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9. 日本国総理、ライブオペ

日本国総理、ライブオペ


 それは数百万人に一人という確率でしか発症しない極めて稀なアレルギー反応だった。術中に投与された特定の筋弛緩薬の代謝物質が引き金となり、患者の免疫系が暴走。あらゆる金属イオンに対して過剰な攻撃を開始するのだ。


 その結果、金属製のメス、鉗子、縫合針、リトラクター……手術に不可欠なあらゆる金属器具が患者の体に触れただけで組織を破壊する「凶器」へと変わってしまう。


「馬鹿な……! 事前検査では何の異常もなかったはずだ! 過去に埋め込まれたステントくらいしか……」


「教授! このままでは手術の続行は不可能です!」


「分かっている! 非金属製の器具を! セラミックメスはないのか!」


「ありますが、これほど精密な膵臓の手術に耐えうるものでは……!」


 絶望的な会話が飛び交う。


 その全てのやり取りが、世界中に配信され続けている。


 コメント欄は先ほどまでの賞賛から一転、混乱と動揺で埋め尽くされていた。


『何が起きているんだ?』


『トラブルか?』


『日本の最高医療はこの程度か?』


「AI!」


 権田原は最後の望みをかけてAIに叫んだ。


「この事態を打開する代替プランを検索しろ!」


 だがディスプレイに表示されたのは無慈悲な言葉だった。


『……ERROR. CANNOT FIND SOLUTION.(エラー、解決策不明)』


『DATA INSUFFICIENT.(データ不足)』


『RISK PREDICTION IMPOSSIBLE.(リスク計測 不能)』


 AIは、前例のないイレギュラーな事態の前では完全に無力だった。人間の想定を超えたアクシデントに対応できない。それが、現在のAIの致命的な限界だった。


「……そんな」


 権田原は呆然と呟いた。


 手術は完全に停止した。


 開腹された総理大臣を前に、日本のトップエリート医師たちが、ただ立ち尽くすだけ。


 その無様な姿が、永遠に続くかのような時間の中で、世界中に晒され続ける。


 虚飾の神殿は今、音を立てて崩れ落ちようとしていた。



「教授! どうするんですか!」


「早く何か手を打たないと総理が……! と、とりあえずライブ放送は中止を!」


 スタッフたちの悲鳴のような声が、権田原の耳に突き刺さる。


 ガラス張りの見学室の向こうでは、政府関係者や病院の上層部が、鬼の形相で電話をかけているのが見えた。


「閉腹しろ!」


「いやしかし、癌の切除もできていない状況で……!」


「このままでは出血とアレルギー反応でどちらにしろ助からんぞ!」


 怒号が飛び交う。だが、誰一人有効な解決策を提示できない。


 権田原はコンソールに座ったまま動けずにいた。


 プライドはズタズタに引き裂かれていた。権田原の三十年以上にわたる外科医としてのキャリア。権田原が築き上げてきた権威という名の城。その全てが今目の前で砂のように崩れ落ちていく。


 世界中の笑いものだ。


 日本の医療史上に残る大失態。


 その中心に自分がいる。


「……終わりだ」


 権田原の口から絶望の言葉が漏れた。


 もう何もかも。終わりだ。


 そう、権田原が全てを諦めかけたその時。


 権田原の脳裏の片隅に、一人の若者の顔が浮かび上がった。


 生意気な瞳。


 合理性を何よりも重んじる冷徹な思考。


 そして常識ではありえない方法で、絶望的な状況を覆してみせたあの19歳の天才。


『替わります』


 あの時の冷たい声が耳の奥で蘇る。


 守屋 海斗。


 自分が嫉妬と自己保身のために、島へと追いやったあの少年。


「……あいつなら」


 無意識に声が出ていた。


「あいつなら……あの常識外れの男なら……何かできるかもしれない」


 それは、ほとんど祈りに近い、藁にもすがるような思いつきだった。


 だがその考えはすぐさま別の感情によって打ち消された。


 冗談じゃない。


 あの男に助けを求める?


 自分が追放した医師に頭を下げる?


 この全世界が見ている前で?


 それは自らの無能と敗北を全世界に宣言するのと同義だ。


 死んだ方がマシだ。


 権田原は奥歯を強く噛み締めた。


「教授!」


 その時、助手の医師が悲痛な声を上げた。


「総理の心拍が……! このままでは本当に……!」


 モニターに映し出された心電図の波形が、弱々しく揺れている。


 そのか細い生命の線が、権田原に最後の決断を迫っていた。


 自分のプライドか。


 それとも日本国総理大臣の命か。


 そしてここで総理を死なせれば、どちらにしろ自分のキャリアは完全に終わる。


「……っ!」


 権田原の顔が屈辱に歪んだ。


 顔から血の気が引き、唇がわなわなと震える。


 権田原は絞り出すようなかすれた声で、オペ室の外にいるスタッフに命令を下した。


「……一度、閉腹する。そして、守屋を呼べ」


「え……? 教授今なんと……?」


「聞こえなかったのか!」


 権田原は叫んだ。


「大豆島にいる守屋海斗を呼べと言っているんだ! 自衛隊のヘリでも何でも使え! 今すぐここに連れてこいッ!!」


 その狂乱じみた命令は、オペ室の全てのスタッフを凍りつかせた。


 守屋海斗。


 半年前、この医局から消えたあの天才医師の名前。


 誰もがその名前を忘れていた。いや忘れたふりをしていた。


 その追放されたはずの少年に、今この国のトップが命運を託そうとしている。数人の関係者は『失敗の責任を、押し付ける気か』と疑った。


 常軌を逸した事態だった。


 もはや誰も、権田原を止めることはできなかった。


◇ 


 その頃。


 大豆島の、秋の穏やかな日差しが降り注ぐクリニックでは。


 午後の診察開始までの休み時間、海斗が、のんびりとカルテの整理をしていた。


 待合室のテレビが、ニュース番組を流している。


 全てがいつも通り、平和で穏やかな時間が流れていた。


 その静寂を破るように、けたたましくクリニックの電話が鳴り響いた。


「はいこちら大豆島クリニックです」


 美波がいつものように電話に出る。


 だが数秒後、美波の顔から血の気が引いた。


「え……? どちらの……阪都大学病院……?」


 受話器を握る美波の手が、微かに震えている。


「は……はい……。先生はおりますが……。え? ……権田原教授……?」


 その名前に、海斗は顔を上げた。


 美波が蒼白な顔で、受話器を差し出す。


「……先生。阪都大学病院の権田原教授が……先生と直接話をしたいって……」


 海斗は無言で受話器を受け取った。


 耳に当てると雑音の向こうから、聞き覚えのある、尊大な声が聞こえてきた。


『……守屋君かね?』


「……ご無沙汰しております、権田原教授」


 海斗の声は、どこまでも冷静だった。


『フン。息災そうで何よりだ。単刀直入に言おう。君にチャンスを与えよう』


「チャンス、ですか?」


『そうだ。君の汚された名誉を挽回し、再び中央の医療界に戻ってくる、またとないチャンスだ。詳細は電話では言えんが、至急大阪まで来てもらいたい。自衛隊のヘリをそちらに向かわせる』


 その口調は懇願ではなく、施しを与える者のそれだった。


「用件もおっしゃらずにですか。それは命令と解釈してよろしいのでしょうか」


『……フッ。君がそう受け取りたいのなら、それでも構わんよ』


 電話の向こうで、権田原がせせら笑う気配がした。権田原はまだ、自分が絶対的な強者であると信じて疑っていない。


 海斗は短く息を吐いた。そして静かに、しかしはっきりと告げた。


「お断りします」


『……何だと?』


 権田原の声に初めて焦りの色が浮かぶ。


「人事権を振りかざされるなら、それで結構。どこへでも飛ばして下さい。どこへでも行きますよ、どこででも医療は出来ますから。ただ、父の人事権について口に出される時はご注意を。一言一句、教授の発言を録音しますので。では、失礼」


 海斗は権田原が何かを言い返す前に受話器をガチャンと置いた。


 クリニックに、重い沈黙が落ちる。


「せ、先生……よかったん? あんな切り方して……」


 美波が心配そうに海斗の顔を覗き込む。


 海斗の肩は怒りで微かに震えていた。


「いいんですよ、あんな奴……!」


 海斗は吐き捨てるように言った。


「これは俺の復讐だ。何の用だか知らないが、困っているなら、いい気味だ!」


 海斗の瞳には、今まで見せたことのない、冷たい炎が揺らめいていた。


 美波は、その海斗の姿に一瞬怯んだ。しかし、意を決して声をかけた。


「復讐、か……。先生、うちの推し、マルクス・アウレリウスが言うとったで。『最高の復讐は、傷つけた者のようにならないことである』って。先生が、あの人と同じになったらあかん」


 美波は覚えたての言葉を、そっと差し出した。


 だがその整った名言は、今の海斗の荒れ狂う心には届かなかった。


「……綺麗事だ」


 海斗は冷たく突き放した。


「復讐をすると、ドーパミンが出るらしいですよ。快感なんだ、たとえ非倫理的だとしても。ヒトはそういう生き物ですよ」


 その言葉に、美波の表情が曇る。


 美波は一度ぎゅっと唇を結び、うつむいた。次に顔を上げた。覚悟を決めたように、美波はもう一度口を開いた。


「……ごめん。借り物の言葉で、偉そうなこと言うたな。……ちゃうねん、うちが言いたいのはそんなことやないんよ……!」


 美波は必死に言葉を紡ぎ始めた。その声は震えていた。


「悔しいやんか! 先生があんな奴のこと、ずーっと考えとるのが! 先生のそのすごい頭ん中が、権田原教授への憎しみでいっぱいになるんが、うちめっちゃ悔しいねん!」


 それは、ただの感情の吐露だった。


「復讐ってな、結局ずっと相手に心を縛られとることやと、うちは思う。それって先生が負けとることにならん? あの人の奴隷みたいやんか。うちはそんなん絶対に嫌や!」


 美波の言葉は論理的ではなかった。


「うちは、先生に自由になってほしいんよ! あんなちっぽけな男より、すごくてかっこええ医者になって……! で、この島でみんなと、笑って醤油ラーメンでも食べとってほしいんよ!」


 醤油ラーメン。


 その、日常的な単語は、マルクス・アウレリウスのどの格言よりも、強く海斗の胸に残る。


 俺は、一体何に囚われていたんだ。


 俺が本当にやりたかったことは……復讐だろうか。


 海斗はしばらくの沈黙の後ふっと息を吐いた。


「いいですね、それ」


 海斗の瞳から、冷たい炎は、消えていた。


「……美波さん、もう一度電話を貸してください」


『はい、阪都大学病院です』


「医師の守屋と言います。第一外科の権田原敬介教授にお繋ぎいただけますでしょうか」


 交換手は数秒後、慌てた様子で電話をどこかへ転送した。その間に、海斗はパソコンでネットニュースを検索した。


 数コール後、電話の向こうから、先ほどとは打って変わって狼狽した声が聞こえた。


『……も、守屋君か! どうした、やはり来る気になったかね!』


「用件を聞かせてもらおうか。権田原『元』教授」


 海斗の冷徹な一言に、電話の向こうの空気が凍りついた。


『なっ……!』


「大阪で行われている総理大臣のライブオペ。予期せぬ超急性金属アレルギーで手術不能に陥っている。違いますか?」


 電話の向こうで権田原が息をのむのが分かった。


「……そ、その通りだ……」


「あなたのちっぽけなプライドのために、一国の総理大臣を見殺しにするんですか」


 海斗は容赦なく言葉を続けた。


「それとも。俺に頭を下げるんですか」


「……」


「選んでください。時間はありませんよ。あなたの権威も総理の命も、今この瞬間にも失われ続けている」


 最後の一言が引き金になった。


『……う……ああ……』


 嗚咽が漏れ聞こえてくる。


 そして絞り出すような、途切れ途切れの声。


『す……すまな、かった……! 私が……私が間違っていた……!』


「……」


『君の才能に嫉妬していた……! 頼む……! 来てくれ……! この通りだ……! 助けてくれ……!』


 無様な命乞い。


 かつての神殿の主の、見る影もない崩壊。


 海斗はその声を、ただ静かに聞いていた。


 胸の奥で、半年間燻り続けていた黒い塊が、すうっと消えていくのを感じていた。


「……あなたの謝罪で、俺の時間が戻るわけじゃない」


 それに、海斗は権田原を完全に許せるほど大人でも、ない。


『……ああ』


「ですが医者として、目の前の命を見捨てることはできない。だから取引をしましょう」


『……取引?』


「条件は二つです」


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