名前のない本
優しい声が聞こえる。
言葉の意味をひとつひとつ丁寧に拾い上げるように物語を読んでくれた。ベッドの中でその声を聞いていると幸せな気持ちになる。
もっと聞いていたい、そう思っていても幼い子には眠気に抗うことはできず、夢の中へと誘われていく。
また別の夜には、楽しい声が聞こえる。
物語の背景まで感じさせてくれるその声は、物語を楽しく彩り、ワクワクさせてくれた。ベッドの中にいるのにまるで別世界を冒険しているかのような気持ちになる。
早く先の話を聞きたい、そう思っていても幼い子には眠気に抗うことはできず、夢の中へと旅立っていく。
毎夜同じ話をしてくれる母と父の読み聞かせの時間がミステルは大好きだった。
同じ話をしているはずなのに、読み手が代わるだけで違う印象を受けるこのお話を毎回がんばって聞いていたが、どうしても最後まで耐えられずに眠ってしまう。
翌朝になって続きをねだってみても、二人とも夜にならないとお話をしてくれなかった。
少し残念だが、あの読み聞かせの時間も好きだから我慢する。
そして夜になって、母か父が読み聞かせをしてくれるが、やっぱり我慢できずに眠ってしまう。
毎日毎日同じように繰り返した幸せなやり取りである。
しかし、その幸せなルーティーンは容易く崩れさってしまう。
事故だったらしい。
旅行中に乗っていた車が道を踏み外し、そのまま崖下へと落ちていってしまった。その時眠っていたミステルには分からなかったが、両親が守ってくれたおかげでミステルだけが助かったようだ。
ひとりぼっちになってしまったミステル。
あまりに唐突な出来事に理解が追いつかなかったが、周りにいる大人たちがとても悲しんでくれていたことを覚えている。悲しみが追いつかない自分の代わりにたくさん泣いてくれていた。
その後ミステルは親戚へと預けられる。親戚のもとではとても良くしてもらえた。ミステルはどの家からも引っ張りだこで、定期的に引っ越しをするほどだ。
両親の人徳もあり、娘であるミステルを可愛がってくれる人ばかりであった。両親を失ったミステルであってもこのまま生きていけば普通に幸せになれるだろう。
だが、ミステル自身が両親を忘れられなかった。
あの読み聞かせの時間を夢見る日々が続く。優しい言葉を、楽しい物語をもう一度感じたいと思ってしまう。
なのでミステルは本を読むことにした。
黙々と本を読んでいる間は大人たちも安心して放っておいてくれるし、あのお話を見つけられるかもしれない。
父と母の想いを求めてミステルはさまざまな本を読み漁る。
そして、探し物の過程で読んだ本はたくさんのことを教えてくれた。
心踊るお菓子の世界のことや優しいぬいぐるみがいっぱいの世界。カッコいい冒険家がドラゴンと旅をしたり、恐ろしいアクマが人助けをしたり。
ミステルの空虚な心を埋めるべく、本からたくさんの物語を経験する。
本当は読んだ本のことを両親に聞いて欲しかった。
楽しいことも悲しいことも聞いて欲しかった。
だが、もう両親には会えない。悲しいことにミステルは歳のわりには聡明だった。死んでしまった両親にもう会えないことを幼くも理解していた。
そう、理解はしていたのだ。
だが孤独感は膨れ上がる一方である。どんなに周りのサポートがあろうと、この感情を乗り越えるには本人の強い意思が必要だ。
だが、幼き少女に孤独の辛さはあまりにも酷であった。
そんな孤独感を押し込めて次の本を読もうと手を伸ばした時である。
「?」
カゲが立っていた。
夕陽が赤く染める部屋の中でその部分だけを黒く切り取ったようにカゲがそこにいた。
「だれ?」
問いかける声はカゲを素通りし、代わりにカゲは手を上げてミステルを指さす。
気がつくと、いつの間にかミステルの手の中に一冊の本があった。
厚い装丁のわりに軽く、なんだか手によく馴染むような不思議な本が。
「……」
この本はどこから出てきたのか。なぜいきなりミステルの元に現れたのか。
そんなことはミステルの頭に一切浮かびあがらなかった。
この本にはいったいどんな物語が書かれているのか。いったいどんな世界を教えてくれるのか。もしかしたらこの本の中にあのお話が書かれているのか。
ミステルの頭にあるのは純粋な好奇心だけだった。
ゆっくりと本に指をかける。
高鳴る鼓動に身を委ねるまま本を開くと、そこから眩い光が溢れ出す。
カゲは光に飲み込まれ、そして光と共に飛び出してきたモノを見てミステルは思った。
よかった。これでもう独りじゃない。
朝起きて身支度を整えるとミステルはすぐにココロの部屋へと向かうためにテントをとび出す。片手にはがおたんをしっかりと抱えている。
ハウラから逃げ延びてきた避難者たちは簡易拠点の建設のためにすぐそばで寝泊まりをしていた。
拠点は少しずつ出来上がっており、ミステルが起きるころには大人たちはすでにあわただしく働いていた。
世界の守護翼と連携を図り、目まぐるしく建設は進んでいく。
そんな大人たちを横目に見つつミステルはビャコ支部へと急ぐ。
「はやくいかないと……」
借りてきた本を夜遅くまで読んでいたため少し寝坊してしまっているので、いつも以上に焦っていた。
きっとココロが待っているだろうと思うと自然と駆け足になってしまう。
「ちょっと待った!」
「?!」
先を急ぐミステルの前に小さな人影が行く手を阻んだ。
「急いでいるみたいだがちょっと話をきいてくれ」
行く手を阻む影はミステルと同世代くらいの男の子だった。
ミステルが止まるのを確認すると、広げていた手を降ろして、いたずらっぽく笑う。
「キミも避難してきた子だよね? オレはアレグレ。キミと同じで避難してきた子どもの一人だ」
「な、なに?」
アレグレは温和に話しかけるが、突如現れたその姿にミステルは少し怯えていた。
「大人たちがなんかいろいろ建てている間、オレたち子どもたちがほったらかしだろ。なーんかつまらないって話だ」
「うん」
「だからさ、子どもだけで集まって楽しいことを探しに行こうぜ!」
「たのしいこと?」
「そうさ。ここにはオレたちの知らない物たちがたくさんある。これは冒険するしかないって!」
キラキラとした目でアレグレは力説する。
「え、そうなの……?」
「ああ、仲間もすでに集まってる。キミで五人目だ」
「でも……いきなり……」
「冒険はいつだって突然だ! さあ、行こう!」
「あ……!」
アレグレはミステルの手を掴み走り出す。
(……や)
扉から離れていく。
ココロが待っているはずの場所が遠ざかっていってしまう。
(おねえ……ちゃん……)
一緒にいて、本を読んでくれて、微笑みかけてくれた暖かさが感じられなくなる。
(もう……いや……)
両親を失い、周りの大人たちともコミュニケーションを避けていたミステルには圧倒的に人との関わりが足りていなかった。
そんな彼女の前に久しぶりに温もりを感じさせてくれたのがココロだったのだ。
(また……いなくなっちゃう……)
心の奥に押し込めていた悲しみがじわじわとにじみ出す。
冷えていく体の中と反比例して抱えていたぬいぐるみのがおたんが熱を帯びていく気がする。
「……や」
自身でも気がつかないくらいの小さな声がミステルの口から漏れる。
感情が抑えきれない。
「いやぁぁぁぁ!」
「うわ、なんだ!?」
アレグレが驚いた拍子にミステルの手を離す。事情を知らないアレグレは、急に叫び出したミステルのことをどう思っただろうか。
だが、ミステルはそんなことを気にする余裕はなく、突如目の前に現れた一冊の本に釘付けだった。
これはあの時、あの夕陽が射し込む部屋に現れた本と同じ物。
本はゆっくりとミステルへと近づいていく。
ミステルは宙に浮かぶ不思議な本を掴み、ただひたすらに想う。
(もう、こんな、かなしいところにいたくない……!)
「ガオオオオオ!!」
近くから雄叫びのような声が聞こえた気がしたが、ミステルの意識はここで途切れる。
(おねえ……ちゃん……)
途切れる瞬間、ただココロを求めて。
「ミステル、いったいどこへ行ったんでしょうか」
いつもの時間にミステルが現れないことを不安に思ったココロは、彼女が寝泊まりをしているテント広場へと足を運んできた。
辺りには建設用の資材が積み重なっており、所々に危険を示す黄色と黒の看板が立っている。
人も多く、あちこちで声が上がっていた。
避難している人たちには少し申し訳ないが、活気があるのは良いことだと思う。
人が作業している様子からは諦めない心意気を感じさせてくれる。
自らの未来を切り開こうという意思は、いつだって周りの人々も活気づけてくれた。
「みんな、がんばっていますね」
ココロが作業を眺めていると、近くにあった大きな土嚢が持ち上げられた。
あまりに大きな物だったので人力で運ぶ物だったのかと驚いていたら、持ち上げた人物がココロに気がついて話しかけてきた。
「ココロじゃねぇか。久しぶりだな」
「ヴノ!」
持ち上げた土嚢を肩に乗せたヴノは片手を上げて挨拶をする。
首にタオルをかけている様は完全に土木現場にいる作業員といった感じだ。
「お久しぶりですヴノ。今はここでお仕事をしているんですか?」
「おぅよ。なんやかんやあったが無事に職にありつけたぜ。お前のおかげだ」
「いえ、私はなにも……」
「どこからか飛んできた酒にも助けられたぜ。アレのおかげで牢屋の中も夢心地だったぞ」
「そ、そうですか。でも、拘留場所は厳しい環境だと聞いていましたけど……」
「屋根と壁があって、襲われる危険がないところならだいたい楽園だ」
「あはは……」
そう言い切られてしまえば苦笑いをするしかない。
ヴノも元々いた世界で放浪の旅をしていたようなので胆力が鍛えられているのだろう。
「で、こんなところで何やってんだ?」
「あ、実は――――」
「コラ!」
「いでででで!?」
突然現れたミラノに耳を引っ張られてヴノは叫びだした。
「なに油売ってんだい! ただ飯食った分はきりきり働きな!」
「分かってる、分かってるからその手を離せ!」
ヴノは耳を引っ張られながらも土嚢を落とそうとしない。大したものだ。
「あ、ミラノ」
「おや、ココロじゃないかい。こんなところでどうしたんだい?」
ヴノの耳を引っ張りながらミラノはココロに気がつく。
「この辺は作業機械がいろいろあって危ないからミステルと遊ぶなら別のところにしなよ」
「いえ、そのミステルがなかなか来ないので迎えに来たんです。どこにいるか知りませんか?」
「そうなのかい? そういえば、今日はまだあの子を見てないね。昨日はテントの明かりが遅くまで点いてたから寝坊でもしたんだろう」
「そうですか。ミステルはここの本がよっぽど気に入ったみたいで。この前も図書資料館で借りたきた本を読み終えてすぐに新しいのをせがまれちゃいました」
「そっか、仲良くやってるようだね」
「司書さんともとても仲良くなったみたいですよ。今は多言語翻訳のための本を読んで勉強しているようです」
「まさか、あの分厚い教材を読ませているのかい?」
「内容は難しいかもしれないですけど、ものにできれば読書の幅がとても広くなるので」
「そりゃ、将来有望だね」
「話し込むなら耳を離してからにしやがれ!」
「ああ、ゴメンゴメン」
ようやく解放されると、ヴノは一歩距離を取って土嚢を地面に下ろした。
「ったく、人の耳をなんだと……」
「いや、アンタの耳ってなんか掴みやすくてね」
「俺の耳はナベの取ってじゃねぇんだぞ!」
「あはは……」
賑やかなやり取りの前にココロはまた苦笑いをした。
「あら皆さん、ご苦労さま」
そんなところに、ファーネもやってきた。
「あ、ファーネさん。おはようございます」
「ええ、おはようココロ。作業も順調みたいですね」
ファーネは建設中の建物を眺めながら何やら紙に書き込んでいる。
その紙をミラノが覗き込む。
「報告書かい?」
「ええ、新しい人も加わったわけですし、いろいろと記録をとっておかないと」
「上のやつらの機嫌をとるのも大変だねぇ」
「もう、そんな言い方しないの。これも仕事のうちなんですから」
「はいはい」
煩わしそうに手を振るミラノ。
「ファーネさん」
会話の間を見計らってココロが話しかける。
「ミステル見ませんでしたか? 探しているんですけど」
「ミステル? あの子ならさっき本館の方へ走って行くのを見ましたよ」
「入れ違いましたか。行ってみます」
ココロはすぐさま踵を返して走り出す。
「少しは元気になったかしらね」
「ま、今のところはね」
走り去るココロの背中を見つめるファーネとミラノ。
その視線に気づくことなくココロはミステルを探して辺りを見回す。
「あ、いました」
本館へと続く扉の前で同い年くらいの男の子と話をしているようだ。
姿を見つけた安堵から速度を落として歩き出す。
「お友だちでしょうか」
背中しか見えないのでミステルの表情は見えないが男の子の方は楽しそうだった。
その男の子がミステルの手をとって走り出す。
「あ、ミステル」
どこかへ行く前に声をかけておこうとココロが手を伸ばす。
「いやぁぁぁぁ!」
「うわ!? なんだ!?」
二人の悲鳴が聞こえた瞬間、辺りが光に満ちる。
「これは、想造力の光……!」
抑えきれない感情の変化からミステルの想造力が解き放たれたのだ。
「ミステル!」
ココロが叫ぶ。
強すぎる想造力の解放は精神を傷つけてしまう。
落ち着けさせなければならない。
「ガオオオオオ!!」
「うおおお! すっげぇぇ!」
「え!?」
光が収まりココロは目の前の光景を前に驚愕する。
一つは本を持ったまま気絶しているミステル。
一つは巨大なドラゴン。見た目はぬいぐるみ。
一つはそれを見て興奮している男の子。
「え、えっと」
突然のことで理解を追いつかない。
あのドラゴンがミステルの想造武具なのだろうか。
「違う……。あのドラゴンから感じるのは想造力だけじゃない……!」
「ココロ!」
騒ぎを聞きつけたファーネが杖を持ってココロの前に立つ。
それに続いて弓を携えたミラノと斧を持ったヴノも合流する。
「これは、いったいどういうことなのココロ?」
自身の想造力を高めながらファーネがココロに訊ねる。
「……ミステルの想造力が覚醒されました。でも、どうやら負の感情による覚醒だったみたいで……」
「感情の解放してしまったのね……」
「はい……。早くミステルを安心させないと……!」
「待ちなさい!」
ファーネは走り出そうとしたココロの肩を掴んだ。
「不用意に近づくのは危険よ。まず、あなたが落ち着きなさい」
「でも、ファーネさん! ミステルが!」
「ガオオオオオ!!」
その時、ドラゴンが咆哮を上げた。それに反応してミステルの持っていた本が輝き出す。
本は彼女の手を離れると地面に沈んでいった。
「なんだ?」
不思議な本の動きを訝しがってヴノが見つめる。
その直後、巨大な本が開いた状態でココロたちの足下に浮かび上がった。
その大きさはミステルはおろかココロたちを飲み込んでしまうほどだ。
「いけない!」
「きゃっ!?」
とっさの判断でファーネがココロを突き飛ばした。
ココロは巨大な本の範囲から逃れる。
「ファーネさん!」
「ココロ、すぐに他の支部に連絡を――――」
ココロに指示を伝えようとするが、本が閉じると共にファーネの声も途切れてしまった。
ミステルも男の子もファーネもミラノもヴノもドラゴンも、すべて本に飲み込まれた。
本は小さくなっていき、抱えられるくらいの大きさに戻ると何事もなかったかのように地面に置かれている。
「み、みなさん……」
後に残されたココロは呆然としていた。
助けようとした人も助けようとしてくれた人もいなくなってしまった。
「ミステル……」
ミステルの名前を呼びながら本へと近づく。
見た目はしっかりとした装丁の分厚い本だ。だが、表にも背表紙にもタイトルは書かれていない。
本を開こうと手を伸ばすが、その手を止めた。
「想造力を感じる……」
微かだが、複数の想造力を感じとることができた。この中にみんながいる。
「ココロ様!」
騒ぎを聞きつけたビャコ支部のスタッフたちも駆けつけてきた。
「何事ですか?」
「……ファーネ支部長たちが不安定な想造武具に囚われました。大至急他の支部に救援要請をしてください」
「わ、分かりました!」
「それと、この本が件の想造武具です。取り込まれる可能性が高いので誰も近づかないように通達してください」
「了解です」
スタッフたちはそれぞれ走り出す。
これで支部から救援が来るまで誰もこの本に触れないだろう。
「私も準備しなくちゃ」
ココロは自室へと駆け込む。
ミヅキからもらった回復薬とファーネからもらった結界術の練習用の折り畳み式杖をポシェットにしまい腰に付ける。
支度を整えているところで、机の上に置かれたままの物に目を止めた。
それは、マモルからもらったリボンである。
「マモル……」
リボンを手に取って胸に抱くと目を閉じる。
「マモル。あなたが助けてくれた命を、また危険にさらすかもしれないです。そんな私をマモルは許してくれるでしょうか……」
これが正しい行為なのか分からない。
本来ならば救援が来るまで何もしないことが正解のはずだ。
「また間違えてるかもしれません。でも、それでも私は……」
しばらく考え込んでいたが、やがて目を開くとココロは部屋を後にする。
後に残されたものは、机の上に置かれ何も言わないリボンだけであった。




