第87話 9回目の写真
「……お母さんたち、遅いね」
「何してんだか……」
スーパーで買い物を終えたあと、俺たちはお互いの家と家の区画の丁度真ん中に二人で立ち呆けていた。
そう。母さんの“忘れたわけじゃないでしょうね”とはこのことだったのだ。
入学式と卒業式に一回ずつ、蒼希家と赤希家の家族ぐるみ恒例イベント、記念写真。
一時期億劫でしかなかったこのイベントだけど、今では少しこそばゆい。
想い出は形がなくて記憶として残るものだ。でも、きっと形として残すことにも意味がある。触れれば、引き出される想い出があるように。
母さんたちは、それを毎回写真という形で残してくれていたんだ。
「蝶、どうしたの……? ぼーっとして」
花が俺の顔を覗き込むように身体を前屈みにする。
「ああ、いや……今回で何回目だっけ? こういうの」
「9回目だよ」
「え、なんで即答なの?」
「昨日、今までの写真を見たから」
「ああ、どうりで」
「蝶ってば、忘れてたんでしょー?」
「写真撮られるの、あんまり好きじゃないし」
「ひどーい、わたし楽しみにしてたのに~」
「そうなの? 高校の入学時の、あのふてぶてしい顔からは想像できないな」
「そ、それは……違うの! っていうか覚えてるんじゃん! もうっ」
蒼希家と赤希家は、ほぼ同じ時期にこの地域に越してきたお隣さんだ。どちらも話好きで、母親二人とも妊娠中だったこともあったのか、すぐに打ち解けて仲良くなったらしい。子供が産まれたら賑やかで楽しい生活になるね、なんて話をしながら。
そんな感じで俺たちが産まれる前から仲の良かった両家族の元に、俺と花がやってくる。まず俺が。その翌日に花が産まれた。
産まれたばかりの俺と花をそれぞれ抱いた母親が、今ちょうど俺たちが立っている場所で撮影した記念写真。それが記念すべき1枚目の写真、らしい。シャッターを切ったのは父親たちだ。
赤ん坊の俺たちはとにかく可愛かったらしく、俺と花が一緒に写っている写真は探せば何百枚とある。その自然な流れで、決まった成長過程を記録するようになったようである。
2枚目は、幼稚園の入学式の日の朝、同じ場所で撮ったものだ。
あのときは今と違って写真を撮られるのが大好きなクソガキだった。
あの頃は、花と一緒に笑顔でピースとかしてたなぁ…………――――。
「――――ねぇママ~! どうしてここでお写真するのー?」
「花も知りたーい! どーしてなの?」
無邪気で好奇心旺盛。なんでもかんでも知りたくてしょうがない、毎日が冒険と発見の日々、そんな幼少期だった。
「ん? それはねー、蝶ちゃんと花ちゃんが大きくなったらわかるんだよ?」
にこやかな俺の母さん。この頃はまだ若くて優しかった!
「ええ、おおきくなったら~?」
「ちょーはこどもだからわかんないの! 花、わかるもん」
「ねぇママー、どうして花にはわかるの~?」
「はいはい二人共~! お手々繋いでにっこりして~?」
「にこーって可愛い顔するのよ~二人共~」
カメラを構える母さんの横では、いつも花母さんが自分の頬に指を当てながら笑っていた。そのときの彼女の表情が何故だか好きで、手を繋ぐことも忘れて、良く真似したりした。でもそうすると、花が脹れっ面になるのだ。
「もぉ、ちょー! お手々つなごうよ~! ママ~、ちょーがお手々つながない!」
「あはは、積極的ね花ちゃんは」
花と手を繋ぐことは、なんでもないことだった。恥ずかしさなんて一切なくて。ただそうすることが当たり前だったんだ。
3回目は幼稚園の卒園式のときで、このときも俺たちの仲良しこよしは変わらなかった。変化の兆しを見せたのは、4回目……小学校入学のときだ。
手を、繋がなくなった。
「はい、じゃ二人共お手々繋ぎな?」と諭してくる母親の言葉に、俺は違和感を覚えたのだ。
――なんで、花と手を繋がなくちゃいけないの?
単純過ぎるそんな疑問。
幼稚園に通う様になって、俺は花以外の友達ともたくさん遊んだ。当然幼なじみの花と遊ぶ回数が一番だったが、毎日一緒にいたこともあってか、幼稚園で遊ぶ友達たちとの時間のほうが、花と過ごす時間よりも特別なものに感じていたんだ。
花と一緒に居るのが嫌になったわけじゃない。ましてや花が女の子だからって邪険にしたわけでもない。まだ幼い俺は男女の区別ができていなかった。
ただ、幼稚園を卒園する頃には、いつも二人でべったり一緒にいるよりも、周りのみんなを巻き込んで大人数で遊ぶことを好んでいた。そこに花が居ようが居まいが。
だけど、花はそうではなくて、あくまでも俺と一緒に居たがった。
「ちょう~お手々繋ごうよ」
だから、手を繋ごうとする花の小さな手を――、
「や、やだよ!」
俺は弾いたんだ。
「え~どうして~?」
「……ラ、ランドセルを……持ちたいの!」
ふと思いついた言い訳がそれだ。別に突き放す必要なんてなかった。お手々とか言われて、子供っぽいのが嫌だったのかもしれない。今ではもう細かく思い出せないけど、このとき俺の中で何かが変わった。親の前で、花と一緒に手を繋ぐことが嫌になっていた。
結局、俺たちはお互いに手を繋がずピカピカのランドセルを握っていた。新生活を前に、どちらもニコニコ笑顔だった。
小学校低学年のころは二人で遊ぶことも多かった。だけど、高学年にもなると、広がっていく自分の世界と反比例するみたいに、花とは少しずつ距離ができてしまっていたんだ。
5回目の写真は小学校卒業のとき。
このときにはもう学校ではほとんど話さない仲になっていて、お互いの名前を呼ぶこともなかった。そんな俺たちの仲を母さんたちが物凄く心配していたのを良く覚えている。
物心がついたときから二人一緒だったという肩書きが、その頃は無償に嫌だった。小さい頃から女の子と仲良しだったということが何より恥ずかしかった。
周りの連中に冷やかされるのも噂されるのも嫌で。何かと花に冷たい態度を取るようにもなってしまっていた。
だから、5回目の写真の俺たちは若干引きつった笑みだった。当然手も繋いでいない。ただ、隣で一緒に突っ立ってカメラを見ているだけだ。
このときは流石に胸が痛かった。カメラを撮る母さんたちがとても悲しそうだったから。
6回目、中学校入学時だ。
中学校ではもう完璧に話さない仲だった。登校中や家を出る時に顔を合わせれば一言挨拶をする程度の仲――顔見知りくらいの関係になっていた。
「……ねぇ、二人共もう少し笑顔でさぁ~」
困った表情でカメラを構える母さんに、ちょっと早めに思春期が訪れた俺が言う。
「……なんで?」
「…………あ、そう」
あの頃の俺は、本当にぶん殴りたいくらい生意気だった。というのも、丁度そのころ俺と母さんはくだらない問題で喧嘩中だったから、しばらく口をきいてなかったのだ。俺の憎たらしさは三割増しだ。
「じゃ、せめてもう少し花ちゃんに寄りなさい」
「寄ってんじゃん」
「……本気で言ってんの?」
俺と母さんの間のピリついた雰囲気に花も花母さんも大分気まずそうだったのを覚えてる。空気最悪だったな……で、流石にこのままではマズいと思ったのか、花母さんが、にこにこしながら場を緩めようとしてくれようとしたんだ。
「ん~花、ちょっとだけ、寄ってみよっか」
「う、うん……」
花母さんから言われて素直にちょこちょこ身体を寄せてくる可愛い花に、俺はドキリとした。中学の制服姿に身を包んだ花は、今までの花と大分違って見えたんだ。
その仕草の一つひとつが女の子で、胸がどきどきしながらも俺は顔を俯けた。
俺の冷たい喧嘩腰の口調や態度にきっとガッカリしただろうとか、勝手に自己嫌悪して。内心、凄く後ろめたかったんだ。
結局笑顔も無くて、つまらそうな顔でカメラを見ているだけの写真になった。
次の7回目、中学校卒業のときだ。
この時期、俺は花と通う高校が同じだということを知って、異様にドキドキしていた。
卒業式の帰りに母さんと一緒に家まで帰ると、(結局毎回でやだもう)なんと花と花母さんが毎回写真撮影をする恒例の場所で待っていたのだ。
「カメラ取ってくるからここで待ってなさい」
「えっ……」
不適な笑みを浮かべた母さんが家に引っ込んで、そのときその場には、俺と花、花母さんの三人だけになった。
「…………」
あの口うるさい母親に早く帰ってきてくれと願ったのはこのとき限りだな。
そんな異常な気まずさの仲、俺に声をかけてきたのが、花母さんだ。
「蝶くん、高校も同じだね~」
「あ……ああ、まぁ、あの……はい」
急にフレンドリーに話しかけてきてくれた花母さんに俺は多少ビビりつつも、なんとか応対した。
「この子ったらね、嬉しそうにしてたんだよ~! 蝶くん声かけてあげてよ~」
「……え?」
花母さんが笑いながら、背中に隠れていた花を前に突き出す。
一瞬、俺と目が合う。
――花が嬉しい……? どうして?
自問自答しつつも焦った俺は、妙な表情をしていただろう。目が合ったことが恥ずかしかったのもある。花の顔なんて見れなかったし、ずっと地面見てた。
「お、お母さん! それは違うじゃん!」
「違わないわ~ふふふ」と良いながら、花母さんの声が遠退く。そのあとガチャリと音がした。
ウチに行ったな……。母さんの様子を見に行く体で俺と花を二人きりにしたのだ。
「…………」
「…………」
久しぶりの二人っきりは本当に気まずかった。
視界の端ギリギリに花が映るくらいの距離感のまま、時間が過ぎていく。
胸の鼓動が止まらなくて、我ながらこんなにも幼なじみの花にドギマギしてしまうものなのかと驚いた。
中学時代は一緒に居る時間がほとんどなかったから、俺の良く知っている花のような、全然違う別人のような……なんだか、そんな不思議な感覚だった。
時間をかけて、ちらちらと花の姿を見たり、地面を見たりを繰り返しながら、母さんたちを待った。
何か喋りたくても、無視されたらどうしようという恐怖のほうが勝って何もできずにいた。
しかし、そんな俺に、花は――。
「…………あ、あの……さっきのは……気にしないで、ね……?」
「え、ああ……いや」
挨拶以外で口をきいたのは小学生以来だった気がした。
あまりの驚きと緊張で、このときなんて返事をしたのか全く覚えていない。そのときに一瞬だけ目が合ったのだけど、すぐに反らしてしまった。
花はとても綺麗な瞳で、幼さを残しつつも成長した美少女になっていた。
何か意味のある会話をしたわけじゃないれど、その日は、とにかくただ嬉しかったんだ。
その後にカメラを手にした母さんたちが戻ってきて、写真を撮った。
俺たちは、遂にカメラを見ることさえしなかった。
いや、正確に言うと違うのかもしれない。見ることが、できなかったのだ。
だけどあまり嫌な感じはしなかった。俺も花もそっぽを向いているのに、どこかその写真には今まであった淀んだ空気のようなものが無くて、少しだけ甘酸っぱいような感じがしたんだ。
きっと、恥ずかしかったんだ。カメラを見つめることが。
花のことを意識しているよ、と伝えているみたいで。
ずっと、なんとなく花のことが好きだった。それはもう子供の頃から根付いていたもので、理由を説明できるものじゃないけれど。
――思えば、このときからだったのかもしれない。
男と女という存在を明確に意識するようになってから、幼馴染の花のことを――それでも好きだと考えるようになったのは。
子供のときの結婚の約束を、現実的なものとして思い返したり、ふとしたときに部屋の窓から花の姿が見えないかなと、幼なじみの姿を追いかけるようになってしまったのは。
俺は、幼なじみの女の子のことが好きだった。
幼なじみを好きになるのに理由なんていらない。