どうか幸せに
この世はまったく不公平だ。
……というより、公平という言葉がこの世界にはない。
金がなければ自分の子供が病気になっても見捨てるような世界である。力のある魔法使いに利用されて使い捨てられたとしても、文句ひとつ言えないのだろう。
こんなことをしているから魔法使いはいなくなったのだ。
私は悟りをひらく一歩前のような穏やかな気持ちになっていた。
目の前の黒い煙の中からフガイークの手が現れて私の左腕を強くつかんだ。すると同時に、壁のようにあった黒い煙は薄くなって消えていく。
つかまれた腕から魔力が流れてくるのを感じた。
他人の魔力が流れ込んでくる感覚は虫が体を這うような感覚に似ていて、私は悲鳴を上げるのを辛うじて堪えた。
左腕の感覚がなくなり、めまいと吐き気が襲ってくる。
フガイークの哄笑が聞こえた。
望んでいた時間魔法が手に入るのが嬉しいらしい。
私は倒れそうになるのをぐっとこらえて、両足に力を入れた。
どんなに努力しても得られないものはある。
私がどんなに頑張ってもこのフガイークには勝てないのかもしれない。未だに自分が魔力を使ってこいつをどうにかできるビジョンが見えないのだ。
だけど、私がこの世界に来たことにはきっと理由があるはず。
それはこの世界の何かを変えるためだったと信じたい。
そう、私は。
……何としてもこいつに一発くらわせなければ気がすまない!
私は拳を構えて、少し腰を落とし足を踏ん張る。ベッドの上は安定が悪かったが、足首をひねりながら蹴ることによってフガイークに向かって飛び出した。
一発でいい。こいつに痛みってものを教えてやりたい。
渾身の力で突き上げた右拳は貧相な左あごの下を捉え、フガイークは腰から床へ崩れ落ちた。
思っていたよりもきれいに入ったような気がする。
「そんなに他人の持ってるものが欲しいの」
私はフガイークを見下ろして言った。小娘の拳なんてそんなに痛くないはずなのに、フガイークは呆然として視線をさまよわせている。
「何を手に入れても、結局あんたは、また別の誰かの何かが欲しくて、同じことを繰り返すことになる」
「…………」
人がせっかく説教してやっているのに、ボンヤリして聞いているのかいないのかわからないオッサンを、私は胸ぐらをつかんで引き起こした。
なんかいい生地の服を着ているからつかみにくくてイライラした。
「聞いてんの!」
八つ当たりに近かったが、私は両手でオッサンをぐっと持ち上げてそのまま遠くの床へ放り投げる。そんなに力は乗ってなかったのにオッサンの体は一瞬宙に浮いて、ちょっと離れた床の上に転がった。
すごくスッキリしたわ。ひと仕事終えた感じがする。体を乗っ取られる代償としては足らない気もするけど。
「きさまは……」
痙攣を起こしているように細かく震えながら、フガイークが私を見上げている。それはまるで得体の知れない何かを見るような目だった。
「きさまは、誰だ……」
その言葉は私にとっては意外であり、驚くべきものだった。しかし同時に嬉しくもあった。
こいつは私がヴィエナリリアではないことに気が付いたのだ。
それが少し……なぜかはわからないけど嬉しいと思った。超絶うっとうしい敵だったのに不思議なこともあるものだ。
ニヤリと口元がゆるむのを感じる。
「リリアよ」
私が名乗るとフガイークは怪訝そうな顔をする。何を言っているのかとでも言いたそうな顔だ。
その不愉快な顔のあご部分から、黒いススのようなものが出ていることに私は気がついた。
あれはあの黒トカゲが壊れる前の現象と似ている。私には覚えがないけど、ひょっとして私の拳にはあの魔力がこもっていたのだろうか?
いやそんな感覚はなかった。……なかったような気がする。
私はただ一発殴っておかないと気がすまなかっただけだ。しかしこの男の消滅をわずかでも願わなかったかと問われれば、苦しいところではある。
フガイークは私と目を合わせると、何かに気が付いたように瞳が左右にブレてのどをヒュッと鳴らした。
「嘘だ……きさまは、……ヴィエナ……」
フガイークはあっという間に顔の左半分くらいまでを失い、無念そうにつぶやく。最後の方は口が消え始めていた。
今となっては知る術はないが、奴には私がヴィエナリリアでなくては困る理由でもあったのかもしれない。
「私の名前は、リリアよ」
すでに頭が消えかかっているフガイークにこの声が聞こえているのかどうか、私にはわからなかった。
気が付いたら左腕の痺れたような感覚はなくなっていた。その魔法をかけた人間がいなくなったからだろうか。
思いがけず命拾いができて、私はホッと息をつく。
オッサンの体がほぼススになってしまった頃、ゴロリという音とともにその服の中から大きめの黒い石がこぼれ出てきた。
フガイークはこの黒い石に自分の魂を封じていた。だから「人格換えの魔法」が壊れてもこのオッサンの体に留まることができたのだ。
オッサンの体は消滅した。でももしこの石の中に奴の魂が残っていたとしたら?
それはとても危険だ。しかし確かめないわけにもいかない。
そう思って床の上の黒い石に一歩近付いた時、私の周りの床に人がひとり入るくらいの丸い円が赤く光って浮かび上がった。
「!」
これは……もしかして魔法陣? まさか、まだあいつは何か隠していた?
うろたえる私に、どこかから女性の声が響いてくる。きれいなメゾソプラノだ。
「ヴィエナリリア……ごめんなさい」
いきなりの謝罪に驚いているとおぼろげな女性の姿が目の前に現れた。
SFものでよくあるホログラムみたいだ。その外見はあの聖女様にそっくりだった。結い上げた髪型だけが違っている。
もしかしてこの人はティファーナさんなのか。
思っていたより若くて美人だ。
「もし……あの男の気配が完全に消えたら、あなたに伝えたいことがあって、これを残します」
そういえば白い霧になった聖女様が残した黒い石をスカートのポケットに入れていたのを忘れていた。
あれにはフガイークの死亡が確認されたら発動する魔法が入っていたのか。私が持っていたからいいようなものの、気付かずに石を放置していてたらどうなっていたのだろうか。
もし誰もいないところでこれが自動再生されていたらどうするんだ。
「……これは“複製の聖女”にも伝えてあることですが……、あなたを守っていた地下神殿は、あなたが眠りの部屋から出ると、何日後かには消えてしまいます。ですから、あなたがまだ神殿にいるのであれば、奥の廊下にある転移魔法陣を使って早く出てください」
え、地下神殿? この世界に来て最初にいた変な建物のことかな。
あれは地下だったのか。だから空に星がなかったんだ……。そして、そこはもう無くなっているということか。もったいない。
「あの神殿は、わたくしがリオスウィル様と結婚した時に、二人だけの秘密の場所が欲しくて作った亜空間結界です。わたくしとリオスウィル様だけの特別な場所でした。ですからあなたを守るためには一番いいと考えていたのですが、……それを“あの男”は……そこにすら干渉していたのです」
ホログラムのティファーナさんの顔が心の底から忌々しそうに歪んでいく。
あいつ『ティファーナは私の伴侶になった』とか何とか言ってたけど、こんな顔をされるくらい嫌われてるんだ。
ざまあないわ。
それにしても亜空間結界って名前だけでもすごい……。ティファーナさんってかなりすごい魔法使いだったのかな。師匠が伝説の大魔導師だし彼女も才能があったんだろう。
この世界に来たあの時、目が覚めてすぐに嫌な感じがしたのは、あれがフガイークの気配だったのか。どこかでこの体が目を覚ますのを見ていたのかもしれない。
「わたくしはあの頃……リオスウィル様が亡くなられた悲しみに溺れるばかりで、あなたが“あの男”の心無い言葉でつらい思いをしていたことに、気付くことができませんでした」
ホログラムのティファーナさんは悲しそうにうつむく。
「ヴィエナリリア、あなたはわたくしとリオスウィル様の大切な娘です。決してあれに貶められるような存在ではありません。……わたくしを許してください。そしてヴィエナリリア……、愛しています。どうか生きて……幸せになってください……」
最後にティファーナさんがそう言うと、ホログラムも魔法陣もふっと消えていった。
余韻も何もあったもんじゃない。
でも。
ヴィエナリリアはバカだね。
これを聞かないといけなかったのは、あなただったのに。
ちゃんと愛されていたのに。
私には泣く資格はない。
それでも、目から勝手に涙がボロボロこぼれていくのを止めることはできなかった。