part.4
「そんな……冗談でしょう」
拳を握りしめ、振り絞るようにやっと声を出した。
すると巫女さんが、
「ええ、冗談です」
と澄ました顔で言ったので僕は思わず叫んでしまった。
「へえっ!?」
声は裏返った。
「死人と話ができる訳ないでしょう」
「そ、そんな……脅かさないでくださいよ」
神社の由来云々はなんだったんだ……たぶん作り話なんだろうけど。すっかり巫女さんの迫力に呑まれてしまった。たいした演技力だ。
「心臓が止まるかと思いました」
「すみません……。ですが、あのメッセージの意味を知った時の私の気持ちも、考えてください」
巫女さんにしては珍しく、拗ねるように視線をそらして言った。それを見るとやはりまだ20を少し過ぎたくらいの女性だと思えたけど、確かに、僕は妙齢の女性になんてものを贈ってしまったのだろうか。あんな愛の歌を贈るなんて、どうかしていた。
「すみません、僕が悪かったです……」
しゅんとうなだれて謝ると、巫女さんはもう普段の様子に戻って「いいえ、いいんです」と澄まし顔で言った。
「それにしても、どうして暗号を実践しようと思われたのですか?」
巫女さんが不思議そうに尋ねてきた。僕は少し考える。きっかけは五円玉を納めるためだったけど、僕が「あの暗号」を思いついたのには理由があった。
それは――と言いかけて、僕は懲りずにまた悪戯心をおこした。三つ子の魂……ではないけど、本当は僕って、昔から悪戯好きだったりしたのだろうか?
「考えてみてください。まあ、巫女さんが知らなくても仕方がないかもしれませんが」
そう言うと、巫女さんは少しムッとしたようだった。そうだろう。ホームズさえも知らなかった僕に暗号の知識量で劣るなど、あってはならないことに違いない。
「そこまで言われては、受けて立つしかありませんね」
見込みがあるわね、という呟きが巫女さんの口からこぼれた時、僕は思わずほくそえんでいた。
しばらく、沈黙が部屋を満たした。大学を抜け出してどれくらいになるだろうか。時間にはまだ余裕があると思うけど、巫女さんが本当に知らなかったらどうしようと若干焦り始めた頃。
メールの着信音が鳴り響いた。
「あ、すみません」
僕は慌ててジーパンのポケットからスマホを取り出した。マナーモードにするのを忘れていたようだ。巫女さんをちらっと窺うと、俯いたまま「どうぞ……」と言われた。かなり深く考え込んでいるらしい。そっとメールを見ることにした。
送信者は……「黄泉」。げ、これはまずい。内容は見るまでもない。そろそろ戻って来いと言いたいのだ。だけど、一応確認はしておくか。
「何村さん……」
蚊の鳴くような巫女さんの声がしたので、僕は顔を上げた。彼女は、僕の手元を凝視していた。
「父は、数年前スマホに買い換えたんですが、その前はずっと携帯電話――ガラケーでした……」
その瞳が、光を取り戻したように輝き始めた。呟き声はやがて、ほとんど快哉の叫びへと変わっていった。
「私がまだ生まれていない頃の話になるので、聞いただけですが……携帯電話が普及する以前は、個人を呼び出す方法は限られていたそうですね。
そのうちの一つを、父に見せてもらったことがあります。無線呼び出し――ポケベルです!」
その言葉を聞いて、僕は巫女さんが真相にたどり着いたことを知った。
「ポケベルは、最初は数字しか送れませんでした。ですが、語呂合わせや暗号を用いて、やり取りを行っていた人もいたと聞きます」
「ええ、その通りです」
昔はよくやった。「14106」で「愛してる」だとか。
「2タッチ方式では、まさに先程解説した、数字2つで1文字を表すという方法でやり取りもできた――だから、暗号に詳しくない何村さんでも、あのメッセージを作ることができたんです! どうですか!?」
自身に満ち溢れた、輝くような表情で巫女さんが叫んだ。やはり、彼女は「名探偵」のようだ。
巫女さんが言った通り、当時研究一筋だった僕ですら、交際していた女性に言われて、財布に五十音の変換表を入れていたのだ。暗号の話を聞いた日、僕はそのことを不意に思い出した。
書斎の机の棚を漁ると、奥からぼろぼろになった変換表が出てきた。それを見ながら、僕はあのメッセージを作った。
さっきは巫女さんの推理力を疑うようなことを考えてしまって、恥ずかしい限りだ。ここへ向かう途中にも頭をよぎったことわざが再び脳裏にちらついた。
潔く認めようじゃないか。
老いては子に従え、と言うからね。
⛩
『何村教授
話があります。教授室へ寄ってください。 黄』
どこか雑な敬語を使ったメールの文面からは、彼女の怒りがふつふつと感じられた。……これは後が恐ろしいが、メールを送ってきたことからすると急ぎの用事ではなかったようだ。時間はまだ大丈夫だろう。
黄さんのような優秀な秘書が居てくれるから、僕みたいないい加減な教授でも務まっているのだ。今年で60になるから、もうすぐ退官だけど。
新陳代謝が悪くて汗が出にくい。立ち漕ぎをすると股関節を痛める。忘れっぽくなって、昨日の晩ご飯も覚えていない……。こんな老いぼれは早く消えた方がいいのだ。
僕はスマホをスリープにして、ポケットに直した。巫女さんが心配そうにこちらを見て「お時間大丈夫ですか?」と尋ねた。
「ええ、大丈夫です」
その時、スマホのケースが白い粉で汚れているのに気が付いた。……あ、もしかして。僕はさっきから聞こうと思っていたことを先に質問することにした。
「最初に会った日のことを覚えていますか、巫女さん。あの時、貴女は僕が手水舎に寄らなかったことを知っているみたいでしたね。あれも推理ですか」
巫女さんは一瞬眉をひそめた後、ああ、と合点がいったように俯くと、
「指先に、チョークの粉が付いていたので」
短く答えた。やっぱりそういうことだったのか。あの時は講義の途中で抜け出したからなあ。
考えてみれば、僕の真っ白な頭髪に付いた蜘蛛の糸を識別できるほど視力の良い巫女さんのことだ、それくらい容易いことだったろう。
僕は頭をかきかけて、やめた。また畳に白髪を落としてしまっては、申し訳ない。
「先程の、ポケベルという巫女さんの推理、見事です。思えば僕は、暗号を使ってやり取りをしていたんですね。すっかり忘れていました」
巫女さんは静かに微笑むと、
「恋すてふ、というのは、私のことではないんでしょう?」
唐突に言った。
「何村さんはいつも、私と話していても、私ではない誰かを見ているような雰囲気でした。
……教えていただけませんか、あのメッセージに込めた意味を」
僕は舌を巻くしかなかった。そこまで見抜かれていたのか。穴があったら入りたかったけど、巫女さんはまっすぐ僕を見て、ただでは帰さないつもりなのは容易に見て取れた。
ふぅ、と短く息を吐いてから、僕は平成25年にまつわる話を――美衣子の話を始めた。
「娘が生きていれば、ちょうど巫女さんくらいの歳になるんです」
それだけで、聡明な彼女は察したようだった。
「それは――ご愁傷様でした」
そう言って彼女は、手を膝に乗せたままそっと目を閉じた。多分、美衣子のために祈ってくれているのだろう。僕は巫女さんが目を開けるのを待ってから、話を続けた。
娘――美衣子が自殺したこと。それは平成25年の2月5日だったこと。美衣子の遺書の末尾に書かれたその日付を見て、僕は「25」という数字の並びに過剰反応を示してしまうようになったこと。
そして、偶然、あり得ない状況で、平成25年の五円玉と出会ってしまったこと。
「プレミア硬貨、ですね」
「その通りです」
さすが巫女さん、そんなことまで知っているのか。恐らく、硬貨マニアの宮司さんの影響だろう。
硬貨は、ある条件によってその値段以上の価値が付くことがあるのだ。一般に発行枚数が少ないほど価値が上がり、マニアの間では高値で取引されることもある。平成25年の五円玉もそのうちの一つだ。
その年は通常通りの五円玉の鋳造は行われず、硬貨セットとしての販売だけだった。つまり、平成25年の五円玉が市場に出回るなどということはほぼあり得ないのだ。ましてや、コンビニでお釣りとして手に入るなんて……。
僕は驚愕した。なんという運命のいたずら。それほどまでに、僕に「25年」を忘れさせたくないのか……。
だけど、僕は思ったほど冷静さを失っていなかった。プレミアの五円玉を手放すのが惜しいという気持ちさえあった。5年という歳月は、僕を少しは立ち直らせていたようだ。
おまけに、そのおかげで僕は、巫女さんと出会えた。
いや――美衣子と再会することができた。
「彼女はずっと、自分の母親の死を気に病んでいました」
巫女さんは沈痛な表情で「母親……?」と呟いた。
「ああ、僕の妻です。……元妻、と言った方がいいですね。お恥ずかしい話、大学のことにしか興味のなかった僕は愛想を尽かされて、離婚していたんです。ちょうど中学に上がったばかりの娘を連れ、妻は田舎に帰りました。
……東北の、岩手の実家に」
息を呑む気配があった。そう。7年経ってなお、多くの人の心に爪痕を残す、あの未曾有の大災害。妻と美衣子は、あの災害を直接経験した。
「彼女たちは津波に呑まれ……妻は助かりませんでした。娘は、なんとか助けられたそうです」
妻の訃報を聞いた時、僕は死にたくなるほど後悔した。大学のことばかりにかまけていないで、もっと家族との時間を大切にすればよかった。そしたら、彼女が実家へ帰ることもなかったのに。
亡くなった多くの方々には申し訳ないが、僕はそう思わずにはいられなかった。
……なにが研究だ。なにが教授だ。僕はひたすら自分を責めた。あの時死ななかったのは、僕にそんな根性は無かったから、そして、美衣子が居たからだ。
どこまでも静かな空間で、僕は話を続けた。
「独りになった娘は、当然僕が引き取りました。大変な思いをしただろうに……彼女はとても強かった」
本当に、彼女は強い子だった。被災後に美衣子の涙を見たのは、たったの一度きり。帰ってきた日だけだった。
『ただいま、トッちゃん!』
慰めの言葉も何も用意できなかった僕に、彼女ははじけるような笑顔でそう言った。離婚後も美衣子とは何度か会っていたが、その時と同じような調子で。
だけど、それは精一杯の強がりだった。美衣子は僕の胸に飛び込むと、それからしばらく顔を上げなかった。静かに泣く彼女を、僕は何も言えずに抱きしめていた。
『もう! トッちゃんったら、こんなに散らかして!』
翌日からは、いつもの元気な彼女に戻っていた。離婚してから僕が移り住んだ、小さなマンションの部屋を代わりに掃除してくれた。妻から教わっていたのか、晩ご飯も作ってくれるようになった。
『「トッちゃん」て……学校でも僕のことをそう言っているのかい? いい加減恥ずかしいだろう』
『なして? 「父ちゃん」も「トッちゃん」も似たようなもんだじゃ』
よく笑い、元気に学校へ行く彼女の姿を見て、僕は勇気付けられた。僕の方が落ち込んでいるように思えたくらいだった。
でも僕はもっと分かっておくべきだった。彼女はまだ、中学2年生の女の子だったのだ。
時々、彼女は放心したようになった。パニック状態に陥ることもあった。医者の診断は、PTSD――心的外傷後ストレス障害。震災での経験が、彼女の心的な外傷となっていた。
トラウマ記憶は、冷凍保存に例えられる。人はあまりにも衝撃的な体験をした時、脳の処理が追い付かず、それをそのまま「冷凍」して、記憶の奥底へしまい込むのだ。そういうふうに隠された記憶は、普段思い出すことはなくなるが、それでも、何かの拍子で「解凍」されることがある。
そしてその瞬間、「新鮮」な記憶を――今まさに目の前で繰り広げられているかのような生々しい記憶を再体験することになる。放心したようになった時、美衣子はまだ津波に襲われていたのだ。冷凍された記憶は、簡単には色褪せてくれない。
それでも彼女は強かった。カウンセリングを受けながらも、きちんと学校に通い続けた。僕に笑顔を見せ続けた。彼女は3年生になり、将来に向かって歩み続けようとしていた。
はずだった。
受験を控えたある日。僕は美衣子に、名字を変えるようそれとなく提案した。彼女は僕たちが離婚してからずっと、母方の波戸姓を名乗っていたのだ。しかし、その提案がまずかった。
彼女は急に怒って立ち上がると、真冬の屋外へ飛び出した。僕の見立てが甘かった。まだ、気持ちの整理などついているはずもなかったのだ。
高校受験が近かった。風邪でも引いたら大変だ。僕はコートを掴むと、慌てて美衣子を追いかけた。
しばらくして、近くの川沿いで美衣子を見つけた。肩にコートをかけると、彼女は泣きそうな顔でこちらを見て、言った。
『好きだよ、トッちゃん』
吐く息が白かった。僕は彼女の華奢な肩に、おずおずと腕を回すことしかできなかった。
『だけどね、お母さんのことも、大好きなの。私が名前変えちゃったら、お母さんが本当に居なくなっちゃう気がして……』
ごめんなさい、と俯いた美衣子に、僕は何も言うことができず、2人は黙ったままマンションへ戻った。
数日後、彼女は突然この世を去った。彼女が飛び降りた後の部屋を、僕は広過ぎると感じている。
巫女さんに全てを語り終えた後、僕は晴れ晴れとした気持ちで社務所を後にした。憑き物が落ちたような気分だった。……憑き物というか、未練だろう。色々なことへの。五円玉も、全て置いてきた。
なんだか、全てが面倒くさくなってきた。大学にもあまり戻りたくない。老いぼれが1人消えたところで、何も問題はないだろうに。
次はいつここに来ようか。――いつ、美衣子に会いに来ようか。




