永遠の命をめぐり人と人が戦い、人と人ではない者との戦いが始まる
主な登場人物
(サフリム)
パール 古の一族のシャーマン
ハシム 古の一族の長
(モンゴル)
キタイ モンゴル軍の参謀
カウナ モンゴル軍の騎馬兵
ゲンツェイ 〃
ムーレイ 〃
ジョシェ 〃
ハクレア 鍛冶職人の娘
(日本)
唐橋実篤 太宰府の守護武士
安倍晴幸 朝廷に仕える陰陽師
わらび 安倍晴幸の息子
茶々 安倍晴幸の娘
藤原忠綱 朝廷の役人
佐々木経久 近江守護
(トリポリ伯国)
メル・フィッツ・トレーシー 騎士見習い
イアン・ハント 〃
ジョン・サーティアス メルとイアンの育ての親
ブリジット 〃
シャルル トリポリ城内の教会の大司祭
ミシェル・ドグル 王室騎士隊の隊長
ヤン・ホイヘンス ホラントから来た科学者
(エルサレム)
モカブリュノワール・グーノン 元 第四次十字軍の兵士
トゥラン・シャイーブ 砂漠の黒豹と呼ばれる盗賊
ルルクウ・シャイーブ トゥランの一人娘
(サマルカンド)
テンテイ 織物職人
イギト 織物工房の主人
(十字軍)
フランソワ・ドリュー 特使
アイザック・シーン 参謀
ジャンカルロ・ピローニ 軍略顧問
(イスラム連合軍)
オマール・アクラム・オジェ 指導者
アズイール 参謀
いつの時代でも王は死を恐れ、永遠の命を求めた。時折、永遠の命を得た王もいた。永遠の命を得た王は、人ではないものを使い、人々を支配した。人ではないものは人々に厄災をもたらした。
(本作は「ローマ教皇からの密書(自身著述)」を再構築したものです)
序章 一二四二年、秋 サマルカンド
中央アジアの交易都市サマルカンドは静かな夕暮れを迎えていた。
遥か遠くにパミール高原の微かな輪郭が見える。その背後には、西へ傾く太陽の陽射しを受け、紅く染まり始めた天山山脈の峰々が輝いている。その輝きは、まだ明るさが残る青空と重なり、美しい色彩りを造り出していた。
テンテイは裏路地に面した二階の窓辺からその光景に見惚れていた。毎日のように見る光景だが、その荘厳な美しさにはいつも心が奪われる。十六歳のテンテイは、サマルカンドにあるペルシャ絨毯の織物工房で働いている。
開いた窓からは涼しく乾いた風が部屋の中に流れ込んでいる。
「いけない」テンテイは商談で得た手付金の勘定に意識を戻し、椅子に座り直した。
一階にある展示室は今日も午前中から賑わっていた。冬を目前にしたこの時期、工房には各地の交易商人が訪れる。バグダッドやダマスカスはもちろん、コンスタンティノーブル、ベネチアやフィレンツェといった遥か西方のヨーロッパからも訪れる。
大通りに面した一階の展示室には、サマルカンドでは最高級の品質を誇るペルシャ絨毯が数多く陳列されている。原材料となる羊毛は天山山脈の麓にあるサフリムから取り寄せている。
サフリムで育つ羊から採れる羊毛は強くてしなやかだ。特に、子羊から採れるものはコルクウールと呼ばれ、最高級の品質を誇っている。丈夫で美しいペルシャ絨毯を織るには欠かせない。
サフリムの羊毛は、今ではカシミールで取れる山羊毛と同じくらいに有名だ。サフリムの羊毛を使ったぺルシャ絨毯を、各国の交易商人は競って大金を支払い購入する。
テンテイが働く織物工房は、そのサフリムの羊毛を独占的に仕入れている。テンテイ自身もサフリムで生まれ、サフリムで育った。
サフリムで羊毛の生産が始まったのは二十年前。西方へ侵攻するモンゴル軍の騎馬軍勢が訪れるまで、サフリムはこの世から見捨てられたかのような僻地の寒村だった。そこへ、モンゴル軍の騎馬兵が村の主要産業として羊毛の生産を普及させた。村の羊毛の生産は年々発展していった。
サフリムの子どもたちは皆、幼い頃からペルシャ絨毯の織り方を学ぶ。テンテイも六歳頃から織り機の前に座っていた。
ペルシャ絨毯の独特の美しい紋様を織り上げるには、縦糸には丈夫な木綿を使って型崩れを防ぎ、横糸には羊毛と絹糸を混ぜて織る。少しでも気を抜けば結び目はばらつき、美しい紋様はたちまち崩れてしまう。ペルシャ絨毯を織るには繊細な技術と併せて集中力と忍耐力が必要だ。
子どもの手で織れるペルシャ絨毯の大きさは、カーリシュと呼ばれる大きさが精一杯だ。ちょうど大人が横になれるくらいの大きさになる。それでも、慣れた子どもでさえ完成するまでには三週間を必要とする。多くの子どもたちにとって、絨毯を織るのは苦痛でしかない。
テンテイは苦痛だとは少しも思わなかった。美しい幾何学紋様や円形紋様、唐草紋様の色鮮やかな絨毯を自分の手で織り上げるのに夢中になっていた。
テンテイの好きな紋様はメダリオンとエリスミだ。メダリオンの紋様は大きな多角形が複雑に連なり、エリスミの紋様は幾つもの渦が繋がっている。メダリオンは世界の多様な広がりを意味し、エリスミは永遠の命を意味する。テンテイは父親からそう教えられた。
世界の多様な広がりと永遠の命。その言葉の真の意味を理解出来るはずもなかったが、テンテイはそれらの紋様に魅了された。二つの美しい紋様の絨毯を何枚も織り上げた。
数年後、テンテイは大人の織工も顔負けするような高い織物技術を持つまでに成長した。テンテイは十二歳で村を離れた。父親の勧めで、サマルカンドにある織物工房で働き始めた。
その織物工房で生産されるペルシャ絨毯は、サマルカンドで最高級の品質を誇っていた。テンテイは織工として働きながら、羊毛や絹、木綿の種類や品質の違い、染料の原料や微妙な色彩を表現する染め方を熱心に学んだ。
しばらくすると、テンテイが織り上げるペルシャ絨毯もまた、サマルカンドで最高級の品質と評価されるようになった。
織物工房の主人であるイギトは、テンテイに商いの才覚も見出していた。イギトは、テンテイに交易商人との商談の仕方も教えた。テンテイの誠実さと創意工夫、素直な物言いは交易商人から信頼を得るようになっていた。
来春に出荷するペルシャ絨毯の商談は、今日も順調に取り纏まった。机の上に置いた貨幣箱には、交易商人が支払った手付金が積み上がっている。小さな山のように積み上がった金貨や銀貨を見て、テンテイは感心していた。
テンテイが感心していたのは、織物工房が今日得られた収益だけではない。サマルカンドの町そのものが近年の盛んな交易で発展している。その発展による豊かさに感心していた。
中央市場に行けば、麦、米、野菜、果物、肉や魚が豊富に並べられている。大通りに連なる店には白磁の光沢が美しい南宋の茶碗や大皿、イスラムのきらびやかな宝石細工、精巧な歯車仕掛けのヨーロッパの機械時計が並べられている。
現在、サマルカンドの人口は三十万人を超えている。中央アジアで有数の交易都市として繁栄している。もっとも、古来よりサマルカンドは東方と西方の交通の要衝であり、西遼の統治下にあった時代までは交易で繁栄していた。
ところが、一一四〇年にホラズム帝国へ併合されてからサマルカンドの繁栄は途絶えた。ホラズム帝国の役人はサマルカンドの繁栄には興味がなかった。私利私欲のために持てる権力を乱用した。不当で過大な税をサマルカンドに住む人々に課して冷酷に徴収した。蓄えのある人々はサマルカンドを次々に離れて逃げていった。
サマルカンドを訪れていた交易商人も、多額の通行料と膨大な売上税を徴収されるため町に入るのを避けた。サマルカンドは交通の要衝ではなくなった。サマルカンドは、中央アジアの交易路にある巨大な道標に成り下がってしまった。
一二一九年、チンギス・ハーンが率いるモンゴル軍がホラズム帝国へ侵攻した。十万人もの強大な騎馬軍勢だった。
モンゴル軍は、まずブハラへ向かった。数日間の激しい戦闘の末にモンゴル軍はブハラを占領した。占領後、モンゴル軍は多くの市民を虐殺した。その一方、やはり多くの市民を町の外へ逃がした。ブハラを脱出した人々はサマルカンドに逃げ込み、モンゴル軍の残虐さを声高に訴えた。
サマルカンドの市民、サマルカンドに駐留するホラズム帝国の精鋭部隊の兵士は、モンゴル軍の姿を見る前から恐怖に陥ってしまった。
間もなく、モンゴル軍の騎馬軍勢がサマルカンドを包囲した。ホラズム帝国の兵士は戦わずして次々に投降した。兵士には戦意の欠片も残っていなかった。このため、サマルカンドでは大きな戦闘は起こらなかった。ブハラのような虐殺もなかった。
チンギス・ハーンは、サマルカンドの支配そのものに興味が無かった。サマルカンドの統治はサマルカンドの指導者に任せた。チンギス・ハーンは、サマルカンドがモンゴルへ忠誠を誓い、決められた税率による売上税を毎年納める限り、サマルカンドの自治にはまったく干渉しなかった。
チンギス・ハーンの統治の仕方には、サマルカンドの指導者も市民も一様に驚いた。かつて、サマルカンドがホラズム帝国へ併合された時は、政治も経済もすべて支配されていたからだ。
モンゴルに対する忠誠を守り、税を毎年納め、謀反の動きが無い限り、占領した都市の自治には干渉しない。チンギス・ハーンのこうした統治の在り方はサマルカンドだけではなかった。
確かに、モンゴル軍は破竹の勢いで占領地を広げていった。しかし、それは所有地の拡大を意味しない。そもそも、草原の遊牧民であるモンゴルの人々にとって土地の所有など興味はない。所有した土地に縛られる風習もない。
侵攻の目的は、支配する領土を増やして交易を発展させる事、交易の発展により東方や西方の各地から莫大な富をモンゴルへ集め続ける事だった。
なぜ、交易による富の集積をチンギス・ハーンは求めたのか。侵攻により金品を強奪しても、それは一時的な利益でしかないからだ。それでは永続的にモンゴルへ富を集め続けられない。
チンギス・ハーンは、交易商人が都市を通過する際に支払わされてきた通行税を廃止した。支配した都市すべてで一律の売上税を定め、その売上税を毎年モンゴルに納税させた。支配した都市の自治は認め続け、いっそうの交易を奨励した。売上税をモンゴルに納めれば、それ以上の利益の分配は都市の自治に任せた。
これこそが、永続的にモンゴルへ富を集め続ける仕組みだった。
それぞれの都市は自治を任され、交易も自由に行える。交易により大きな利益を得ても、モンゴルには一律の売上税だけ納めればよい。残る利益はすべて自分たちの手元に残る。それまで、その時代の支配者の理不尽な圧政に虐げられ、交易で得た利益の多くを搾り取られてきた人々にとって、こうしたモンゴルの統治の在り方は驚くしかなかった。
多くの都市で、モンゴルに支配される以前とは比べ物にならないくらい交易が発展した。それぞれの都市の工業品や特産品が東方から西方へ、西方から東方へ大量に運ばれ始めた。
チンギス・ハーンは、東方と西方の交易をさらに発展させるために交易路を整備した。交易路には一定の間隔でジャブチと呼ばれる拠点が設けられた。
ジャブチは交易路の駅だった。ジャブチでは食事や宿泊が出来た。ジャブチには常に多くの馬が用意されていた。交易商隊の馬が怪我をしたり、死んだ時には即座に替わりの馬を調達出来た。
ジャブチにはモンゴル軍の騎馬兵も駐留していた。交易商隊が希望すれば、ジャブチに駐留するモンゴル軍の騎馬兵が護衛に付いた。
交易商人は、その証しである通行証を持って交易路を往来した。この通行証はパイザと呼ばれ、掌程度の大きさの細長い銀の板で造られていた。パイザはモンゴルから交易商人に支給された。パイザを持っていれば、どのジャブチでも無料で宿泊出来た。
モンゴルは支配地域の交易路を往来する交易商人を保護した。それこそ、国や民族の分け隔てなく手厚く保護した。
こうして、ユーラシア大陸の東西を結ぶ大規模な交易が始まった。東方アジアからは香辛料や陶磁器が、イスラム諸国からは宝石や絨毯が、西方ヨーロッパからは機械時計やガラス細工が交易路を行き来した。
一方、この交易路はモンゴル軍の騎馬軍勢が移動する軍用路でもあった。それは他国へ侵攻するためだけに使われるものではない。
チンギス・ハーンは、占領した都市に多くの守備兵を残すような無駄な施策はしなかった。常に最低限の守備兵だけを残した。
もしも占領した都市でモンゴルに対する謀反の動きがあれば、交易路を伝令の早馬が速やかに駆けた。周辺のモンゴル軍の騎馬軍勢が交易路を移動し、謀反を限りなく速やかに無慈悲に鎮圧した。
すっかり薄暗くなった室内に気付き、テンテイはランプに火を灯した。
テンテイは貨幣箱の中に貯まった硬貨を取り出して分けていた。モンゴルの銀貨、東ローマ帝国のノミスマ金貨、アイユーブ朝の金貨、ベネチアの銀貨がある。それらはいいとして、今日は十字軍が占領地で使用している銀貨が混ざっていた。
十字軍の銀貨はただでさえ粗悪な造りだ。銀以外の混ざり物が多い出来損ないがたくさん流通している。十字軍の銀貨だけは受け取りたくない代物だ。
今ではサマルカンドにも様々な国の通貨が入り込んでいる。これも、サマルカンドの交易が盛んな証しだ。ところが、それぞれの国の通貨の単位は異なり、それぞれの為替相場も異なっている。これが交易を営む者の悩みだった。
その場で商品を売買する時も為替の換算はしている。ただ、これは一つの商品についてその都度換算するから簡単な作業だ。
一方、テンテイが働く織物工房のように、その日に取り纏めた商談の手付金を集計するとなると煩雑な作業になる。一応、個々の商談成立時にそれぞれの国の通貨で換算した手付金を受け取っているので間違いはない。大変なのは、その日の収入金額の合計を集計する時だ。異なる国の異なる通貨を並べ、あらためて換算しながら集計しなければならない。
手順としては、まずは国ごとの通貨に分け、為替の換算表を確かめながら手付金の合計金額を算出する。その後、売買が成立した絨毯の品目一覧表から収入金額を算出する。実際の手付金の合計金額と差異がないか確かめる。これは面倒極まりない作業だ。
少し疲れたテンテイは持っていた換算表を机に置いて手を休めた。立ち上がって窓の所へ再び歩いていき、暮れゆく町並みを眺めた。休憩したり、何かを考える時、テンテイはいつも二階のこの窓から外の景色を眺めていた。
薄暗くなり始めた路地のあちこちから、まだ遊んでいる子どもたちの賑やかな声が聞こえる。夕食を準備する白い煙が家々から立ち昇っている。
窓際に佇むテンテイの身体に心地よい風が吹いてくる。黒髪を短く刈り上げた襟足にひんやりとした風が馴染んでいく。テンテイは疲れを忘れて清々しい気持ちになった。この町は喜びに溢れている、テンテイは深い安堵に包まれていた。
「テンテイ、もう集計は終わったのか?」
いつの間にか、織物工房の主人であるイギトが二階に上がって来ていた。右手には小さな絨毯の切れ端を丸めて持っている、
もうじき四十歳になろうかというイギトだが、小柄な身体は鍛えられた筋肉で引き締り、いつも音も立てずに階段を登ってくる。
イギトは自分にも他人にも厳しいが、その実直な性格は多くの人々から信用を得ている。織物工房は大いに繁盛しているが、イギトは贅沢を好まず妻と子ども二人の四人で質素に暮らしている。
「すみません、旦那様。すぐに終わらせます」テンテイは急いで机に戻ろうとした。イギトは左手を小さく上げてテンテイを止めた。
「いいのだよ。実は新しい色合いの出来栄えを見てもらいたくてな。私がちょっと織ってみた」そう言いながら、イギトは絨毯の切れ端を拡げた。
多角形が連なる紋様はメダリオンそのものだ。その色合いは、初めて見る鮮やかな青系色の濃淡で美しく彩られている。
「素晴らしい、綺麗な発色ですね。染料には何を使っているのですか?」青色や紺色の絶妙な濃淡がメダリオンの紋様に重なる美しさに見とれながら、テンテイは尋ねた。
「ケラトで採れるコバルト石だ。南宋の青磁器にも使われるものらしい。コンスタンティノーブルから訪れていた交易商人に売ってもらった。試したら、羊毛と絹糸で上手に濃淡の色を出せたよ」
テンテイは切れ端をイギトから手渡された。柔らかなサフリムの羊毛が心地良い。イギトも満足そうにテンテイの持つ切れ端を眺めている。
「どうだ、赤系色や黄系色のペルシャ絨毯に見慣れたベネチアの交易商人も、これなら喜んで買うとは思わないか」
「思います、きっと喜びますよ」テンテイは切れ端をイギトへ返した。
テンテイから切れ端を受け取りながらイギトも深く頷いた。イギトは机の上に切れ端を置いた。ふっと妙な間が空いた。
おやっ、とテンテイは思った。イギトは何か躊躇しているように見える。
「実は、お前さえ良ければ、冬風が吹き始める前にサフリムへ戻ってもらいたい」
思いもかけない言葉にテンテイは驚いた。「そんな、私はまだまだ勉強しなくてはなりません。サフリムへ戻っている暇などありません」
イギトはふふっと笑った。「テンテイ、お前はよくやっている。まだ若いが、交易商人からの信頼も厚い」
イギトがそんなこと言うのは初めてだ。テンテイは少し面映ゆい。
「お前は織工としても優れた腕前を持っている。だから、工房の織工もお前の指示は聞く。お前は私の代わりを立派に努めてくれているよ」
そうした自負はテンテイにもあったが、そう思うたびにテンテイは反省した。まだまだ勉強しなければならない、そう自分を戒めた。自負が過ぎると傲慢になる、いつも慎重であり、謙虚でありなさい。父親からいつもそう言われていた。
「お前の父君から、秋の終わりまでにお前を村へ戻してくれと手紙が届いた。お前に伝える大切な用事があるらしい」
それはテンテイには初めての話だ。
「私はお前の父君に大変な恩義がある。だから、私からもお願いする。あと半月程で今年の商談は終わる。その後は村に戻りなさい。大切な用事が済むまで工房は気にしなくても良い」
テンテイはどう返事をすればいいのか分からなかった。
「テンテイ、遠慮はいらない。私の命令だ、父君と母君に元気な顔を見せてきなさい」
「はい、ありがとうございます」
どぎまぎしているテンテイの姿がイギトにはおかしかった。
「お前の父君はサフリムを豊かにするために努力してきた。私がサマルカンドで工房を始める時も、お前の父君は多くを支援してくれた。今もサフリムから上質な羊毛をたくさん送ってくれる。誰にでも出来る行いではない。だからこそ今では村長となり、村の人々から慕われている」
テンテイは俯いたまま何も言えなかった。嬉しいような、困ったような、どう答えればいいのか分からなかった。
やがてテンテイが顔を上げると、イギトは暮れゆく町並みをじっと眺めている。
「ここは平和な町だな、テンテイ」
「えっ?」
平和という予想もしていなかった言葉に、テンテイはイギトの横顔を見つめ直した。その横顔は穏やかで優しい表情だ。
「私はモンゴル軍の誇り高い騎馬兵だった。サマルカンドに初めて来た時、今のお前と同じくらいの歳だった」
イギトはモンゴル軍の騎馬兵だった、それはテンテイも知っている。父親から教えられていた。けれども、イギトは自分から騎馬兵の話はしなかった。テンテイが聞いても、イギトは顔を曇らせたまま何も話してはくれなかった。
「サマルカンド攻略では、私は後衛だった。ブハラのような大規模な虐殺も起きなかった。だが、町に入り、目を覆う惨状をいくつも見た。小さな子どもたちが父親や母親と共に数多く殺されていた。興奮した騎馬兵が暴れて殺したのだ。その光景は今でもはっきりと覚えている」
いったい今日の旦那様はどうしたのだろう。テンテイはもう一度イギトの横顔を見直した。その横顔は穏やかで優しい表情のままだ。
「この工房は、サマルカンドの人々への償いだ。町の人々を使用人として雇うのも、利益の一部で子どもたちの学校を造るのも私の償いだ」イギトは暮れてゆく町並みをぼんやりと見ている。
「償いだなんて。旦那様は立派な方です、それは誰もが知っています」
「モンゴル軍の騎馬兵だったという過去も知っている」
「それは過去の話です、仕方がなかったのです。それに、チンギス・ハーンがホラズム帝国を滅ぼしたから、今のサマルカンドの繁栄があります。それは間違いないはずです」テンテイは思わず力を込めて言ったが、すぐに俯いてイギトの言葉を噛みしめるように頷いた。
サマルカンドの人々は今の繁栄を喜んでいる。だからと言って、モンゴル軍の騎馬兵が町を襲った時の恐怖や非道な仕打ちを忘れてはいない。それは、テンテイにも分かっている。テンテイの親しい友だちにも、家族や親族をモンゴル軍の騎馬兵に殺された者が何人もいる。彼らは今でもモンゴルを憎んでいる、とテンテイは人伝えに聞かされていた。
「仕方がなかったでは済まされない。私は自分の意志で騎馬兵になったのだからな」自分に言い聞かせるように話すイギトの横顔は、少し寂しそうにも見えた。
「モンゴル軍の騎馬兵だったことを私は誇りにしている。しかし、私たちに殺された人々の無念を忘れてはいけない。お前の言うように今のサマルカンドは繁栄している。けれども、お前は知らないだろうが、私たちが根絶やしにした町や村は数多くあるのだよ」
「でも、だからと言って」
「だからこそ、なのだ。破壊と殺戮に明け暮れた者は、破壊と殺戮の中でしか生きられなくなる。修羅の奴隷に成り下がってしまう。幸いにも私は人の心を取り戻せた。サマルカンドの人々へ償いをしたいと考えた」
テンテイは返すべき言葉を見つけられない。窓から吹き込んでくる風が寒く感じられた。
「私は修羅の奴隷となった仲間を何人も斬り捨てた」
イギトの視線は、サマルカンドの町並みから、暗く高い影となって遠くにそびえ立つ天山山脈の峰々へ移っている。
イギトが何を言っているのか、テンテイにもおぼろげに分かった。「昔、サフリムで起こったという悪魔退治ですか?」
「そうだ。私は生き残れた。それでも、あの夜を思い出すと、今でも悔しさと恐ろしさで身体の震えが止まらない」
テンテイは再びイギトの横顔を見た。イギトの視線は天山山脈の峰々を見ているのではなく、遠い過去を見つめているのだと分かった。
「旦那様は、あんなことがあっても、それでもサフリムが懐かしいですか?」
「ん、もちろんだよ。サフリムで私は騎馬兵の剣を置き、今の私に生まれ替わった。サフリムは私の第二の故郷だ。お前だってサフリムに戻り、久し振りに父君や母君に会いたいだろう」
「はい」
ランプの灯が秋風にふっと揺れた。テンテイは、遠くパミール高原の麓に暮らしている父親と母親を想った。