part.5
「何村さん!」
美衣子の声が聞こえた気がして、振り返った。
そこにいたのは巫女さんだった。強いまなざしで、僕を見つめていた。
「……父から伝言です。さっきはろくに挨拶も出来ず、申し訳ありませんと」
走って追いかけてきてくれたらしく、少し息を切らしていた。
「ああ……わざわざありがとうございます。お忙しいようでしたが、大丈夫なのですか?」
さっきの切羽詰ったような顔を思い出す。だけど巫女さんは死んだ魚のような目になると、
「気にしなくてかまいません。こんな季節に、生ガキなんて食すのが悪いんです」
……宮司さんの、切羽詰ったような表情。僕は全てを察し「そうですか……」と、沈痛な面持ちを心がけて呟いた。彼はまだ、腹痛と闘っている最中なのかもしれない。
ていうか、なんてことを巫女さんに言わせるのだ、僕。聞かなきゃよかった。
「それで、父が……これを何村さんにと」
巫女さんが差し出したのは、1通の封筒だった。
「私、聞きました。平成25円の五円玉は、場合によっては千円近い値段が付くこともあるそうですね」
「い、いや、そこまではいきませんよ」
僕は苦笑した。あの五円玉は、同じコレクターとして宮司さんに譲りたかったのだが、彼は筋を通そうとしてくれているのだ。
「お賽銭、ということではダメですか」
「ダメです」
巫女さんは首を振った。推理する時も思ったけど、けっこう頑固なようだった。そんなところも、美衣子を思い出させた。
「巫女さん……だけど、あれは僕にとっては本当に、もう必要のないものなんです――」
「そんなこと言わないでっ!」
僕の言葉に被せるようにして、巫女さんが叫んだ。足を踏ん張って、こぶしを握り締めて、俯きがちに、全身を使うようにして叫んだ。
もう我慢できない……そう呟いた巫女さんに、僕は唖然とすることしかできなかった。また、スイッチが入ったのだろうか? いや、これは推理を披露するときとは全く違う――。
「何村さん、これからどこに行くつもりです?」
巫女さんに似つかわしくもない、乱れた荒々しい語調で尋ねてきた。なぜだろう、急に、彼女が別人に変化していくように思えた。
「どこって……大学へ戻るんですよ」
「本当ですか!? 変なこと考えてませんか!?」
興奮したように話す巫女さんに、僕はすっかり困り果ててしまった。いったい、どうしてしまったんだろう。
「……すいません。ですが、さっきの話を覚えていますか? 壬生忠見の言い伝え。食事がのどを通らず、死んでしまったという話です。
あれを知った時、私、ぞっとしたんです。何村さんが、居なくなってしまうんじゃないかって」
巫女さんはほとんど僕を睨み付けるようにして話し続ける。その姿は、いつもの清楚な巫女さんとはかけ離れていた。大人っぽい雰囲気が抜けて、少し幼くなったように思える。違う……この人は、美衣子じゃない。
「もっとしっかりご飯食べてください! 昨晩、何食べたか覚えてますか!?
『具だくさん ミニマム冷やし中華』だけです!」
「え……あ、そういえば、それだ」
それは、僕が毎日行くあのコンビニの商品の名前だった。いや、どうしてそこまで知っているんだ。まさかこれも推理なのだろうか――?
目の前の、僕の知っている巫女さんのイメージからどんどんかけ離れていく彼女に、僕は混乱した。こんな巫女さんは、初めてだ。もはや僕の全く知らない人だった。
……いや、どこかで会ったことがある?
次の瞬間、僕は電撃に打たれたような衝撃を感じた。ああ、もちろん比喩だけど、実は僕、本当に雷に打たれたことがあるからね、それくらいの衝撃だったんだ……じゃなくて。
まさか。
巫女さんは、僕の様子を見て、僕が事実に気付いたことを知ったみたいだった。にやりと笑って、俯くと、どこか舌足らずな低い声で言った。
「いらっしゃいませー」
……ああ! なんてことだ!
堀水さん!
巫女さんは、あのコンビニで夜に見かけるバイトの女の子、堀水さんだったのだ。
そうと分かれば、納得のいくことがいくつもあった。初めて会った時――いや、それは僕にとって、か。その時僕に親しげに対応してくれたのは、その出会いが彼女にとっては初めてではなかったから。彼女は当然、毎日コンビニに来る大学教授のことを覚えていたに違いない。
今日だって。僕が自転車で来たことを推理した時、彼女はやけにあの道に詳しかった。ケヤキの木に蜘蛛の巣が張るのを知っているほど。あれは彼女もコンビニへ行く時に日常的に使っているからなのだ。
そして、五円玉の謎。僕は気付かなかったけど、そもそも巫女さんはどうして、僕が犯人だと気付けたのだろうか? ……簡単な話だ。あの平成25年の五円玉は、彼女自身から手渡されたものだったのだから。五円玉を拾う時に、彼女も年号を見たのだろう。それを覚えていたのは、さすがだけど。
「私、巫女の姿をしてると人が変わって見えるって、よく言われます。言い寄ってくる男の人も多くて……阿呆じゃないかしら」
すっかり素の調子になったのであろう巫女さん――いや、堀水さんは、唇を曲げて言った。言い寄ってくる男……う、耳が痛い。
「だからあのコンビニでは、この神社の巫女だとバレないように、ちょっと変装しているんです。私、そういうのには自信あるから」
じゃあ、あの眼鏡は伊達だったのだろう。本当に、たいした演技力だ。
堀水さんは、僕の目をまっすぐ見つめて、言葉を続けた。
「だから、あなたが私に抱いていたのは、全て幻想なんです。娘さんは、もうどこにも居ないんです。
……私、今までミステリの話をできる人がいなかったから、何村さんが話し相手になってくれて、とても嬉しかったんです。あの五円玉のメッセージも本当に楽しかった。だから、なおさら辛かったんです。正直、何村さんは見ていられません」
この低めの声が、おそらく堀水さんの素なんだろう。ますます美衣子と乖離していく彼女の言葉に、僕は黙って耳を傾けた。
「何村さん。馬鹿なことを考えるのは止めてください。あなたはまだ生きてていいんです。だから、死なないで!」
「はは」
口から、勝手に笑いがこぼれた。「何がおかしいんですか」堀水さんは僕を睨んだけど、僕は頬が緩むのを止められなかった。
「巫女さん」だって、実際は理想とはかけ離れていた。そもそも、そんな女性なんて端から存在していなかったのだ。僕が、大人になれなかった美衣子の代わりを、勝手に作り上げていただけだった。
僕は笑いをこらえながら、堀水さんに言った。
「勘違いです、み……堀水さん。僕は死ぬつもりなんてありませんよ」
「へ? そうなの?」
ぽかんと口を開ける堀水さん。そのちょっと間抜けな顔にまた吹き出しそうになりながらも、僕は言葉を続けた。
「壬生忠見の言い伝えは僕も聞いていましたが……さすがにそれは深読みしすぎです」
「じゃあ……私ったら……! また先走っちゃったの!?」
堀水さんはそう言うと、両手で頭を抱えた。その様子と美しい巫女姿がいかにもちぐはぐで、僕は今度こそ大声をあげて笑ってしまった。笑い過ぎて涙が出てきた。
……もう、出し尽くして、干上がっていると思っていたのに。案外僕も大丈夫なのかもしれない。
そのまま涙が止まらなくなった僕を、堀水さんが優しい目で見つめているのが分かった。もう立ち直ったのか、すっかり巫女のオーラをまとっている。
「また……来てもいいですか」
まるで少年のようにむせび泣きながら聞いた僕に、巫女さんは静かにうなずくと、自信たっぷりに微笑んだ。
「ええ。何村さんは、見込みがあります」
それを聞いて、僕は泣き笑いの顔をした。滲んで見えた巫女姿の女性は、もはや、紛れもなく堀水さんだった。
『トッちゃんてば、心配かけさせないでよね』
どこからか、美衣子の声が聞こえた気がした。その幻の声に返事をする。ああ、そうだね。僕はもう少し生きてみることにするよ。
――さよなら、美衣子。




