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厄災のユーラシア  作者: もとふ みき
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第三章 一二一九年、秋 太宰府(其の一)

第三章 一二一九年、秋 太宰府(其の一)

 

 唐橋実篤は故郷の山々を思い出していた。半月前、太宰府の山々の紅葉はまばらだった。今頃は赤色や黄色にきれいに色付いているはずだ。さぞかし美しい眺めになっているだろう。

 暖かく湿った潮風が朝を迎えた船内を吹き抜けていく。切れ切れとなって流れる灰色の雨雲は、朝日を受けて鈍く輝いている。雨雲の間から青空が見え隠れしている。

 一晩中続いた暴風雨は通り過ぎた。もう駄目かと何度も観念した。市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命(いちぎしまひめのみこと、たごりひめのみこと、たぎつひめのみこと)と、厳島神社本殿の海の神様に祈り続けた。

 まだ波は高い。大きなうねりが船を持ち上げては突き落としている。舳先にぶつかる海水は荒々しい飛沫となり、甲板をひどく濡らし続けている。帆を降ろしたままの帆柱が右に左に前へ後ろへと大きな弧を描いている。

 あちこちで、船員が船体の損傷の有無を確かめている。どうやら船体の破損は無く、浸水も無いようだ。何よりも、帆柱が折れなかったのは幸いだ。

 さすがは海洋交易で発展した南宋の大型船だ。実篤はその船舶建造の技術の高さにあらためて感心した。同時に、日本ではこうした大型船を造る技術が失われて久しい事実を残念に思った。

 四百年前、大陸の唐と交易や人材の交流を行うため、日本でも遣唐船と呼ばれる大型船が何隻も造られていた。やがて、大陸では中央権力を打倒する内乱が相次いで勃発していた。朝廷は、日本から派遣している遣唐使がそうした内乱に感化されるのを恐れた。そのため、朝廷は大陸への渡航禁止令を出して遣唐船を廃止した。それ以降、日本で大型船は建造されていない。

 それでも、朝廷は大陸との交易は続けている。朝廷にとって、大陸との独占的な交易は莫大な利益をもたらすからだ。交易の拠点となっているのが、太宰府政庁の海の玄関口である博多だ。実篤も、博多の港から南宋の交易商人の大型船に乗り日本を離れていた。

 不思議なものだな、実篤はふと思った。実篤の遠い祖先となる菅原道真は平安時代の才人だった。その優れた才能を宇多天皇に重用され、菅原道真は右大臣にまで昇進した。

 菅原道真は、遣唐使の大使として博多から大陸へ渡航する予定だった。けれども、内乱が続く大陸の情勢を憂慮し、菅原道真は自らの派遣の中止を宇多天皇に進言した。その後、遣唐使そのものが廃止された。

 やがて、帝は後醍醐天皇へ替わった。その頃から、菅原道真は朝廷の権力争いに巻き込まれた。菅原道真は無実の罪を着せられ、日本の西の果ての太宰府へ左遷させられた。菅原道真は自らの悲運を嘆いた。

 ところが、菅原道真の左遷は太宰府の文化発展の好機となった。菅原道真も自らの非運を嘆くだけでなく、新たな地で勉学に懸命に勤しんだ。菅原道真の多彩な才能は太宰府でこそ開花した。太宰府は日本で有数の学術の地として発展していった。

 その菅原道真の子孫である自分は、かつて菅原道真を左遷へと追い込んだと言われる安倍晴明の子孫たちと大陸へ旅立っている。これを不思議と呼ばず何と呼べば良いのだろうか。

 

 実篤は、甲板から船倉にある自分たちの居場所に戻った。居場所といっても部屋など無い。交易品が満載された船倉の片隅に、せいぜい横になって休める程度の場所を与えられているだけだ。それでも贅沢は言えない。乗船出来ただけでも感謝しないといけない。

 大きな揺れに足を取られないように実篤はゆっくりと歩いた。まだ朝だというのに、船倉には早くも熱気が籠り始めている。一日一日と南方へ進んでいるのが実感として分かる。

 その居場所では近江守護の五人がすでに起床していた。床に座り、昨夜の嵐の話をしていた。その傍らでわらびと茶々はまだ眠っている。二人は寄り添うように仲良く眠っている。十歳の双子の二人の寝顔はあどけない。

 わらびと茶々の祖先こそ、京の優れた陰陽師として知られた安倍晴明だ。つまり、菅原道真を京から追い出した張本人となる。菅原道真にすれば、安倍晴明は憎んでも憎み切れない存在だった。

 実篤にとってわらびと茶々は憎しみの対象ではない。二人は家族同然の大切な存在だ。安倍晴明が何をしたのかは知らないが、この子たちとは何の関係もない。この子たちはもう少し寝させてあげよう。二人のあどけない寝顔を見ながら実篤は思った。

 大きな波頭を超えて船は激しく揺れた。南宋の臨安にはあと数日で到着する予定だ。


 この頃、日本は朝廷を中心とする公家社会から将軍を頂点とする武家社会へ移ろうとしていた。

 かつて、平清盛を中心とする平家は日本のあらゆる実権を握っていた。公家でありながら、強大な武力と莫大な富を背景に朝廷の権威を脅かしていた。平家の横暴極まりない振る舞いは行き過ぎた。平家は自らの一族だけに富を集中させ、贅沢の限りを尽くした。一方、平家の後ろ盾となり平家の繁栄を支えてきた全国の武将には、恩賞すら与えなくなった。主だった武将は平家への不平不満を募らせていた。

 これを機と見た朝廷は、平家討伐を鎌倉の源頼朝に命じた。源頼朝は東日本の有力武将と共に挙兵し、西日本へ出兵した。

 平家を味方する武将は僅かだった。平家は京を離れ、西へ西へと戦いながら逃げた。最後の合戦は瀬戸内海の壇ノ浦だった。源頼朝は壇ノ浦で平家を滅亡させた。これで朝廷の権威は復活すると誰もが信じていた。

 一一九二年、朝廷は源頼朝を征夷大将軍に任じた。征夷大将軍には日本各地の武将を統括し指揮する権限が与えられていた。源頼朝は全国の武将を指揮する幕府を鎌倉に設けた。

 七年後の一一九九年、源頼朝は突然に死去した。再び混乱が始まった。

 源頼朝の後継者は長男の源頼家となるはずだった。ところが、源頼家はまだ十八歳。しかも、その性格は争いをまったく好まなかった。刀や槍を手にして馬を駆るよりも、筆を手に持ち和歌を詠むのが好きだった。

 鎌倉幕府の有力武将は源頼家を跡継ぎにさせたくなかった。合戦の経験は無く、和歌を愛するだけの色白の若造など認めなかった。中でも、東日本に広大な領地を持つ北条時政は猛反対だった。

 しかし、北条時政は源頼家の情けない有様を憂いたから反対したのではなかった。北条時政は、源頼家を追放し、自分が鎌倉幕府を支配しようと密かに目論んでいた。

 一二〇三年、源頼家は原因不明の重病を患い、北条時政の手により伊豆の修禅寺に幽閉された。源頼家の弟である源実朝が将軍となった。この時、源実朝はわずか十二歳。北条時政は源実朝を補佐する執権の地位に就いた。

 一二〇四年、幽閉されていた源頼家は北条時政により毒殺された。翌年、北条時政は自らの執権に異議を唱える有力武将、畠山重忠を謀反の罪で殺害した。もちろん、畠山重忠は鎌倉幕府へ謀反など企ててはいなかった。北条時政の強権姿勢を批判していただけだった。

 これで北条時政は鎌倉幕府の実権を手中に納めたかに思われた。ところが、北条家の中で権力争いが始まった。妻の政子と息子の北条義時が反旗を翻し、北条時政は引退に追い込まれた。

 北条義時は父に代わり執権の地位に就いたが、父よりも権力欲があからさまだった。将軍である源頼家を将軍御所に閉じ込め、武将との合議制を無視し、重要な案件を独断で決め始めた。北条義時は鎌倉幕府を私物化していった。

 こうした鎌倉幕府の混乱を見かねた古参の武将は事態の改善に取り組み始めた。それは、鎌倉幕府から北条義時を排除するというものだ。その中心となったのが相模の和田義盛だった。和田義盛は奥州の藤原氏との戦いで数々の武功を挙げた実力者だった。

 和田義盛は強気だった。和田義盛の背後には、これ以上はない強力な後ろ盾がいたからだ。その後ろ盾とは朝廷だった。それに心強い味方もいた。和田義盛と親戚関係にある三浦政村だった。和田義盛と三浦政村は同じ相模で領地を分け合っていた。

 いよいよ鎌倉を攻めようとしていた矢先、和田義盛は三浦政村に討ち取られてしまう。和田義盛には、将軍である源頼家を討とうとしていたと謀反の罪が着せられていた。実際には、和田義盛が治める相模の領地を得ることを条件に、三浦政村が最初から北条義時と通じていた。すべては最初から仕組まれていた。

 この後、相模の和田家にも北条義時が率いる二千人の武士が攻め込んだ。和田家一族と使用人は皆殺しにされた。この時、和田家に滞在していた五人の朝廷の兵士も混乱の中で殺された。

 こうした北条義時の暴挙に朝廷は激怒した。朝廷の意向に沿う和田義盛と一族が殺され、朝廷の兵士までもが殺された。朝廷は北条義時に使者を送った。これまでの数々の非道を認めて速やかに朝廷へ謝罪せよ。朝廷に忠誠を誓い、今後は絶対服従せよ。

 朝廷の使者に対して北条義時は答えた。「和田義盛は将軍を殺害しようと企てた。これは鎌倉幕府への明確な謀反であり、和田義盛の処刑は当然である。その和田義盛の家中に朝廷の兵士がなぜいたのか、源実朝様は朝廷に深い疑義を抱かれている」

 それは朝廷の使者にとって予想もしていなかった返答だった。

「朝廷こそ源実朝様へ謝罪すべきである。謝罪が無ければ、鎌倉幕府は京へ出兵する考えもある。この言葉をそのまま帝様にお伝え願いたい」北条義時はそのように使者に伝えた。

 北条義時の返答に朝廷は大きな衝撃を受けた。これでは朝廷が和田義盛と手を組み、鎌倉幕府の転覆を企てたことになる。今や鎌倉幕府は北条義時の意のままにある。東日本の武将も、もはや北条義時の配下となっている。

 北条義時はいずれ京へ攻め込んで来る。対する朝廷には、鎌倉幕府の軍勢と戦えるだけの兵力は無い。北条義時に攻められれば朝廷は抵抗する間もなく負ける。それは、誰の目から見ても容易に理解出来た。


 同じ頃、平安時代から朝廷に仕える陰陽師の安倍家に双子が生まれた。父親は安部晴幸、母親は来子。双子は男の子と女の子だった。男の子はわらび、女の子は茶々と名付けられた。

 当時、男の子と女の子の双子はとても珍しかった。しかも、それが陰陽師の家での出来事だったので、京では大きな話題となった。これはきっと何かの兆しだろうと誰もが噂した。朝廷でも同じだった。何かの兆しだと大きな騒ぎとなった。果たして、吉兆なのか、凶兆なのか、と。

 朝廷が下した結論は凶兆だった。朝廷を脅かす北条義時の台頭を示す凶兆として、陰陽師の家に男の子と女の子の双子が生まれたと判断した。判断したが、朝廷は困惑した。双子の赤子の命を奪えばいよいよ災禍を招く恐れがある。京から遠く離れた場所へ移すにしても、東日本は論外だ。北条義時に双子の赤子を奪われて利用されかねない。そうなると、残るは朝廷の支配力がまだ残っている西日本しかない。

 平安時代より朝廷に仕えてきた安倍家は陰陽師の地位を剥奪された。安倍晴幸は西日本の果てにある太宰府に左遷された。せめてもの慈悲として、太宰府では天文方の務めが用意された。安倍晴幸は妻の来子、生まれたばかりの双子の赤子と逃げるように太宰府へ向かった。

 安倍晴幸は左遷を残念とは思わなかった。安倍晴幸は、若い頃から朝廷や公家社会の負の一面を嫌っていた。どろどろとした内輪の権力争いを疎ましく思い、距離を置いていた。そこへ今回の我が子に対する凶兆の騒動が持ち上がった。

 北条義時の台頭という脅威が事実としてある。その事実が目前にありながら目を逸らし、何の罪もない双子の赤子に責任を負わせる。そうした朝廷の役人や公家の態度に安倍晴幸はほとほと嫌気がさしていた。

 左遷だろうが構わない。これで、醜い権力争いが繰り広げられる京を離れられる。家族が無事で自分の好きな天文方の務めに専念出来る。安倍晴幸はそれだけで良かった。


 太宰府では、唐橋家が安倍晴幸と家族の身の周りの世話を任命された。唐橋家は、かつてこの太宰府に左遷させられた菅原道真の子孫だ。今では太宰府を守る守護の任を朝廷から賜っている。

 唐橋実近は、安倍晴幸が天文方の務めを支障なく始められるように太宰府内にある天文所を改築した。そればかりではない、安倍晴幸の家族のために新しい家を建てた。双子の赤子の世話のため、太宰府で最も評判の良い乳母を雇った。

 安倍晴幸が太宰府に到着した時、唐橋実近の息子である実篤は十三歳になったばかりだった。祖先の菅原道真を太宰府へ左遷させた安倍晴明の子孫が来ると聞き、少年の実篤は祖先の恨みを晴らそうと復讐を考えていた。

 それなのに、父の実近は安倍家が太宰府で不自由なく暮らせるようにと奔走している。いくら朝廷の命令とはいえ、父親の行動は実篤には理解出来なかった。祖先をないがしろにした安倍家にどうしてこれ程までに献身的に尽くすのか?実篤は、ある日とうとう我慢が出来ずに父親の実近に疑問と怒りをぶつけた。

「父上、安倍家は我が唐橋家の仇敵です。その安倍家の者たちにどうしてあれ程の世話を施すのですか?私には納得がいきません」実篤は怒りに打ち震えながら強い口調で父親を問い詰めた。

 平手の一つでも飛んでくると覚悟していた実篤だったが、顔色一つ変えずに自分の不満をじっと聞いている父親に驚いた。

「わしも、安倍家が太宰府に来ると聞いて猛り立った。どう懲らしめてやろうかと考えていた」実近は静かに話し始めた。

「しかしな、今の安倍家はご先祖の菅原道真様と同じだと気付いた。朝廷の役人や公家の気まぐれに人生を狂わされ、着のみ着のまま同然でこの地に逃げて来られる」

 普段は剛毅な父親が、このように切々と話すのを実篤は初めて見た。

「唐橋家が太宰府で頑張って来られたのは誰のおかげか。この太宰府の人々のおかげだ。それを忘れてはならん。今度は、唐橋家が安倍家のために尽くす。いいか、安倍家の繁栄は太宰府の繁栄でもある。それこそ、唐橋家が太宰府の人々に恩返しする好機だぞ」

 実篤は胸の中の憎しみがゆっくりと消えていくのを感じた。

「昨日今日の禍根であれば恨みを晴らす道理もあろう。だがな、真実も分からない遠い昔の禍根を晴らそうなど愚の他の何物でもない。そのような愚に捕らわれてどうする。ご祖先様が喜ぶとでも思っているのか」

 父親の戒めに実篤は自分の心の狭さを恥じた。それからというもの、実篤は進んで安倍家の奉公に努めるようになった。

 安倍晴幸も、菅原道真が太宰府に左遷された顛末は知っていた。それでも、そのような気配はまったく感じさせず、実篤を弟のように可愛がった。晴幸は自分の知る知識を実篤に教えた。風水、暦、占星を教えた。もともと利発な実篤は、晴幸の教えをどんどん習得していった。

 双子のわらびと茶々もすくすくと元気に育った。二人の遊び相手はいつも実篤だった。実篤はわらびと茶々を連れて近くの野山で毎日遊んだ。

 母親である来子は、子どもたちが怪我でもしないかといつも心配していた。晴幸は自分の子どもの頃を思い出して来子に言った。

「子どもはいろいろな体験を通して学び、成長する。私は陰陽師の家に生まれて何不自由なく育った。けれども、今のわらびと茶々のような自由はなかった。私はあの子たちが羨ましい」

 来子は、せめて茶々にだけは京の女性としての礼儀作法を身に付けさせたいと考えていた。それは幼い頃の来子が辿って来た道だった。

 晴幸は静かに来子を諭した。「私たちが京へ戻ることはない。朝廷の庇護はもう望めない。それはお前には悲しいだろう。しかし、伸び伸びと育つ茶々を見ていると、私は太宰府へ来て良かったと思っている」

 来子には自分自身の悩みもあった。来子は京の生活を忘れられなかった。それは贅沢な暮らしという意味ではない。もとより、太宰府では贅沢な暮らしなど望めない。

 来子が忘れられなかったのは公家の文化だった。しだいに来子は口数が少なくなり、体調を崩す日が多くなっていった。そうした来子を心配して、晴幸は実近に相談した。

「分かりました。来子様のお得意なもの、お好きなものは何でしょうか?」実近は尋ねた。

 晴幸は、来子は和歌や漢詩が大好きだと伝えた。

実近はすぐに手を打った。「忘れられないのなら、無理に忘れる必要はありません」

 その後、太宰府の知識人が集まる歌会に来子は師として招かれた。京の公家の文化に触れる機会に太宰府の知識人は喝采した。来子を京から訪れた師として敬い、来子の教えを熱心に聞いた。

 何度か歌会に招かれていると、来子は口数も戻り体調も良くなった。京を恋しがり泣き続ける夜もなくなった。

 

 十七歳となった実篤は、唐橋家と懇意にしている安芸の佐伯家へ旅立った。それは父親である実近の指示だった。

 六百年に渡り安芸の厳島神社を護る佐伯家は、西日本の神主の名家として広く知られていた。現在の当主である佐伯景弘は優れた武将としても知られていた。実近は、その佐伯家に息子の実篤を仕えさせ、やがては唐橋家を継ぐにふさわしい武士へ成長させたいと考えていた。

「己は未熟であると己が知れ。佐伯景弘様のお認めがあるまでは太宰府へ帰って来るな」太宰府を旅立つ朝、実近は実篤にそう命じた。

 安倍晴幸は家族を連れて旅立つ実篤を見送った。実篤を兄のように慕っていたわらびと茶々は、別れが辛くてずっと泣いていた。

「わらび、茶々、そう泣くな。私は必ず帰ってくる。強くなって帰ってくる。私はお前たちをこれからも守る」実篤はわらびと茶々に優しく言った。

「本当に帰って来るの?」「必ずだよ、約束してね」わらびと茶々はやっと泣くのを止めた。

 佐伯家の使者の案内により、実篤は安芸へ向かった。佐伯家の本城がある安芸までは半月程で到着した。安芸の山中に建てられた本城は、実篤が初めて見る大きな平城だ。城主の佐伯景弘の風貌は、神主というより武将だ。堂々たるその風格に若い実篤は圧倒された。

 実篤は、太宰府では並ぶ者がいないと言われるほど剣術に優れていた。だから、佐伯家では早々に修業を終えられると考えていた。実篤の考えは甘かった。

 到着早々、実篤は佐伯家の武士と木刀による手合せをした。実篤の立ち回りは規範に沿い美しいが、所詮は形を真似ただけ。なぜその立ち回りの形なのかを理解していなかった。実篤の剣術は実戦を重ねてきた佐伯家の武士の前ではまったく通用しなかった。父親の言うとおり、己は未熟者であると実篤は思い知った。

 実篤は毎日道場に通った。道場の稽古は厳しく、実篤の身体には数え切れない傷や痣ができた。それでも、もともと素質のある実篤は剣術の腕をしだいに上達させた。半年もすると、佐伯家の武士と互角に手合わせ出来るまでになっていた。

 それから二年、実篤は剣術に槍術、弓術、馬術といった武術全般を会得していった。実戦における心構えや戦術も熱心に教わった。

 当時、佐伯家の武士は日々戦っていた。領内に出没して村々を襲う山賊との戦いだった。山賊の多くは、滅亡した平家に仕えていた武士の成れの果てだ。壇ノ浦の合戦で生き残った平家の武士は安芸や芸備の山中に集団で身を潜め、各地の村々を襲っては逃げていた。

 山賊退治は終わりのない戦いでもあった。追い詰めたかと思えば安芸から芸備へ逃げ、いつの間にかまた戻ってくる。それに、山賊と言っても元は平家の優秀な武士だ。神出鬼没な上に集団での巧妙な戦い方を心得ていた。一人一人の武術も秀でており手強かった。

 武術全般を会得した実篤は山賊退治に志願した。実篤は覚えた武術を試したかった。実戦でどれ程に通用するのか知りたかった。実戦の中で、さらに武術に磨きをかけてみたかった。

 実篤は常に先陣を切って山賊に斬り込んだ。若さに任せた無謀でもあった。一年半の間、実篤は山賊を追い続けた。厳冬の比婆の山奥で六日間に渡る激闘の末、遂に山賊をすべて退治した。

 佐伯景弘は実篤の勇気と献身、山賊退治の功績を称えた。その上で、佐伯家に仕える武将に準ずる地位を実篤に与えた。

 一二一九年の六月、実篤が太宰府を発ってから五年の月日が経過していた。

「佐伯家ではお前に教える事はもう何もない、お前はすべてを会得した」佐伯景弘はそう言って実篤に太宰府への里帰りを認めた。

 梅雨がまだ明けきらない七月の初めに実篤は太宰府へ帰った。実篤は見違えるように強くなっていた。強くなっただけではない、武士としての礼儀、作法、心得を身に付けて心身ともに逞しくなっていた。

 息子の立派な姿に実近は胸が熱くなった。母親のヨシは実篤の無事な姿に涙を流した。

「太宰府の皆も変わらず息災ですか、父上」久し振りに実家で寛ぐ実篤は父親に尋ねた。

実近は、その言い方に含みがあると気付いた。「うむ。だが、安芸の領内にいたお前にも太宰府の噂は伝わっていたであろう」

「はい、不思議な力を持つ双子が太宰府にいる、と。やはり、わらびと茶々ですか?」

「そうだ、お前が安芸に旅立ってからしばらく、あの子らの不思議な力が明らかになった」そう言って実近は話し始めた。


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