嫁
与吉が嫁を連れてくると言ってから数年、いっこうに与吉は現れない。
俺は心配していた。
相変わらず、俺は村の外れのこの場所に、雨の日も風の日も、微動だにせず、立っている。まぁ、あの山男のことだ。きっと大丈夫だろう。俺は、自分にそう言い聞かせた。
「もしかして、弥勒……ですか?」
聞きなれない女の声がする。やけにか細い声。今にも倒れそうな力のない声だ。俺の目の前には、黒の喪服から見える白い滑らかな肌をした、黒い瞳を潤ませた女が立っていた。
「これを……」
そう言って、喪服姿の女は俺の目の前に石ノミを置いた。
「……」
俺は驚愕した。これは、与吉の石ノミじゃねぇか。俺は嫌な予感を感じとった。
「……これをあなたに……それが遺言でした……」
腰までかかる長い髪が小刻みに震えて、女の涙が地面を濡らす。
「……」
俺は、思考が停止した。
「あの人、あなたの事ばかり話してた。おいが作った最高傑作だ! って。あいつは、いつか弥勒菩薩のように、たくさんの人を助けるんだ! って」
女は誰に言うでもなく、つぶやくように続ける。
「なのに、あんな事故で……」
涙声が詰まり、むせぶように泣く。
女の話は、こうだった。
どうやら、与吉は、この白い滑らかな肌の女と結婚したらしい。絶好調の与吉は、当時、仕事をたくさん抱えていて、寝る間も惜しんで、石を加工したようだ。
そんな矢先、崖の石を切り出す作業で、崖が崩れ、石の下敷きになり、帰らぬ人となったということだった。
俺は、与吉の嫁に何もしてやれなかった。
「……」
ただ、細長い目で喪服の女を見つめることしかできなかった。
女は涙を流し、俺の前でうずくまっていた。
数時間ほど経っただろうか。泣きつかれた女は顔を上げる。
黒く潤んだ瞳と、赤く腫らしたまぶたをしている。
「……どうして、あの人があなたに願いを込めたか分かった気がします……」
「あなたは、優しく私達を見守ってくれる、きっとこれからもずっと」
喪服の女は、しなやかな長い髪を少し揺らして、微笑んだ。
「……」
俺には、その言葉の意味が分からなかった。
ただ、今は、こうして、細長い目で見つめることしかできなかった。