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厄災のユーラシア  作者: もとふ みき
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第三章 一二一九年、秋 太宰府(其の三)

第三章 一二一九年、秋 太宰府(其の三)


 奥州の藤原氏を滅ぼした北条義時は、東日本を完全に支配した。後は朝廷を倒し、西日本を支配するだけとなった。その西日本には朝廷の支配がまだ及んでいる。西日本各地の守護武将も朝廷に忠誠を誓っている。

 鎌倉幕府が北条家の意のままであっても、幼い将軍の源頼家が北条義時の傀儡だとしても、その源頼家を征夷大将軍に任命したのは朝廷だ。北条義時が朝廷へ攻め入れば、それは朝廷と鎌倉幕府への謀反となる。北条義時に忠誠を誓う東日本の武将もそれは十分に理解している。北条義時より号令があったとしても、西日本へ軍勢を進ませる武将は誰もいない。

 北条義時は、朝廷へ攻め入る理由が欲しかった。誰から見ても正当だと思える大義名分が何としても欲しかった。

 北条義時の動きは、もちろん朝廷も把握している。遅くなったが、朝廷も北条義時の動きに対処し始めていた。まず、朝廷への忠誠心が特に強い尾張守護の小野家、近江守護の佐々木家、薩摩守護の島津家といった西日本の有力武将に対して、京の守りを万全に固めるよう指示した。

 尾張守護の小野家は、鎌倉から京へ通じているすべての街道の監視を強化した。近江守護の佐々木家は京周辺の警護を強化した。薩摩守護の島津家は二万人の武士を京へ派兵した。

 朝廷自らも動いていた。百済や南宋など大陸から最新の武具を導入し、それら武具の取り扱いを指導する大陸の武人を顧問として招き入れた。そうした顧問は二十人近くにまでなっている。

 この、大陸国家から支援を得ている事実を、北条義時は朝廷攻めの大義名分にしようとしているという情報が朝廷に入ってきた。

「朝廷には大陸の武人が多数出入りしている。帝も側近もすっかり彼らの言いなりだ。もはや朝廷は大陸国家の傀儡に成り下がっている。日本を守るためには朝廷を征伐するしかない」これが、北条義時の考えている大義名分だ。

 とは言え、東日本の多くの武将は朝廷への侵攻にまだ難色を示しているらしい。それでも、もしも何人かの有力武将が北条義時に賛同を示せば、瞬く間に他の武将も従いかねない。朝廷に残された時間は多くない。

 ある日、出雲の海岸に南蛮の大型船が打ち上げられた。地元の漁師が救助に向かったが、生存者はいなかった。船内に残された遺体の状況から、流行り病で全員死亡したと考えられた。流行り病の感染を恐れた漁師は、遺体をすぐに火葬してしまった。

 調査のために派遣された若い役人は、念のため積み荷を調べた。積み荷の多くは絨毯や絹の衣服、香辛料だった。不審な積み荷はなく、海賊に荒らされたり盗まれたりした形跡もなかった。

 この南蛮船には客室があった。客室では高貴な衣服の老人が亡くなっていたと漁師は証言した。客室に入った役人は、机の上に置かれた黒く重厚な金属の箱に興味を引かれた。それは両手の上に乗るくらいの大きさだ。

 箱は南蛮の鍵で施錠されていた。宝石か何かが入っているのだろうか、役人は鍵を壊して箱を開けた。箱の中には金箔が施された美しい巻物と、赤ん坊の拳ほどの大きさの緑色の玉が入っていた。緑色に濃淡はあるが、翡翠の玉だと分った。

 役人は巻物を丁寧に拡げた。文章は漢字だ、すると、老人は金王朝の使節だろうか。そう思いつつ巻物を読んだ役人は驚いた。何度も巻物を読み直した。

 役人は、さっそく報告書を朝廷へ送った。乗船者が流行り病で倒れた懸念はあるが、積み荷や漂着の状況から推察すると通常の海難事故と判断される。一方、客室にあった巻物と翡翠の玉には注目すべき点がある。そのように取り纏めた報告書と併せ、巻物と翡翠の玉を役人は送付した。

 当時、大陸に係わる事案は朝廷に報告するように義務付けられていた。朝廷でその報告書と翡翠の玉を受け取ったのは藤原忠綱だ。忠綱は大陸の時事情勢を帝に伝える役目を担っている。そのため、日本以外のあらゆる報告書は忠綱へ送られてくる。

 出雲から送られた報告書を読んだ忠綱は、同封されている巻物を手に取り拡げた。


“翡翠の玉を謹んで捧げる。

この玉を輝かせる異能の子は永遠の命を持ち帰る。

蛮族モンゴルは金王朝の皇帝の奇跡の前にひれ伏し、金王朝は復活する”

 

 読み終えた忠綱は困惑した。忠綱は、金王朝がモンゴルという遊牧民族に滅ぼされた事実を知っている。金王朝の皇帝は今も幽閉されていると南宋の交易商人から聞いている。

 客室で死んでいた老人は、この翡翠の玉を金王朝の皇帝に近い者へ届けようとしていたようだ。だが、異能の子とは何か?永遠の命を持ち帰るとは何だ?忠綱にはまったく理解出来ない。

 半月後、朝廷を訪れた百済の使節と忠綱が雑談をしていた時、使節は忠綱に奇妙な話をした。使節が南宋の臨安に立ち寄った際、青い目をした南蛮人が近寄ってきた。百済には翡翠の玉を輝かせる不思議な能力を持つ子どもがいないか、と尋ねてきた。

「翡翠の玉を輝かせられる子どもを連れてエルサレムへ行けば永遠の命を得られるぞ、南蛮人はそう言うのです。まったく、馬鹿げた話だ」

 そう笑い飛ばす使節に合わせて忠綱も笑顔を取り繕った。笑いながら、忠綱は恐ろしいくらい冷たい何かを感じた。

「南蛮人は我々に理解出来ない戯言を言いますからね。私も戸惑うことが何度もありましたよ。ところで、そのエルサレムというのはいったい何処にあるのですか?」忠綱はさりげなく尋ねた。

「エルサレムは大陸の遥か西方にあります。ムハンマドやキリストといった神様が生まれた聖地と聞いています」

「では、きっと楽園のような場所なのですね」

 百済の使節は顔をしかめた。「エルサレムはイスラム教とキリスト教の聖地です。我が手に独占しようと、イスラム教徒とキリスト教徒が百二十年近く戦っています。楽園などととんでもない、イスラム教徒とキリスト教徒が殺し合う地獄です」

 その後、忠綱は堺に出向いた。百済の使節の話の裏付けを取るためだ。港に停泊している百済や南宋の交易船の船長に忠綱は尋ねて歩いた。臨安で、翡翠の玉について南蛮人に話し掛けられた経験はないか、と。

 何人かの船長は覚えがあると返答した。輝く翡翠の玉を知らないか、いくらでも金は払うから捜してくれ。翡翠の玉を輝かせる子どもがいたら連れてきてくれ、金はいくらでも払う。ローマ教皇が支払ってくれる。南蛮人はそう言っていたという。

 忠綱は京へ戻った。出雲から送られてきた翡翠の玉を持ち、朝廷に仕える陰陽師の紀伊直道の屋敷へ向かった。 

 忠綱から話を聞いた紀伊直道は半信半疑という表情だった。ところが、忠綱から翡翠の玉を手渡されると、紀伊直道はその表情を強張らせた。

「いかがなされたか、紀伊殿?」

「この玉からは何かが感じられます」

「何かとは何だ?」

「分かりません。あえて言葉にすれば遠い記憶です」

「それでは何も分からぬ。もっと詳しく分からないか?」

 急かす忠綱に紀伊直道は首を横に振った。「分かりません、このような感覚は初めてです」

「それ以上は分からないか」忠綱は落胆した。京で一番の陰陽師でも分からないとはな。

「もしかしたら、あの方なら分かるかも」不意に紀伊直道が口を開いた。

 忠綱は俯いていた顔を上げた。「それは誰か?」

「占い師です。気まぐれ者ですがよく当たります。私も時々話を聞きに参ります」

 さっそく、紀伊直道の案内で忠綱は占い師の家へ向かった。けれども、紀伊直道は京の町中を歩き続けている。歩みをまったく止めない。とうとう京の町外れまで来てしまった。

 紀伊直道が立ち止ったのは廃屋のような粗末な藁葺小屋の前だ。「ここに住んでいる老婆です。朝廷の権威や金品にはまったく興味の無い変わり者です。ここは私が話します」

 藁葺小屋に入ると、土間の真ん中に老婆がぽつんと座っている。白い服はあちこちが綻び、襟元や袖口は泥や垢ですっかり汚れている。絡まった白髪が腰まで伸びており、まさに世捨て人のような風貌だ。それに、老婆は盲目のようだった。

「婆さん、直道だよ。今日はもう一人いる。すまないが、この玉を手に取って感じたままを教えてくれないだろうか」

 老婆は聞き覚えのある声に反応して、見えない目を上げて紀伊直道へ顔を向けた。紀伊直道は老婆の手を取り翡翠の玉を握らせた。すると、老婆はうううっと咽び、盲目の目から涙を一筋二筋と流し始めた。

 いったいどうした、と紀伊直道は老婆に声を掛けた。

「お前さんには分からんか、この玉には古の民の意志が込められている。わらわのような下賤な者には恐れ多過ぎるぞ」

「なぜ分かる?いや、そもそも意志とは何だ?」忠綱は思わず口を開いた。

 老婆は咽んでいた息を整えて忠綱に言った。「わらわは目が見えない分、見えない物が分かるのじゃ。意志とは何かと教えて欲しいのか。それはお前さんが懐に隠している巻物に書いてあろう」

 忠綱は息が止まりそうなくらいに驚いた。あの巻物を懐にしまっているのをどうして知っているのか?巻物を持ってきているとは紀伊直道にも話していない。

「婆さんは目が見えないのだろう。なぜ分かる?」忠綱が尋ねた。

「だから言ったはずじゃ、見えない物がわらわには分かるとな」老婆は忠綱を戒めた。「お前さんの考えが正しいかどうかは知らぬ。永遠の命など何の意味もなかろう。それでも、もしかしたらあのお方のためになるやもしれぬ」

 忠綱は驚愕するしかなかった。老婆の言葉を噛みしめるように忠綱は考えた。その横で、何の話なのかまったく分からない紀伊直道はただ困惑していた。

「分かった。婆さんに礼をしたい、いくら払えばいいだろうか?」忠綱は尋ねた。

 老婆はけけけっと笑い飛ばした。「金など要らぬわ。そうだな、朝廷のうまい饅頭を毎日一つ届けて欲しいぞ」

 まったく、何から何までお見通しなのか。忠綱は感心した。「分かったよ、毎日届けさせよう。婆さん、まだまだ長生きするのだぞ」忠綱は老婆の手から翡翠の玉を戻した。

 お前さんも達者でのう、そう言い返す老婆に忠綱は一礼し、紀伊直道と藁葺小屋を後にした。

 朝廷に戻った忠綱は、この話をどのように帝に伝えようかと悩んだ。有りのままに話せば世迷言だと一笑に付されるだけだ。

 翌朝、忠綱は佐々木経久に会うために近江へ向かった。佐々木経久に巻物と翡翠の玉の話をして相談に乗ってもらおうと考えていた。

 近江は京から近く、馬で走れば数刻で行ける。近江にある琵琶の湖畔には皇族の御所も数多く建てられている。過去には天智天皇や弘文天皇といった帝ご自身が近江に住まわれていた。

 また、近江は東日本から京へ通じる街道が通っており、重要な戦略拠点でもある。そうしたことから、昔から近江の武将は京を守る重要な守護の役割を担っていた。

 忠綱が会いに行った佐々木経久は、その近江守護の武将だ。代々の佐々木家の当主と同じく、佐々木経久の帝への忠誠心は揺るぎなく高い。帝も佐々木経久に全幅の信頼を寄せている。

 昼過ぎ、忠綱は佐々木経久の平城へ着いた。幸いにも佐々木経久は在宅していた。忠綱は客間へ通されて佐々木経久を待った。山水画の掛け軸が上座に飾られているが、壁や柱は削り出しの木目が目立つ簡素な部屋だ。

「藤原忠綱様ではないですか、お待たせして申し訳ございません」野太い声と共に佐々木経久が部屋へ入ってきた。

 佐々木経久はもう五十歳を超えて幾年も経つ。怒ると凄まじい形相になる顔にも年齢に見合った深い皺が刻まれている。一方、その身体は今でも筋肉で隆々としている。

 忠綱は、どちらかと言えば佐々木経久は苦手だ。相手が朝廷の役人であっても、佐々木経久はずけずけと率直に意見を述べるからだ。忠綱も、大陸と朝廷との交流について佐々木経久から何度も苦言を言い渡された。日本の兵力の備えが十分で無いまま大陸と交流するのは危険だ、貴公は日本を守るという観点を欠いている、などと何度も叱咤されてきた。

 忠綱とすれば面白くはない。とは言え、守護という佐々木経久の立場からすればもっともな意見だと忠綱も認めていた。

 日本をどのように守るのか、忠綱は佐々木経久に反論した。交易による交流を深めれば深める程にお互いの利害は一致する。そうなれば大陸も早々に日本を攻めはしない。佐々木経久は納得しないものの、最後には忠綱の意見も参考になると理解を示した。

 それ以来、苦手ではあるが、忠綱は佐々木経久と情報交換を欠かさないようにしている。鎌倉幕府や東日本の武将の動きについて、佐々木経久の情報は常に信頼出来るものだった。

 どっかりと座った佐々木経久に、忠綱はさっそく本題を切り出した。佐々木経久も世辞を交わして時間を無駄にする性格ではない。こういう所では二人は気が合っていた。

「こちらも突然に申し訳ない。本日は佐々木殿に相談があって参ったが、その前に鎌倉幕府の動きはどうなっているだろうか?」

 忠綱の相談が何かは分からないものの、鎌倉幕府の混乱が朝廷へ与える影響に係わる内容だと佐々木経久には察しが付いた。

「北条義時は奥州の藤原家討伐を終えたばかりです。しばらくは、討伐に参戦した武将たちへ恩賞を与えるために時間を費やさざるを得ないでしょう。東日本の武将も消耗した武士を休ませ、武具を修復する時間が必要です」佐々木経久は簡潔に情勢を伝えた。

「佐々木殿は、北条義時の朝廷への侵攻はどれくらい先と見るか?」

「奥州の平定を終えたとは言え、しばらくは中小規模の散発的な反乱は起きるでしょう。朝廷を攻めるにはそうした背後の憂いを絶ってからです。それに、東日本の武将は、朝廷へ反旗を翻すのに現在も躊躇しています。そう、少なくともあと三年、四年は掛かると考えます」

 三年、四年の先か、それならば間に合うか、忠綱はそう思った。

「さて、相談だが、佐々木殿は人智を超える能力を信じられるか?」

 佐々木経久は戸惑った。「これは藪から棒ですな。人智を超える能力などと藤原様らしくない。いったい何があったのですか?」

 佐々木経久の言葉に忠綱はふと我に返った。確かにそうだ、私はあるかどうかも分からぬ物に頼ろうとしている。だが、それは帝を救うため、日本を救うためだ。そこに私自身の迷いはない。

「いや、すまない。順を追って説明するが、これから話す内容は決して他言されないよう約束していただきたい」

 それから忠綱は話し始めた。出雲の浜に打ち上げられた南蛮船にあった巻物と翡翠の玉、百済や南宋の交易船の船長の話、老婆の話をした。

 聞き終えた佐々木経久は長い溜息を付き、静かに話し始めた。「武士は常に死に場所を求めています。華々しく戦い、散る。戦いに臨む時に生き残ろうなどと思いません。生き残ろうと考えれば存分に戦えません」

 忠綱は佐々木経久の話に耳を傾けていた。

「もし死なない武士が現れれば、戦いなど無意味です。帝様もまた然りです。限りあるお命をもって民の暮らし、世の平安のために尽力される。だからこそ、我らも全力で帝様をお守りします」

「では、佐々木殿は帝様に永遠の命など不要だと?」

「いえ、そうは申しておりません。北条義時はいずれ朝廷へ攻め込んで来る。帝様を討ち、自らを帝だと名乗るつもりです」

「だからなのだ。帝様が永遠の命を得れば、北条義時がいくら攻めてこようとも帝様は帝様で在り続けられる」

 佐々木経久は首を横に振った。「それは違います。永遠の命を得れば帝様ではなくなる。永遠の命を得れば、それは神様です」

 結局、佐々木経久は永遠の命について是非を答えなかった。しかし、本当に永遠の命があるのなら帝様に伝えるべきだと忠綱に進言した。永遠の命を帝様が望むのであれば、佐々木経久も帝様のお力になりましょう、と。

 別れ際、忠綱は佐々木経久に尋ねた。「私はどのように帝様へお話しすれば良いだろうか?」珍しく忠綱は戸惑っている。

 佐々木経久は即座に答えた。「ありのままをお話しください。それしかありません」

 京に戻り、忠綱は帝にありのままを話した。東日本の強大な兵力を率いる北条義時との戦いが避けられない今、何よりも帝様の身を案じております、と忠綱は帝に伝えた。

「帝様あっての朝廷、日本です。西日本の守護は最後の一人まで帝様をお守りします。その上で、帝様が永遠の命を得られれば、帝様は生き神となられます。その奇跡こそ北条義時の邪心を打ち砕き、謀反に加担する武将どもを改心させましょう」

 忠綱は、翡翠の玉を輝かせる子どもを捜すこと、その子どもと護衛の武士をエルサレムへ遣わすことを帝へ申し出た。

「永遠の命があるのなら、それは帝様にこそふさわしいと考えます。どうかお認めください」忠綱は頭を深々と下げて帝に懇願した。

 いずれ訪れるであろう北条義時との戦いを前に、日本の行く末を危惧していた帝は熟慮の末に忠綱の申し出を認めた。

 忠綱と佐々木経久は、大陸の遥か西方にあるエルサレムへの旅立ちの準備を進めた。同時に、不思議な能力を持つ子どもの情報を各地から集め、二人で翡翠の玉を持って訪ね歩いた。


 藤原忠綱の話を聞き終えた晴幸は、目を閉じたまま黙っていた。やがて目を開き、力なく藤原忠綱に尋ねた。「教えていただきたいのですが、我が子の他に玉を輝かせた子どもはいますか?」

「誰もいない。安倍殿の双子だけだ」

「では、あの子たちはエルサレムへ連れて行かれるのですか?」

 それまで黙っていた佐々木経久が答えた。「帝様のご意志なのだ。永遠の命を持ち帰られるのはあの子たちだけだ。心配は要らない。近江守護の武士がお供させていただく。再び日本へ帰るまで、あの子たちは必ずお守りする」

「あの、私と妻も一緒に行けますでしょうか?」晴幸は藤原忠綱と佐々木経久の顔を交互に見ながら哀願するように尋ねた。

 藤原忠綱は黙ったまま晴幸の顔をじっと見返している。佐々木経久が替わりに答えた。「それは出来ぬ。大勢となっては旅足が鈍る」

「では、私だけでも一緒に行かせてください」晴幸は必死だ。

「安倍殿、堪えていただきたい。お供するのは武士だけだ」

 晴幸は全身の血が抜けていくような寒気を覚えた。佐々木経久は信用している。それでも我が子を他人に預け、しかも遠く離れた異国の地へ向かわせるなど到底認められない。

「藤原様、親しい者だけには相談させてください。他言は一切しない信頼できる者です。返事は明日の朝までお待ちください」顔も上げず、俯いた晴幸が弱々しく言った。

「承知した」藤原忠綱の返答はそれだけだった。それ以外の言葉は思いつかなかった。

 藤原忠綱にも子どもが一人いる。同じ父親として、晴幸の悲しみ、辛さは十分に分かっている。藤原忠綱は先程会った双子の子どもたちの顔を思い出した。あの子たちにこれから訪れる苦難は想像も出来ない。

 その夜、藤原忠綱と佐々木経久は安倍家に泊まった。二人が眠りについた頃、晴幸は屋敷を出て闇夜の中を唐橋家へ急いだ。


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