飛ばされる
ああ、もうこんな時間になってしまった……。
私は苛立っていた。
会社に行かなければいけない。できれば自堕落にいつまでも寝ていたかった。
一人暮らしのいいところって、生活リズムが崩れても誰も文句を言わないところだよね。その分戻るのが大変だけど。
「急がないと間に合わない~」
誰も聞いていないボヤきを言いつつ玄関で靴を履く。ちなみに朝食は食べていない。
その時、ドンドンという音が部屋に響いた。
この音は何日か前から頻繁に聞こえているのだ。近所で工事でもしているのだろうか。
全く迷惑である。
玄関ドアを出て鍵をかけたところで、私は自分の近くに人がいることに気が付いた。
「えっ」
そんな声が思わず出るほどその人物は私の近くに立っていて、私は不快感と共に驚きを隠せなかった。
大学生のように見える服装。黒ぶちの四角いメガネをかけた、神経質そうな若い男だった。
「おねーさんさぁ」
その男は、外見は真面目そうな雰囲気なのに意外にも人をなめたような喋りかたをした。
「ガンガンうるさいんだけど」
「え?」
私は客観的にも静かに生活していたはずなのに、なぜそんなことを言われなくてはいけないのか。その辺の学生みたいに友達を呼んで酒盛りとか、夜中に洗濯機を回すとか、そういう迷惑行為は断じてしていない。
「とぼけんじゃねーよ。さっきもだけど、このガンガンうるさいのあんただろ」
「違いますよ」
とっさに否定すると、メガネ男の眉毛がぐわっと寄る。
「絶対あんただよ。ごまかすんじゃねーよ」
「私じゃありません。これから仕事ですので、失礼します」
しつこい男だ。なぜそんなに私のしわざだと確信しているのか不思議で仕方がない。
もしかしてあやしいお薬でもしているのだろうか。
最近の若者は怖いなあ……と思いながら、私がエレベーターのあるほうへ歩き出そうとした瞬間、
「逃げんじゃねー!」
メガネ男は激昂し、突然その右手に持った何かを突き出してきたのだ。
「……!」
身体が浮き上がるほどの激しい衝撃があり、背中がドアに叩きつけられる。
視線を落とすと、そこには胸に突き立てられたナイフがあった。
(う、嘘でしょ……)
私は腰から崩れおち、さっき出たばかりの玄関ドアに寄りかかりながら、ずるずると倒れこんでいく。メガネ男の靴音が妙にゆっくりと遠ざかっていくのを、私は薄れていく意識の中で聞いていた。
******
いい人生だったかと聞かれたら、迷わずNOである。
なにしろ終わりがひどかった。
……死に方を置いておいても、まあ最近いろいろとあったし。
私は3姉妹の真ん中で、よく言われるようにあんまり手をかけてもらえない子供だった。
姉は逆に期待をかけられすぎたのか、両親に大反発して高校卒業後に男を作って家を出て行った。
私はそこそこの成績だったので、そこそこの大学を卒業して都会で就職するという、平凡と言えば平凡な進路だった。
妹は末っ子ということもあってか、ずる賢いというかとにかく悪い意味で知恵が回った。妹の悪事を何度自分のせいにされたか数えるのをやめたくらいである。その妹は就職に不向きな専門学校を出て案の定就職せず実家でニートをしている。
彼女が言うには「金なんていつでも稼げるから」だそうで、そのくせ帰省する度に小遣いをたかられた。
それくらいならまだいいが、将来的に親が歳を取ってきたら、私に丸投げするつもりなのは明らかだった。
そして私には大学時代から付き合っていた彼氏がいた。大学時代のアルバイト先で知り合った同級生で、家も近くて話も合ったし一緒にいて気楽だった。こういう人と結婚するんだろうなぁとぼんやり思ってもいた。
ここまで聞けばまあまあよくある人生に思えるが……。
そこで一昨日の話である。
就職して約3年。私は地元を離れて都会で一人暮らしをしていたので、その彼氏とは遠距離恋愛であった。でも毎週必ず電話していたし、ゴールデンウイークや盆正月には必ず地元に帰って会っていた。彼氏は大学卒業後に就職できず実家の工務店を手伝っていたが、3年経ってもまだ普通の就職をしようとはしていなかった。
私は彼氏との結婚も考えていたけど今の彼氏の状態では難しいと感じてもいた。
「……結婚する」
いつものように電話をしていると、突然黙りこんで意を決したように彼氏は言った。
私が苦笑しながら「まだ早いよ」と言おうとしたそのときである。
「マイコが妊娠したんだ」
衝撃的な言葉が耳に飛びこんできて、本当に頭を殴られたように感じた。
マイコ? 誰それ?
「小学生の時に引っ越していった子でさ。知ってる?……知らないか。2コ下なんだ。幼馴染ってやつでさ……。ここより都会に住んでいたんだけど、就職が決まらなかったらしくって、この辺まで仕事を探しに来たんだって。『久しぶりだね』とか言ってさ、わざわざ訪ねてくれて……、その、で、出来心ではあったんだけど……」
彼氏はいつになく早口で喋っていた。
私は内容が不愉快すぎてそれ以上聞きたくなかった。
怒鳴りつけてやろうか……そう思って私は口を開いたが、意外にも出てきたのは冷静な言葉だった。
「大事にしなよ」
「えっ……?」
「子供ができたんでしょ、しっかりしなさいよ」
「……そう、そうだな……。うん……」
「ふたりで頑張ってね。応援してるよ。じゃあね」
動揺しているような口調の彼氏を置き去りにして、一方的に電話を切ると、私はどす黒いものが胸にあふれてくるのを感じた。
こ……こここ子作りしやがった……。
アホかあいつ……責任取れるようになるまではって、私とはキスハグまでだったよね……。そりゃ私だってヒトパピローマウイルスが怖くて結婚するまではと思っていたのもあるけどさ……。あいつの純朴そうなキャラは何だったんだ……。
それに相手も相手じゃないの……就職決まらなくて幼馴染に会いに行く?
かなり不自然では?
今までそんな子が会話に出てきた事はないから、多分これが「最初の再会」なんだろうし、何か罠のようなものを感じる。
……その子供は本当に自分の子なのか、あいつ確認しないんだろうか……?
――ああ、もうイヤだ。こんな世界は間違っている。
私はこの世の全てを呪う勢いで、この世は滅ぶべきだと思った。
たぶんこの世のほとんどはあの彼氏とは関係がないだろうが、そんな事はこの時の私にはどうでもよかった。
人生で一度だけ!! 願いが叶うとしたら!!
この世よ滅びろ!! バカども!!
正体のわからぬ恨みつらみにまみれた私は、ただ心の中で叫んでいた。
そのイライラで壁や床をドンドンしたことはただの一度もない。そこは褒めてほしい。なのにどうして、どうして私はこんな理由で刺されなくてはいけなかったのか……。