第67話 シャンプーと汗の香り
「懐かしく……ない?」
「……うん」
ひんやりした冷たい風が、俺と花の頬や髪を撫でる。
まるで、俺たちが再びここへやって来ることを予期していたかのように。
人っ子一人居なかった。
自宅から道なりに緩やかな坂を上った先にあるこの空き地は、住宅街の付近だからか、普段は子供たちのたまり場になっているはずだった。だというのに、夕焼けに照らされた金色の草花たちが気持ちよさそうに揺れているだけだ。
視界の中に映る、懐かしい想い出たちに想いを馳せる。
そこは別段特別なものなんて一つも無い。遊具の一つさえ無い普通の空き地。だけど、その一つひとつには様々な想い出が散りばめられていて。
いつも二人で椅子代わりに座っていた切り株も。
「街が見下ろせる!」と木登り出来ない花の分も幾度となく登った大きな樹木も。
そのすべてが、俺の記憶のままの形で瞳の中に入ってくる。
まるで、昔にタイムスリップしたような気にさえなってしまう。
西の方角に目をやると、空き地全体を染め上げる元凶の太陽が、瞼の隙間から差し込んでくる。何故だか、おかえり、と言われた気がした。
「……すっごい……ここって、こんなに綺麗な場所だったっけ。でも……物の配置とか全然変わってないね。ふふ、昔のままかも」
「えっ、俺も今まったく同じこと考えてた!」
「ええ、本当?」
「ホントだよ! なんでここで嘘つくんだよ!」
「なんか、とってつけた感じしたもん」
「そんなバカな!」
お互いに笑い合いながら、俺たちは空き地へと足を踏み入れた。
十数年ぶりに、俺は花とこの場所にやってきたんだ。
日が沈み始める静かな夕方。自然と心は穏やかになり、歩はゆっくりになる。自然と頬が緩くなるのを感じつつ、良く木登りをしていた古びた樹木へと近づいた。
「あっ……やべ、懐かしい! ちょっと、花これ見てみなよ」
「えー何なにー?」
そこには、ひらがなで“ちょうとはなのき”と崩れた文字が描かれていた。
「俺たちの名前、まだ残ってたんだ! 凄くない!?」
「ふふっ、はしゃいじゃって。子供みたい」
花にくすくすと笑われてしまう。君がそうやって笑ってくれるんなら、俺はいくらでも子供になるよ! これが本当のチャイルドプレイさ! なんちゃって。
「よーし……じゃあ久々に登ってみようかなあー」
腕をぐるぐる回しながら、気合いのこもった声を出した。
「あぁ~、酷い! またわたしを一人ぼっちにするんだっ」
「だって、花登れなかったんじゃん。そのくせ上から見た景色を教えろだなんだ言ってた気がするんだけど」
「そ、それは――そうだけどっ……」
むう……っと頬を膨らませて、花が上目遣いで見つめてくる。俺はそんな彼女に照れ笑いを浮かべながら、花に差し伸べた。
「……今は、もう大丈夫なんじゃない? 花もおいでよ」
小さかった花は、一度もこの樹木に登ったことが無かった。
遊び盛りだった当時の俺は、それでも彼女と一緒に木登りがしたくて、無理矢理連れて行こうとしたこともあったけど、結局泣かせてしまうのがお約束で。
ガキだった俺は、花が自分と同じ男の子なら良かったのに――なんて考えたこともあったくらいだ。
花に差し伸べた手とは逆の手で樹木を掴んだとき、ふとあることに気が付いた。
子供のときは大きな石をいくつか重ね、ジャンプしてようやく届く距離だったのに。今ではもう手を伸ばすだけで届いてしまう。
「うぅ……でも……」
白い生足が垣間見えるミニワンピを押さえながら、花は恥ずかしそうに戸惑いの表情を見せてくる。
「……あっ、そっか。そうだよね、ごめん」
差しのばしていた手を、俺は咄嗟に引く。
少しだけ気まずかった。童心に返って、大きくなった花と一緒に木登りでもと思っていた自分が途端に恥ずかしくなった。
時間が経ってすべてができるようになるわけじゃない。逆に出来なくなることだってあるんだ。俺たちは、もう恥知らずの子供じゃない。
花は、女の子なんだ。
顔を俯ける花。
もしかして、無神経なエスコートだったろうか。だったらゴメンと心の中で謝りながら、もう一度花に目を向けた。
「…………ちょっと……登りたいかも」
ぽそっと呟く花。
「えっ、嘘っ」
「もう、わたしがいつも高いところに行ってしまう蝶くんをどんな気持ちで見上げていたと思ってるんですか?」
何故か先生口調の花さん。あっ、結構ツボですね、それ。
チラリと彼女の洋服にもう一度視線をやる。少し強い風が吹けばふわりと舞い上がって中身が見えてしまうくらいには短めのワンピースだった。
後頭部をかきながら、花が木登りを実行する際の問題点について考えていた。
「でも、その……パ、パンツとか……みえるんじゃ」
「なっ……そ、そういうこと言うんだ! 黙ってくれると思って触れないでおこうと思ったのに!」
ぐはあぁ! 墓穴掘った! もう少し笑える感じで言えば良かった! 変な照れは俺を変態にさせるぜちくしょう!
「ご、ごめん!」
即座に謝る俺。つかどうせ下に誰も居ないからパンツが見えていても見上げる人が居ない気もしてきた。いや、うるさいよ俺。そう言う問題じゃないでしょう!?
「じゃ、じゃあ……お詫びに……お願い聞いてっ」
「お願い?」
頬を僅かに赤くさせながら、花が近づいてくる。
そして……上目遣いで、口にする。
「わたしも蝶みたいに登りたいから……その、落ちないように……サポートしてほしい」
可愛すぎか。お前は可愛すぎなのか。そうなんだろ?(何故か問いただす系)
俺と同じ風にしたい――即ちわたしおそろいが良いの! あなたと同じ物が食べたいの! 的な可愛さがあるよね。懐いて追いかけ回してくる仔犬のようなさ。
「ふふっ、俺でよければ」
「何今の笑いは! もしかしてバカにしてる!? 運動神経無いって思ってるんでしょ? ――――パ、パン――っ――――とかっ、女の子に向かって失礼なこと言っておいて!」
「わ、悪かったって。――よっと。ほら、登りたいんでしょ? なら、おいで」
樹木に足かけた俺が先に木の上に登り、見下ろせる位置にいる花へ手のひらを催促する。
「きゃっ」
「おっと」
おっかなびっくりの花の手をなんとか引き上げつつ、なんとか第一ステージはクリアすることができた。
だけど――、
「……あっ、ごめんね」
「全然、いいよ……」
柔らかな身体が密着していた。そりゃあもうあり得ないくらいにふわふわの身体が。胸とか、太ももとか。きっと男子が好きな部位はすべて当たっている。
沸き立つリビドー。でも、ここで我慢出来るのが俺だろ?(謎の信頼感)
それにしても、女の子って、なんでこんなに抱き心地良さそうな身体に生まれるんだろう。
「大丈夫? 怖くない?」
「う、うん……でも、手は離さないでねっ」
「そんなことわかってるよ」
笑って返しながら、彼女の手を優しく引き上げる。俺が先行しつつ、どんどん上がっていく。
樹木は高くなるにつれて少しずつ細くなっていった。高校生になってしまった俺たちの体重のこともある。だから完全な頂上は無理だろう。だから、上れるところまで上ってみることになった。
そして、丁度良いところで俺と花は緑から頭を出した。
「ほら、見てみ!」
「わぁ~! 綺麗!」
そこからは、俺たちの住む町並み全域が見下ろせた。夕日に反射する屋根や雑居ビルなど、何の変哲もないものに光が灯っている。
幼い頃の俺が一人で見ては興奮していた景色だ。
俺たちが変わったように、町並みもあの頃とは大きく変わっているような気もすけれど、それでいいんだ。
今日は、隣に花がいるから。
この綺麗な景色を知っているのは、多分俺と花だけだ。
「……あのとき、いっつもこんなに綺麗な景色を見てたんだね」
「うん。昔から花には見せたかったんだよ」
「ふふっ……急に昔のこと思いだしちゃった。蝶ってば、すごい! すごい! しか言わなかったんだった。ふふ、それじゃわかんないよ~ってわたし言ってた気がする」
にこにこ笑顔の花へ目を向けると、夕日の反射のせいか、栗色の髪がきらきらしていて。煌びやかな髪の毛の一本一本が、夏風に靡いて――彼女のシャンプーと汗の香りが鼻腔に入り込んでくる。
花の横顔はどこか大人で。俺の知らない表情で。
だけど、とても――とても。
「…………綺麗」
思っていることが、自然と口から出た。
木登りと聞くと途端に青春の匂いを感じてしまう――、そんな織星です。あっ、自分シャンプーと汗って表現がめっちゃ好きです。今回使わせて頂きましたんぐ!