第89話 ふつつか者ですが
高校に入学してからも、花とは会話をしなかった。
一年、二年とクラスが違ったし、廊下で鉢合わせたときに目で挨拶するぐらいだ。
……というか、俺は完全に花を避けていた。
だから三年生で同じクラスになったときは内心喜んだ。でも外面的には気まずさがハンパじゃなかった。
花は女の子の輪に完全に溶け込んでいたし、ああ……俺の良く知る幼なじみは本当に女性として生きているんだな……なんてバカみたいなこと考えてた。
小学校以降――クラスでの花の様子を俺は知らなかったから。
二人でお使いに行ったり、突発的な鬼ごっこで泣かせてしまった花はもうそこには居なくて、髪を染めたり化粧をしたりする、普通の女子高生になっていたんだ。
俺たちが疎遠になっている現実を、改めて突き付けられたような気分だった。
……でも、それでもやっぱり好きだった。
たとえ話さなくても。特に気にかけないフリをしていても。花がノートを必死に書き込む姿を、俺は後ろの席からずっと見つめていた。
俺が意識し過ぎているからなのか、教室では花とは良く目が合った。その都度、まるで決まりごとのようにお互い知らんぷりをきめこんだ。
――いつだったか、英語の授業で一人ずつ発表する機会があった。
俺はあまりの緊張で発音を間違えたり、盛大に噛んだりした。それをクラスの皆が笑ってくれたとき、花も一緒になって笑ってくれていたのを見た。
バカにしてたのかもしれない。でも俺のことで笑ってくれたことが、俺は本当に嬉しかったんだ。
とはいえ良いことばかりじゃない。
いくら話さないとは言っても、会話をしなくてはならないときはあった。
そういうとき、昔ながらの幼なじみ感出していくのか、完全に初対面風で接するのか、気まずいだろうけど、仕方ないからさ……的な感じでちょっと配慮した風なのか。また、呼び方は苗字なのか、名師なのか。それとも呼ばないのか……。
他の女子とは普通に喋れてるのに、花とだけはやっぱりぎこちなくて……。
「えっと、じゃあ何か意見ある人いる?」
今年入学した新一年生を祝うというイベントの企画を各グループで行うことになり、俺はそこのリーダーになった。で、困ったことに花も同じグループだったのだ。
「……斎藤は? 何かある?」
「うーん、大合唱! とか?」
誰も自ら発言しない消極的なグループだったから、俺は一人ひとり意見を聞いていかなくてはいけなかった。
そして、名前が呼べないために花を最後まで残した挙げ句、花から意見を聞くときは――、
「……な、何か、ある?」
と顔を見ながら訊ねることしかできなかったのだ。
“赤希”と呼びたくなかった。
そうすると、今まで俺たちが築いてきたものが完全に壊れてしまいそうだったから。
当然、“花”なんてずっと呼んでいない名前を皆の前で口に出せるわけもない。
きっと不自然だったろうな。花も微妙な顔をしていた。周りの奴らも、ヘンに思ったろう。
そんなこんなで間違いなく花への意識が高まっていくのを肌で感じつつも、俺は花との恋愛関係はきっぱりと諦めていた。
せめて普通に会話ができて、昔を懐かしむことができる関係に戻れたら良いなと淡い期待はしていたけれど。……このときは、寝る前は花のことばかり考えてたな。
そんなある日、日直だったことでクラス中から注目された俺は、偶然花と目が合たんだ。
幸せな気持ちになったせいか、小さい頃に花と手を繋いでいたことを思い返しながら下校して(キモいというツッコミは受け付けない)、帰宅すると母親からメッセージは入った。
――花が、三日間ご飯を作りに来てくれる。
あまりの驚きでテーブルの角に小指をぶつけたけど、俺のテンションはうなぎ登りだった。身体から沸々と何かが湧き上がってしょうがなかったんだ。
――花と……二人きり。
花が来るまでの時間で身だしなみや部屋の整理をしたり、とにかく焦った。
ちょっとでも印象を良くしたかった。幻滅してほしくなかった。
そして、花が数年ぶりにウチに来た。このきっかけがあったからこそ、今の俺たちがある。
日直だったあの日――、花が俺のことを見ていたのは、もうウチに来ることが決まっていたからだったんだね。
* * *
オレンジと桃色が混ざり合ったような素敵な夕色の空の下、花がジト目で俺のことを見つめてきた。
「どうしたの、花」
「……蝶、なんか、すっごいニヤニヤしてる……!」
思いだし笑いを人に見られるくらいには恥ずかしかった。
「し、してないって!」
「えぇ、してるよ~? ……ふふ、何を考えてたの?」
「……へ、変態なこと」
茶化すつもりで言ったのに、ニヤニヤしてたせいかよりリアルな感じに受け止められそうだが本当に大丈夫か俺。頼むぞ俺。
「……へ、へえ」
「…………あ、その、ごめん。冗談だよ」
「……お母さんたち、遅いね」
「そ、そうですね」
なんかツッコんで欲しかったー!! うひー! でも過ぎちまったことはしょうがないってことで俺は逃げることにするぜ!
「俺、母さん呼んで来るよ」
「え……ま、待って」
花の側から離れようとしたとき、俺のネクタイがグイッてなった。
「ぐえっ」
「きゃっ……ご、ごめんね! でも、あの……もうちょっと、二人で……ここに居たかったから」
「……わかった」
可愛らしく微笑む花に、俺はどうすることもできない。彼女の要望は何でも受け入れるのだ……。
「わたしたち、もう高校卒業しちゃったんだね」
「そうだな……早かったなぁ」
「本当に。もうすぐハタチになっちゃう。そしたらお酒とか飲めるんだよ、全然想像出来ないよね」
「花は酒弱そうだな。なんとなくだけど」
「ええ~、蝶だってあんまり強そうなカンジじゃないけどなぁ」
「どうだろう。そしたら二人とも下戸のへべれけカップルの完成じゃん」
「やだ~そんなの……もっとロマンティックなヤツが良いなあ……ふふ。いつかさ、二人でお酒飲んで酔っ払おうね」
「酔いつぶれる花を家まで送り届ける仕事が捗りそうだ」
「強いか弱いかまだわからないのに! しかも宅飲みのつもりだったもん!」
――た、宅飲み、だと? 良いなあ。ソレ……。
部屋着姿のままお酒飲んでほろ酔いでイチャイチャ……くっ、魅力的過ぎる。
「あぁ~、またニヤニヤしてる……」
「え、マジ」
「あーあ、イケないんだ~……また、変態なこと考えてたの?」
「いや、まあ……変態というか、花と二人で宅飲みしてる姿を想像したというか」
正直に言うと、花の頬がぽっと赤くなった。
「ふふ、実はわたしもしてた。一緒だね」
「じゃあ花も変態ってことだな」
「ち、違うよ! 蝶はそうでもわたしは違うもん」
「必死に否定してるってことは~?」
「もうやだ! 蝶ってばサイテー!」
「ハハハ」
ああ、楽しい。いつまでもこんなくだらない会話を続けられる自信がある。
大学生になっても、この時間だけは大切にしたいな。花はこれから忙しくなって、会える時間が減ってしまうかもしれないけど。
……でも、花の支えになるって決めたんだ。俺は彼女を応援する。
確かな覚悟を胸で再確認したとき、とすん、と突然花が身体をくっつけてきた。
「……花?」
「くっつきたいときだって……あるの」
「お、おぉ……そっか」
花は顔を俺の腕に埋めながらに言った。恥ずかしかったけど、凄く嬉しい。
身体が触れあっている間って本当に幸せだ。頭の中が、その人のことだけになるからかな。
「昔のことを……思い出してたんだよ」
きゅっと俺の腕にしがみつきながら、花が口角を上げる。
ふわりと広がった甘いシャンプーの香りが鼻腔に入り込んできて、俺の幸せ指数もグッと上がる。
「わたしたち、良くこんな風になれたなぁって」
「俺も……そう思うよ。本当に」
「一年前くらいの蝶からは考えらんないもん……えいっ」
俺の頬に、花の細い指がぷすっと押し込まれる。
「それはそっちだって同じハズだけど~?」
触れあいスキンシップが幸せ過ぎて、もう今ここが俺の人生終着駅かと思った。
にやにやしないように必死に我慢する。
「……わたし、そっちじゃないもん」
甘えた声で、そんなこと言う。
花ちゃん、甘えっ子モードになってしまっているようだ。ああ可愛い。抱きしめたい。
やがて、可愛らしい琥珀色の大きな瞳が、こちらを向く。
ダメだわ、これは反則。耐えられないです。
俺はニヤニヤしつつも、観念する。
「花には敵わないな、俺」
「えへへ、許してあげる」
「でもあれだよね。結構慣れてきたもんだよね」
「えぇ~? 今更言う? もう半年以上も付き合ってるのに!」
もう半年も経つのか……付き合う前は本当に気持ちを伝えるべきかどうか、右往左往あったなあ。優柔不断だったあの頃の俺を勇気付けたい。
キスとかは未だに馴れてないし、それ以上のこととか今は正直考えられないけど、これからもっと花と一緒に色んなところに行って、色んな物を見て、色んなことをして、いっぱい二人の想い出を作っていきたい。
そしたら、きっと自然に……関係は進んで行くはずだ。
今は、ゆっくりそのときを道草しながら楽しみたい。
こんな青春時代、一生に一度あるかないか――だと思うから。
俺は改めて花の顔をまっすぐに見て、少しだけ頭を下げた。
「花……ふつつか者ですが、これからも宜しくお願いしますっ」
「いえいえ、こちらこそ宜しくお願いしますっ。楽しい想い出……いっぱい作ろうね」
「……なんだこれ」
「ふふ、わかんないよ。蝶がやったんじゃん」
残りラスト1話! ここまでお付き合い頂きありがとうございました。