第69話 恋人でーと! 前編
花と付き合うようになってから、数ヶ月が過ぎた。
夏休みのほとんどの時間を勉強に費やしてしまったので、あまり楽しいものでもなかった。そこは高校三年生の辛いところなのかなと思う。
……まあ、それだけじゃないんだけど。
放っておくと勝手ににんまりする頬をガッと鷲掴みしながら、俺は窓の外に目をやる。
さらさらと吹き去る秋の風。
チラリと見えた薄いレースの向こう側には……相も変わらず花の部屋。
机に座りながら、勉強が進まない俺。理由は単純明快。
相思相愛の幼なじみと結ばれ、脳は毎日ふわふわしている。そのまま飛び去って、いつか帰ってこないんじゃないかなと思う。
お互い恋人になったとはいえ、部屋は窓を介していつでも行き来できてしまうという神仕様。いつ、何時、何が起きてもおかしくないわけである!
つまり……そろそろである! 次の段階にステップアップしても良いのではないか的な考えを巡らせてもよいのではないか的な的な的な!
やがて、目の前の部屋からばたばたと騒がしい生活音が聞こえてきた。
住人が窓の先で俺の存在に気が付くと、にこにこ笑顔で手を振ってきた。天使か。
「蝶、勉強? あ、だったらこれからわたしが先生してあげようか? …………ていうか――」
もじもじしながら、頬を少しだけ染めて。
「ねぇ……そっち、行ってもいい?」
付き合って数ヶ月経った俺が思うこと……それは、恋人になろうがなるまいが、恥ずかしいものは恥ずかしいのである! こういった花とのやりとりが未だになれないし、気恥ずかしさが抜けない。
でもまあ、そこが楽しいっていうか……。ああ、こんなこと思ってるのもアレだな……俺ってすげえ恥ずかしい奴だったんだな、と思うことが最近多い。
そんな俺たちに押し迫っているイベントと言えば、秋の文化祭に他ならない。
でも今日は、高校三年最後の夏に関して俺と花が恋人になってから初めて決行したデートの話に想いを馳せてみようかと思う。
できるなら記憶を保ったままやり直したい恋人デートの想い出を――――。
* * *
海で海水浴! 河川敷で花火大会! 緑いっぱいの場所でキャンプ!
夏と言えば~で思い浮かぶ数々のイベント行事は常に愛し合うカップルたちの巣窟になっていることだろうから、カップル初心者である俺たちにはハードルが高いんじゃないかと思っていた。
海水浴ってことは花の水着姿が見られる。でも、それは逆に彼女に水着姿を見せてくれ! と俺が強要しているようにも取られてしまう可能性がある。
そうなると俺はとてもエロい奴ということになる。
このエロ蝶! なんて言われた暁には、もう恥ずかしくて夏休み明けに花に会えないかもしれない。家隣だけど。
……中学生か俺は。
とはいえ、そもそも花はスクール水着以外の水着を持っていないかもしれない。それに、早速込みあがってきた彼氏スキルの一つ、『公衆の面前であまり肌をさらして欲しくない』の効果もある。……またヘンな奴らと出くわすかもしれないし。
同じような理由で、夜行動が主となる花火大会も却下にしよう。家が隣とはいえ、目を離した隙に……なんてこともあり得なくはない。
キャンプも中々手厳しい。泊まりは無しとしても、とにかく虫が多くて花の艶やかな白肌を荒らす天敵がたくさんいるはずだ。男らしいアピールを見せるチャンスが多くあるかも知れない旨味はあるけど、残念ながら俺にそこまでの男子力は無いのだ。ウィンタースポーツ以外は割とインドアな俺です。
涼しくて。静かで。ゆっくりできて。あんまり緊張しない場所がいいな。それでいて、花ともっと良い感じになれるような絶好スポット……。
「ハッ…………水族館?」
一瞬自分のことを天才だと思った俺は、定番中の定番に落ち着くのであった。「ハッ……」とか自分の口から素で出るとは思わなかった。
無難が一番って言うじゃないですか。失敗……したくないんですよ。
惨めな小心者である。
花をデートに誘ったとき、彼女はうきうきした声色で「えっ! じゃあおめかしして行かなくちゃ! ふふっ、蝶と水族館行くのって意外と初めてだよね? 楽しみだなぁ」なんて幸せなこと言ってくれちゃって、もうっ!
そしてやってくる当日。
綺麗な白のワンピースに身を包んだ花と、俺は電車で三十分程度の人気水族館を訪れた。行きの電車では花がお菓子をくれた。ミニチョコパイだった。
……ああ、これが幸せか。と二十年も生きていない若造が天にも昇る気分だったのは言うまでもない。
受付で入場券を購入。奢るつもりだったのに、花は早急に財布から自分のぶんのお金を取り出してた。そういえば、前もプリクラ撮ったときに割り勘のほうが嬉しいとか言っていたっけ。
でも彼氏なわけだしなあ……と考えていると、花がくすりと笑ってから言った。
「彼氏だからって、急に変わろうとしなくていいよ。……もし奢ってくれようと思ってくれてたんだったら、そうだなぁ……そういうのは特別な日にして欲しい!」
それを聞いて、俺はここぞとばかりにこう言う。
「今日は、花と俺が付き合ってから初めてのデートだよ。十分特別な日だ」
「なら尚更割り勘が良いんですけど! わたしも当事者だもん」
もっともだと思った。でも、そんな理屈よりも俺は感情を優先する。
「今回だけは奢られてよ。その、……夢だったんだよ。彼女にデート代を奢ったりするの」
包み隠さずに話し終えると、花の耳が途端に赤色に染まっていく。
いや、俺だって滅茶苦茶恥ずかしいんですけどね? 大袈裟過ぎるだろ。なんだ夢だったって。滅茶苦茶恋人デートに憧れてる奴みたいじゃないか!
「むぅ~っ、そうきたかぁ……」
「はっはっは、そうきましたよ。本日に限り俺は奢りたい星人です。あ、聖なる~のほうの聖人のほうがいいかな」
妙な思いつきで勝手に笑っていると、隣の花が俺のことをじっと見つめていた。
「……何?」
「蝶って、凄くイイ人だよね」
「まあ、悪人ではないつもり」
妙な返しだな。もっと面白いこと言って花を楽しませてあげたいのに。
「蝶のそういうところ、好き」
嬉しそうに頬の端を上げながら、花が「じゃあお願いします」と笑った。
「あ、……でも、毎回はキツいからさっきも言ったように特別な日だけね? さっきのまだ有効だよね? 俺、たった今最高に格好悪い気がするけど」
「ふふっ、りょーかいですよう!」
価値観が合うって何よりも大事な気がしてきた。
お金も。個々の感性も。お互いを思いやりの気持ちも。本当に小さくて細かな問題が、いつどんな形で変貌するかなんて、きっと当人たちにはわからない。
それを見つけるために、みんな色んな人たちと出会い、別れを繰り返しているのかもしれない。
「あの……」
受付のお姉さんが声をかけてくる。じっと俺たちのやりとりを待っていたらしい。
まだお金払ってなかった。間が悪い俺はそのまま小銭を散乱させてしまう。列に並んでいた別のお客さんが拾ってくれた。格好悪すぎ……見ないで!
しかも、代金を支払うと同時に受付のお姉さんが「ラブラブですね」なんて微笑みかけてくるもんだから、俺と花は尚更真っ赤になってしまった。
でも悪い気はしない。
だってラブラブだと思うから。……多分。
館内に入り、花と二人でミニマップを広げながら、意気揚々とガラスの中で踊る色とりどりの綺麗な小魚たちを眺める。
「わー蝶、見てみて。お魚だよお魚!」
「はは、そりゃそうだ。水族館なんだから」
とか言いつつ思う。……お魚って言い方がとても良い。こう……上品な感じでそこはかとなく感じる女の子らしさ。生き物への敬愛の証というかなんというか。
五つ目くらいのエリアを見終わったくらいで、花の様子が変わった。
やたらキョロキョロし始めて、ときおりこちらに目線をくれる。
何? というように顔を傾ける。でも、反らされてしまった。
ガラス中の水中生物を一心に見つめながら、花がぽそりと一言。
「……手、繋ぎたい」
その横顔は、別に特別なことなど言っていないよとでも言いたげでどちゃクソ可愛い。『激カワ生物ここに爆誕』って煽り文句を花の横に飾りたい。
俺はそっと花の横まで距離を詰めて、小さくて白い手のひらを拾い上げた。
「実はさ……、タイミングを伺ってたんだ」
絶賛照れ隠し中なので、今はまだ花の顔を見られない。
「でも先に言われちゃったな。また蒼希蝶の格好悪い辞典に新たなページが刻まれちゃうな」
「何言ってんの。……もう! 今日は繋いでくれないのかもって思って、ちょっとしゅんとしてたのに!」
「はは、ゴメン。次からはもっと早く繋ぐよ。でも、花からいきなりしてきたっていいんだよ?」
「それは……は、恥ずかしい」
「ほら、俺とまったく一緒じゃん」
「うっ……えいっ」
ぼすんと小さな体当たり。攻撃的な花もそれはそれで愛らしかった。
そしてその瞬間、俺は奇妙な視線を感じ取る。
俺たちの近場で、入念にガラスを磨いているらしい高身長の男が顔を背けたのだ。そいつはスタッフ用のポロシャツに、キャップ帽を被っている。
なんだあの焦りかた。悪いことをしていたという自覚がある人間の態度だ。
きっと俺と花がカップルっぽいことをしていたから、それを覗いていたんだろう。
別に俺を見るのは全然構わないけど、花のことをじろじろ見られるのはあまり気分の良い行為じゃないなと思う。
注意すべきだろうか。まあ、でも俺も見ちゃうときあるしなぁ。
彼のことがなんだか妙に感じるのは、さっきからずっと見られてるような気がするからなんだよなぁ……。
うーんとその大きな背中を眺めながら考えていると、
「……蝶?」
「……あ、ごめん。何?」
「ううん? ぼーっとしてたから」
「なんでもない。外のペンギン観に行こうよ」
「ペンギン! 行きたい行きたい!」
子供のようにはしゃぐ花と、二人でペンギン広場へと向かう。
ヘンな男のことなんて捨て置いて、楽しいデートに戻ろうかと思考をチェンジ。
ところがどっこい。
なんと彼、俺たちの後を付けてくるのであった。
ペンギン広場に到着しても、彼は何かしらの清掃を励みながら、チラチラとこちらの様子を窺っている。裸眼の視力がそこまで良い方ではないけれど。
それから順繰りに場所を移動してみても結果は変わらず。
近距離まで迫ってくるようなことは無かったが、ある程度の距離を保ちながら必ずこちらを見つめ続けている。微笑ましいカップルだな、と受付のお姉さんのように見守ってくれている感じではない。明らかに負のオーラが漂っている。段々気味が悪くなってきた。
俺の意識は、途中から水中生物の鑑賞から怪しげな男の監視へとシフトしてしまっていた。隣の花が無邪気にはしゃいでいるのはとても嬉しいけど、何かしらの危険が迫っている可能性を無視できないのは事実。だけど、このことを花に伝えてせっかくデートを台無しにもしたくない。
花の言葉に上手い具合に相槌打ち続けながら、俺は怪しげな男の監視を続けた。
突然襲いかかってきたら花だけは守れるように。そう心に誓った。
それは、アシカのショーを見ているときだった。
「……蝶」
「…………ん?」
「…………」
気が付くと、隣の花の様子がおかしくなっていた。
首を傾けても、花はそれから先の言葉を口にしてはくれなかった。唇を噛むような仕草で、ただただ目の前で繰り広げられるショーを見つめている。
ショータイム中のスタッフが、アシカに可愛らしい一芸を披露させる。会場は大盛り上がりで老若男女から黄色い声援が上がっていたように思えた。
だけど、俺と花の席だけはとても静かで。まるで俺たち二人だけが目の前のイベントに参加していない様な気さえした。
そしてその横顔は――まったく笑っていなかった。
「どうしたの?」
再度訊ねる。すると花は、気落ちしたような表情で顔を俯けていた。
「さっきから……喋ってるのって、わたしだけな気がする」
その言葉を聞いて、心臓を射貫かれた様な気さえした。
俺は、花とのデートをまったく楽しんでいなかった。
デートというのは、片方だけが楽しければ良いものじゃない。
お互い楽しめる価値観を伴ったイベントを共有することで、新たに関係を深めていくことが、恋人のデートだ。
それなのに俺は……。
ペンギンのときも。イルカのときも。シロクマのときも。俺は相づちを打っているだけだった。
いや、それだけじゃない。相づちを打つことが花を楽しませる行為だと本気で思っていた。
そんなわけがない。そんなわけがないじゃないか。
「ゴメン、花……俺は……」
価値観が同じだなんて笑わせる。俺は花の心を全然理解してあげられなかった。
花が優しいから、相づちだけでも楽しんでくれるだろうだなんて、そんなことを思っていたのか俺は。馬鹿か。俺個人の問題なんて関係無い。
妨げがあるのなら、それはちゃんと彼女に相談すべきだった。
上辺だけ作って、花に対応したこと。最愛の人をぞんざいにしてしまったこと。
それが俺のした最低の行為だった。
「わたしとのデート、つまんない……?」
悲しそうな声で。しょげた子供のように花は言った。
「ううん。楽しいよ、楽しい!」
また上辺だった。自分自身をぶん殴りたくなる。
今のも、きっと悟られてしまっただろう。
「…………ううん。もういいの。ちょっと悲しくなっただけ。でも、平気だよ」
俺のデートは、既に台無しになっていた。
後編は一週間後くらいに公開するかと思います! 雑記はそちらで!