6 こ、殺さないで!
いじめ方が、メンタルからフィジカルへの攻撃にシフトしたようだが、ナユタは特段気にしなかった。こういう事には慣れているのだ。
母の死後、五歳から九歳までの四年間を、ナユタは見知らぬ男の屋敷に引き取られて過ごした。そこにはその男の妻と息子がおり、ナユタを夫の不貞の結果だと思い込んだ末、憎しみと怒りを込めて、ナユタをなじり、いたぶった。言葉の暴力、力の暴力、その両方を受けて、ナユタは虐げられ続けた。生傷の絶えない日々。心というものがあるなら、流血していた。書庫に逃げ込んではひたすら本を読み、知識を蓄えた。食事も寝床も満足に与えられない生活は、まさに地獄だったが、ナユタは耐え抜いた。
そして我慢の果てに、嵐の夜、男の妻を刺殺した。
厨房から拝借したペティナイフで刺し殺したのだ。
正確には生死の確認はしないままだったが、恐らくは、死んだ。
その後も立ちはだかる壁は、ことごとく排除してきたが、まさか自分が排除の対象になるとは。なかなかに皮肉がきいていて、笑える。
ある日の放課後、日直だったナユタは、黒板の文字を消していた。教室には下校せずにたむろす生徒が何人かいたが、ペアを組むフェリアはゴミを捨てに行っていて不在だった。
その隙を狙われたのだろうか、突如、ナユタは両脇から二人に羽交い締めにされた。
「!?」
黒板消しが右手から床に落ちた。
身動きが取れない。
そうこうしていると、後ろから今度は目隠しの布が巻かれて、視界を奪われた。
「調子に乗りやがって。これを食らいやがれ」
「んぐ」
口を指で無理やり広げられて、何かが押し込まれた。
それは粉末状の何かだった。
大量に流し込まれたので、口腔内を圧迫し、呼吸を阻害された。
「げほげほげほ」
ナユタは激しく咳き込んだ。上手く息が出来ない。生理的な涙が目尻に浮かぶ。
粉末はさらさらとしており、唾液と混じって上顎や下顎にへばりつき、気持ちが悪かった。味は苦く、舌にまとわりつく上に、ピリピリとした刺激がある。
どうも、黒板の下に溜まったチョークの粉を押し込まれたらしかった。
ガクリ、とナユタが床に膝を突くと、我先にと攻撃が始まった。
ある者は頭を殴り、ある者は鳩尾を蹴りつけ、ある者は背中を蹴り叩く。
一体何人から攻撃されているのか、それすらもナユタには知りようがなかった。
「うっ、うぐっ」
口内の気持ち悪さと、暴力の痛みにナユタは耐えなければならなかった。多勢に無勢で卑怯極まりないが、いじめをするような輩にそんな概念はない。ナユタを痛めつけられればいいのだ。
されるがまま、反撃出来ないのが口惜しい。静かな怒りが、ふつふつとナユタの心中に湧き、青い炎のように揺らめいた。
「なにしてんのよ、あんたたち!」
鶴の一声が上がった。
攻撃が止んだ。
ゴミ捨てに行っていたフェリアが戻って来たのだ。
「まずい、委員長だ!」
「逃げろ!」
両脇の拘束が解け、ナユタはその場に両手を突いた。
「げほっげほっげほげほ」
「待ちなさいよ、あんたたち!」
逃げて行く暴行犯たちを、フェリアが責め立てるが、残念ながら逃走を阻止することにはならなかった。
「ナユタくん、平気?」
近寄って来たフェリアが、目隠しを解いてくれた。
途端に視界が開けたが、光に目が眩んで上手く像を結べない上に、チョークの粉のせいで口がきけない。これでは何も出来ない。
ナユタは涙で滲む視界のまま、廊下に出てほとんど手探りで水道の蛇口を捻った。
ともかく、口をゆすがねば。
「おえ、おえぇぇ」
ナユタは嘔吐きつつ、口内を水で洗い流した。
「けほ、けほ……『夜』!」
開口一番、ナユタはその名を呼んだ。
すると、瞬間的にそれは姿を現した。青い髪と、衣装をまとった、異国風情の強い成人女性であったが、人間というには違和感がある。精霊といった方が正しいかも知れない。
彼女は『同胞』と呼ばれる、隔り世の住人だ。守護霊というより、式神や使い魔といった方がより近いだろうか。術者の死後、その魂を食らってもいいという条件で契約を結ぶ
ことが多い。使い魔のように使役も出来るが、戦闘要員として活用も出来る。
名を呼ぶだけで顕現するので使い勝手が良い。
ナユタは他にも『暗黒』という名の漆黒のドラゴンとも契約しているが、巨大過ぎて滅多に使う機会は滅多にない。やはり人型が有用性が高い。
大抵の術者は複数の『同胞』と契約を結ぶ。ユーリもまた、二体の『同胞』を所有しているし。
「さっき、逃げた奴らを追え」
『はっ』
そう短く返答をすると、『夜』の姿は瞬時に消えた。
「うう……」
喉がイガイガする。
ナユタは繰り返しうがいをし、口内を水でゆすいだ。
「ナユタくん、だいじょうぶ?」
フェリアが背中をさすってくれる。
口の中は気持ち悪いし、暴力を受けた体中が痛い。きっと、腫れているだろうし、青痣も出来ていることだろう。今夜、風呂に入るとき、介助をしてくれるナンシーに何て言い訳すればいいんだ。
もう、許さない。
ナユタは反撃に打って出る決意を固めた。
決着をつける。
「あっ、ナユタくん?!」
フェリアを払いのけるようにして、教室に戻り、自分の机まで走ったナユタは、鞄から短剣二振りと、それを収納するホルダーを取り出した。まともに読める教科書類はもうない。持ってくるものも、ない。ならば、来たるべき時の為にと、使い慣れた武器を持参するようになったのだ。
こんなに早く使うことになるとは思わなかったが。
ナユタは腰に素早くホルダーを取り付けて、左右から短剣を装備した。
「これでよし」
ナユタは韋駄天のような早さで、教室を出た。
「待ってよ、ナユタくん!」
「フェリア、君は来ない方がいい!」
そうフェリアには言い置いて、ナユタは走った。『夜』の残した、ナユタにしか見えない痕跡を目印に、それを追って走った。
頭がガンガンした。
まるで、頭で心臓が鳴ってるみたいだった。血が沸騰していた。
ナユタは怒りで、我を忘れかけていた。
やがて中庭の東屋でたむろす実行犯たちの塊が目に入った。そこには放った『夜』の姿もあった。ナユタ以外には見えない状態なので、他の者はその存在にすら気付いていない。
ナユタは東屋の前で跳ねた。
両手で短剣を抜き、地面に降り立つその様に、クラスメイトたちに太刀を振るった。
その斬撃は極めて正確であり、四人の手足を狙い通りに切り裂いた。
「ぎゃあああ!」
それは痛いだろう。研ぎ澄まされた刃で斬りつけられたのだから。死にはしないが、派手に血が上がるように、太い血管を狙ったのだ。
その方が視覚的にインパクトがあるし、精神にダメージを与えられる。
血しぶきが上がって、生徒たちは悲鳴を上げながらのたうち回った。
そのうちの一人、リーダー格とみられる生徒の傍らに、ナユタは軽やかに着地した。
そうしもって、その喉元に刃をひたりと押し当てた。
「一連のいじめの首謀者はおまえか」
冷ややかな声で、ナユタにそう問われた生徒は、
「ち、違う……! おれたちは言われてやっただけ! こ、殺さないで!」
震え上がって、そう答えた。
カーストはそれなりに上の連中のはずだ。今は死を目の前にして、縮こまってはいるが、あれだけ派手な暴力を振るったのだ。
首謀者から、直接的な暴行の方法を、伝えられるような身分の。
「じゃあ、本物の首謀者を知ってるよね?」
「うう……い、言えない」
「知ってるよねえ?」
ナユタは口調と、喉笛に突きつけた刃に圧力をかけた。
「ひぃぃぃ! 学級委員長のセンたちだよ……」
「やっぱりね。カーストの最上部にいる奴が張本人、か」
「白状したんだから、もう、もう離してくれ!」
生徒は涙と鼻水を垂らして懇願してきたが、ナユタは解放しなかった。
「センたちのいる場所に案内してもらおうか。知ってるんでしょ?」
「し、知らない……」
生徒の声が一際小さくなった。
保身のために嘘を言っていると、瞬時に悟った。
「知ってるよねぇ」
ナユタは再度突きつけた刃に力を込めた。
「分かった、行く、案内するから……!」
「『夜』、戻っていいから」
役目を終えた『同胞』は、静かに元いた世界に還って行った。
「さて。案内してもらおうか」