6. 恋する83才
恋する83才
その日、午前中にクリニックに現れたのは田中タミだった。
海斗がこの島に来て最初にぶつかった、大きな壁。高血圧を患い「薬を飲むと身体がしゃんとせん」と訴えていたあの老婆だ。
「先生、こんにちは」
「タミさん、こんにちは。今日はどうされました?」
「いやあ、この間からどうも、夜になるとふわふわーっとするんじゃ。立ちくらみがして、危うくひっくり返るところじゃった」
タミの言葉に海斗は眉をひそめた。
血圧を測ると120/70mmHg。特に問題はない。
「……高血圧の薬は毎朝飲んでいますか?」
「おお。先生に薬を安いやつに変えてもらってからな、真面目に飲みよるよ。おかげで日中はだいぶ調子がええよ。ただ、夜がなぁ……」
「そうですか……」
その時、海斗の脳裏に港で交わした漁師たちとの会話がよみがえった。
海斗が港を歩いていると、漁師の剛が潮見表を片手に仲間と話し込んでいた。
「剛さん、何を?」
「おお先生か。明日の潮時を見とるんじゃ」
剛はしわくちゃの顔で笑った。
「明日は中潮でな、特に朝まずめがええ潮なんじゃ。魚が一番活発になる時間帯よ。この時間を逃したら漁にならん」
「朝まずめって何ですか?」
「夜明けから日の出前後の時間じゃな。時間と、潮の満ち引きのリズムを照らし合わせながら、漁の計画を練るんじゃ」
「潮の満ち引き……」
「そうじゃ。わしらはこの海の大きなリズムに合わせて生きとるんじゃ。潮時を読めん漁師は半人前以下よ」
リズム……。
その言葉が、海斗の頭の奥でカチリと音を立てた。
「もしかすると、血圧のリズムが変わって……夜の血圧が高くなる型に、タミさんは変化したのかもしれません。ご自宅に血圧測定器は……いや、それよりも。一つ提案があります。あなたの身体の本当のリズムを、調べてみませんか?」
「身体のりずむ?」
「ええ。一日中血圧を測れる、特別な機械があるんです。それを一日だけ腕に巻いていつも通りの生活を送ってもらう。そうすればタミさんの血圧が、一日のうちでどう変化しているのかが分かります」
海斗は、首を伸ばすようにして、診察室の奥の美波に声をかけた。
「24時間自由行動下血圧測定器(ABPM)って、あります?」
「あるでー。ただ、他の病院から借りることになるから、タミさん、また来てなぁ」
「それは、あるとは言わないのでは……」
◇
その日の午後。
24時間自由行動下血圧測定器(ABPM)を、他の病院から借りてきた美波は、その分厚い取扱説明書を熱心に読み始めた。
「……美波さん」
「なんなんー、先生?」
「べつに悪いわけではないんですが……取扱説明書をそんなに隅から隅まで熟読する必要が? 要点を把握すれば、あとは実践で覚える方が合理的ですが」
海斗の純粋な疑問に、美波は少し恥ずかしそうに笑った。
「ああごめんごめん。ついな、癖なんよ。昔からの」
「癖、ですか?」
「うん。目の前に字が書いてあると保証書のちっちゃい注意書きまで全部読まんと気が済まんくて」
美波はそう言うとふっと遠い目をした。
「子供の頃はな、本しかなかったから」
「本だけ? ネットで何でも読めるでしょう」
「うん。もちろん、看護学校時代はレポート書くのにネット使いまくったし、今でもスマホで色々見るよ。でもな、なんて言うんかな……子供の頃に育った環境のせいで、今でも活字見ると、宝物みたいに思えて、わくわくするんよ」
美波は少しはにかみながら、語った。
「うちの両親な、開発ワーカーやっててん。開発途上国を支援する仕事。うちは物心ついた時から、東南アジア太平洋の島国とか…途上国の村や島で育ったんよ。電気も一日数時間しかけえへんような、そんなところばっかやった」
「……海外で?」
海斗は驚いた。海斗はてっきり美波もこの島の出身だと思っていた。
「せやせや。テレビも、もちろんネットもない。日本のアイドルとかコンサートとかそういうきらきらしたもんは、全部遠い世界」
美波の言葉が、海斗の知らない世界を描き出す。
「せやから、日本のおじいちゃんが半年に一回送ってくれる段ボールいっぱいの本を読むことが、もうすんごいイベントでなぁ。歴史の偉人伝とか世界文学全集とか。他に読むもんがないから、同じ本を擦り切れるまで何回も何回も読んだわ」
美波は少し寂しそうに、でもどこか誇らしげに笑った。
「だからな先生。マルクス・アウレリウス帝も、うちにとってはテレビの向こうのアイドルと一緒なんよ。活字の向こうにおる、一番身近で一番きらきらしたスターやったん」
海斗は、何も言わずただ静かに美波の言葉を聞いていた。
美波のあの太陽のような明るさ。どんな困難にも怯まない強さ。その根底にそんな少女時代があったとは。
美波は、診察室の片隅で規則正しく点滅するWifiルーターと、手の中の取扱説明書を見比べた。
「だから、今でもこうやって目の前に字がいっぱい書いてあるもんがあると、嬉しゅうてつい全部読まずにいられないねん」
その無邪気な笑顔に、なぜだか海斗は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……なるほど」
海斗は真剣な顔で頷いた。
「あなたの驚異的な読書速度と情報吸収能力は、その極端に情報が制限された幼少期の環境下で生存戦略として最適化された結果というわけですか。非常に合理的だ」
斜め上の共感の仕方に、美波は一瞬きょとんとした後たまらず吹き出した。
「でた先生の合理主義! そういうことやないねんけどなあ! まあええわ!」
海斗は、なぜ美波が笑うのか全く理解できずに、首を傾げた。
◇
数日後。
海斗は24時間自由行動下血圧測定器(ABPM)をタミさんに装着した。
測定器を回収し、データをコンピューターに取り込む。
画面に表示されたグラフを見て海斗は確信した。
「……やはりそうか」
「先生、どうやった?」
覗き込む美波に、海斗はグラフを指し示した。
「タミさんは典型的な『ライザー型』だ。夜間、血圧が上がってしまう体質」
「らいざー? なんや、戦隊ものみたいで、格好ええなぁ」
「ライザー型は脳卒中にもなりやすいので、あんまりいいものでは、無いんですが……」
原因は解明できた。問題は、どうやってそれをタミさんに納得してもらうかだ。
初診時、『色々言われても分からない』と言っていたタミの姿が、海斗の脳裏に蘇る。
海斗はタミを診察室に呼んだ。
「タミさん。結論から言うと、あなたの夜間のふらつきの原因は、薬を飲む時間にありました」
「時間……?」
「はい。少し……漁師さんの話をしてもいいですか?」
海斗はゆっくりと語り始めた。
「漁師さんたちは潮の満ち引き、つまり『潮時』に合わせて漁に出ますよね。魚が活発になる満ち潮や引き潮の時間を狙っていく」
「ほう。それがわしの身体と何の関係があるんじゃ?」
タミは不思議そうな顔をした。
「人間の身体にも、潮時と同じような『リズム』があるんです」
海斗はモニターにタミの24時間血圧のグラフを映し出した。
「これがタミさんの一日の血圧の満ち引きです。見てください。みんなが寝て、血圧が引き潮のように静かになるはずのこの夜の時間帯に、タミさんの血圧は上がってしまっているんです」
それはまるで海の波形図のようなグラフだった。
馴染み深い「潮の満ち引き」という例えにタミはぐっと引き込まれていた。
「今までは、この朝の時間に薬を飲んでいました。ですがそれはいわば潮が引き始める時間に、さらに水位を下げようとしているようなもの」
「なるほどのう……。わしの身体にも潮時があったんかいな」
タミは深く頷いた。難しい医学用語よりも、身体に染み付いた自然のリズムの例えの方がタミには分かりやすかった。
「そこで提案です。薬を飲む時間を、朝食後から夕食後に変えてみませんか?」
「夜に飲むんか?」
「はい。ちょうど血圧が満ち潮のようにぐっと上がってくる夜の間に、薬が効き始める。そうすれば、夜間の高血圧とふらつきを抑えられます」
「ええなあ、私の潮時に合わせた治療じゃな」
◇
一週間後。
タミが晴れやかな顔でクリニックにやってきた。
「先生! すごいわ! あれから夜のふらつきがぴたりと止まったんじゃ!」
「そうですか! それは良かった」
「薬を飲む時間を変えただけで、こんなに違うもんかねえ!」
再検査した24時間血圧のデータも、理想的なカーブを描いていた。夜間の血圧が穏やかになっている。
海斗はふと、クリニックの窓から穏やかな瀬戸内海を眺めた。
潮は満ち、そして引く。
人間の身体も同じだ。
一人ひとり違う生命のリズムがある。
今夜は大潮だ。きっと港は、漁師たちの活気で溢れていることだろう。
◇
数日後。
午後のクリニックには、穏やかな時間が流れていた。
「あらタミさんこんにちは。今日、診察日やったっけ? 症状は落ち着いとると思ったけど、何かあったん?」
美波が、診察室に入ってきた小柄な老婆に笑顔で声をかけた。
「美波ちゃんこんにちは。いやあ、別になんもないけど、ちょっと先生に見てもらおう思うてな」
タミはそう言いながらちらりと外を気にする。その視線の先にはクリニックの隣の畑で黙々と鍬を振るう、老人の姿があった。宮田三郎さん83歳。タミさんの幼馴染みだ。長年都会で暮らしていたが、少し前に奥さんに先立たれ、故郷であるこの島へ一人で戻ってきた。
「あらら。急に通院頻度が上がったと思ったら、三郎さんのことチェックしに来とるんやな?」
美波がからかうように言うと、タミは少女のように頬を赤らめた。
「な、何を言うとるん! たまたま目に入っただけじゃ!」
「こんにちは、どうぞお座りください」
海斗がカルテから顔を上げて促した。
「では血圧を測りますね」
測定を終えた海斗は少し眉をひそめた。
「タミさん、また血圧が上がっていますね。最高収縮期血圧が150を超えています。最近、何か生活で変わったことでもありましたか?」
その問いに、タミは恥ずかしそうに俯いた。
「先生、これきっと恋の病じゃわ」
「……はい?」
「だから恋をしとるんよ。三郎さんのこと考えただけでこの胸がきゅーっと高鳴って血圧も上がるんよ。その証拠に、家ではぜんっぜん、血圧上がらんもん」
美波が隣で笑いをこらえながら、ツッコミを入れる。
「またまたー、タミさんたら冗談ばっかり言うて。先生、困っとるやんか」
「いえ」
しかし海斗は真顔で受け止めていた。海斗は美波の言葉を手で制すると、真剣な表情でタミのカルテに素早く書き込み始めた。
「……なるほど。恋愛感情の惹起に伴う交感神経系の亢進ですか。非常に興味深い症例です」
美波が、ぽかんと口を開けた。
「え、先生? 本気にしてるん? タミさん冗談やで?」
「いいえ美波さん、冗談ではない。タミさんのその主観的な症状は、神経化学の見地から完全に説明可能です」
海斗は椅子をくるりと回転させタミさんに向き直った。海斗の「ミニ医学講座」のスイッチが入った瞬間だった。
「タミさんよろしいですか。あなたが宮田三郎さんのことを『考えるだけで胸がドキドキする』というのは、脳において、神経伝達物質であるドーパミンが大量に放出されている兆候です。これは初期の強い恋愛感情において典型的に見られる脳の報酬系の活性化反応です」
「どーぱみん……?」
タミは初めて聞くその言葉に目をぱちくりさせた。
海斗は構わず話を続ける。
「問題はその『ドキドキ』、つまり精神的な高揚がノルアドレナリンとアドレナリンの分泌を連鎖的に誘発している点です。これらが心拍数を増加させ血管を収縮させることで、タミさんの現在の血圧上昇を引き起こしていると考えられます。これを放置すれば心血管系への慢性的な負荷が増大するリスクがあります」
「せ、先生、もうええって! タミさん困っとるから!」
美波が慌てて止めに入るが、海斗の講義は止まらない。
「そこで対策を提案します。まず宮田三郎さんとの心理的及び物理的接触の頻度を段階的に増加させてください。急激な接近はドーパミンの予測不能な過剰分泌、いわゆる『ドーパミン・スパイク』を引き起こし、血圧の急激な乱高下を招く危険性があります」
「……はあ」
「次に宮田三郎さんとの接触後は、意識的に副交感神経を優位にする活動を取り入れることを推奨します。例えば10秒かけて息を吸い10秒かけて吐く腹式呼吸。あるいは、オキシトシンの分泌を促すペットとの穏やかな触れ合いなども有効です」
「……はあ」
「そして最も重要なアプローチがあります。それは現在の状況における『不確実性』を低減させることです。つまり宮田三郎さんがあなたのことをどう思っているのかという客観的な情報を得ること。この不確実性こそがストレスホルモンであるコルチゾールの分泌を促進させ、血圧を不安定にさせる最大の要因です。必要であれば宮田三郎さんのあなたに対する好意レベルを測定するための、簡単な行動心理学的アンケートを作成しましょうか?」
診察室に、沈黙が落ちた。
美波はもう諦めて、頭を抱えている。
タミは何を言われているのかさっぱり分からないという顔で、ぽかんとしていた。
だがやがてタミは海斗の難解な言葉を自分の中でゆっくりと反芻し、ふと真顔になった。
「……先生」
「はい何でしょう」
「つまりあれか。わしの今のこの気持ちはちゃんとした病気みたいなもんで、ちゃんと治し方があるちゅうことかいな?」
「病気ではありませんが、生理的な反応であり対処法は存在します」
「……いきなりがっついたらあかん、ちゅうことかいな?」
「平易に言えばそうなります。段階的暴露が原則です」
「で、三郎さんに会うた後は焦らんで、家の猫のタマでも撫でとったらええんか?」
「はい。理論上は心拍数の鎮静化に効果が期待できます」
「そして一番大事なのは、ぐずぐず思い悩んどらんで、三郎さんがわしをどう思うとるか、はっきり確かめること…」
タミさんはポンと乾いた音を立てて膝を打った。
「……なるほどのう! さすがは先生じゃ! あんたただの医者じゃないな! 腑に落ちたわ! よし分かった! わしやってみるわ!」
タミは海斗を尊敬の眼差しで見つめると、まるで戦の前の武将のようにやる気満々で診察室を出ていった。
美波が、呆れたように言った。
「……先生。あんた、医学部で恋愛学でも学んだん……?」
海斗は心底不思議そうな顔で、首を傾げた。
「 いえ、俺はただ恋愛感情という精神状態が引き起こす血圧上昇のメカニズムとその科学的対処法について述べただけですが……?」
自分のミニ医学講座が、なぜあれほど老婆を元気づけたのか。
天才医師・海斗には全く理解できていなかった。




