第二章 一二一九年、秋 サフリム(其の四)
第二章 一二一九年、秋 サフリム(其の四)
「どけ、伝令だっ。キタイ隊長は何処かっ?」
真夜中の静寂を突き破り、宿営地に一頭の早馬がけたたましく入った。座ったり横になったりして休んでいた騎馬兵はいっせいに立ち上がった。キタイはすぐさま天幕から飛び出してきた。
伝令の乗った早馬は大きな焚火がある宿営地の中心で止まった。
駆け付けたゲンツェイは驚いた。馬上の伝令の背中にハクレアがしがみ付いている。しかも、ハクレアはひどく取り乱している。
駆け寄った二人の騎馬兵がハクレアを馬からゆっくりと降ろした。伝令も馬から飛び降りた。
「いったいどうした?」駆け寄ったキタイが叫んだ。
「村が襲われています。火の手があちこちで上がっています。近くまで行って様子を見ていたら、村から逃げて来たハクレアと出会いました」
「なぜ村が、ホラズムの敗残兵が襲っているのか?」
「不明です。ですが、村は襲われています。遠くからですが、村の通りに多くの人が倒れているのを私は見ました。ハクレアは村人同士が殺し合っていると言っています」
伝令はキタイやカウナ、周りの騎馬兵を見渡しながら答えた。
地面に座り込み泣きじゃくるハクレアにゲンツェイは駆け寄り、正面に屈みこんだ。「ハクレア、大丈夫か。何があった?」
焚火の炎に照らされた目の前の騎馬兵がゲンツェイだと分かり、ハクレアはわっと声を上げてゲンツェイに抱きついた。
「村の人たちが殺し合っているの。お願い、止めて」ハクレアは泣きじゃくりながら言った。
キタイもハクレアの前に屈みこんだ。ゲンツェイの肩に置かれたハクレアの震える手を取り、キタイはゆっくりと話し掛けた。
「ハクレア、村人は我々が助ける。今は正確な情報が必要だ、何が起きている?」
キタイの落ち着いた声を聞いてハクレアは泣きじゃくるのを止めた。キタイの大きな手に包まれ、ハクレアの手の震えは収まっていった。
ハクレアは説明した。湖の岸辺で会ったパールの様子がおかしかった、パールから今夜は外に出るなと言われたけど、パールが心配で村に行った、と。
「村に近付くといくつもの悲鳴が聞こえたの。剣を持った男の人が女の人を何度も刺しているのが見えた。道には血だらけの村人が何人も倒れていた。私、怖くなって、逃げるしかなかった」
「ハシム殿はそこにいたか?」キタイは尋ねた。
「見えなかった、お願い、パールが心配なの」ハクレアはまた泣きじゃくり始めた。
キタイは考えた。ハシムとパールは無事なのか。彼らを助けに行くべきか。しかし、始祖の玉が宿営地にある以上、ここを守る騎馬兵を減らす訳にはいかない。もしかしたら始祖の玉を奪うために先に村を襲い、宿営地を守る騎馬兵を減らそうという陽動かもしれない。
そうだとすれば、やはり今すぐに確かめておかなければならない。
キタイは立ち上がりクォルカに叫んだ。「木箱の中を確かめたい。懐から出してくれ」
クォルカは耳を疑った。この緊急時に何を言うのか。
「木箱は開けるなと厳命されています。そんな、あっ、何をするっ」話し続けるクォルカの背後に素早く回り込み、キタイは自分の剣をクォルカの喉元に突きつけた。
カウナやゲンツェイは驚いた。クォルカと同じ別働隊の騎馬兵は剣を抜こうと柄に手を掛けた。
「止めろ、クォルカの命が無いぞ」キタイは怒鳴った。
キタイはクォルカに再び叫んだ。「今は一刻を争う。木箱の入った皮袋を出せ」
クォルカは返事をしない。従わないクォルカの喉元に当てた剣をキタイは僅かに動かした。クォルカは呻いた。喉元に血が滲み始めた。
「早くしろっ!」キタイが怒鳴った。
観念したクォルカは懐から黒い革袋を出し、皮袋から小さな木箱を取り出した。木箱の蓋は漆喰で打ち付け固められている。
「ゲンツェイ、木箱を壊せ。早くしろ」
キタイの気迫に圧倒されてゲンツェイは木箱を受け取った。ゲンツェイは自分の短剣で漆喰を剥がし、木箱を短剣の柄で叩いた。木箱の蓋が開いて何かが転がり出た。
ゲンツェイはそれを拾い上げた。小さな巻物だ。木箱の中には他に何も入っていない。
「何が書いてある、読んでみろ」キタイはゲンツェイに命じた。
ゲンツェイは巻物を拡げて焚火の明かりが当たるように掲げた。「我が息子グユクに告ぐ。制圧したホラズム全土はお前の領土として譲ろう。このこと一刻でも早く知らせたく、」
「もういいっ!」キタイは怒鳴った。
ゲンツェイは驚いて読むのを止めた。カウナは呆気に取られていた。それは喉元に剣を突き付けられているクォルカも同じだ。何がどうなっているのか、周りの誰にも分からない。
キタイは懸命に考えていた。くそっ、これは大ハーンの手紙だ。それも、息子に宛てた他愛の無い知らせだ。ハシムは何と言っていた?戦利品が運ばれる、始祖の玉は村へ運ばれる、ハシムはそう言っていた。
キタイはそこではっと大きく息を飲んだ。そうか、始祖の玉は交易商人の積荷の中だ。キタイはクォルカの喉元から剣を離した。
「クォルカ、この無礼を詫びても貴様は収まらないだろう。だが、今は力を貸して欲しい。交易商人の積荷の中に玉がある、不思議な力をもたらす玉だ。それが村に災いをもたらしている」
クォルカは喉元の傷に滲み出た血を手で拭い、狂人を見るような目でキタイを見ている。「玉ですと?いったい何の戯言でしょうか」
「説明している暇はない。私は大ハーンの勅命でその玉を捜している。何としてもその玉を入手せねばならない」
大ハーンの勅命と聞いて、クォルカは思わず姿勢を正した。「でも、どうして交易商人が?連中とはずっと一緒だったのに」
「それは知らん。しかし、その玉がサフリムに持ち込まれると村のシャーマンが予知していた。村に災いがもたらされるとも言った。お前たちは誰も玉を運んでいない。だとすれば、玉を持っているのはあの三人しかいない」
キタイは唖然としている周りの騎馬兵に手短に説明した。先程までの荒々しさは消え、キタイはいつもの冷静な表情に戻っている。
その様子を見てクォルカは心を決めた。昂る怒りを抑えて気持ちを切り替えた。状況は不明だが、ここはキタイの指示に従おう。
「先程の行いはキタイ隊長でも許し難い。ですが、今は一刻を争うようです。説明は後でゆっくりとしていただきましょう」
「すまない」キタイはクォルカに詫びた。
キタイはカウナへ振り向いた。「宿営地には二十人を残せ、お前は私と一緒に村へ向かう」
カウナは頷き、素早く二十人を選抜して宿営地で待機せよと告げた。
キタイはすでに馬小屋へ走っていた。カウナたち宿営地の騎馬兵、クォルカたち別働隊、合わせて四十人がキタイの後に続いた。
ゲンツェイはハクレアの両肩に優しく両手を掛けた。「ここにいろ、動いちゃ駄目だぞ」そう言ってゲンツェイはすっと立ち上がった。
ハクレアは両手を上げてゲンツェイの左手を握って引き留めた。「ゲンツェイ、聞いて。私、パールを以前から知っていたの」
「えっ、何だって?」ゲンツェイはハクレアの手の力の強さに驚いた。
「ずっと誰かが私の心に呼び掛けていた。パールに出会って、呼び掛けていたのはパールだと分かった。パールも、私と出会う前から私を知っていた。私はパールと繋がっているの」
そう言われてもゲンツェイにはさっぱり分からない。早く行かなければ出遅れる。ゲンツェイは少し焦っていた。
「よく分からないけど、パールは助ける。だからハクレアはここで待っていてくれ」ゲンツェイはハクレアの両手に自分の右手を重ねた。
「うん、パールを助けて」ハクレアが涙目で言った。
ゲンツェイは馬小屋へ走った。今夜は警戒態勢が取られているため、すべての馬に鞍が取り付けてある。ゲンツェイは手近な馬に素早く跨り、掛け声と共に村へ向かった。
村へ続く草原の道は満月の光に照らし出されていて容易に分かった。やがて村が見えてきた。村の家々から紅蓮の炎が立ち昇っているのが見えてきた。
村の家々は激しく燃えている。キタイたちが乗ってきた馬は一歩も村の中へ入ろうとしない。戦場を駆け巡り、爆発音や炎、悲鳴や怒号に慣れているはずの馬がすっかり怯え切っている。仕方なく、キタイたちは馬を降りて村の中へ突入した。
村に入ったキタイたちが目にしたのは戦場だった。いくつもの家々が大きな炎に包まれている。夜空に黒い煙がもうもうと立ち昇っている。その炎の明かりで、通り道に二十人くらいの村人が倒れているのが見える。何人かは呻きながら傷口を押さえているが、多くは動いてもいない。
キタイは後ろを振り返った。カウナを先頭にして、宿営地から一緒に駆け付けた騎馬兵全員がキタイの指示を待っている。
「三人一組になり散開しろ、アラビア語を話せる者を必ず一人は入れろ。抵抗する者は斬れ、助けを求める者はその場に座らせて動くなと言え。いいか、同士討ちに気を付けろ」
カウナたちはキタイの命令を理解した。夜の戦いでは、出会い頭に会う相手が敵か味方か瞬時に判断出来ない。だから、今夜は相手が三人一組であれば味方、それ以外は敵だと判断する。一方、困るのは村人だ。村人にうろちょろと歩かれると戦えない。だから、出会った村人はその場に即座に座らせておく。
村の広場からは女の悲鳴や男の怒号が絶え間なく聞こえている。人間とは思えない怒号にゲンツェイはこれまでにない恐怖を覚えた。
「ゲンツェイは私と来い、そこのお前もだ」キタイは傍にいたゲンツェイと後ろの若い騎馬兵に命令した。若い騎馬兵は、クォルカと共に到着した別働隊の一人だ。
「貴様、名前は何という?」キタイは若い騎馬兵に尋ねた。
「イギトです」若い騎馬兵は緊張したように答えた。
「よし、ゲンツェイとイギトは私の後ろに付け。背後からの敵に気を付けろ」そう言ってキタイはハシムの家へ走り始めた。ゲンツェイとイギトも続いて走った。血だらけの男女が数多く倒れている。ホラズム軍の敗残兵の姿は何処にも見えない。
キタイたちはハシムの家の前に着いた。家に火は放たれてはいない。キタイは構わず扉を蹴って中に入った。ハシムの名前を叫んだが、ハシムも孫娘もいない。
その時、悲鳴と怒号に混じってキタイを呼ぶ声が聞こえた。村の中心にある広場からだ。すぐさまキタイたちは広場へ向かった。すでに十二人の騎馬兵が集まっている。カウナもやって来た。抵抗する者を排除した騎馬兵が次々に集まってきた。
カウナは叫んだ。「この光の膜は、いったい何だ?」
広場にある二階建ての物見やぐらが緑色に輝く光の膜ですっぽりと覆われている。物見やぐらの中からは、女や子どもの助けを求める声や泣き叫ぶ声が聞こえている。
「これが始祖の玉の力ですか?」キタイに気付いたカウナが叫んだ。遅れて来たクォルカも、緑色に輝く膜に驚いている。
「私には分からん、だが、今は敵を倒すのが先だ」キタイが叫び返した。
「ですが、ホラズム軍の敗残兵は見当たりません」「襲ってくるのは村人ばかりです」集まった騎馬兵が口々に報告した。
ふと、キタイは嫌な気配を感じた。物見やぐらを覆う緑色の光の膜の外側に、剣を持った四人の男女が立っている。四人は物見やぐらの入口をじっと見ている。目を凝らして見ると四人の全身は返り血に染まっている。
キタイたちに気付いたのか、四人は振り向いた。周囲で燃える炎に照らし出された男二人と女一人は、キタイにも見覚えのある村人だ。三人の顔はみるみると歪み、奇声を発しながら剣を振り上げて斬り込んできた。即座にキタイたちは三人を斬り捨てた。
あと一人残っている。残った一人はキタイたちをじっと見つめ、その場を動こうとはしない。服は大きく破れ、浅黒い身体が露出している。顔がはっきりと見えない。
一瞬、近くの家の炎が大きくなり、その男の全身を炎の明かりがはっきりと照らした。その姿を見たキタイたちは愕然とした。
人間とは思えない。棒のような細い身体から長い手足が枯れ枝のように飛び出ている。顔は瓜のように細長い。縮れた髪の毛は逆立ち、白目の無い小さな目は消し炭のように黒い。大きく裂けた口からは牙のように鋭い歯が剥き出しになっている。
村の各所を制圧し終えた騎馬兵が次々に広場へ集まってきていた。どの騎馬兵も、その男の異様な容姿に気付き、ゆっくりと男を取り囲んだ。
一人の騎馬兵が男に斬り掛かった。男の身のこなしは素早かった。騎馬兵の剣を躱すと同時に自分の剣をその騎馬兵の腹に深々と突き刺した。騎馬兵は口から血の泡を吐きながら倒れた。周りの騎馬兵はすかさず後退して男との距離を取った。
何人かの騎馬兵が物見やぐらを覆う緑色の膜を破ろうと剣を突き刺していた。何度刺しても剣は膜に跳ね返される。体当たりしても身体が膜に弾き返された。
騒乱の中、キタイはハシムの声を聞いたような気がした。
「ハシム殿は中におられるか?キタイだ。」キタイは物見やぐらへ向かって叫んだ。
ハシムの声が返ってきた。「ここにおる、生き残った者は皆ここに逃げ込んでおる」キタイの声に驚いてはいるが、ハシムの声は元気そうだ。
「無事で何より。シャーマンのお嬢さんも一緒なのか?」
少し間が空いた。「一緒におる、無事だ」
ハシムの声は落ち着いている。キタイはひとまず安堵した。「状況を教えろ。この緑色に光る膜は何だ?それに化け物みたいな奴がいるぞ」
「そこにいる悪魔が入って来られないよう、パールが結界を張っておる。交易商人の一人が悪魔だった」ハシムが大声で答えた。
悪魔だと?結界だと?まったく、古の一族の村とは物騒な所だな。キタイは背中に戦慄を感じながら不敵にもにやりと笑った。
物見やぐらの中では村人が身を寄せ合うように座り込み、手を握り合って怯えていた。ハシムとパールは閉じた入口の扉の内側に立っている。
ハシムはパールを見つめた。パールは微動だもせずに背筋を伸ばして立ち、禁忌の玉を持った右手を高々と掲げている。禁忌の玉から淡い緑色の光が放射状に拡がり、それが膜となって物見やぐらを覆っている。
パールの姿を村人は驚愕の眼差しで見ている。
ハシムには分かっている。村人は悪魔が引き起こした惨状に怯えているだけではない。自分たちを守っているパールの超常の能力にも怯えている。ハシム自身も驚いていた。パールにこれ程の能力があるとは思っていなかった。
夕方、交易商人との食事を終えて家に戻ると、パールは禁忌の玉の言い伝えをもう一度教えて欲しいと言ってきた。その様子は尋常ではなかった。対話で観た災いに係わるのかとハシムは尋ねた。パールはハシムに頷いた。パールは皮袋から禁忌の玉を取り出して見せた。祠から離れているのに、禁忌の玉は微かに輝いている。
「憎しみと絶望に彷徨う者が来ます。その者が求めれば、私は永遠の安らぎを与えなければなりません。もう時間がない、だから、教えて」
パールは祠で観た像をハシムに伝えた。ハシムは驚愕した。やはり、あの言い伝えが現実となるのか。ハシムは先代の長から聞いていた禁忌の玉の秘密をあらためて教えた。
「だがな、お前に出来るのか?」
「分からない、でも、やってみる」
その時、ハシムとパールは空気の歪みを感じた。とても嫌な気が村に満ちたように感じた。いくつもの悲鳴が聞こえてきた。
ハシムとパールは外に飛び出し、広場へ向かった。交易商人の二人が剣を持ってうろついている。その顔は醜く歪み奇声を発している。二人は逃げ回る村人を次々に斬り倒している。
広場の向こうでは家が燃えている。そこは交易商人が泊まるはずの家だ。燃える家の前にはもう一人の交易商人が立っている。全身の衣服は大きく裂け、赤い血で染まっている。顔は大きく歪んでいる。口元からは鋭い牙が剥き出しになっている。
ああ、悪魔だ、言い伝えの悪魔に違いない。ハシムはすぐにそう思った。
剣を振り回す二人から大勢の村人が逃げてくる。二人だけではない、村人の中にも剣を振り回している者もいる。逃げ惑う村人に押されるようにして、ハシムとパールは物見やぐらへ一緒に逃げ込んだ。ハシムは急いで入口の扉を閉めた。外から破られないように添え木をしっかりと当てた。当てたが、この程度の添え木ではいずれ扉は破られてしまう。
扉の外から何人もの奇声が聞こえ、複数の剣が扉を突き始めた。どうすれば良いか、ハシムが考えていると後ろから緑色の輝きが拡がってきた。
ハシムが振り返ると、パールが禁忌の玉を右手に持ち、高々と掲げている。禁忌の玉の輝きは眩しさを増し、やがて放射状に拡がり始めた。
「ハシム、頭の中に禁忌の玉の使い方が流れ込んでくるの!」
放射状の拡がった輝きは膜となり、あっという間に物見やぐらを覆った。
「では、悪魔は緑色の輝きが苦手なのか?」キタイが叫んだ。
「そうだ、この光の膜がある限り近付けない。すまないが、キタイ殿を中へ入れるのも出来ない」ハシムが叫び返した。
「それで、始祖の玉はあったのか?」
「始祖の玉は悪魔の身体の中にある」
「何だって?それじゃあ、あの悪魔が永遠に生きる者か?」
「そうだ!」
「交易商人は三人いたはずだが?」
「二人は悪魔の手先となり村人を殺し、村人に殺された」
キタイは戸惑った。手先になるとはどういう意味だ?「ここに村人が三人いたが、私たちに斬り掛かってきたぞ」
「心の中に悪魔が入り込み、手先に成り下がった者たちだ。油断されるなよ」
近くにいるゲンツェイは、キタイとハシムの会話を訝しんだ。始祖の玉?悪魔が心に入る?いったい何を話し合っているのだろうか?
そう思った瞬間、ゲンツェイの頭の中に背筋が凍るような乾いた声が響いた。
憎シミニ身ヲ委ネヨ・・・
頭の中に無理やり割り込んでくる嫌な感覚だ。ゲンツェイは慌てて周りを見た。周りの騎馬兵も周囲を見回している。どうやら、ここにいる皆に聞こえていたらしい。
キタイもその声を聞いた。何だ?キタイは眉をひそめた。
乾いた声が聞こえなくなったのと同時に、悪魔を取り囲んでいた騎馬兵の間で悲鳴が上がった。キタイが振り向くと、何人かの騎馬兵が周りの騎馬兵に斬り付けている。すでに数人の騎馬兵が血を流して倒れている。
「やめろ、貴様ら何を同士討ちしているのか?」
倒れた騎馬兵に何度も剣を突き刺している騎馬兵にキタイは駆け寄った。その肩に乱暴に手を掛けて振り向かせた。
騎馬兵は奇声を上げながら振り向いた。キタイはそれがシャオロだと分かった。キタイは思わず後ずさりした。シャオロの顔は憎しみと悲しみに打ちひしがれた凄まじい形相だ。
「モンゴルの野蛮人どもがぁ!」シャオロはキタイに襲い掛かってきた。
シャオロを斬らねばならないのか、キタイは一瞬躊躇った。その躊躇いは致命的だった。やられる、キタイは覚悟した。
横合いから伸びた剣がシャオロの首を貫いた。シャオロは首から血潮を吹きながら倒れた。
「隊長、迷いは死を招きますよ」返り血を浴びたカウナがキタイに怒鳴った。
「これでは、誰が敵か味方か分かりません」ゲンツェイが叫んだ。
ゲンツェイの右横にいるイギトが悲鳴を上げた。大柄な騎馬兵が剣を振り上げてイギトに迫っている。ゲンツェイにはそれがギムサだと分った。いつも笑顔で世話好きな騎馬兵だが、今は口から白い泡を吹きイギトに襲い掛かっている。
ギムサが振り下ろす剣をイギトは自分の剣で受け止めた。けれども、力で押し返されている。ゲンツェイはイギトの横合いから剣を突き出した。ギムサの顔面をゲンツェイの剣が斬り裂いた。仰向けに倒れたギムサの顔面から鮮血が次から次へと流れ出している。
「すみません、ありがとう」息を切らしながらイギトが言った。ゲンツェイの口の中はからからに乾き切っていた。
「お前たちはまともだな、私の傍を離れるなよ」キタイが二人に言った。
混乱の中、キタイはゲンツェイとイギトを従えて物見やぐらの入口まで後退した。背中が柔らかい緑色の膜に当たるまで下がった。こうすれば、少なくとも背後からは襲われない。
物見やぐらの周りでは騎馬兵と騎馬兵が斬り合っている。騎馬兵同士が殺し合っている。その光景にゲンツェイとイギトは抑えようのない恐怖を感じた。
狂った騎馬兵は人間とは思えない恐ろしい形相になっている。意味不明な言葉を叫び、口から涎を垂らして剣を無茶苦茶に振り回している。通りに倒れた騎馬兵の数は十人を超えている。何人かは苦しみ呻きながらもまだ生きているが、これでは助けられない。
物見やぐらの中にいるパールにもその様子は分かっていた。目を閉じると、外の様子が像となり頭の中に流れ込んでいた。パールはキタイたちを物見やぐらの中に避難させてやりたかった。しかし、悪魔はすぐ近くいる。今、結界を解くことは出来ない。
どうすればキタイたちを救えるか。パールはある考えを思い付きハシムに声を掛けた。
しばらくして物見やぐらの扉が中から開き、ハシムが顔を覗かせた。「キタイ殿、これを使いなさい。これを持っていれば悪魔は近付けない」そう言って、ハシムは鈍く輝く翡翠の首飾りをキタイの方へ投げた。
首飾りは緑色に輝く膜をすり抜けて落ちた。キタイは手を伸ばして首飾りを拾い上げた。
「この緑色の輝きを化け物は嫌うんだな」キタイがあらためて聞き直した。
「そうだ、心に悪魔が入り込んだ者もその輝きを嫌う」ハシムは扉の隙間から答えた。
キタイは首飾りを左手に持ち、戦っている騎馬兵に叫んだ。「まともな者は私の近くに集まれ。私を中心に守りを固める」
騎馬兵は、襲ってくる仲間を倒しながら後退して集まった。キタイが数えると、自分たち三人以外に十一人が集まっている。
ハシムの言うとおり、悪魔や狂った騎馬兵は緑色の輝きを嫌って近寄って来ない。しかし、キタイたちも悪魔たちに囲まれて動きが取れない。
「ハシム殿、教えてくれ。悪魔の手下にされた者は元に戻れるのか?」
「無理だ、人としての心はすでに壊れておる。生きていても、もはや人ではない」
キタイの周りに集まった騎馬兵の中にはアラビア語が分からない者もいる。状況を正確に伝える必要があるとカウナは考え、キタイとハシムの会話をモンゴルの言葉に訳して周りの騎馬兵に伝えた。
キタイはカウナを止めなかった。カウナに気が回る余裕は無い。これからどうするか、キタイは首飾りの緑色の輝きを翳しながら考えた。
悪魔も含めて相手は二十人近くいる。緑色の輝きで斬り込んでは来ないが、じりじりと間合いは詰めている。くそっ、これだけ相手が一カ所に集まっていれば、それこそ弓矢でもあれば一網打尽に倒せるのだがな。
そう思ったキタイは閃いた。そうか、一網打尽か。
「ハシム殿、この首飾りの紐を切っても構わないか?」キタイは尋ねた。
待て、パールに聞いてみる、ハシムはそう言って扉を閉めた。しばらくして、ハシムは再び扉を少し開けて顔を出した。「切って構わん、翡翠の玉は全部で十二個あるぞ」
「分かった」そう言い、キタイは剣先で首飾りの紐を斬った。
キタイが握っていた一つ残し、十一個の翡翠は紐の切れ端から地面へ転がり落ちた。「ゲンツェイ、イギト、お前たちは翡翠を拾って皆に配れ。すまんが、お前たち二人の分は無い」
キタイは集まっている騎馬兵へ向かって叫んだ。「よく聞け、輝く翡翠を受け取ったら悪魔どもの外側に急いで走れ。この緑色の輝きで奴らを取り囲む。」
ゲンツェイとイギトは落ちた翡翠を拾った。暗闇でも翡翠は輝いているので拾えた。二人は周りの騎馬兵にすぐに翡翠を手渡した。騎馬兵は緑色に輝く翡翠を持ち、真正面に掲げながら次々に飛び出した。瞬時に悪魔と狂った騎馬兵を取り囲む包囲網を造った。
形勢は逆転した。今度は悪魔たちが囲まれて動きが取れない。
「ヤメロッ、ソンナモノ使ウナッ!」悪魔が驚いたように叫び声を上げた。さっき頭の中に響いた気味の悪い乾いた声と同じだ。
ここからが勝負だ、キタイは辺りを見回した。
「ヤリツ、お前の真後ろに玄関の扉が開いた家がある。そこにこいつらを追い込む。全員が包囲網を崩さず、ヤリツに合わせて移動する」
ヤリツは背後をちらっと見た。道を挟んで小さな家がある。村人が逃げた時に閉め忘れたのか、確かに扉は開いたままだ。
「確認しました。いつでも行けます」ヤリツは叫んだ。
「皆、ヤリツの動きに合わせて少しずつ動け。間隔を開け過ぎないように注意しろ」
キタイの合図で包囲網は少しずつ物見やぐらから離れた。時折、翡翠と翡翠の間隔が広くなってしまう。その隙を狙ったように、小柄な騎馬兵が抜け出そうと近くのカウナに突進した。
自分に向かって振り下ろされる剣をカウナは避け、その騎馬兵の腹部へ自分の剣を突き刺した。大きく裂けた腹部から夥しい血と腸が落ちた。小柄な騎馬兵は地面に倒れた。血と腸の生臭い匂いが入り混じって広がった。
「ゲンツェイ、イギト、包囲網からあいつらが突破して逃げないように外側から牽制しろ」キタイが叫んだ。
翡翠を持っていないゲンツェイとイギトは、ゆっくりと移動する包囲網の周りを走り回った。逃げようとする騎馬兵を剣で突いて押し戻した。
やがて、ヤリツは扉の開いた玄関まで辿り着いた。ヤリツはそのまま家の中を走り抜けて裏口へ向かって待機した。キタイたちは包囲網の間隔を縮めながら、悪魔たちを家の中へ追い込んだ。
包囲網はしだいに小さくなり、翡翠を持った騎馬兵は次々に裏口や窓に向かった。緑色に輝く翡翠を掲げて、悪魔たちが家から外に逃げられないように封じ込めた。
狂った騎馬兵をキタイは救いたかった。悪魔が心に入り込むとはどういう状態なのか調べる必要もあった。それなのに、家から逃げ出そうと暴れる騎馬兵を剣で威嚇し続けるだけで精一杯だ。
間もなくすると、悪魔たちは剣の刃や柄で家の内壁を叩き壊し始めた。もう助けられない、もう時間はない、キタイは決断するしかなかった。
キタイはゲンツェイとイギトを呼び寄せた。「何でもいいから、燃える物を集めて家の中へ投げ込むんだ。同時に火を放て!」
ゲンツェイは慌てた。「でも、それでは家の中の騎馬兵は焼け死にます」
「お前の気持ちは分かる。だが、早くしないと奴らは壁を壊して出てくる。そうなればもうこちらに勝ち目はない」キタイが叫んだ。
それは分かっている。でも、いやだ。ゲンツェイは動こうとしなかった。イギトもその隣でじっと俯いている。
キタイはゲンツェイの右頬を左手の甲で張り飛ばした。「甘ったれるな、今動けるのはお前たちだけだ。早くしろっ!」キタイは怒鳴り散らした。
くそっ、くそっ、ゲンツェイは悪態を付きながら周りの家々から絨毯や布団を集めた。イギトも泣きながら燃える物を集めた。イギトはランプの油が入った壺を見つけた。二人で絨毯や布団に油を素早く染みこませて家の中へ放り込んだ。残った壺の油を窓から家の中へ撒き散らした。燃え盛る松明を何本も家の中へ投げ込んだ。
悪魔たちが暴れている家の中は瞬く間に燃え上がった。炎の中から悲鳴や怒号が聞こえてくる。何人もの騎馬兵が炎から逃げようとして玄関や裏口、窓に殺到した。キタイたちは外に出ようとする騎馬兵を剣で斬り裂いていった。
それはもう戦いではなかった。虐殺でしかなかった。
生きた人間の生身が焼かれる匂いが立ち込めた。その匂いに耐えられず、イギトは何度も吐き戻していた。ゲンツェイも吐いた。吐きながら悔しさに泣き叫んでいた。




