第70話 恋人でーと! 後編
「…………」
「…………」
花の横顔をじっと見つめたまま、俺は何も言うことができなかった。体も動かなかった。そんな俺に気付いてか、花はハッとした表情でチラリと目配せをしてきた。
「……その、ごめんね。わたし、今日を凄く楽しみにしてたから。一緒に蝶とっ……」
「…………」
上手く言葉にすることができない花。彼女の気持ちが痛いほどにわかる。
「楽しいのわたしだけなのかなって思ったら……なんか、凄く……」
断じて、あの男のせいなんかじゃない。これは、俺の問題だ。
花に対する俺の気持ちが良くなかった。だから、花は気分を害したんだ。
純粋で優しい花の声を生で聞いて、より一層自分が許せなくなってしまった。
例え彼女が許したとしてもそれは変わらないだろう。
――知らなかった。花がこんな顔をすることもあるだなんて。
* * *
アシカのショーが終了してから、俺たちの間はぎこちなかった。
先ほどまでの恋人らしい振る舞いは殆ど無くなってしまい、倦怠期を迎えた夫婦のような雰囲気を醸し出していた。
幼い頃から花と長い時間を過ごしてきたほうだとは思うけど、こういった空気は初めてだった。いつも優しくて笑ってばかりいる花が、こんな風に不機嫌になってしまうことも。
――今日のデートはもうこれでおしまいかな。
そんなことを思ってしまった時点で、今日はもう帰ったほうがいいのかも知れない。ちらりと隣の花を見てみると、やっぱりしょげた顔をしている。
広場近くへやってくると、カップルや家族連れで溢れかえっていた。
「あ、わたし……トイレ」
そう言って駆け出す花。……しかし。
「……混んでるね」
女子トイレってなんであんなに混むんだろうか。トイレの中でいったい何やってんだってくらい列ができるよね。不思議でしょうがない。
「じゃあ俺ジュースでも買ってくるよ。またこの広場で集合にしよう」
「うん」
花と別れた俺はすぐに踵を返し、広場の端のほうに位置する熱帯魚コーナーへ小走りで向かった。
そこで、高身長の男がガラスを熱心に磨いていた。この人ずっとガラス磨いてるけど、他に仕事ないんだろうか。水族館スタッフじゃなくてもいいじゃんとか思う。
その男は、どうやら何かが気になるらしく、頻りに広場のほうを確認していた。
俺も同じように、広場のほうを見つめる。
――やはり。
そこからは、女子トイレが確認できた。やっぱりと言うべきか、まず間違いなく花のことを狙っているに違いない。
「…………」
――なんて声をかけるべきだろうか。
しかし、いくら悩んだところで最善の答えなんてものは降りてはこなかった。
結局、考えもまとまらないまま、俺は水族館のロゴが書かれた背中に声をかけた。
「あの……」
「…………ぅおぇいっ! バタッ……っす! 自分、バタスっすっす! っすー! ……ああ、やっぱりなんでもないでございありませんでしたっ! てか自分、失礼しましたでございまする」
……………………お? なんだコイツ。
なんだこの感覚。この懐かしい感じ。一瞬でヘンな奴だとわかるこの感じ。
っすっす言い過ぎだろバタス。日本語喋ってくれバタス。
「…………あの、なんかさっきから……その、視線を感じるといいますか、結構、その迷惑なんですけど」
良し。言ってやったぞ。丁寧な感じでありつつちゃんと攻めてる感じだ。俺、頑張ったよ! 本当はこんなこと言いたくないんですよ! 本当ですよ! 基本温和なので、あんまり人に怒ったりしたくない勢です。
「なっん……マジかよ……っすか?」
「……えっと、バイトの人ですか?」
「……あ、俺、いや……自分っはっ! バイトの……人っす!」
「本当ですか……?」
つい言ってしまう。この人本当に働けてるんだろうか。にわかには信じられない。
じーっと対面の相手の顔を凝視する。だが、どうやら恥ずかしがり屋さんらしい。ぷいっと顔を横に向けてしまう。何度か顔を合わせようとするが、最終的に顔を俯けてしまった。
「……は、恥ずかしいでござるっすわぁ……」
その隙を俺は見逃さなかった。
問答無用でキャップ帽を引きはがす。
しまわれていたであろう少し長めの黒髪がバサリと姿を現す。
「やっぱり!」
「うわああああああああああああああああああああ!!」
すると、突然そいつは発狂しながら逃げ去っていく。
「あっ、ちょっと待て……おい!!」
「うわああああああああああああああああ!! もうダメだ嫌われるぅぅぅぅ!!」
「おい、だから待てって言ってんだろ! ミッチー!」
彼の名を叫んだときには、もう奴は行き止まりまで追い詰められていた。
「は? ふざけたこと抜かすんじゃねえよお客。ミッチー? なんだよそのミッキーみたいなファンシーグッズ的な名前はよ」
急激に口調変わったな。こんなバイトさっさとクビにしろよと思った。
「ていうかさ、大声出しながら全速力で走り出すなよ。普通に迷惑だから。お客さんどれだけいると思ってるんだよ。……それに、そのあだ名お前だって気に入ってただろが、嘘つくな。あとファンシーグッズとかいう例えはマジで意味不明だからやり直してくれ。そしてミッキーに謝れ」
……ああっ! もうことごとくツッコミが足りない!
「絶対に俺は謝らないぞ……」
まるで親友と喧嘩して意地になってるサブキャラみたいな至極真剣な表情で、ミッチーはミッキーに謝らないことを告白した。
「頑なだな! てか冗談だからもう別に良いよそのくだりは!」
このズレた感じは間違いなくミッチーでしかない。
「で……? なんでこんなとこにいるんだよ」
「は? 知るわけ無いだろ。そんなこと。だって俺はミッチーじゃないんだからな。俺の名は…………そうだな。一応リクエストは聞いておいてやろう」
めんどくさっ! 知ってたけどめんどくさっ!
だけど、俺には魔法の言葉がある。
「……もうミッチーって呼ばないぞ。…………三井」
「……っ! ぐぁっ! クソがッ……なんて、なんて酷いことをするんだ……」
「健治も、藤川も、クラス中のみんながお前のことを普通に“三井”と呼ぶようになるだろう! どうだ、耐えられるか!? そんな苦行が!」
「……ちきしょうっ!」
苦しそうな表情で、今にも昏倒しそうになるミッチー。彼にとって、あだ名で呼ばれないというのは、とてつもなく辛いことなのである。
価値観は人それぞれである。笑ってはいけない。いつでも彼は真剣なのだ。
「……お? いやいや、待てよ。冷静になれ。そういえば結局浸透しなかったじゃないかよ! あの日、修学旅行の夜だけの関係だったじゃねえかよ!」
そう。北海道の修学旅行でみんなが俺のことをあだ名で呼んでくれない! とガキのように彼がいじけ始めたので、とりあえず呼んであげることにしたのである。
まあ、結局その夜だけだったわけだけど。
「バレたか。でも後半の誤解を招くような言い方はやめろ」
「一体どうしてくれるんだよ、くだんの件について! 冗談じゃ無いぜまったく! バタフライのくせしやがって」
出た。バタフライのくせしやがって。なんなんだよそのパワーワード。もう何がなんだかわからないよ。
「まあそれは置いとくとして」
「いや、待ってくれ。置けない。まだ置けないぞ……この話し合いは」
「いやもう良いんだよ! いい加減話を進めようぜ!」
「……良くない。俺は納得していないんだ……具体的に言うと、あの日の夜のことをな」
キリって効果音ついてそう。なんなのコイツこれワザとやってんの?
「ていうかお前はなんでそう、ワンナイトラブ的な言い方すんだよ!」
「……? ワンワンナイトラブー? なんだそれ。ハハッ、そんな犬種いねえよバタフライ! まったくバタフライは困った奴だなあ。それを言うならラブラドールだろぉ?」
――うっざっっっ!
「ああもうっ」
その後、どうしたらミッチー呼びが定着するのかを十分程度話し合った。おまけにワンナイトラブの意味も教えておいてやった。でもあんまり理解していないような気がした。コイツ本当に高校生か。本当になんなんだこの男。
結局、話を聞いたところ、ミッチーはお兄さんのお手伝いで水族館のバイトを始めたということらしかった。彼に兄弟がいるということ自体に凄く驚いたが、それ以前にお兄さんの気苦労のほうが気になった。
でもどうだろう。血は争えないから案外似てる人物かもしれない。
「――で、俺と花を発見して気になって付けてきたってわけか」
「お、俺が発見したんじゃないぞ。バタフライとフラワーが突然俺の目の前に現れやがったんだ! なんの前ぶりも無く唐突に!」
お前の人生はドラクエかなんかなのか。その原理で考え始めたら通行人全員とエンカウントしちまうよ!
「まあ、もういいや。なんか疲れた。理由がわかっただけでも良しとしよう。バイト頑張ってよ。じゃあ……その、俺はこれで」
手をひらひらさせながらその場を去ろうとする。
そういえばお客さんに写真撮影を頼まれてあたふたしながらカメラの表裏逆にして自らのドアップフェイスを撮影していたあのスタッフも。ガラスと間違えてツルツル頭のおじさんの頭部を磨いていたあのときも。全部ミッチーだったんだと思ったら、納得しかできなかった。
思いだし笑いを吹き出しそうになっていると、「なぁ……バタフライ」とミッチーがいつもの呼び方で俺の歩を止めた。
「何?」
「フラワーの元に行っちまうっていうのか?」
「そりゃあ……まあ、デート中なわけですし」
「そうかよ……だがなバタフライ。俺は諦めないぞ」
「ん? 何を……?」
「俺は……お前の……一番に……」
やたら照れながら、またヘンなこと言い始めた。もう知らん。
踵を返す。
「……だけどよ、フラワーだって俺の大事な友達だ」
「……? うん」
「デートなんだろ? だったらそれは、バタフライとフラワーの二人共が楽しくなるものになるはずだろ」
「まあ……そうだね」
「フラワー、なんか難しそうな顔をしていたぞ。どうせまたフラワーの前でウンコマンとかそういうようなことを言って困らせてるんだろ?」
「常習犯みたいに言うな。お前は俺のことをなんだと思ってるんだよ」
「バタフライ」
そのなんでもない彼の言葉が、何故だか今は胸の中にすんなりと入ってくる。
「……良いこと言おうとしてる空気醸し出してるけどさ、全然深く聞こえないぞ。ミッチーが良い感じに言葉を残せるようになるのは……三十年後でも予想できないな」
「ハハッ、三十年後の俺とか、何歳なんだよ」
凄く楽しそうに笑うミッチー。何がそんなに面白いんだろう。
「いや普通に計算しなさいよ。…………あーあ、なんか凄い悩んでたんだけどなあ。馬鹿みたいになってきたなぁ」
「だって馬鹿だろうバタフライは。……っていうか、何かに悩んでいたのか? フラワーとのことか? 相談役なら任せて欲しいところだぞ? 水族館バイトのこの俺に」
「……ミッチーってさ、ナチュラルに嫌み無い感じで人のことけなしてくるよね。水族館バイトに一体何ができるんだ! っていうかさ、まずは敬語使えるようにしとこうね。うちの高校の面接をどうやってくぐり抜けたのかマジで謎だわ」
まあでも――ちょっとは。
「……うん。俺、そろそろ行くよ。じゃあね、ミッチー」
再度別れの言葉を告げて、手を振る。
「おう! 羽ばたけバタフライ!」
「その幼児向けアニメのタイトルみたいなのやめてくれる!?」
思わず振り返っちゃったじゃないか。また格好良く締まらなかった。
ある程度距離が離れたところで、ミッチーの声が水族館内に響き渡る。
「そういえばよー! フラワーのこと怒らせた理由ってなんなんだー!?」
「なんで今聞くんだよ! そして声でかいわ! あとちょっとはお前のせいでもあるんだからな!」
そのままミッチーと別れ、俺はようやく自動販売機に辿り着いた。二人分のジュースを買って、広場で佇んでいる花の元へと戻る。
彼女は広場に佇む大きな柱に背中を預けて、下を俯いていた。
先ほど別れたときと、あまり様子は変わっていないようだ。
「あ、おかえり。……遅かったね――」
「えいっ」
キンキンに冷えたソレを彼女の頬に押しつける。
「ひゃっ! つめたい! 急に何するの!?」
「デート、仕切り直したい! だから……花、もう一回俺と一緒に回ってくれる?」
「えっ……急にどうして?」
「花と一緒に楽しみたいから! 恋人同士のデートを!」
花はぽかんとした表情で俺を見つめていたけど、やがてにこっと笑ってくれた。
「……もうっ、本当に寂しかったんだからね!」
ふっくらと膨れた頬で、ぽかりと胸を叩いてくる花。
「ごめんなさい! でも、もう大丈夫だから! …………手、繋ごう」
「……うんっ」
例え失敗することがあっても、喧嘩をしてしまっても。
元に戻りたいと思い合えるような関係なら。きっと大丈夫。
俺たちなら、きっと大丈夫!
花と手を繋ぎながら、俺たちは一度回った場所をもう一度見て回った。
そして、それは今までで一番楽しくて、最高のデートになった。
俺も花も二人で仲良く笑い合って、とっても幸せな恋人デートだった。
* * 帰り道 * *
「――――そういえばね、水族館に三井くんっぽい人がいたよ。微妙だったから蝶には言わなかったけど。格好がスタッフさんっぽかったから、もしかしてバイトしてたのかなぁ……あんまりそういうイメージないんだけどなぁ」
「えっ、気付いてたの!?」
「あれ? やっぱりそうなんだ。なーんだ。言ってくれれば良かったのに」
「…………」
「ふふっ、なんかね……真剣な顔でおじさんの頭を雑巾で拭いてたり、お客さんにカメラ頼まれたのに自分のこと撮っちゃったりしてて凄い面白かったの」
本当に、なんとも馬鹿な高校生最後の夏の小話である。
即興で考えたネタでしたけど、楽しんでいただけたでしょうか。オリジナル版には無いお話をいつか考えたいなとは思っていたのですが、なかなか入れるタイミングが思いつかず。リメイクって新作作る以上に結構難しいものかもしれません……。
今回やりたかったのは、本編であまり描いて来なかった、デート中ちょっと雰囲気悪くなる蝶と花です。意外とこの二人はデート描写ってそこまで描いていないんです。なので、書こうかなと……可愛らしい喧嘩回にしよう!と思って考えたのに、結局そんな感じにもなりませんでしたね……。まあ、でもこれはこれかなという感じ。最後ミッチー出てきたし全部解決ですね!(意味解らん)
今後の蝶花は本編に戻るというか、最後の大きな話に向かって動きますので、お楽しみに! 次の更新日は……未定!(公募用の新作で忙しいのです)