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part.1

 

 その日も僕は、規定の時間より30分ほど早く狭苦しい講義室から抜け出した。出席確認はもう終わっていたし、咎める者も居ない。うちの大学はゆるゆるなのだ。特に僕の所属する講座は、教授がいい加減なため「単位が駅前で配られている」と言われるほどである。ティッシュかよ。

 

 研究棟の駐輪所に停めてあった自転車の鍵を外して、颯爽とまたがる。この間購入した代物だ。


 途中、こうさんとすれ違ったが、上手いことに気付かれずに済んだ。危ない。一見クールなようで面倒見が良いのが彼女の美点ではあるけど、今は見つかりたくなかった。


 ……しかし、甘美な罪悪感とスリルがごちゃ混ぜになったこの感情は、毎度の事ながらたまらない。ここからは僕の時間だ!


 大学の敷地を出ると、すぐに広い歩道のある道路が見えてくる。歩道の横は雑木林になっていて、ひと抱え以上はある巨木が等間隔に、歩道に沿って並んでいる。それらの枝葉が歩道を覆い隠すので、初夏の日差しは遮られるのだ。


 自転車専用レーンもあって、サイクリングにはうってつけだろうと思っていたが、その通りだった。


 車がふとした瞬間に途切れると、鳥のさえずりが聞こえてきたりする。僕は雑木林から流れてくるひんやりとした風を感じながら、彼女・・の姿を思い浮かべる。一本に結われた黒い髪、透き通るように白い肌。


 ああ。柄でもなく胸が弾む。僕は立ち漕ぎに切り替えると、ぐんとペダルを踏み込んだ。

 

 一本道のはずなのに、どうしてか進むほど車の量は少なくなっていく。途中で脇道に逸れていくのだろうか。10分ほどして目的地に付いた頃には、静けさが辺りを覆っていた。その頃にはとっくにサドルに腰を下ろしていた僕は、片足を地面について自転車を止め、目の前にそびえる鳥居を見上げた。


 平坂ひらさか神社。ここが、僕の最近のお気に入りスポット。心のオアシスだった。県内ではわりと大きめの神社で、正月には多くの人でごったがえする。だけど、普段はほとんど人がいない。最近通い始めて知ったことだった。


 自転車を駐輪スペースに停め、鳥居をくぐる。前に言われたとおり、ちゃんと端の方を歩く。参道は掃除が行き届いていて、玉砂利の真っ白な道が続いているのは、見ていて気持ちが良かった。


 境内へ入る前に、手水舎てみずやに立ち寄る。初めて会った時に「彼女」に言われた方法で、手と口を清めた。ついでに手の感覚だけで前髪を軽く整える。


 参道と境内とを隔てる門に向かう。境内は少し高くなっているので、石段を登る形となる。僕の期待は最高潮まで高まった。


 ――居た。門をくぐると、あの人が1人で立っているのが見えた。

 


 挿絵(By みてみん)

 


 最初に見た時もそう。後ろで細くまとめられた長い黒髪。形の良い耳が覗いている。目鼻は小ぶりだけど、小さな顔にバランス良く収まっていて、和風美人を思わせる顔立ちだ。


 そしてなんと言っても目を引くのは、真白ましろな小袖に、緋色の袴。そのコントラストは、神に仕える彼女の美を際立たせていた。

 

 僕は、この巫女みこさんに会いに来ていたのだった。平坂ひらさか神社にお仕えする、たった1人の巫女。正月によく見かけるようなバイトじゃあない。本職の巫女さんだ。


 彼女を何度見ても、胸が締め付けられるほどの思いに駆られる。彼女こそ、理想の女性だった。子供じゃあるまいし、周りの人間が聞いたら呆れるかもしれない。講義を半ばサボってまでのことか、と。


 実際、勘の良い人間は僕の変化に気付いている節があった。わが名はまだき、立ちにけり。特にこうさんなどは要注意だ。黄(いずみ)さん。あの恐ろしい理詰めで自白を迫られる日は、案外近いかもしれない。


 それでも僕はこの神社で、恋心にも似たフワフワした気持ちと戯れる時間が好きだった。動機はかなり不純だけど、お賽銭は毎回欠かしていないから、神様も大目に見てくれるはずだ。はずだよね。


 ……玉砂利を踏みしめながら近付いていくと、彼女がこちらに気付いた。箒を動かす手を止めて僕に向き直ると、静かに頭を下げて挨拶してくれた。


「こんにちは」


 はかなげで、だけどしっかりと暖かみが伝わってくる声。僕も口を開いた。


「こんにちは、巫女さん」


 恥ずかしながら、僕には知らない女性(それも美人)の名前を聞くなどというメンタルもスキルもなく、彼女のことは「巫女さん」と呼んでいた。


 それに……彼女はどことなく似ているのだ。僕にとって忘れられない人に。その人――美衣子みいこと響きが似ている「巫女」という呼び方をすることで、2人を重ねているようなところが、確かにあった。初めて会ったとき、僕の記憶にあるセーラー服姿の美衣子が、なぜかこの神社の巫女さんの姿と違和感なく重なった。


 と言っても、巫女さんが幼く見えるという意味ではない。年の頃は二十歳くらいだろうけど、見た目はもっと大人っぽく見える。落ち着いた雰囲気がそう見せているのだろう。僕が覚えている美衣子の姿が、中学生のままで時を止めてしまっているというだけなのだ。


 巫女さんに対して、申し訳ないという気持ちはある。僕はいつまで美衣子への気持ちを引きずるのだろう。まして、その代わりとして巫女さんを見ているだなんて。美衣子はもうどこにもいないというのに。

 



 ……しかし、相変わらず彼女には圧倒される。立ち居振る舞いに1ミリも隙が無く、所作が恐ろしく美しいのだ。背丈こそ僕の方が上回っているけど、その凜とした姿を見ると気後れしてしまうのだった。我ながら情けなく思えてくる。


「すると、何村いずむらさん。今日は自転車でお越しになったのですね」


 唐突に巫女さんが言った。何村いずむらというのは僕のことだ。何村まこと。以前に名乗っていたのだ。


 いや、それより……今の発言、おかしくなかっただろうか。


「巫女さん、どうして僕がチャリで来たと分かったんですか?」


 いつもは徒歩で来ているし、それは話していた。今日に限って自転車で来たのに、どうして分かったのだろう?


「知りたいですか?」


 すると彼女はもったいぶるように言った。目がキランと光った気がする。箒を握る手には力が込められているのが分かった。


「は、はい。気になります」


 どうやら巫女さんの中でスイッチが入ったらしい。彼女が特技を披露する時の前触れだった。僕もだいたい分かるようになってきた。また「見込みがあります」とでも言い出しそうだ。


 彼女は澄ました表情のまま、だけど少し得意げな様子で話し始めた。


「まず、いつもと違い徒歩ではありません。何村いずむらさんの大学からこの神社までは、歩くとなるとかなりの距離ですが、何村さんは今日に限って、あまり汗をおかきになっていませんから」


「なるほど」


 関節を痛めるといけないから、僕はさっき立ち漕ぎをすぐにめて、その後はゆっくり走っていた。ちなみに、巫女さんには僕の通う大学のことを話している。


「でも、車という可能性もありますよね?」


 本当は免許なんて持っていないけど、ちょっとした意地悪のつもりで尋ねてみる。だけど巫女さんは、やはり涼しい顔でかぶりを振った。


「それもありません。当社は参道が表と裏の2つありますが、駐車場があるのは表だけ。何村いずむらさんはいつも――もちろん今日も裏の方からお越しになられたので、車やバイクはないかと。


 そして決め手は……」


 そう言うやいなや、巫女さんの顔が僕に急接近した。つま先立ちになって、僕の頭に手を伸ばしたのだ。心臓がどきりと跳ねた。息が止まる。


 ――美衣子みいこ。そう呻きそうになる。


御髪おぐしに、こんなものが」


 どうやら彼女は、僕の髪に付いていた何かを取ってくれただけらしかった。僕は照れ隠しに頭をかきながら、巫女さんの指先にすくい取られていたものを見た。それは白髪のようにも見えたが、もっと細い繊維だった。


「……蜘蛛?」


「はい。あの歩道、ケヤキの枝先の垂れ下がったところに蜘蛛が巣を張るんです。といっても、何村いずむらさんのご身長でも届く高さではありません。


 自転車に乗り、なおかつ立ち漕ぎ・・・・でもなさったなら、引っかけてしまうかもしれませんが」


 ああ、あの時に付いたのか。鏡などは見なかったから、気付かなかった。しかし僕の頭に付いた蜘蛛の糸によく気付けたものだ。巫女さんは超人的な視力らしい。まさに神懸かっている。


 この超人的な観察眼と推理力こそが、巫女さんの特技だった。彼女は、今のような調子で推理を披露してくれる。さながら、神の力を宿しているのではないかと思うくらいだった。


 同時に、巫女さんはかなりのミステリマニアらしかった。それに対して僕は全くのミステリ音痴。活字離れが進んだ最近の大学生じゃないけど、本はあまり読んでこなかったし、ミステリに至ってはテレビですら見ようとしなかった。


 巫女さんに教えられるまで「シャーロック・ホームズ」のことを知らなかったくらいなのだ。『そんな名字なのに……』と巫女さんに驚愕される始末。意味はよく分からなかったけど、言い訳はできない。自分が浮き世離れしている自覚は、多少はあった。


 というわけで、僕は神社に訪れる度に巫女さんのちょっとしたミステリ講義を受けることになった。と言っても、参拝のついでに立ち話をするだけだ。大学をサボるにも限度がある。この不思議な関係は、数ヶ月前から続いていた。


「やはり、巫女さんは何でもお見通しですね」


 心から感心して言うと、巫女さんは慎み深く目を伏せた後、


「いいえ、分からないこともありますよ。


 ……お賽銭箱の上に、五円玉を並べる時の気持ちとか」


 上目遣いでそう言った。その挑むような目を見るのに耐えられず、僕は視線をそらした。巫女さんは、あのメッセージに気付いていたのだ。そして恐らくその犯人にも。


 巫女さんは微笑んで、


「あとで、少しお時間をいただけないでしょうか。とても見込みがある謎でした」


 出た、「見込みがある」。これは巫女さんが、興味深いと感じた時の口癖のようだった。


「……はい」


 僕は半ば観念して、巫女さんの後ろに着いていった。犯人は犯行現場に戻るのだっけ? 今日の僕がまさにそれだったけど、その結果捕まっているのだから、間抜けな話だ。


 今の状況を的確に表したことわざ・・・・が頭に浮かんで、僕は密かに苦笑した。

 





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