窓の外
今が朝なのか、昼なのか夜なのか、春なのか秋なのか。それは志葵にとって重要なことではなかった。病弱なせいで眠っているか、本を読んでいるかぐらいしかすることない志葵にとって、一日が始まり終わっていき、また新しく始まる感覚などありはしない。一日という単位は志葵のなかにはなく、時間とはただひたすらに流れていくだけの川のようなものだった。
――あの時までは。
あの日、志葵はもう人生で何度目かわからないぐらい見知った熱をあげていた。嫌な夢にうなされて目をあけると、布団の横には水差しとコップが置いてあった。きっと女中が運んできたのだろう。体を起こして飲んだ水は火照った身体に染み込んでいった。熱は眠る前よりは幾分か下がったようだ。
そのとき、頭上の小窓から小さな子供の甲高い笑い声が響いてきた。きっと長男の肇が庭で遊んでいるのだろう。その声が今だ頭痛のやまない頭に鳴り響いて、顳かみを抑えて志葵はため息をついた。
ここで病床に伏せっている志葵のことを気に止めるものなど、この家には誰もいない。わかってはいるが、肇のなんの憂いも感じさせない笑い声が改めて志葵にそう告げているような気がした。
もう一度眠ろう。
志葵は身体を布団へ横たえた。眠っている間だけは、この詰まらない無価値な流れから志葵を一瞬だけ切り離してくれる。
「肇さん、あまり池へ近づいてはダメですよ。」
知らない声だった。
いつも肇の子守をしている歳のいった小太りな女中の声ではない。
「肇さん、では手を繋ぎましょう。」
自分と同じくらいの少年の声に聞こえた。誰だろうか。志葵はそのまま、小窓から聞こえてくるその見知らぬ声に耳を傾けていた。声は遠くへ行ったり近くへ来たりをくり返して、走り回る肇を追いかけている様子だった。
「肇さん、あまり走っては転びますよ。」
「肇さん、すこし休憩しましょう。」
「肇さん、見てください。金魚たちに餌をやりましょう。」
「肇さん、あちらへ――。」
――肇さん、肇さん、肇さん、肇さん、肇さん。
声の主は、何ども何ども肇の名前を呼んだ。やさしげに、まるで可愛らしい弟の名前でも呼ぶかのように。どうして彼は、あんな年端もいかぬワガママばかりの子供の名前をあんな風に呼べるのだろうか。誰も志葵のことなど呼んではくれないのに。
志葵はゆっくりと布団から這い出て、無造作に散らかった大量の本を小窓の下に積み上げた。熱のせいでふらついたが、もちろん支えてくれるものなどここにはいない。志葵は片足ずつそっと、本のうえへ足をかけた。
彼の顔が無性に見てみたくなったのだ。
外を見るなんて何年ぶりだろうか。志葵はそっと小窓から庭を覗き込んだ。
「肇さん、そろそろ中へ戻りましょう。」
志葵は彼を見て思わず息を飲んだ。声の主は、志葵の想像をまるで超えて美しかったのだ。
外はすでに夕暮れどきであるようで、彼は橙色に染まった庭のなかで肇の手を引こうと走り回っていた。見たこともない金色の巻き毛は、彼が駆けるたびにふわふわと揺れて夕日を跳ね返してキラキラと輝いている。
志葵はまるで魅入られたかのように、彼をじっと見つめることしかできなくなっていた。たぶん志葵よりも頭一個以上高い身長。そこからスラリとよく伸びた両手足。その両手を宙に大きく羽ばたかせたと思うと、小動物を捕まえるようにギュッと肇は背後から抱きしめた。抱きしめたその腕を見て、志葵は無意識に自分の細い腕で自分自身を抱きしめていた。
「ほら、捕まえましたよ。」
まだ遊びたい肇は、彼の腕のなかで笑いながら身をよじる。逃げ出さないように抱き上げようと一度しゃがんで立ち上がったとき、ふと彼が顔をあげて一瞬だが小窓を見上げた。
――眼があった。
たったそれだけで、志葵の心は彼のやわらかな二つの青い眼差しに射抜かれていた。
「あっ」
不意にバランスをくずして、志葵はそのまま布団のうえへ背中から落ちる。布団のうえとはいえ背骨にひどく痛みを感じてたが、志葵が彼から受けた衝撃とは比べものにはならなかった。仰向けになったまま、志葵は熱がぶり返してきたことを理解して目を閉じた。
瞼の裏の白い点滅が、夕日を跳ね返すしてパチパチと輝く彼の金髪のように志葵には思えた。その度にひどくぼんやりとする頭のなかも、火照った身体も、いつもより早い鼓動も全てがぶりかえした熱のせいなのか、それ以外のせいなのか。志葵にはわかるはずもなかった。志葵はまだ恋なんて言葉を思いつかないほどに、ひどく世間知らずだったからだ。
ただ生まれてこのかた、ほとんどの時間をこの薄暗い蔵のなかに閉じ込められて生きてきた志葵にとって小窓から見た優しい声の主は光そのものとなってしまった。