伏魔殿④
※事案表現があります。
それにしても、どうしてこんなに良くしてくれるのだろうか?
私はここでは「さらわれた孤児」だというのに部屋は二階の客室。ベッドも机もあって普通に広い部屋だ。申し訳ないので毎日床掃除はしている。
トイレが遠いのになぜ客室が二階なのかと私は最初思っていた。
ある日一階の水周りの近くの部屋は下水の臭いか何かが少し臭ったので、それが理由で客室は二階になっているのだと気が付いたのだ。そして改めてこの待遇が不自然だと感じたのである。
その上お風呂にも食事にも不自由しないし、至れり尽くせりで不安になってくるレベルだ。
いくら何日か後には里子に出すからといっても、その世話に職員を一人つけて何の労働もさせないのは少し……いやすごくおかしい。
他の孤児には会ったことすらない。私が廊下を歩いている時に他の職員の人とすれ違うことはあったが、孤児かそれっぽい子供は一度も見たことがなかった。
季節や時期によっては保護される子供が少ないのだろうか。ここはこのあたりでは大きめの町だと聞いているけど、孤児になる子供が私の他に1人もいないなんてことがあるのか。もちろんその方がいいに決まっているけども。
さらに言えば本当に全員里子に出されているのか。
孤児の中にはいろんな理由でどうしても引き取られなかった子が、多少はいるはずだ。そういう子供はどうなるのだろうか。
大きな神殿だから私が見ている範囲にいないだけで、どこかに存在している可能性はある。
アメリアさんに聞いてみたいが聞いていいことなのだろうか。地雷だったらどうしよう。この話題はやめておこうかな……。
夜になって私は借りた神話の本を読んだ。
水の神様が「悪いことをした神様」の神殿をあのカナヅチで破壊するところまで読んで疲れきってしまった。たいていの神話に対して思う「そうはならんだろ」っていう理不尽さを強く感じたのだ。
だいたい、他の神様の神殿を破壊するのは悪いことにはならないのか。
私ってこういう突っ込みどころを意識してしまったらもう普通に映画とか見ていられなくなるのよね。
余談だがこの国の神話では神様の名前は無いらしい。神様は司る事象の唯一絶対の存在なので、人間と違って名前で判別させる必要がないのだそうだ。
ただ単に考えるのが面倒くさかっただけではないかという疑問は置いておこう。
私は本を置いて席を立ち、そっとドアを開けて廊下に誰もいないことを確認する。これがもうすっかり癖になってしまっていた。
この前アメリアさんたちの会話を立ち聞きしてしまってからいつも覗かれているような気がしているのだ。
よし誰もいない。そう安心した時、私は視界の端にあるものを捉えていた。
今は夕食後で、前に見た時と違って深夜ではない。しかしあの時と同じように大広間が見える窓から、ボウっとした青白い光が漏れていた。
またあの光だ。……何が光っているんだろう。
確かめたい気持ちを抑えきれず、私はそれを見に行ってしまった。
キュリー婦人がラジウムを発見した時ってこんな光だったのかな? いやもっと控えめな光かな?
そんなことを考えながら歩いていたから、私のすぐ後ろに「誰か」が付いて来ていることに気付くのが遅れてしまったのである。
不意に、私は自分の背後にぴったりくっついている人の存在に気がついてゾワっと全身に鳥肌が立った。
元の世界で殺された時に感じた……私のすぐ近くに知らない人が突然現れたような感覚がした。
怖い、怖い、怖い、逃げないと。
なのに、どうしようもなく心臓が激しく動いて、足がすくんで動けなくなる。
「!」
私は立ち止まったところを突然後ろから抱きつかれ、心臓の衝動と共に体がビクッと震えてしまった。
「……どこに行くのかな?」
耳元で囁くような声は低い男の声だった。
体が固まって動かない。
せめて首を動かして誰なのかを見ようとしたが、頬にザラザラしたヒゲの感触があって、その男の顔がすぐそばにあることがわかってしまい、身じろぎもできなくなった。
男の吐く息がフウフウと首筋に当たり、熟したような酒の臭いが周りに漂う。
「お部屋にいないとダメですよ~って、アメリアちゃんに、言われなかったのかな」
男の太い腕の力が強くなってギリギリと私の二の腕の骨が音を立てた。
痛いので離して欲しい。でもここで「離して」等の言葉を口にするとかえって男を興奮させてしまうかもしれない。
そう考えて私は口を引き結んで黙って耐えた。
それにしても締め付けられた肩と両腕が痛くてたまらない。肋骨まで痛くなってきた。
意識して抵抗しないでいると、そのまま体ごと持ち上げられ私は部屋に連れて行かれる。持ち上げられた時に自分の体重がかかった分、腕の痛みが増して私は思わず声を上げそうになった。
自分の足で歩いて帰れるからやめてほしい。部屋に帰れって口で言えばわかるのに何でこんなことをするんだろう。
部屋に入ってようやく離してもらえるのかと思っていたら、男は私の体を抱えたままイスに座った。私は男の膝の上に座るような格好になった。
まだ離してはもらえないみたいだ。私はがっかりした。
男は上機嫌なのか、何かをごにょごにょと口の中で歌いながら私の髪に顔をつけて、鼻をフンフンと鳴らして嗅いでいる。
怖い。この人は絶対普通の状態ではない。
「あ、あの……」
何とか冷静に話をしてこの状況をやめさせたいと思い、私は声を出した。
男はピタッと歌をやめてしゃっくりをひとつする。
「逃げちゃだめでしょ」
「え、逃げ……?」
なにこの「逃げちゃだめ」って? まさか私には逃げたほうがいいようなことが待っているというのだろうか。
やっぱりここは悪い神殿だったのか。
そう思っているといきなり男の腕の締め付けがさらに強くなった。
「いたいっ……」
頑張って耐えていた努力も空しく、私の口からは思わず痛みを訴える言葉が出てきた。
「おとなしいねえ。アメリアちゃんの言ってた通り。いいねぇ」
どうしよう。
ここでジタバタしたりすると余計にこいつを喜ばせるだけかもしれない。抵抗したって力では絶対かなわないだろう。そう思わせられるだけの力で締め付けられている。
痴漢対策のマニュアルに「痴漢にあったら大声を出しましょう」って書いてあったけど、のどの奥に何かが詰まっているみたいに、怖くて声が出せない。
涙が出そう……でももしこの男が加虐趣味でこんなことをしているのだとしたら、泣いたりすると余計ひどいことになる。
泣いたらダメだ、絶対ダメだ。
気がつくと奥歯がカチカチ音を立てていた。自分の体が小刻みに震えているように感じる。
心臓の音が外に聞こえそうなくらいバクバク言っている。とにかく怖い。なんか変な汗が全身から出てきた。
最悪だ。こんな変態がここにいたなんて。
こいつの右手一本で私の両腕と上半身の動きが全部抑えられている。女子にとってはとんでもない怪力だ。しかもどこか手馴れている感じがする。今までに何度かこんなことをしているのかもしれない。
……この人誰なんだろう。どこかで私を見張っていたのか?
「俺は15歳で兵士になってさ、出身の田舎の村で働いていたんだ。そのころ、俺はものすごくモテた」
「…………?」
男はいきなり自分語りを始めた。誰もそんなの聞いてないのに。
妙に冷静な男の語り口が、どう考えても異常な行動をしていることと合わさって狂気のようなものを感じさせる。
「俺はな、普通にボンキュッボンの、大人の女が好みだったよ。その女が俺を裏切って、借金地獄に落とされるまでは」
男は変な笑い声を出した。
「それからは年下の女にしか興味がわかなくなった。女は若いほどいい。まぁ、いっても18歳までだな」
おいおいおいおい。
ヤバイよこの人……。これがロリコンという人種?
年下の女って言っても限度ってもんがあるでしょうよ。この体は12歳くらいだっていうのに、こいつ何歳なんだ。
もうこいつ犯罪者だと思うことにするわ。
世界中の女から嫌われる呪いでもかけられろ。
痛みに耐えながら心の中で悪態をついていると、酒臭い息が顔にかかって思わず横を見る。
男の顔が、鼻が当たるんじゃないかというくらいすぐ近くにあった。
近すぎてよく見えないというか見たくないという気持ちが強かったのか、私にはその男の鋭い三白眼しか見えなかった。それは獲物を狙う動物のような、冷たい底光りのするアイスブルーの瞳だった。
「リリアちゃん、だっけ。かわいいねえ」
ねっとりした不愉快な声を聞いて、私は蛇ににらまれたカエルのように硬直する。
それを狙っていたように、首筋から頬にかけてなぞるようにゆっくり舐められた。
ザラザラした舌の感触が肌に残って気持ちが悪くて仕方がない。腕さえ解放されれば今すぐ何かでふき取るのに。
私は暴れたいような気持になった。
そのとき部屋のドアが音もなく、スウッと開いたのが視界に入った。
赤い髪のポニーテールが跳ねるように動いて、アメリアさんが現れる。
「キース! 何やってるのよ、里子に出す子にイタズラしないで」
「いーじゃない、アメリアちゃん。ちょっとだけ、な?」
「ダメに決まってるでしょ。いいから手を離しなさい、ほら」
アメリアさんが男の腕をつかむと、意外にも男はすぐに諦めたように腕をほどいた。
……た、助かった……?
私は転げ落ちるように男の膝から降りてベッドと壁の間に座り込んだ。
ガタガタと全身の震えがなかなか止まらない。男に舐められたところを手の甲で拭いたが手が震えて上手くいかなかった。
あの変態男の名前はキースというらしい。チラッと見た感じでは若く見える。20台半ばくらいだろうか。でもなるべく目を合わせたくなくて、私はベッドの陰に隠れてうつむいた。
キースはアメリアさんに急かされて部屋を出て行った。ドアを出る直前まで私をジロジロ見ていたのが本当に怖かった。
アメリアさんが気遣わしげな顔で私の顔を覗き込む。
「ごめんね、リリア。あいつは普段司祭さまの護衛をしているんだけど、今日は非番でちょっと飲んでたみたい。いつもはこんなことはないから」
「……は、はい……」
「あいつはああ見えて、剣の腕は凄いのよ。王宮の騎士だった人にも勝てるくらいだからね」
強さの基準がいまいちよく分からないが、そうとう強いっぽい口ぶりである。言われてみれば確かにすごい力だった。
しかし私はどんなに役に立とうがあんな危険人物はどこかに隔離しておくべきだと思う。
アメリアさんがもっと遅かったらあの変態はどこまでやっていたのだろうか。こういう恐怖は初めてだ。
「怖かった?」
「……はい」
私が震える声で答えるとアメリアさんは「ふーん」と興味なさそうにつぶやいて、さっきまでキースが座っていたイスにドカッと腰を下ろして足を組んだ。
「……でもあなたは、これからもこういうことに遭いつづけると思うよ。どうも自覚してないみたいだけどさ」
アメリアさんの気だるそうな声が聞こえてくる。
……あれ? この人いつもと喋り方が違うような。これが素モードなのか。
「この部屋だって、特別だと思わない? 孤児なんかは普通、一階の大部屋に入るの。大部屋はまぁ猛者ぞろいでね、悪すぎて返品されたのや、絶対に貰い手なんかつかないような不細工が、いっぱいいるのよ。だけどあなたはこの部屋にいる。どうしてだと思う?」
やっぱり他にも子供がいたんだ……。しかしすごい言われようの孤児たちである。
私はアメリアさんの問いかけに首を横に振った。直後に「ハッ」と吐き捨てるようなため息が聞こえた。
「決まってるでしょ、あなたが高く売れるからよ。大部屋に入れて連中にリンチでもされたら困るじゃない?」
「た、高く売れる……?」
宗教施設になさそうでありそうなその言葉が、私に嫌な想像をさせた。アメリアさんは口元を歪めてなんとも言いようのないスレた笑顔を作る。
「ああ、言っとくけど、直接お金と引き換えに売り渡すわけじゃないわよ、ここは『清浄なる神殿』なんだからね。事前に別件で寄付をいただくっていう形をとるのよ。だけど私たちにとっては同じことでしょ?」
神様のお膝元で人身売買か……。
まあ倫理観も異世界だわ。いや元の世界でもこういうことはあるのかもしれないけど、さらわれた子供を保護しますよ~からの転売は、どこの世界でも公に認められることではないんじゃないか。
「ああいう趣味の、貴族のオッサン連中に買われていくんだろうから、まあ覚悟しときなさいよ」
「…………」
いやもう何ていうの……そうなんじゃないかと思ってはいた。でもいざはっきり言われてしまったらこれほど嫌なものはないわ。
せめてイケメンの貴公子に買われたいところだけど、イケメンの貴公子は女の子を買う必要なんかないわな。となるとやっぱりモテない金持ちの悲しい面々が買いにくることになるわな。
私は急にどこかへ逃げ出したい衝動に駆られて、今さらのように逃走手段を考えてみる。しかしどれも現実的ではないように思えた。たとえうまく逃げられたとしても逃げた先でああいう大人と出会ってしまったらもう詰みである。
「じゃ、今日はもう寝た方がいいわね、明日は司祭さまと面会だから。おやすみー」
「……おやすみなさい」
アメリアさんがドアを閉めたのを確認すると、私は右手を大きく振って、石の壁を殴りつけた。
そこそこいい石材を使っているのか、音は少しもしなかった。
殴った手がすり切れて血が少し出た。ジンジンと痛い。
ヤケを起こしたわけではないけど、いいようにされて何もできなかった自分やアメリアさんの言い方などにイライラが溜まっていたのもあって、こういう方法をとってしまった。
数を数えながらじっと傷口を見ていると光も音もなく傷が消えていく。30秒かからないくらいだろうか。どんな傷でもこの時間なのかはわからない。あったら困るが回数制限があるのかもわからない。
しかし何にでも検証は必要である。
自動回復する時に司祭のおじさんが大広間で治癒魔法を使った時に感じた力の流れが、自分の体の中にも起こっていることが、ほんのわずかだが感じられた。
これが魔力なのか。いや魔力であると仮定してこの力をもうちょっと強く自在に使えるようにできれば、私にも選択肢は増えるはずだ。
この体はまだ子供でしかもヒョロヒョロだ。筋トレしても自動回復のあるこの体では筋肉は付かないかもしれない。仮に筋肉がついたとしても単純な力比べでは大人の男には到底勝てないだろう。
戦ってはいけない。ああいう変態からは逃げないといけないのだ。
逃げるためには何か……相手の隙をつくような何かが必要になるはず。
一撃離脱みたいなのが理想だ。
自分の中に魔力があるとするなら使わない手はない。やれることはやってみないと。
ええと、あの時の司祭のおじさんの魔法はこう……ブワーっとしてたな。
感覚を頼りに魔力の流れをたどりながら、私はベッドの横に座り込んで魔力を出す練習を続けた。
描写がしつこかったのを直しました。