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Story5 「大切なもの」

夢から覚めた天音は色付いてゆく日々を過ごす

そこで天音は大切なものを次々と自覚し始める

そんな中彼はあることが怖くなってしまう─

 目を覚ました。

 とても澄んだ瞳だ。

 ブルーブラックの瞳には強い意志がある。

 目の前には見慣れた自室の天井。

 相変わらずな朝かもしれない。

 朝が来たら夜が来る。昨日の朝まではそんな事を思っていたのかもしれない。懺悔をしなきゃ、抱える罪を数えて、忘れないようにしよう、と。

 相変わらずな朝かもしれない

 失敗をしないようにと、怯えながら起きていたのかもしれない。

 心当たりのない理不尽な怒りを他人から叩きつけられるのかも。 

 理由がないなら、あるわけない。大抵の人はそういう。…それでも心配だったか?

 そうだとも、彼は心配で不安でしょうがなかった。

 そんな朝が嫌いだった。

 相変わらずな朝かもしれない

 そうだとも。

 それでも今日は始まる。

 相変わらずな朝だが

 周りの人間もそうだろうが

 

 天音には、特別な朝。

 生きた心地がした朝。

 

 純白のカーテンはしばらく開けていなかったが、今日は開けた。目一杯の日光を浴びて、太陽を睨むように見た。

 そして彼はこう言った

「忘れない…忘れるものか…」

 人はすぐに夢を忘れてしまう。彼にとって太陽は忘却と不安の象徴かもしれない。

 太陽の光が眩しかった、目が眩んですぐに忘れてしまう、意識して作ったメッキのような自信を。

 太陽の光が、これからの未来を指すのなら、未来は彼の不安そのものだったから彼にとって太陽は不安そのものだった。

 夢と胸の暖かさを忘れないために、太陽を睨みつけ宣言してやったのだ。

 小さな一歩かもしれない、それでいい。

 小さくても確実な一歩だから。

 やっと未来に自分の道の線引きができた。

 

 相変わらずな朝を、繰り返される日常を、こんなにも綺麗な心で迎えられたことは、いつぶりだろうか。

 

 

 朝起きて、カーテンを開けて、太陽を見て、制服に着替える。

 ズボンを履いて、シャツを着て、ネクタイを締めて、上からブレザーを羽織る。

 いつもよりネクタイは少しキツめに締めた。

 居間に降りて、居間に入るドアの前で少し立ち止まる。

「…ふぅ…」

 これが、今の彼の全力だ

「おはようございます」

 ちゃんと人の目を見た。久しぶりに。

 

 天音の瞳は少しの驚きを灯した。

(…あぁ、案外)

 やはり見てみなければ、わからない。

 

 ずっと目を合わせずに挨拶をしてきた。

 友達と話した。

 授業のプリントを後ろの席の子に渡した。

 テストを返してもらった。

 黒板に数字を書いた。

 

 何も、何とも目を合わせようとしなかった、

 

 から

 

 わかるわけなかった

 

(案外)

 

 そう、案外

 

(見られていないんだ…)

 

 

 声をかけられる前から、冷たい視線を浴びさせられていると思った

 やはり理不尽なことだと、あるわけ無いだろうと、多くの人は思うのだろうか。

 しかし思ってしまう。理不尽なことでも、自分が何もしていなくても、自分が過去にやってしまった些細なことがある日、すべての人にバレてしまうのではないかという不安が常に天音に存在するから。 

 自分に当てられる視線はすべて、冷たいものなんだと思っていた。

 

(…そんなこと、なかったんだ)

 

 声をかけたあとに、居間にあるテレビをソファに座りながら眺めている祖父と、居間から少し離れたところにある食事をするテーブルに食器を並べている祖母と、欠伸をしながら少し遠くにある洗面台の鏡の前で髪の毛を整えていた兄が、天音の方に視線を寄こした。

 

 誰も見ていなかったのが、自分の声に反応した家族がこちらに視線を向ける。

 声を発する前に感じていた安堵は少しの不安を映し出した。

 

 しかし

 

(…あれ…?)

 

「…おお、天音、おはよう。今日は蠍座1位だったよ、ほっほっほっ」

 と蠍座の祖父

「…天音、おはようございます。朝ご飯の準備もうすぐできるからね。」

 と祖母

「…んぁ、天音おはよー。俺の髪変じゃないかな…あ、今日雨降るらしいぞ、折りたたみか、普通の傘持ってけよー。」

 と兄。

 

「…はい…」

 

 戸惑いすぎて情けない声で、はい、とだけしか言えなかった。

 

 そう、このときの天音の不安要素も冷たい視線だった。

 話しかける前から冷たい視線を浴びせられると思っていた天音は、そんな事はなかったと安堵し。

 話しかけたあとも冷たい視線を浴びせられないことに今度は戸惑った。

 

 

 家族の視線は

 

 想像よりもずっと

 

 温かくて

 

 

「…天音、どうしたんだ…」

 

 

 

 彼の瞳からは

 

 

 

 温かい涙が流れていた。

 

 

 

 

 そのことに天音は気づかずに。

 視線の暖かさと、優しさに心を震わせるばかりだった。

 

 祖父が、心配している。

 そのことに祖母が気づき、天音のもとに急いで来て困ったように口元に手を当てていた。

 兄は鏡を見ながら、どうしたのー?と呑気な声でこちらの様子を見て、驚いて手に持っていたワックスを落としてしまった。

 

 天音の瞳は相変わらず熱く、頬は温かい。

 

「…ごめんなさい…」

 

 ひどく小さな声でそんな言葉しか出なかった。

 謝ることに慣れていた。

 本当はありがとうとか、大好きだよ、とかもっと気の利いた言葉を言えればよかったと思った。

 

「…ごめん…なさぃ…」

 

 言葉を発する度に涙がどんどん溢れてくる。

 

 言いたいことが沢山ありすぎて、でも言葉にできなくて、とにかくごめんなさいとしか言えなかった。

 

 立ち尽くして、ただただ謝った。

 

「…天音、天音、どうしたんだ」

 

 祖父も祖母も心配そうに天音の顔を覗き込む。

 

「…あ、あまねが、…え、あまね…」

 

 兄は言葉を忘れてしまったように、あまね、とだけ繰り返す。

 

「…っ…ごめんなさぃ…ごっ、ごめっ…ふぅっ…」

 情けないと思いながら泣いてしまう。

 

 初めてだった。

 祖父母に涙を見せるのは。

 

 だからどんどん怖くなってきて、ごめんなさいは、心からの謝罪の気持ちが込められていく。

 

 そこで祖父が、天音の方に手をぽん、と置いた。

 

「…!」

 驚いて瞳を大きくする天音に祖父が

 

「天音、天音、どうして謝るんだ。私達は、お前が珍しくちゃんと目を見て挨拶してくれたことが嬉しいんだよ

 天音、何も泣かなくたっていいじゃないか、少なくとも私は、」

 

 祖父の瞳は弓なりに細められて、優しそうな色をより一層灯した。

 

「お前が泣いたら心が痛くなってしまうよ」

 

 祖父は全部知っていたのだろうか。

 天音が思っていたことや、抱えていた罪悪感を。

 

 瞳の涙は、今までにないくらい

 

 

 

 綺麗だったんだ

 

 

 

 

 本当に

 

 

「…嗚呼っ、ごめんなさい、こんな言葉しか出てこない…っ…ほんとは、ほんとは、もっと違うこと…っ思ってるのに…」

 

 嬉しいんだよ

 ほんとだよ

 

 一緒に泣いてくれるの?

 

 ほんとに嬉しいよ

 

 でも言葉が出ないんだよ

 なんでだよ

 こんな時に言葉が出ないんだよ

 

 臆病でごめんなさぃ

 視線に対する長年の恐怖が違ったことに安堵してしまって

 しかも、あなた達がとても優しい人だったということに心が暖かくて

 

 嬉しいんだよ

 

 嬉しいのに

 

 こんなにも優しいのに

 

 どうして言葉が出ないんだよ

 

 嬉しいよ

 ほんとだよ

 

 

 言いたいよ

 

 言えたらほんとに

 

 言えたらどんなに

 

 幸せなんだろう

 

 嬉しいよ、嬉しいんだよ

 

「…あ…ありがとうございます…っ…っ…」

 

 嗚呼、少し違うけど

 

 言えた

 

「…天音、…こちらこそ、ありがとう」

 

 祖父はしわくちゃの小さい手で天音の涙を拭き、天音を抱きしめた。

 

「…―――っぅーー」

 声にならない

 朝だっていうのにこんなに幸せなら、今日はもうこれ以上はないなと思った。

 

 

 貴方達には、すべて分かっていたんですか?

 そんなに優しいから、僕の空っぽな心に染みてしまう。

 嗚呼、大切が増えてしまう。

 

 

 いいのかな

 

 

「…行ってきます…」

 天音は少し大きな声でそう言って家を出ようとした。

 すると祖父母の大きな声が居間の方から聞こえた

「言ってらっしゃい、気をつけるんだよ」

 

 天音はなぜか頬を緩ませてドアを開けた。

 

 入ってくる外の光を浴びながら、彼は学校へ向かった。

 

 

 彼の通う学校は、地元では有名な進学校で、だからといってとてもレベルが高いわけではなく、中の上くらいのレベルである。

 天音の家から学校までは歩いていける距離であり、バスでも無難な距離にあるので、雨の日はバス、それ以外は基本歩きで通っている。

 

 いつもの道なのに色彩が少し違って見えた。

 味のしないような、そんな道のりだったのに、よく周りを見渡すと、小さな花が健気に道路脇に咲いている姿や、電柱の上から雀が自分たちと空を見渡していること、通りすがる人の殆どは犬の散歩で、犬の散歩をしている人は犬に注意を集中させていたことに気づいた。

(やっぱり、案外自分は誰にも見られていないんだ)

 今までずっと怯えていた視線という存在が、自分に向けられていることが少ないんだと改めて理解すると、ひどい安堵感があった。

 少し猫背だった背中を久々にぴんと伸ばしてみた。

 目立たないように生きてきたけど、目立ってなんていなかったし、案外みんな自分のことにしか興味がないんだなと思った。

 視界が開けるようだった、見えるものが広がってなんだか心が清々しかった。

 今日も同じように授業を受けるのかな…いいや、そんな事はない、少し、大きな声で、発言してみようか、そうしよう。

 そんなことを心に秘めながら学校に向かった。

 早めに学校につくので、昇降口は人が少なくあまり緊張しない

 

 階段を登る

 天音は高校2年生なので二階に教室がある

 ゆっくりと階段を登る

 一段ずつ進んでゆく

 

 階段を登って、廊下に出て

 曲がって

 

 自分の教室まで長く感じる廊下を

 

 着実に進んでゆく

 静かな朝

 冬だから朝日が、澄んだ朝特有の光り方を見せる

 

 

 ドアの前に立った

 ドアに手をかける

 

 手元を見ながら

 少し深呼吸

 

 ガララ…

 

 ドアを開けて

「…おはよう…」

 そう言った

 

 教室の中には

 いつも早めに行っているから、よく話す子が多かった。

 他に人はあまりいなかったし、

 他に人がたくさんいたら、流石に言えないけれど、

 

 言えた。

 

 そしたら、みんながこちらを向いた。

 

(…!?)

 

 まずい

 やってしまった

 

 もうだめだ、

 

 やっぱり家族だけだ…うまく行くのは…

 

 そんな後悔がよぎり、

 すぐに消えたくなった

 

「…おはよう」

 少し動揺したような挨拶が返ってきた。

 時々話す子だ。

 その子の声を皮切りに何人かの話したことがある人が挨拶を返してくれた。

 

 空気が和んだ気がした。

 その時天音は嬉しさに少しだけ心が鳴った

 

 

 やっぱり、当たり前のことなのかもしれない

 こんなことに驚くなんておかしいのかな

 

 でも僕はこれがとても嬉しいんだよ

 

 挨拶は当たり前?人の目を見て話すのは当たり前?

 そうだよね

 僕もそう思う

 でも

 

 怖いときはどうすればよかったんだろう

 

 僕はできなかったけど

 後悔してるけど

 

 今こうして出来たから

 すごく嬉しいよ

 

 この後悔も、受け入れて

 今日はきっと

 いい日になるな

 

 そう思って

 挨拶を返してくれた子にアイコンタクトを取りながら会釈したり、少し話したり、ぎこちなかったが、いつもの天音とは大違いだ。

 

 他の人も少し驚いている様子だった。

 でも他の人からしたら、あんなに話してくれなかった天音がやっと自分から挨拶してくれたということに心の中で子供の成長を感じる親のような感情になっていた。

 

 誰も天音のことを嫌ってはいない。

 天音は他の人から見ると、少しミステリアスな子というイメージがついていて、話しにくいが、話しかけるとまぁまぁ愛想よく話してくれるという印象である。

 シャイなのか、クールなのか、はたまた自分たちのことが嫌いだからなのか、中々話してはくれないため、少し話してくれるだけでなぜかみんな嬉しい気持ちになる。

 それは天音の見た目が並より少し秀でているからなのかもしれないし、中々話さない天音が少し話すことがある種のギャップ萌えを醸し出しているのかもしれない…。

 とにかくレアキャラとして見られていた。

 本人は気づいていなかったが…。

 

 このような理由で、我が子の○じめてのおつかいを見る親のような気持ちになっていたクラスメイトたちであった。

 

(話せた…よかった…)

 天音本人はこう思っているのだが…

 

 ******

 ふと窓の外を見た

 

 まだ晴れている

 傘は兄に言われて持ってきているから大丈夫だが、天音は雨が嫌いだったので、晴れていて良かった、と心の隅で感じていた

 

 黒板にチョークがカツカツ当たる音が聞こえる

 線を引くときのザッという音が天音は好きで

 時々、考えることをやめて聞き入ってしまうが今は授業中だからいけない

 

「…ということで、Z軸が出てくる…それで…」

 

 数学の授業

 

 天音はいつも黒板を写して問題を解くだけだったが、今日は担当の先生の目を見て話を聞いたり、頷いてみたりしていた。

 よって先生は天音を指した。

 よく目が合う生徒のことを先生というものは指すのだ。

 当たり前のことかもしれないが、天音は驚いてしまう。

「…巫…どうだ…解けたか…?」

 先生はチョークのついた指を払いながら天音に問う。

 天音は驚いて解いたはずの問題の答えを見失ってしまって、より焦りだす。

 クラスのギリギリ起きている者たちは珍しく天音がさされていることに驚きつつ、天音のことをじーっと見つめる。

 その視線に気づいて、更に天音は焦るが、ようやく答えを見つけ、

「…XY面です…」

 とだけ答えた。

 あっているのかはわからないので、ひどく怖がっていたが

「…うん、…そうだな…ああ、正解だ…、いいぞ、座れ」

 答えを探し確認した先生も天音を珍しく指したのでちゃんと答えてくれた天音に対し少し嬉しそうに、合っているということを教えた。

「…ふぅ…」

 一方の天音はひどく安心し、座ったあとも心臓がまだうるさくて、しばらくペンを持つ手を動かせなかった。

 

 しかし、達成感はあったし、いつも感じていたわかっているのに発言しなかった自分への後悔がなかった。

 そこが天音にとっては特別嬉しいことなのであった。

 

 

 なんてことない日常

 心がいつもより静かで居心地がいい

 

 なんだか、静かで幸せだ

 

 

 ******

 

 

 帰り道、周りの友達の方から誘われて、天音は友達と帰ってみた。

 兄の天気予報は外れて結局一日中晴れた。

「…天音さぁ、いつもあんまり喋んないじゃん…?俺、今日天音の方から挨拶してくれたのめちゃめちゃ嬉しくてさぁ…」

 と、教室では右隣の席の伊藤いとう陸人りくとが言う

「それな!めちゃめちゃ嬉しかったよ…もう、うちの子の成長に感極まっちゃって…」

 と泣く母親のような真似をする出席番号1番の藍川あいかわ高都たかと

「…お前誰役だよ!www

 高都が母親なら俺は天音の曽祖父やるわ!」

 と謎のボケをかます、クラスでは大人しいが、友達と話すときはすごくうるさい高槻たかつき千紘ちひろ

 天音はこの三人と一緒に帰っていた。

 相変わらず聞き役だが、話を振られたら愛想良く返す。

「…天音ぇ〜!俺お前に嫌われてんのかと思ってたわ〜」

「なわけ無いだろ藍川!お前俺らに“天音が一番話してくれんの俺☆”つって話してただろwww」

「でもさぁ〜陸人ぉ〜お前だって思ったろ?」

「…ん〜、まぁたしかにそういうとこもあるけど…」

 少し天音の顔色をうかがうように気まずそうに話す陸人。

 天音はそれに気づいたのか

「…そんなこと、ない…」

 本心を打ち明ける

 嫌いじゃないという意思を人に伝えるのは案外照れくさいものだ

 天音はうまく三人に目を合わせられず俯き気味になる。

 この三人とは他の人よりはよく話すので言おうと思った。

「…なんか、うまく、言葉が出てこないけど…そんなことないから…

 いつも話しかけてもらうの、ちゃんと嬉しいし…」

 友達ってこんな会話するか?と心の中で、思いつつ、自分の言っていることが途端に恥ずかしくなった

 恐る恐る三人の様子を伺うと

「「「…天音…」」」

 声を揃えてキラキラした瞳で天音のことを見つめてくる

 これはもはや親 

「…お前ってやつは…っ…俺、めちゃめちゃ嬉しい…!」

 素直に心の内を言葉にできるタイプの陸人は素直に喜んでいた

「…天音…お前……おい…こっちまで恥ずかしいわ」

 と言いつつ嬉しそうに後ろ髪をクシャッと掻く高都

「…俺は天音が嫌いじゃないとかそういうベクトルじゃない、

 天音と俺は親友だと思ってる」

 と正々堂々宣言する千紘

 天音はなんだかむず痒くなり、

 ムッとした表情でそっぽを向いた

 

 でもほんとはすごく嬉しかったから

 

 天音は少し口の端を上げた

 

「じゃあ…」

 と天音が三人に言うと

 三人とも声を揃えて

「天音!!

 “また明日”な」

 そう言って帰っていった

 

 天音は夕焼け色に染まる瞳を大きく開いて

 小さくこう呟いた

「…また、…明日…」

 胸のあたりがじんわり暖かくなっていくのを感じながら

 天音は家の門の敷居をまたいだ。

 

 

 

 

「…ただいま」

 なんだかいつもよりも足取りが軽くて、扉の敷居をまたぐ足が少し揺らついた。

 しばらくしてから返事が返ってくる

「…おかえりなさーい!」

 嬉しそうな祖母の声は遠くから聞こえてきたと思えばだんだん近づいてくる

 もう年は結構重ねているはずの祖母の足取りの確実さに、天音は自分より幸せそうな、確実な人生を送っている祖母に小さじ一杯の羨ましさと、大匙2杯の嬉しさと愛しさを感じた。

 その胸のじんわりとした感覚に気づいた天音は何かを悟る。

「…っ」

 少し息が詰まったものの、もう一度目の前にやってきた祖母に言う

「ただいま」

 自分なりに瞳を弓なりに細めて、口の端を少し上げて、気持ちを伝えるように丁寧に言葉を発した。

 すると祖母はいつもと違う天音に、いつもよりも本気で言葉と感情を伝えようとしてくれた天音に、少しだけ、グレーがかったブルーの瞳を開き、しばらくして瞳を緩め、穏やかに口元を緩めて

 重ねた分の年相応の、刻み込まれた目元のシワをくしゃりとして笑顔で、

「…おかえり、天音」

 そう言って天音の持つコートを持って、天音とリビングに向かった。

 

(…嗚呼…僕は…)

 

 ******

 

 祖父はまだ仕事らしい。

 いつも座っているソファの位置に今朝読んでいた新聞をキレイにたたんで置いてあった。

 祖母がやったのだろう。

 確か祖父は毎朝読みきれずに新聞を雑に畳み、急いで仕事に行く。そして、祖父を見送った祖母はその新聞をきれいに折り畳んでその位置に戻し、帰ってきてから読めるように置いておくのだ。

 いつもならそれについて考えることはあるが、大して何も感じはしなかった。

 でも天音はそれを見てすごく心が暖かくなって、

(…僕は、僕はあの人たちが大切なんだ…)

 祖母の細やかな祖父への愛を感じて、ただそれだけなのに、ひどく嬉しくなるのは、天音の心が繊細な証拠。

 些事に敏感でも、細やかな気遣いに気づくことができるのは、繊細な心の持ち主の特権。

 優しさを感じることは嬉しい

 それが自分に向いてなくても嬉しく感じるのは、その人が、相手の気持ちを感じ取るのが得意だから、いつも相手の気持ちを考えているから。

 

 ******

 

「…ただいまぁ〜」

 兄が帰ってきた。

 兄の名前は心羽ここは

 なんだか女の子っぽい名前だと思うだろうが、亡き母、蘭華らんかは生まれてくる兄を女の子だと思い、亡き父、零優れいゆうも完全に女の子が生まれてくると思い、生まれる前に、家族親戚に名前を言いふらしてしまったのだとか、それにより、男の子が生まれてきたのだが、その名前で貫き通した。

 という経緯で、彼の名は心羽なのである。

 そんな兄が帰ってきて、天音は新聞紙を見て少し緩んでいた口元を我にかえり引き締め、兄の方を見た。

 相変わらず天音とは正反対といったところか、

 天音と同じ色の髪であるが、瞳の色が少し母寄りの、赤紫で、天音のコバルトブルーにくらべて赤みが強い。ちなみに天音は父よりのコバルトブルーからブルーブラックである。

 髪型に関しては、天音は襟足が少しだけ長めのハンサムショートといったところだが、心羽は前髪を上げ気味に分け、耳上辺りで髪を切りそろえてあり、襟足もきっちり切られている。いわゆるマッシュヘアだ。

 ピアスも右に3、左に5開けており─ちなみに、彼は大学生でピアスは許されている─服装もストリート系に近いファッションを着こなす。

 中性的な顔立ちの天音とは違い、眉もシュッとしていて、女性より少し大きめな口で男性的な顔立ちをしている。

 心羽はニ番目の兄で一番目の兄はとても年が離れていてもう家から出ていき仕事についている。


「…おかえりなさい」

 と、天音

「あら、おかえり、心羽」

 と祖母

 心羽はしばらく天音がおかえりと言ってくれたことにフリーズしていたが、満面の笑みで

「…ん、ただいま!」

 元気な兄である。

 天音より、精神年齢が低そうだ。

 

 ******

 

 夕食も、祖父が帰ってきてから食べるとき、彼は会話を楽しみ、人と心を触れ合わせることの大切さにより気づくのだった。

 

 今日は気づくことが多すぎるなぁ。

 

 でもとても良い日だったんだろうな…

 

 そう思いながら天音は自室にいた。

 風呂上がりの濡れた髪をタオルで拭きながら、ぼーっと窓から覗く月を眺めた。

 

 あれ…

 こんなに幸せでいいのかな…

 

 

 ふとそう思って

 手を止めた

 

 

 どうしちゃったんだろう…

 

 ひどく心細い

 

 独りってこんなに怖かったっけ

 

 一人のほうが安全じゃなかったっけ

 

 誰も傷つけることはないから一人のほうが

 安心してたよなぁ

 

 見ていた月が歪んだ 

「…あれ…?」

 なんで涙が出るのか、

 どうして人は涙を流すのか、

 なんのために天音は泣いているのか

 天音にもわからなかった

 

「…どうして…」

 急に胸の奥が苦しくなって、息ができないくらい喉元が詰まった。

 

(…誰か…………なんて…)

 

 苦しさに必死に息をしようと空気を求めた

 

 あんなに消えたがっていた人間でも、息ができなくなると、皮肉にも息を求めてしまうのは、どこまで行ってもその人が人間だから

 

 生存本能は、心の問題なのだろうか、体の問題なのだろうか

 

 誰も分からない

 天音もわからない

 

 わからないまま息を求めて

 空気を掬う

 

(苦しい苦しい)

 

 これは体の異常か、はたまた心の不調か、

 天音はしばらく気づけなかった

 

 

 そしてしばらくすると気づくのだ

 

 嗚呼

 僕は

 怖いんだ

 

 人が?

 

 違くて

 

 失うことが

 

 途端に怖くなる

 こんなに幸せなのに

 急に考えてしまう

 

 なくなったりしないよね…?

 

 怖い

 この幸せが無くなることが

 

 怖い

 

 嗚呼

 

 弱くなったのかな

 

 自分の過ちをもう一度数えてしまいそうになる

 

 でもそれも

 

 前よりも辛くなる気がする

 

 心が弱くなってしまったようだ

 

 

 

 僕は家族が

 

 大切なんだ

 

 

 このささやかな幸せを失うことが怖くなってしまった

読んでいただいてありがとうございました

天音は大切なものを次々と見つけていきましたね

あの三人組、優しい友達ですね

でも天音は息が詰まってしまいました

「誰か…」の先を彼はいつも紡げません

それには彼の過去も関係しています

彼の過去編はもう少しあとの方になりますのでお楽しみに♪

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