第80話 靴の裏に貼り付いた他人のガムなんて、誰が取りたがるだろう
状況を理解するのには時間がかかった。
結果俺の口から出た言葉は、呆れたような口調の「……母さん」だった。
「……ち、違うのよ。これは違う。背景撮ってたの。ていうかアンタ、……み、道すがらはオススメしないわよ! 誰かに見られたらどうすんのよ、あっはっは!」
「…………」
「じ、じゃあね! ……蝶。今日はあんたの好きなグラタンだから! 早く帰って来なさいよ! バイバイキーン? ……あら、ていうかスマホ故障してたわだからなんも撮れてなかったかもしれないわ。あー残念だなーんじゃまたそういうことでー」
慌ただしくしながら、母さんが風のように走り去っていく。
「ち、蝶…………蝶ママが…………ねぇ……ねえってば!」
花が濡れた瞳でうるうるした上目遣いで俺を見上げてくる。
「……だ、大丈夫。後で絶対に消させるから」
「うぅ……やだ。ホント恥ずかしい。……ぜ、絶対に消してもらってよ!」
花が顔を真っ赤にしながら俺の肩を叩いてくる。余っ程恥ずかしかったんだろう。
「いや待って、俺のほうが恥ずかしいよ! 実の母親にこんなとこ撮られてさ!」
普通にマジありえないだろうなんだあの親。なんだあの親。
あまりのことに脳内で二回繰り返していると、花が顔を俯けたまま、服の袖をくいくいと引っ張ってくる。
「ねぇ、もう帰ろう?」
「そ、そうだね……」
二人で帰路につきながら、俺はふと思い立ったことを花に訊ねる。
「そういえば伊波匠さんさ……、文化祭のとき、ドラマのセリフみたいなこと言ってたよね」
脳に焼き付いたあの言葉。
「ふふ、彼氏なんかじゃありませんよ。……でも、彼女のことは好きだ。心の底から応援してる、だから邪魔はさせたくない」
「ちょっと、なんで全部暗記してんの!」
「いや、純粋に格好いいなーって思ったから」
「わたしが言ったわけじゃないけどなんか恥ずかしくなってきた……」
「格好いいよなあ、伊波匠……イケメンだよなあ」
がっくりと肩を落としていると、花が横でニヤリと笑ったのが見えた。
「匠くん、そういえばわたしのファン一号になるって言ってた」
花は気恥ずかしそうに照れながら答えた。
俺はつい、ムッとしてしまう。
「……じゃあ、俺はファン二号?」
「違う。蝶が一番! 蝶に応援してもらえることが、わたしは一番嬉しいよ!」
「……うっ」
天使のような花のにっこり笑顔に、俺の邪な気持ちが浄化されて消えていく。
可愛い――もう、最高に可愛いんです……。
「ていうか、匠くんの周りにはわたしなんかよりもずっと凄い女優さんがたくさんいるし、ヘンな心配なんていらないから大丈夫だよ、……ふふ、心配した?」
「え? は? いや、別に……」
表情に出さないように努めたつもりだったけど、俺の顔を見た花が何故だか吹き出す。
「ふふ、可愛い」
「な、なんだよ」
「可愛い可愛い。蝶は可愛いよ」
くっ――! なんか悔しい!
何も言い返せないで可愛いと言われたことに対してただただ顔が熱くなることしかできない。お姉さん属性か? この、さっきまでわんわん泣いてたくせに!
顔が真っ赤になってしまったのが無性に恥ずかしくて、花から視線を背けると、花がそれを先回りして俺の目をまっすぐ見つめてくる。
そして、くすくすと笑みを浮かべながら、こう言った。
「えへへ、蝶のヤキモチやき~!」
「ち、ちげーよ! ほんとに全然ちげーから!」
俺の言葉に花がお腹を抱えながら笑いだす。
「なんかチゲチゲ言ってる~」
「チゲ!? ああなんかお腹空いてきたなもう! 花、待てってば!」
「きゃー!」
「何故逃げる!」
「蝶のへーんたーい」
「なんでだ!」
けらけら笑いながら先を走る花を、俺も笑いながら追いかける。
例え馬鹿にされてもからかわれても、それが凄く幸せで。楽しくて。温かくて。嬉しくて。
誰がなんと言おうと俺は花の笑顔が何よりも大好きで。
俺と花だけの温かいこの居場所は、子供の頃から全然変わってない。
以前は花との距離を感じていた。歳を重ね合ったことですべて変わってしまった、なんて思ってた。でも、やっぱり全然変わってなんてなくて。
この居場所がいつまでもずっと俺の場所であって欲しい。
大好きな君の隣で、いつまでもずっと見ていたい、その肌に触れていたい。
心から、そう思った。
「――のぁ! ガム踏んだ!」
「ふふ、蝶ってそういうところあるよね。ダサーい」
「花が急に走るからだろー」
「もう、しょうがないなあ。ほら貸してごらん!」
花が微笑みを浮かべながら小走りにこちらに駆けてくる。
髪を一束耳にかけて、俺の足下にかがみ込む。
花の綺麗な手が俺の汚れたスニーカーに伸びようとしたところで、俺は足を引く。
「いや、いいよ。汚いし」
「いいの、別に。ほら、早く足上げなさい」
「なんか……お母さんみたいだな」
なんだか照れくさい。言われるがままにスニーカーを上げる。
「このまま蝶ママになっちゃおうかなあ」
「勘弁してください」
「ふふ、いっぱい弱点握れそうだねっ」
悪戯な笑みを浮かべながら、花は懐から取りだしたポケットティッシュで、俺の靴底にこびりついたガムを剥がしてくれる。
「犬のうんちとか良く踏んでたよね、そういえば」
「良く覚えてるなそんなこと。まあ、未だに踏むときはあるんだけど」
「あはは、ほんと蝶って感じ~」
くるんだティッシュを花がポケットにしまおうとしたところで俺は口を開く。
「ゴミちょうだい」
「お~、紳士ー!」
「……ありがとう、花」
「ふふ、どういたしましてー!」
靴の裏に貼り付いた他人のガムなんて、誰が取りたがるだろう。
普段の俺なら、歩きながら地面を引っ掻いて取り除こうとしただろう。ガムを吐いたやつが悪いって思いながら。
そりゃそうだ。他人が口に含んだ汚いものになんかできれば触れたくない。
花だって嫌な筈なんだ。触れたい人なんているはずがない。
――別に。頼んでなんかないのに。
でも、花は嫌な顔一つせず、俺のために、やってくれたんだ。
こんな小さなことなのに。ただそれだけのことなのに。
俺の胸がきゅんと切なく締め付けられて、ただただ花のことが愛おしくなる。
姿が変わっても、中身は子供のときの君のままだ。でも幼稚ってわけじゃない。女の子っぽい振る舞いや表情、ちょっとでも可愛く見られたいって乙女心まで持ってる。つまり最強。最強の幼なじみだ。
――お節介で可愛くて乙女な幼なじみの君のことが、俺は大好きだ。
本当に、俺は幸せ者だ――。
何故だが濡れていた瞼を一度拭き取って、花の瞳を真っ直ぐに見つめる。
照れないで。
真摯な気持ちで。
真心を込めて。
もういっぱいいっぱいのこの気持ちを。
胸の中に収まらない爆発寸前のこの感情を正直に。
今、思ったそのときに。
――伝えたい。伝えなくちゃ。
「俺、本当に君が好き」
「…………うん」
「子供のころから今まで、ずっとずっと大好きだよ、花」
「……嬉しい」
驚いた表情の花が少しずつ緩やかになる。そして。優しく微笑みながら言った。
「でも、それはわたしもだよ、蝶。ずっとずっと……大好きなの」
他人への思いやりって見落としてしまいがちな些細なことほど、「愛」というパラメータが必要だと思うんですよ。だから、皆さんもそういう人を見つけたら最大限愛してあげてください。