その後、全員でエルサレムへ向かう段取りや装備の手配について話し合った。
「出航する港は、朝廷が南宋との交易の拠点としている博多とする。出航の時期は、秋の大雨が終わる三か月後の十月半ばが良かろう」
「南宋の交易商人の大型船に乗り、まずは南宋の臨安を目指す。その後に船を乗り換えてウンム・カスルに上陸する。上陸後は陸路を進みバグダッドを経由、エルサレムまで走破する」
「道中に要する資金は、朝廷が十分な量を銀貨で用意する。心配は不要だ」
「一行はわらびと茶々、唐橋実篤、近江守護の精鋭の武士五人とする」
これらの話し合いが終わったのは夕方だった。
晴幸は藤原忠綱と佐々木経久を宴に招いた。本来であれば、その宴は実篤の帰郷祝いだった。今となっては、わらびと茶々、実篤の旅立ちの宴となってしまった。
いずれ旅立つ時に皆に不審に思われないよう、わらびと茶々の大陸への旅立ちと実篤の同行を晴幸は皆に伝えた。急ではあるが、朝廷の支援によるわらびと茶々の陰陽師としての修業だと伝えた。もちろん、皆に伝えることは、藤原忠綱から事前に了承を得ていた。
当の本人であるわらびと茶々はまったく気にしていない。実篤と一緒に船に乗り、大陸へ行けると喜んでいる。晴幸は、わらびと茶々に旅の本当の目的はまだ話していなかった。二人には博多を出港する前夜に話そうと決めていた。
宴は終わり、藤原忠綱と佐々木経久は客間へそれぞれ戻った。その後、晴幸、唐橋実近、唐橋実篤の三人はあらためて盃を交わした。
「今般のこと、実近殿にはご迷惑をおかけしてしまった」
頭を下げる晴幸を唐橋実近は慌てて止めた。「何をおっしゃられます。我ら唐橋家は安倍家をお助けするのが務めです。それに、帝様のご命令とあれば我らは喜んでお受けいたします」
「そう言っていただけるのはありがたい。だが、唐橋家の跡継ぎである実篤に何かあれば、私は謝りようがない」
返答に戸惑う唐橋実近の替りに実篤が答えた。「ご心配は無用でございます。わらびと茶々はもちろん、私も必ず生きて太宰府へ戻ります」
自信たっぷりの実篤に晴幸は何かを感じた。「実篤、何かあったのか?」
実篤は少し困ったような顔をした。「いえ、実はわらびと茶々に異国の旅は心配ないかと先程尋ねたのです。すると、心配ないよ、自分たちも実篤も無事に日本へ帰れるよ、それに実篤は異国のきれいなお嫁さんを貰って帰るよ、と二人して言うのです」
唐橋実近は呆れ、憤慨した。「帝様のための大事な旅立ちを前に、何を不謹慎なことを言うか、この馬鹿者がっ!」
一方、晴幸は少し安堵した。わらびと茶々は決して嘘は言わない、それは父親である自分が一番良く知っている。
二カ月後の九月半ば、藤原忠綱と佐々木経久は再び太宰府を訪れた。佐々木経久は近江守護の武士五人を引き連れていた。
実篤は五人の顔ぶれを見ておやっと思った。身体を見れば鍛練に励んでいるのはすぐに分かる。それはいいが、五人とも実篤よりも随分と若い。どう見ても十六歳、十七歳にしか見えない。
「佐々木様、五人とも私よりもかなり若いようですが?」
佐々木経久は実篤を見つめて答えた。「まず言っておくが、一行の指揮は実篤殿にお願いする」
「私が、ですか?」
「そうだ、実篤殿には豊富な実戦経験があるからな。その上で、異国の地では予期せぬ苦労が数多くあるだろう。実篤殿も厳しい選択をせねばならぬ時もきっとくる。そのような時、実篤殿より年長の者がいてはさぞや辛いだろうと考えた」
佐々木経久の考えはもっともだ。武士は年長者を立てる。年下の者から命令されれば誰しも面白くはない。それに、佐々木経久の言う厳しい選択という意味を実篤は何度も経験している。
「分かりました。ですが五人とも、その、とてもにこやかです。エルサレムへ向かう旅の目的は知っているのでしょうか?」
実篤の言うとおり、若い五人に気負いはまったく見られない。不安もまったく感じられない。
「伝えるべきはすべて伝えている。どれ程に厳しく困難な旅となるかも伝えている。だから、どんな辛苦にも耐えられる芯の強い、気立ての良い若者を集めた。のんびりそうに見えるが、五人とも実篤殿に負けぬぐらい武術では腕が立つ。それに、五人には妻子はいない。異国の地で望郷の念から気の迷いが生じたりはしない」
実篤は、根拠もなく五人を不安に思った自分を恥じ、佐々木経久の思慮の深さに感謝した。
その日の夕方は皆で太宰府天満宮を訪れた。異国への旅の無事を皆で祈願した。夜には唐橋家で質素ながらも宴が催された。
そうした中、実篤は藤原忠綱の様子が気になっていた。宴の最中も箸を持ったまま何かしら考えている。安倍晴幸や佐々木経久が呼び掛けても、返事はするが妙に上の空だ。
その藤原忠綱が、宴の途中に実篤を外の廊下に呼び出した。
「お前に伝えたい話がある。ただし、他言無用に願いたい」小声で話す藤原忠綱の顔は真剣だ。
「承知いたしましたが、いったい何でございましょうか?」あまり楽しそうな話ではないようだな、実篤は藤原忠綱の言葉を待った。
「あれからエルサレムや翡翠の玉について調べた。堺にやって来る南宋や南蛮の者にもそれとなく聞き出した。その中で妙な噂を聞いた」
「妙な噂、いったい何ですか?」実篤は眉をひそめた。
藤原忠綱は背後を振り返り、誰もいないのを確かめてから答えた。「永遠の命を捜そうとする者の前には、魔物が現れて罰を下すというのだ」
実篤は拍子抜けした。南宋から先の船が見つからない、エルサレムなど何処にもないといったような話を予想していたからだ。
「魔物ですか、それはいったい何ですか?」
「本物の人間に化けており、見分けるのは容易ではないらしい。その魔物は猛り狂うと鋭い爪で人間を切り刻む、強い力で人間の身体を叩き潰す。この百二十年間、エルサレムへ永遠の命を捜しに向かったヨーロッパの兵士はことごとく全滅したらしい」藤原忠綱の表情は真剣そのものだ。
魔物が本当にいるとしても、実篤には一つの疑問が湧いた。「永遠の命を捜す者を、どうして魔物は襲うのでしょうか?」
「そこまでは私も分からん。だが、魔物も永遠の命に大きく係わっていると私は思っている。いずれにせよ、用心するに越したことはない」
宴の室内から二人を呼ぶ佐々木経久の声がしていた。
藤原忠綱は実篤の肩を二度、三度と優しく叩いた。「どうしても伝えなければと思っていた。重荷になるかもしれんが、教えた方が良いとな。お前たちの無事を心から望んでいる」
実篤は廊下から見える庭を見た。灯りに照らされた庭木が静かに息付いている。草の陰から鈴虫のりんりんという鳴き声がしている。安芸の山奥で山賊と戦っていた時にも鈴虫の鳴き声はよく耳にした。そう思うと、実篤は心が安らいだ。
「お気遣い感謝いたします。魔物がどんなものか分かりませんが気を付けます。それに」そう言って実篤は言葉を飲んだ。
藤原忠綱は首を傾げた。「どうした、実篤?」
心配している藤原忠綱に向かい、実篤はにやりと笑い返して言った。「それに、本当に恐ろしいのは生きている人間の業そのものです。違いますか?」
藤原忠綱は珍しくきょとんとした。やがて、してやられたというように苦笑いした。
「そうだな。今の言葉は私への忠告として胆に命じておこう」藤原忠綱はそう言い、実篤の背中を押して宴の席へ戻った。
翌日、藤原忠綱と佐々木経久は京へ戻っていった。大宰府に残った武士五人は、佐々木経久が言ったとおり礼儀正しく、根気強く、気立ての良い者ばかりだった。エルサレムへ向かう目的を明確に理解していた。五人とも、日本のため、帝様のため、必ず永遠の命を持ち帰ると心に決めていた。
これから出航までの一カ月間、実篤は近江守護の五人と寝食を共にすると決めていた。寝食まで共にしてこそお互いを知り、お互いを理解出来る。年齢が近いこともあり、実篤と五人はすぐに打ち解けた。目的地であるエルサレムについて、皆でよく話し合っていた。
「エルサレムはイスラム教の聖地でもあり、キリスト教の聖地でもある。そのため、二つの宗教はこの百二十年間戦い続けている。そこへ我らは入っていかねばならない」
実篤の説明に小太郎が手を挙げた。「聖地とは何でありますか?」
「彼らの宗教の礎となる、皆から慕われている聖人の生まれた尊い場所だ」藤原忠綱から教えられたとおりに実篤は答えた。
「その聖人のお方のお名前は何というのでしょうか?」今度は左衛門が手を挙げて質問した。
「イスラム教はムハンマド様、キリスト教はイエス・キリスト様だ」
首を傾けて何やら考えていた彦助が質問した。「そんな偉いお方がお二人も生まれた尊い場所で、イスラム教徒とキリスト教徒は本当に合戦をしているのでしょうか?聖人のお二人に失礼とは思わないのでしょうか?」
彦助の隣にいる菊千代もうんうんと頷いている。
実は、彦助と同じ疑問を実篤も思っていた。宗教が違うだけで殺し合いをするのが信じられなかった。日本にも多くの宗教はあるが、異なる宗教だからと否定したり、排除しようとはしない。むしろ、お互いの宗教を敬い合っている。
そんな実篤の疑問に藤原忠綱はかつてこう答えた。「日本では宗教が違うと言っても、多くは仏教の範疇にある。だが、イスラム教とキリスト教は成り立ちも違うし、信じる民族も異なる。これだけは覚えておけ、日本の常識は異国ではまったく通用しない」
実篤は彦助にも同じように答え、実篤自身の考えも話した。「とは言え、イスラム教を信じる連中も、キリスト教を信じる連中も、我らと同じ人間だ。お互いに礼節を尽くせばきっと理解し合える。そうすれば、我らの目的もきっと果たせる」
後ろにいる小栗が手を挙げた。「もしも理解し合えないとなれば、我らはどうするのですか?」
その時はどうするか、実篤はすでに決めている。「理解し合えないのであれば仕方ない、どのような手段を使ってでも我らの目的を果たすまでだ」
十月半ば、実篤らは前日から博多の町へ入った。翌朝早く、博多の鎮守である櫛田神社にお参りをした。櫛田神社近くにある船着き場から小舟に乗り、沖合で待つ南宋の大型船に乗り込んだ。
南宋の大型船は舳先に行くほど甲板が高く盛り上がり、四角形の帆が三つ並んでいる。真ん中の帆が飛び抜けて大きい。南宋の船はジャンク船と呼ばれていた。
実篤たちを乗せたジャンク船は、秋の青い空の下で博多をゆっくりと出港した。
安倍晴幸と実近、ヨシの三人は、動き出した南宋の大型船を静かに見送った。わらびと茶々の母親の来子は見送りに来なかった。子どもたちとの別れに耐えられないと家を出られなかった。
沖合で小さくなるジャンク船を見送りながら、安倍晴幸は昨晩を思い出していた。昨晩、晴幸は旅の目的をわらびと茶々に話した。帝様が必要とする大切な宝物を受け取りに行くのだよ、大切な宝物とは永遠の命だよ、そのためにお前たち二人の力が必要だ、その時になったらどうすれば良いかは実篤が教えてくれる。晴幸は二人にそのように説明した。
わらびと茶々は何の不安も感じていないようだった。きっと、十歳の子どもには難しい話だったのだろう。理解したとしても、待ち受ける苦難まではとても想像出来ないはずだ。安倍晴幸は子どもたちを不憫に思った。
もう会えないかもしれない。安倍晴幸はわらびと茶々を強く抱きしめた。涙を見せてはいけないと思っていたが、流れる涙を止められなかった。
博多を出港してから数日、わらびと茶々は両親が恋しくなるのではないか、と実篤は心配していた。けれども、心配は不要だった。二人は楽しく過ごしていた。見渡す限りの海が毎日続くだけだが、きっと二人には毎日が冒険なのだろうと実篤は理解していた。
ジャンク船は南宋の臨安に向けて順調に航行していた。博多を出港した時の海の色は深い藍色だった。南西へ進むにつれて海の色は明るい青緑色に変化した。透明度も高くなり、海中を泳ぐ鮮やかな大小の魚の群れが容易に見られた。
臨安に到着するまでの間、実篤はわらびと茶々を遊ばせておくつもりはなかった。南西へ向かうにつれて変化する星空を二人に観察させた。陰陽師の家に生まれた子として、星の動きを読み取るのは大切な勉強だ。やがて陰陽師となれば、そうした星の動きから天災や騒乱の発生を占う。
わらびと茶々は、船首の甲板に座って星の動きを観察した。その隣で、安倍晴幸に星の位置を教えてもらっていた頃を実篤は懐かしく思い出していた。近江守護の五人も夜空を眺めた。日本では見ない星々が夜空に輝いていた。
やがて、星の動きを観察していたわらびと茶々が騒ぎ始めた。夕暮れから南東の地平線近くに現れる赤い星がおかしいと言う。その赤い星は他の星と同じように夜空を動いていたかと思えば、数日の間は逆方向へ進み、その後はまた他の星と同じように動き出す。
帝様の身辺に不測の事態でも起きる前兆なのか、実篤はわらびと茶々に尋ねた。わらびも茶々も、帝様には何も起きないと答えた。それでは何の前兆なのかと実篤が尋ねても、わらびと茶々には答えられなかった。
それからは、実篤も赤い星の動きに注意し始めた。確かに、赤い星の動きは変だった。周りの星と同じように動くと思えば、異なる動きをする夜が続いた。いかにも不可解な動きだ。
ジャンク船の船長も、昼は太陽、夜は星々を見て船の位置を把握している。赤い星の動きについて何か知っているかも知れないと、実篤は日本語が話せる船員を通じて船長に尋ねてみた。
船長は頷いた。「赤い星のおかしな動きは、大きな戦いの前触れだと言われている」
それは何処の国での戦いだろうかと実篤は尋ねた。船長は首を横に振った。「そこまでは私には分からない」
ある夜、翡翠の玉を持ってみたいとわらびと茶々が実篤に頼んだ。大きな戦いについて、翡翠の玉で何か分かるかもしれないと二人は言った。
実篤は懐にしまっている翡翠の玉を取り出した。ジャンク船の船員が周りにいないのを確かめてから二人に持たせた。わらびと茶々はゆっくりと目を閉じた。二人が合わせた手の中で翡翠の玉が鈍い緑色の輝きを発した。輝きが周囲に漏れないように、近江守護の五人がわらびと茶々の周りを囲っている。輝く翡翠の玉を初めて見る五人はとても驚いている。
しばらくして、玉の緑色の輝きは消えていった。わらびと茶々は目を閉じたまま動かない。
「どうした、もう終わったのか?」実篤の声に二人は目を開けた。
「あの、」茶々が何か言おうとしているが声が震えている。
わらびが口を開いた。「大きな戦いが何処で起きるかは分からなかった、でも、どんな戦いかは分かったよ」
「それは、どんな戦いだ?」実篤は急いで尋ねた。
わらびは言葉を選ぶようにゆっくりと答えた。それは、十歳の男の子が使うような言葉ではなかった。「人と、人ではない者たちとの大きな戦いが始まるよ」
実篤は、藤原忠綱から聞いた魔物の話を思い出した。暖かい夜風の中にいながら、実篤は寒気を感じた。日本を離れてから初めて、言いようのない不安を覚えていた。




