後編
決戦の日がやってきた。勝負が知らされてから一週間。八組は専門外ながらも教師である善一と、数学が得意な数人の生徒が中心となって、授業前や昼休みと放課後などの空いた時間に数学の勉強に取り組んだ。解けない問題に阿鼻叫喚に包まれ、嫌気がさして逃亡する者が現れたこともあった。それを捕まえ説得し、再び席に引きづり戻したりしながら何とかこの一週間を乗り越えた。
そしていよいよテストが行われることになった。まずはバスケの試合である。
体育館に先に着いたのは八組だった。しかし様子はお祭りムードとは程遠い。
「ルートの公式は……」
「マイナスとプラスをかけてもマイナスになる。マイナスとマイナスをかけるとプラスになる」
「駄目だぁぁ! 頭からどんどん抜け落ちてく!!」
「大丈夫だ。お前達はやれば出来る子だって、先生信じてるぞ」
ぶつぶつ呟きながら、生気の薄くなった目で頭に叩き込まれた公式を必死に唱えている。そうしないと忘れてしまいそうなのだろう。
「……もう駄目。今なら三秒で寝れるかも」
「瑠依も? アタシも眠くてやる気出ないんだよね」
「マジで頭パンクしてるし」
「そこの女子共、寝るな。寝たら死ぬぞ!」
「一思いに永眠させて……」
肩を揺さぶってくる一善の声を聞きながら、瑠依も眠気でしょぼつく目を必死に開いていた。勝負に手を抜くのは八組に対する裏切りだと思い、自宅でも慣れない勉強をしてきたのだ。夜中の二時くらいに寝落ちしたが、普段と比べて睡眠時間が少なかったために目が半開きになっている。
そんな八組の前に一組の生徒を引き連れて白衣を着用した宮田が姿を現した。げっそりしている八組を見てとり、眼鏡を光らせながら腕を組む。
「落ちこぼれ組は無駄な努力をしているようだな。学力で勝とうなんて十年早いことを教えてあげよう」
「いくらでもほざいてろ。それより忘れるんじゃねぇぞ。オレのクラスが勝ったら宮田ぁ、お前の頭を刈り取ってやるからな」
「出来るものならやってみろ。私は貴様が土下座する姿が待ち遠しい」
自信あり気な宮田の後ろで、一組の生徒がせせら笑う。その嫌味な様子に、八組の目に消えかけていた闘志が再び宿り始める。一度火が付けば後は燃え上がり一直線だ。
「オレ達はこの日の為に全力でやってきたんだ。一組なんか捻り潰すぞ!!」
雪矢のかけ声に体育館を震わせるほどの声が返った。殺気が漲っている。瑠依は八組らしさが戻ったことに安堵した。しかし、向い側のコートに移動する一組の生徒の中に彼の背中を見つけて、心臓が跳ねた。
「AコートとBコートで試合を行う。代表選手は前に!」
瑠依の想いを知らないまま、生徒が集まっていく。
二つのクラスの間で火花が散る中、試合の開始を告げるホイッスルが鳴り響いた。
八組の圧勝で終わるかと思われた試合は、意外な白熱を見せていた。
「澤足、十五メートル先で止まれ! そこで汀にパス!」
「はいっ」
司令塔になっている男子生徒、大村の正確すぎる指示に、八組は翻弄されていた。全てを計算しているのか彼の言う通りにした生徒のパスは通り、ゴール下まで侵入を許してしまう。
「汀、ジャンプ&シュート!」
「了解」
ゴール前でシュートが打たれる。ブロックしようとした八組の腕を擦り抜けてゴールが決まる。応援する陣営からは歓声と悲鳴が上がる。
前崎が片眉を上げて驚きを表現した。
「意外だね。一組もなかなかやるじゃん」
「運動が苦手ってのはその通りなんだろうけど、その分頭を使ってるって感じだよね」
ジャンプボールを取った八組を目で追いかけながら、瑠依は状況を冷静に見つめる。八組からすると、一組は最もやりにくい相手だった。
瑠依の言葉を聞いていたのか、一善が隣から口を挟んでくる。
「一組はプロバスケの試合を分析して、一番効効率的な手段を考えて来たらしいぞ。八組は熱くなりやすい分だけ攻撃が単調になりがちだ。そこをつけば、運動が不得意な一組でも勝機はあると踏んだんだろ」
「ふぅん。でも、宮田はわかってないよね。そんなことで負けるなら八組が特別視されるわけがない。八組が八組みたる所以はまだ見せていない」
「そう、ここからが勝負だ。──タイム!」
一善がタイムを入れて、選手を集める。そこで芸術を専門にする生徒を呼び、なにやら輪になって話始める。
「芸術専攻の子達は、変わり者が多い。アタシ達が思いもつかないことを考える生徒の集まり。見方を変えれば、天才の集まりよね」
「一組はエリートだけど、所詮は秀才。お手並み拝見だね。天才の閃きに勝てるかな?」
前崎の言葉通りに八組の巻き返しは修羅のように行われた。
タイム前とはまるで動きが違う。芸術家の卵達が観察した一組の盲点、それは司令塔である者への総攻撃だ。徹底的にマークして指示を出させない。名前を呼んだ瞬間に動き、飛んだボールを遮りリバウンドで奪い取る。見る見るうちに点数差は迫り、あっという間に逆転した。
芸術家の卵達の活躍もあり、約二時間に及ぶバスケ五組の勝負は八組の全勝で終わりを迎えた。瑠依も汗だくになりながら試合に臨み、勝利に貢献した。
一組が歯ぎしりする結果となったわけだが、担任の宮田だけは冷静な態度を崩さなかった。
全員が入れる多目的室に移動すると、二人の教師は教壇の前に立つ。
「全員居るな? じゃあ次の勝負と行こうぜ」
「これからテスト用紙を配る。問題は公平を期すために、数学担当の岸先生に作って頂いた。今運ばれてきたばかりだから、不正はあり得ない。では諸君の健闘を祈る」
「テスト時間は四十五分。テスト用紙が配られたらまずは伏せた状態で待ってろよ。一斉にスタートするからな」
宮田がテスト用紙を裏側にして配っていく。瑠依も自分の分を取って残りの用紙を背後に回す。全員の手元にテスト用紙が届くと、善一が時計を見ながら宣言した。
「始め!」
瑠依は合図と同時にテスト用紙をめくってまず名前を記入した。ここを忘れると、どんなに問題が解けても悲劇の0点を手にすることになる。一度それをしたことがあるだけに、今回は絶対にしくじれない。
問題を悩みながらも記憶を引き出しながら解いていく。解らない所は一先ず飛ばして、間違っているかもしれないと恐れながら、答えを埋める。どうにかこうにか半分は埋まったが、残りの半分がさっぱりわからない。鉛筆が滑るように動く音が耳に入り、焦りが募っていく。必死に記憶を探っていると、すぐ近くの席から獣のような唸り声がした。おそらく八組の仲間だろう。自分だけが悩んでいるのではないと思えば、冷静さが戻ってくる。
一つ一つ丁寧に式を重ね、二問は解けた。黒板の上の壁時計を確認すると後五分しかなかった。そこで瑠依は最後の手段に出る。残るは勘しかないだろう。答えの欄を埋めることに集中する。適当な数字でも何も書かないよりはマシだ。
全部を書き終えた瞬間、鐘が鳴り響いた。
「そこまで! タイムアップだ。これからオレと宮田で採点に入る。少し待っててくれ」
テスト用紙が回収されて無言の採点が始まる。
普段は煩いくらいに賑やかな八組も、無言の一組も祈るように黙り込む。
緊張した空気が十五分ほど続き、テスト用紙を採点していた二人の手が止まる。立ちあがった二人の教師が教壇に立つ。
「と、その前にこれを用意しとかなきゃな」
一善が教壇の中からバリカンを取り出す。緊張した空気が風船が弾けるように崩れる。
「え? マジで刈るのかよ!?」
「当たり前だろ。オレに二言はないね。では発表! まず一組は二十八人中二十人が満点。一番低い奴でも八十三点という高得点だ。いや、さすがだな」
感嘆したように一善が言えば、一組からわっと歓声が上がる。いつもエリート然とした彼等の顔は一様に紅潮していた。子供のように喜ぶ姿は八組となんら変わりない。十七歳らしい姿だった。
宮田が教卓をトントンと二回叩くと、一組に落ち着きが戻る。宮田の視線が向けられたのは悔しそうな顔をしている八組だ。眼鏡の奥でいつでも冷たい目が僅かに緩んだ気がした。
「次に八組の得点は平均が五十二点。内、一人が満点を取った。次点は九十五点。これは唸らざるを得ない。まさか八組がここまでの頑張りを見せるとは恐れいった」
しかし勝負としては一組の勝ちになる。八組の生徒は落ち込んだように項垂れる。瑠依も悔しかった。しかし全力で頑張った結果なのだから、受け入れる。
「今回の勝負は引き分けだ! どっちの組も本当によく頑張ったな。一組は苦手な運動に必死で取り組んだし、八組も最高平均点を叩きだした。お前等が出した結果を見ても、十分誇らしいことだ」
俯いていた八組の誰もが顔を上げる。一善は嬉しそうに笑っていた。八組の頑張りを誰よりも担任である一善は認めてくれていたのだ。
それだけで落ち込んでいた気分が吹き飛ぶ。そうだ自分達が正々堂々勝負をした。結果は引き分けだったが、本気で取り組んだのだ。
「まさか八組に満点を取る者がいるとは思わなかったな。しかし、一組の諸君も運動でこんなに頑張ったことはないだろう。例え負けようもバスケで出した得点は素晴らしいし、テストでもそれぞれが全力を出した結果がよく見て取れる。君達は私の自慢の生徒だ」
「というわけで、お互いの力を認めたことだし、握手でもしとくか。これから一組と八組は正式なライバル関係だ。ライバルには敬意を払うもんだろ?」
「それなら先生達がお先にどーぞ!」
「ぎゃはははっ。そうだそうだ! 男同士の熱い友情をオレ達に見せてよ」
「いいね、それ。イチ先生、ほら、早く!」
「はい、皆さんご一緒に! は・や・く! あ、それ! は・や・く!」
人一倍落ち込んだ様子を見せていた雪矢も元気を取り戻したようだ。お祭り男らしく場を盛り上げる。それに便乗した形で生徒達からコールがかかる。
さすがに一組からはかからないが、期待したように熱い視線が二人の教師に注がれていた。
「こらこら、どこの飲み会だ! あーあ、仕方ねぇな。宮田言っとくけどな、オレはお前なんか嫌いだからな! でも一組を引率しているお前の力は認めている」
「私とて貴様なんぞ嫌いだ。だが教師として生徒を大事にしていることは認めてやろう」
二人はがっちりと握手を交わした。ゆっくりと放した自分の手を、お互いに嫌そうに見つめているのが面白い。
「じゃあ、お前等の番だな。誰でもいいから、八組と一組で五人は握手しろよ」
ズボンに握手した手を擦りつけていた一善の指示に、戸惑いながら、あるいは照れ笑いしながら生徒達が席を立つ。
瑠依は近くに居た生徒と握手しながら、最後の一人に彼の姿を探した。
斜め後ろの方にようやくその背中を見つける。八組の男子生徒と握手していた。その表情は晴れやかで、瑠依の心も弾み出す。
移動している生徒の波を抜けて、緊張しながら彼の背中に思い切って声をかけた。
「あの、すみません!」
今なら言えるはずだ。ずっと伝えたくて、でも伝える勇気がなかった【ありがとう】の五文字を。
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「作戦成功!」
「ふむ。全てシナリオ通りだ」
英語準備室のプレートがぶら下がる部屋で、二つの影がコーヒーで祝杯を上げていた。
「上手くいって良かったぜ。これで八組と一組のいざこざも減るだろ」
「生徒を騙したようで少々良心は痛むが」
「おいおい、騙すなんて人聞きの悪いこと言うなよ。これは言うなら、大事な生徒に対する愛の鞭だぜ」
そう、全ては二人の教師が仕組んだことだった。昔からまるで親の敵のように仲の悪い二つのクラスだったが、ここ最近は度が越していた。生徒同士のもめ事も増えていたため、このままではいけないと、二人は相談して今回の勝負を考えたのだ。
お互いに苦手な分野をぶつけ合えば、相手のことも認めるだろう。そうすれば無駄な争いも減るだろう。その上、苦手な分野から逃げなかったことは自信に繋がる。それを考えた上でお互いのクラスを煽り、ぶつからせたのだ。
「あいつ等があんなに勉強を頑張る姿は見たことがない。平均点を聞いた時は、オレ泣きそうになっちまったよ」
「私とて、一組の生徒があんなに必死に運動をする姿は見たことがなかった。勉強が出来るのだからそれでいい、という考えを改める機会にもなっただろう」
一善が涙の滲んだ目を拭えば、宮田は感慨深そうに上向いて顔を綻ばせる。
本当にやっかいで愛しい生徒達を受け持ったものだ。
二人の教師はコーヒーカップを傾けながら、胸の内で同時に呟いたのだった。
笑ってほっこりしてもらえたなら幸いです。