ドーナッツひとつ(三十と一夜の短篇第33回)
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
三好 達治『雪』より
※ ※ ※
年末に風邪をひいた。
熱はでない。鼻水とくしゃみは少しだけ。変わりにやたらと頭の痛む風邪であった。
なにもしたくない。
日がな一日。居間のソファーでごろごろしていた。すると息子もやって来て、ソファーの下のラグでごろごろする。
十二歳になる息子はおおきい。
わたしよりも二十センチばかりもおおきい。そのおおきな図体で、幼子のように寝転ぶのは、彼がイタチだからかもしれない。
息子が生まれた時、見た目はごく普通の赤ん坊であった。ところがとりあげた医師は、「ああ、これはイタチになりますな」そんな風に、さも当然と告げたのであった。
「イタチですか?」
呆気にとられ聞き返すと、「イタチです」頷く。
わたし達の後ろに控えていた夫の雰囲気が、ぎしりとおもたくなったのを覚えている。
イタチは人によく似ているが人ではない。動物の鼬でもない。極まれに、人の女の腹から産まれてくると訊いていた。
今までわたしの周囲に、イタチの性をもった者はいなかった。
ひとの子の育児でさえ大変なのだ。
「どうすれば良いのでしょうか?」
いきなりイタチと言われ、途方にくれたまま、医師へ問いかけると、「どうぞ」うすい冊子を渡された。表紙にはイタチの育て方と印字されている。
「愛情です」
医師が頷きながら言う。
そうすると、彼の首もとで、趣味の悪い黄色いループタイも揺れる。
「決めてはおかあさんの愛情です」
なんだか安っぽいドラマの台詞みたいだな。そう思ったものだ。
※ ※ ※
「ずんずん降るね」
ラグのうえから首を伸ばし、毛布をかぶった息子は、まるで亀のような格好で掃き出し窓から外を覗く。
先月植木屋さんにはいってもらった庭は、松も楓もしゃんとした枝振りになっている。そしてすっぽりと雪帽子をかぶっている。
「お父さん。車の運転大丈夫かなあ」
温度差で曇った窓を、伸ばした指先で、おざなりに拭いながら息子が言う。
夫は峠ひとつ越えた彼の実家へ泊まりがけで行っている。帰ってくるのは三日以降だ。だからこそ慌ただしい年末に、わたしは息子とそろってごろりごろりとしているのだ。
イタチの息子は、ありがたい事にすくすくと育った。
手足が二本あり、すっくとまっすぐ立ち上がる。
走る時も歩く時も。四つん這いになどならない。体格は立派で、背は高い方だ。尻尾などは無論ない。
顔つきも普通だ。いやどちらかといえば可愛らしい。黒目がおおきく。幼い時など、よくおんなの子に間違えられたりした。
ではどこがイタチなのかと問われると、歯がぞろりと鋭い。
二月に一度。研摩の為に、専門の歯科医にかかる必要がある。身体的にはそれくらいであるが、たまに変わった行動にでる。
コンビニにはいると、決まって右回りに三周してから買い物を始める。
スーパーでも同様で、大型店へ行くと時間がかかって仕方がない。バス停で待っている間も、律儀に三度。ちいさく回っている。
夫の実家でも同様で、玄関から便所への廊下を進み、台所、居間、義父母の部屋、客間そして玄関までと律儀に三度回る。
この行動に慣れない親戚などがいると、義父母も夫も良い顔をしないので、息子を諌めるのに骨を折る。
息子へどうしてなのかと、かつて尋ねた。
今よりもっと小さかった時などは、首をかしげていた。きっと息子自身も分からなかったのであろう。やがて大きくなると、「ひかり」とおずおずと答えた。
なんでも赤っぽい。矢印にも似た光の輪が床やら地面にあらわれるらしい。それを目にすると、どうにも追わずにはいられない。息子は俯きながらそう言った。
言ったあとに、「ごめんなさい」と、さらにちいさく頭を下げた。
「謝る必要はないよ」わたしが言うと、「だっておかあさん。ボクがまわると困るでしょう」と言う。
どうにも以前。ふたりきりで外出した際に、夫に叱られた事があるらしい。
「外ではしゃんとして、まっすぐ歩くんだ。まっすぐ、まっすぐ」
そうして頭をこずかれたそうである。
さもありなん。
夫は真面目な質である。人目も気にする。わたしは結構いい加減で、「へえそうなの」ですむので、「おかあさんは気にしないけど」そう言った。
こういう時。夫婦で同じ意見でなければ、こどもは混乱するというが、そうであろうか。世の中が同じ意見ばかりであれば便利であろうが、大抵は分かれる。しかも四方八方に分かれる。
息子とて、もって生まれた性を責められたのならば、立つ瀬もなかろう。
「ただ、よその人の迷惑になってはいけないよ」
そこだけはきちんと告げた。
よその人の大半は、なかなか優しいけれど、油断していると、ばくりと噛み付かれる。
イタチの母だというだけで、わたしも息子と共に、小突き回された経験がある。
イタチもひとも。さほど差があるわけではあるまいと思うのだが、圧倒的人数のひとに、少数派のイタチは敵わない。これはもう、良い、悪いの問題などではなく、母として息子が生きやすい方向を教えてやるしかないのである。
「うん。わかっている」
息子は素直に答える。
よしよし、良い子だ。その時はまだ、わたしより下だった息子の頭を撫でてやった。
息子は根っこの部分で素直だったので、小学校ではあまり問題をおこさずに可愛がられた。それでもイヤがる人はイヤがった。
「イタチの子と一緒で、授業に遅れがでたらどうするのですか」
小学三年生の保護者会の時だった。
わたしへ背を向け、質問をした母親がいた。わたしは咄嗟に心臓のあたりのセーターを片手で押さえた。まるで散弾銃で貫かれたような気がした。
わたしはきっと悪くない。
息子の生は悪くない。
イタチだって悪くない。
しかしイタチの息子が、学習の足を引っぱっているのは事実であった。
息子はひとの字が読めない。書けない。
ひらがなも。カタカナも。漢字も。字という字は息子の頭のなかを素通りしていく。変わりに耳から覚えた。
恐竜大図鑑に載っている百を超える恐竜の名称を覚えたのは、付随のDVDのおかげだ。教科書は国語から算数、果ては音楽までわたしが事前に読み上げてやらねばならない。
授業中は隣に座る子が、「ほらここだよ」と息子へ授業内容を教えてくれたりする。しかしそれは迷惑なのであろうか。だとしたら、息子へ教えた、「してはいけない行為」になってしまう。
ああ、どうしよう。どうすべきなのだろう。頭が混乱してくる。胸がくるしい。
わたしは悪くない。
それなりの努力はしているつもりだ。
息子は悪くない。
彼だって精一杯やっている。
イタチは悪くない。
個性だと言われている。
そしてわたし達を糾弾している彼女だって、やっぱり悪くはない。
どうしたって良い悪いの問題だけではないのだ。
問題は複雑に絡み合い、双方の母親の愛情と不安の糸でもつれ、こども達を巻き込み、糸口が見えずらくなっているだけだ。ただここでの最大の問題は、わたしも彼女も、多分担任の教師も、誰ひとり糸口を探す術を持ちえていないという点だ。
その現実が、わたしを途方にくれさせる。
わたしは、焼けただれたような苦みを感じる胸元を握りしめたまま、俯いた。
耳も目も。五感のすべてをふさいでしまいたかった。消えてしまいたかった。けれどそうしてダンゴムシのようになってしまったら、わたし達は簡単に摘まみ上げられて、誰かの手で片隅に片付けられてしまうかもしれない。
それはイヤだ。ゼッタイに嫌だ。
だから息を吐いた。
ちいさく。けれど長く吐きながら。挑むように彼女のカーディガンの背中を見つめた。
開け放っている窓からは、校庭ではしゃぐこども達の声が、かすかに聴こえてくる。外はあさい春で、日差しはやわらかい。なのに教室はまるで淀んだ谷底みたいだ。
ひんやりと感じる、堅くて、うすっぺらい椅子を両手で掴んだ。そうしていないと投げ出され、世間から弾きだされそうな気持ちであった。
※ ※ ※
「ねえ、おかあさん。これ食べる?」
窓から視線を外し、息子がわたしへ向かって手を伸ばす。
手にはノンシュガーのど飴の袋が握られている。
覗いた袋のなかは、レモン味ばかりが残っている。りんごに、もも。みかん味は、どうやら全て舐めてしまったらしい。わたしは有り難く息子の苦手なレモン味を口に含んだ。
「お父さん。もう着いたかなあ。おじいちゃん達どうしてるかなかあ。道久くんやはなちゃん、来ているかなあ」
年の離れた従兄弟たちの名を息子は口にする。
「どうかなあ」
わたしはさして興味のない声をだした。
「はなちゃんは、もうすぐ一年生だね」
「そうだねえ」
「道久くんは、ボクと同じく中学生になるんだね」
「ああ、そうだねえ」
「学ランのさ、衿がきっとキツいって思うよね」
「かもねえ」
「でもボクは平気だ」
そう言うと、息子はソファーからだらりと落ちているわたしの右手をかろく握った。
「だってボクの学校には制服がないもの」
「……まだ分からないよ」
今度はあまり興味のない声はだせなかった。変わりに変にひくくなる。
「まだどっちの学校へ行くか決めてないし」
言い訳のように、声はさらにひくくなる。
明日。年が開ける。
そして四月になったら息子は中学生だ。このまま校区の中学へ進むのか。それとも市外にあるイタチの学校へ行くのか。わたしはまだ答えをだせていない。どちらを選んでも、どこか後悔しそうで決断できずにいるからだ。
「ボクはもう。あっちの学校で良いと思うけどなあ。そうしたらーー」
わたしの手を握る、彼の指先がわずかだけ強くなる。
「ボク、級長にだってなれるかも」
息子は妙に古い言葉使いを好む。
「……級長? クラス委員長になりたいの?」
それは初耳だ。
わたしは思わず上半身を起こした。すると引っぱられて、繋いでいた手はするりと外れる。
「すっごく。なりたいわけではないけど」
息子は恥ずかしげに視線をはずすと、天井の方を見上げながら、「でも一度は委員バッチをつけてみたかったんだ」
字が書けない。読めない息子は、でも図鑑は大好きだったので、毎週図書室からぶ厚い本を借りてきた。そうして図書委員へ立候補しては、毎回落ちていた。
「そうか。委員バッチかあ」
急に起き上がったので、ずきりと痛んだ頭を押さえながら、わたしは呟いた。
息子がイタチとして産まれてからずっと。
わたしはイヤな気持ちになったり。人様を妬んだり、意固地になったりした。
逆に見ず知らずの人に、とても励まされたりもした。
夫の気持ちさえ分からなくなる反面、泣きたくなるくらい、息子が愛おしく思えたりした。
わたしは真反対のきもちのなかで、始終ゆれ動いている。
答えを簡単に導きだそうとする人たちからは、「イタチだなんて、運が悪かったね」と変な目つきで囁かれたり、したり顔で「きっとあなたが優しいから、神さまが選んでこうなったのだよ」とも言われたりした。
そしてその度に、なんとも言えない苦みを感じてきた。
「委員バッチはよいね」
「うん。小学校のはみどりで星型なんだ」
「そうなんだ」
「うん。でも見学に行った時見たあっちの学校のやつは、真っ赤で縁が金色で、もっと格好良いやつだった」
「凄いね」
「すごいよ」
人様の言う「運」も「神さま」も、わたしは信じていない。
ここにこうしてわたし達がいるわけを、そんな簡単な言葉で片付けられるわけにはいかないからだ。
「他に欲しいものあるの?」
神さまはわたしを救ってくれない。
けれど委員バッチを望む息子の気持ちは、わたしの背をわずかばかり、やんわりと押してくれる。
クリスマスは終わったばかりだと言うのに、甘やかすような質問をしたわたしへ、「明日の朝は雪のなかをざくざく歩いて」
息子は歌うように言った。
「おかあさんと市電にのって、ドーナッツを食べに行きたいなあ」
委員バッチよりも容易い願いに、わたしは「良いね。そうしようか」はずんだ声をあげた。
雪はずんずん降り続く。
このまま世界中が雪へ埋もれて、皆平等にぺしゃんこになってしまえと呪う日もあるけれど。
ドーナッツのために、明日の朝はお日様がでますように。
寒くてもガンバって外出できますように。
風邪がぬけていますように。
わたしはだらしない格好で、信じちゃいない神さまへではなく、明日の自分へそうお願いをした。
完
原稿用紙換算枚数 15枚
久々の「三十と一夜の短篇」です。リハビリがてら原稿用紙15枚以内と自分に制限を設けて書きました。感想等いただけると、大変励みになります。