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7. 最強医療制作島

最強医療制作島


 その日の往診先は斎藤キヨさん、85歳。港を見下ろす小さな古民家で一人静かに暮らしている老婆だった。


 海斗が美波と共に居間の障子を開けるとキヨさんは縁側でぼんやりと外を眺めていた。夫に先立たれ、この三ヶ月でキヨさんは見違えるほど痩せてしまっていた。


「キヨさん、こんにちは。体調はどうですか?」


 海斗が声をかけるとキヨさんはゆっくりと振り向いた。その動きさえ億劫そうだ。


「……ああ、先生か。すまんのう、いつも来てもらって」


 力のない声だった。


「何を食べても砂を噛むようで味がせんのじゃ……。無理に口に入れても喉を通っていかん」


「キヨさん、前にお渡しした栄養のドリンクは飲んでいますか? 食欲を増す漢方薬は飲まれました?」


 海斗は以前、高カロリーの経口栄養剤を処方していた。


 するとキヨさんは、すまなそうに眉を下げた。


「先生、あれは……どうにもいかんかった。あの変に甘ったるいんがどうにも苦手でな……。一口で、もうええ、てなってしまうんよ。漢方薬もなぁ、粉を飲むのが億劫で……」


 部屋の隅には手つかずの栄養剤の缶が大量に、寂しそうに並べられていた。


「島のお年寄り、あの独特の甘さが苦手な人、多いんよね……」


 美波が小声で海斗に囁いた。


 クリニックに戻る軽トラックの中で、海斗は腕を組み深く考え込んでいた。


「どうすれば……。どうすれば少量で効率よく、しかもキヨさんが『美味しい』と感じてくれる形で栄養を摂ってもらえるんだ……」


 点滴という手もある。だがそれは根本的な解決にはならない。食欲そのものを取り戻さなければ。


「……ん?」


 その時、美波が昼食用にと持参していた小さなタッパーが、海斗の目に留まった。中には白米と茶色い小さな魚の佃煮が入っていた。


「美波さん、それは?」


「ああ、これ? 昨日、近所のおばちゃんにもろた、いかなごの釘煮。美味しいで、先生も一つ食べる?」


「佃煮……」


 海斗の頭の中で何かが閃いた。


「そうだ……佃煮は保存食。つまり食材の水分を飛ばしうま味と栄養を凝縮させたものだ。少量でも栄養価は高いはず……!」


「え? でも佃煮は塩分が高いから、お年寄りにはあんまり」


「そこだ!」


 海斗は膝を打った。


「そこを解決できれば、理想的な栄養補助食になるかもしれない!」


 その足で海斗が向かったのは、島の老舗佃煮屋『大崎佃煮店』だった。


 店の奥から醤油の香ばしい匂いと共に現れたのは、店主の大崎哲也。いかにも頑固一徹といった風貌の60代の男だ。


「先生がうちに何の用だね?」


 海斗は単刀直入に切り出した。


「大崎さん。医療用の佃煮を作っていただけませんか」


「……はあ?」


 大崎は怪訝な顔で海斗を見返した。


「医療用だと? 先生、冗談はよしてくだせえ。佃煮は醤油と砂糖で甘辛く濃い味で煮詰めるから、日持ちもするし白飯に合う美味いもんができる。病人に食わせるような代物じゃねえですよ」


「分かっています。ですからあなたの知恵を貸してほしいんです」


 海斗は身を乗り出した。


「醤油と砂糖を極限まで減らしても、日持ちと風味を保つ方法はありませんか?」


「無茶を言うな。それがなくなったら佃煮じゃなくなる」


「塩分を控える代わりに、昆布や鰹節の『うま味』を最大限に引き出すことは?」


「……!」


「タンパク質を増やすために、地元の小魚だけでなく栄養価の高い大豆を加えてみるのはどうでしょう?砂糖の代わりに、みりんのアルコール分を完全に飛ばした自然な甘みを使うのは?」


 栄養学の観点から繰り出される、具体的な提案。


 大崎の頑なだった表情が次第に驚きへと変わっていく。


「……先生。あんた、面白いことを言うなあ」


 大崎は腕を組み、唸った。


「わしは三代目だが、そんなこと考えたこともなかったわ。……よし。医者の先生がそこまで言うんなら一回試してみるか。わしの職人の腕が鳴るわい」


 そこから二人の、奇妙な共同開発が始まった。


 大崎は伝統の技術を駆使した。醤油の代わりに最高級の昆布から濃厚な出汁を取り、それを煮詰めてとろみを出す。塩はごく少量。砂糖は使わない。


 海斗はその横で、栄養価計算をしながら食材の配合を考えた。高タンパクな地元のカタクチイワシと畑で採れた大豆。そして飲み込みやすいように全てを丁寧にすり潰しペースト状にしていく。


 何度も試作を繰り返した。


 そして一週間後。


 ついにそれは完成した。


 見た目は黒々とした佃煮のペースト。だがその中身は全くの別物だった。塩分は通常の五分の一以下。それでいて昆布と魚介のうま味が口の中に豊かに広がる。


 海斗は美波と共に完成したばかりの温かい「医療用佃煮」を、キヨさんの元へ届けた。


「キヨさん、新しい『薬』を作ってきました。島の佃煮屋さんと一緒に作った特製の佃煮です。本当は普通に三食しっかりご飯とおかずを食べるのが一番いいですけど……」


 キヨさんはおずおずと、その黒いペーストを口に運んだ。


 そして、驚いたように目を見開いた。


「……ほう。甘辛くて、しっかり味がする。魚のええ匂いがするわい……。これならわしでも食べられるかもしれん」


 そのか細い声に、確かな光が宿っていた。


「よかった! これならお粥さんに少し乗せても美味しいですよ!」


 美波が手を叩いて喜ぶ。


「ええ。いわば『食べる点滴』ですから」


 海斗はそう言うといたずらっぽく付け加えた。


「……まあ、本物の点滴には、気休め程度しか栄養はありませんけどね」


 その冗談に、キヨさんと美波が笑った。


 その日キヨさんは、茶碗半分のお粥を平らげた。実に、一ヶ月ぶりのことだった。


 数週間後。


 往診に訪れた海斗の目に、信じられない光景が飛び込んできた。


 キヨさんが家の前の小さな畑で腰をかがめ、ゆっくりと草むしりをしていたのだ。


「キヨさん!」


「おお先生か。見てくれ。こんなに力が湧いてきたんじゃ」


 キヨさんは土のついた手でにっこりと笑った。その頬は以前よりずっとふっくらとしている。


「先生のあの黒い薬のおかげじゃ。あれを食べると身体の芯から元気になる気がするんじゃよ」


 海斗はその足で大崎の店を訪れた。


「大崎さん、キヨさん庭仕事ができるまで回復しました」


 その報告に、大崎は無骨な顔を、少しだけほころばせた。


「そうかい。そりゃよかった」


 大崎は店の奥に飾られた先代、先々代の写真を見上げた。


「わしの佃煮が薬になるたぁな。三代目にして、初めて親父に褒めてもらえるかもしれんわい」


 大崎は照れくさそうに笑った。



 蝉の声の賑やかな、夏の昼下がり。


クリニックのドアが、まるで爆風に押されたかのように激しく開いた。


「先生! 先生はおるか!」


 息を切らして飛び込んできたのは、大豆島町長の田中だった。その手にはなぜか、写真が載った観光雑誌が握られている。


「町長どうされたんですか、そんなに慌てて」


「美波さん、これを見たまえ!」


 田中町長は、雑誌のページを海斗と美波の前に叩きつけた。


「瀬戸内の、直島じゃ! あのアートの聖地・直島が、また新しい特集を組まれとる! この現代アートカボチャに、我が大豆島の観光客がどんどん吸い取られているのだ! 先生、悔しいとは思わんかね!」


 町長の目は、本気で燃えていた。


「我が大豆島には、四百年の歴史を誇る醤油も日本一のオリーブもある! アートだって取り組んでおる! それがなぜ、この水玉カボチャの置物に、負けねばならんのだ!」


 田中町長は、海斗のシャツを掴みそうな勢いで詰め寄った。


「先生! 君のその天才的な医学の知見と我が島の名産品を融合させ、直島のアートを完全に凌駕する、画期的な何かを生み出してはくれんか!」


 無茶苦茶な依頼だった。


 だが、海斗の瞳は、きらりと光った。海斗は未知の解決困難な「問題」を提示されると燃える質だった。


「……面白い。やってみましょう」



 数日後。海斗は、田中町長と島の温泉旅館の主人を前に、完璧なプレゼンテーションを始めていた。


「まず大豆島温泉の泉質を分析しました。ナトリウム炭酸水素塩泉。いわゆる『美人の湯』ですが、その角質軟化作用には科学的根拠があります。次に大豆島産エキストラバージンオリーブオイル。これに含まれるオレイン酸とビタミンEの抗酸化作用は周知の事実です」


 海斗は、背後のホワイトボードに化学式を書き殴りながら言った。


「この二つを組み合わせ人体のホメオスタシスを最大化する入浴プロトコルを構築しました。名付けて『大豆島メディカルウェルネスプログラム』。科学的根拠に基づく細胞レベルでの若返りメソッドです」


 町長と旅館の主人は、ぽかんとしている。


「まず39度のぬるめの湯に30分間浸かり表皮の水分飽和度を最適化します。次にすり潰したオリーブの葉の特製パックで活性酸素を中和。そして41.5度に設定した温泉に正確に12分間身を沈めることでヒートショックプロテインHSP70の産生を促します。最後に俺が開発した保湿クリームで角質層の脂質バリア機能を……」


「せ、先生!」


 ついに町長が悲鳴のような声を上げた。


「……すまんが全く何を言っとるか分からん……。それにリラックスできる気が全くせんのじゃが……。むしろストレスで活性酸素が増えそうだわい……」


 プロジェクトは、暗礁に乗り上げた。


 その夜、クリニックで海斗は頭を抱えていた。


「なぜです! データ上はこれが最も効果的なはずなのに…!」


 そのうなだれた背中に、美波が呆れたように声をかけた。


「先生あかんわ」


「何がです!」


「先生は、人の肌を実験データとしか見とらん。だから人の心が動かんのよ」


 美波は海斗が作った小難しい資料を取り上げると、にやりと笑った。


「ええか先生。あんたのその難しい理屈は、全部うちが翻訳したる。温泉の気持ちよさは理屈やない。わくわくする『物語』なんや!」



 数週間後。


 『打倒・アートかぼちゃ!』をスローガンに掲げた、新生ウェルネスプログラムの体験会が開かれた。


 指導するのは、にこやかな笑顔の美波だ。海斗はなぜか白衣姿で、少し離れた場所で、ストップウォッチを片手にその様子を見守っている。


「はーい皆さん! これから皆さんに体験していただくのは『オリーブの女神様と、ひみつの美肌の湯』ですよー!」


 美波のその一言に、参加した島の女性たちがどっと沸く。


 海斗が考案したオリーブの葉のパックは『女神のアンチエイジング・パック』と名付けられた。


 12分間の入浴は『エンジェルロードを渡る、奇跡の12分間』に。


 そして海斗特製の保湿クリームは『肌が飲む、オリーブのしずく』というキャッチーな名前で配られた。


 美波は入浴法を説明しながら、時折海斗を指差す。


「あそこにいるうちの天才先生がな、難しい計算して一番お肌が喜ぶ入り方を見つけてくれたんよー。なんか難しい名前のタンパク質が増えるらしいわ!」


「ほう先生が!」


「ありがたやありがたや」


 女性たちは海斗の方を向いて、ふざけた様子で手を合わせる。海斗は戸惑いながらぺこりと頭を下げた。


 体験会は、空前の大成功を収めた。


 難しい理屈より、楽しい物語。そして「あの天才先生のお墨付き」という権威付け。それが人々の心を掴んだのだ。


 その一ヶ月後。


 大豆島の港には「Dr.海斗の女神の湯」と書かれたツアーバスが何台も停まっていた。田中町長はその光景を、見て男泣きに泣いていた。



 夕暮れのクリニック。


 海斗は体験会のアンケート結果を分析しながら、真剣な顔で呟いていた。


「素晴らしい……。実に95%の被験者が肌の潤いとハリに、統計的有意差をもって改善を実感している。美波さんのプラセボ効果を考慮に入れてもこの数値は……」


「先生、もうええから」


 美波がその手から資料を取り上げ、代わりにキンキンに冷えた醤油サイダーを握らせた。


「理屈はええから、一緒に喜ぼうや」


 海斗はきょとんとした顔で、美波を見た。


 そしてふっと、息を抜くように笑った。


「……そうですね」


 二人はサイダーの瓶をこつんと合わせた。


 夕日が、夏の瀬戸内の海を、金色に染めていた。



 その日、台風は容赦なく島に牙を剥いていた。


 フェリーは三日前から全便欠航。クリニックの窓は叩きつける雨と風で、悲鳴のような音を立て続けている。


 嵐の音に重なるように、クリニックの電話がけたたましく鳴った。


 海斗が受話器を握り、スピーカーフォンで、近くにいた美波にも音声を共有する。


『……登島クリニックです!』


 近くの小さな島、登島からの必死な声だった。


「どうしました!」


『先生……! 5歳の男の子の患者が、喘息の大発作を起こして……! 薬がもうないんじゃ! このままでは息が止まって死んでしまう……!』


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